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長沼花火

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31回目を迎えた長沼花火

13日の昨晩。三日月が西の空に低く懸かっていました。
空はよく晴れて澄み切っていました。長沼花火はもう31回目を迎えたそうです。10歳で長沼花火を見た人は41歳に,二十歳で長沼花火を見た人は51歳になるわけです。このように長く続けることは大変なことだと思います。

それをお祝いするかのように花火の合間に大きな流れ星(火球)が北から南へ横切っていきました。



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語り部 伊藤正子さんを悼む

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昨年5月31日に亡くなった昔語りの語り部 伊藤正子さん 平成17年10月の昔語りの様子

今日はお盆の入り。
迎え火を焚いて,ご先祖さんの精霊を迎え入れます。この日本独特の魂の考え方はなかなかいいなあと思います。

さて今日は登米市迫町新田の昔語りの伊藤正子さんが平成29年5月31日に亡くなってから一年が過ぎました。実は訃報のニュースが信じられず,伊藤正子さんの昔話を聞いてきた年代としてはショックでした。ずーっと前からお礼の言葉を述べたいと思っていました。正子さんに昔話をお願いしたこともありましたから遅すぎたお礼の言葉になるでしょう。許して下さい。

伊藤正子さんは大正15年生まれ,平成29年5月31日に亡くなりました。享年92歳でした。
2013年封切られた酒井耕,濱口竜介監督で「うたうひと」に出演しました。「うたうひと」は, 『なみのおと』(2011)『なみのこえ』(2013)に続く東北三部作の第三部に当たる構成です。東日本大震災という未曾有の被災から伝承していくことの意義を,もう一度「昔語り」から問い直してみようという視点から作られています。「栗原市の佐藤玲子、登米市の伊藤正子、利府市の佐々木健を語り手に、みやぎ民話の会の小野和子を聞き手に迎えて、伝承の民話語りが記録された(映画紹介から)」
伊藤正子さんの語りが永遠に消えない記録として亡くなる前に映画として残ったことは本当によかったと思います。正子さん自身も喜んでいることと思います。

伊藤正子さんは79歳の時に「ニューエルダーシチズン大賞」を受賞しています。語り部としての伊藤正子さんの実績でした。その時に昔話の文化的な位置の高さを認めてもらったようで安心したことも憶えています。常に百話程度を語ることができて,レパートリーは二百話を越えるそうです。正子さんの語りはよく透る声で張りがあり,穏やかな心落ち着く語り口でした。何回語ってもで一字一句同じなのです。興に乗ると変わるのではなく,いつも一字一句同じなのです。そうした昔通りの正確な語りを常時百話できるのです。

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昨年5月31日に亡くなった昔語りの語り部 伊藤正子さん 平成17年10月の昔語りの様子

ここにみやぎ民話の会の伊藤正子さん紹介がありますから載せてみます。
 (伊藤正子さんの語りは)母のよしのさん,その母のよふさんからの伝承で、母から娘へと女系をたどって受け継がれているのが特徴です。正子さんにとって祖母にあたるよふさんは宮城県登米郡新田から隣の南方町へ嫁ぎました。そして、母よしのさんは南方町から新田へと嫁入りします。正子さんは登米郡新田で生まれ育ち、隣家の伊藤家に嫁ぎ、そこでいまも元気に暮らしておられます。つまり、伝承の水脈は新田から南方へ、そして、南方から新田へ行ったり来たりして、いま正子さんの口から溢れているわけです。祖母も母も正子さんも農家のお嫁さんです。農作業の合間を縫って、手仕事をしながら、昔話を語ってきたということです。
 なお、語り手永浦誠喜さんとは年齢の違う従兄妹同士です。両者の語り手を比較した資料として、『聴く語る創る』第11号(日本民話の会発行・2004年)があります。また、正子さんの語りは、みやぎ民話の会叢書第9集『母の昔話を語り継ぐ』(みやぎ民話の会発行・2000年刊)として百余話を収めています。
レパートリーは200話近いという。19歳で嫁ぎ子育てと農業一筋に生きてきました。幼いころ私は電灯のない農家に育ち、秋から冬の長い夜は母の語る昔話を聞いて育ちました。その数ははっきりわかりませんが、およそ200話は超えたでしょう。


ここで読売新聞に載った伊藤正子さんのインタビューも思い出しましょう。

「同じ話を何回聞いても、またその話かと思ったことがないのが不思議です。「も一つ、も一つ」と言ってせがんだものです。そして最後にその内容によって「ほだがらな稼がねばだめなんだ。ほだがらな人真似ばりではだめなんだ。ほだがらな嘘語りしてはだめなんだ」と私たちに生きる道を教えてくれたものです。

 「おれ、ばん様のように上手に語られねもや、ばん様は本当に上手だった。悲しい話は語るごとに涙を流して語る人だった」と亡き母(私には祖母)を偲んでおりました。祖母は数百の話を知っていて語ってくれたそうです。
 母が亡くなって3年後、昭和46年、私はこの語りを残したいと思って71話を全部母が語ってくれた方言そのままに書き、迫町公民館主事の太布さんのお力で一冊の本にまとめました。それがきっかけで北方公民館主事の星さんのおかげで、小学校、幼稚園、保育所、老人会、婦人会から頼まれ、民話の語り部として歩いております。その後、宮城民話の会の方の手によって。平成12年、117話をまとめた本ができました。

 宮城県庁が新築された時、大講堂のステージで語ったこと、また、宮城県小、中、高校の図書研究会の先生方200人余り集まった会場で1時間半語った思い出は忘れることはないでしょう。NTTテレホンサービス用のテープに60話、また、テレビ出演8回、ラジオ放送には数十回出ております。先日4月3日のラジオの深夜便で聞いたと手紙や電話を思わぬ人からもらい驚いたり喜んだりしております。小学校の子供たちからの感想文も何百通。亡き母が残してくれた宝物と感謝し、生きる喜びにしております。

 民話を聞くいきいきした子供らの瞳に会う時、語る幸せをしみじみと感じます。人生の生きるヒントや真理がこめられている民話、子供の想像力や記憶力を伸ばし、豊かな心に育ってくれるよう願いをこめ、命ある限り語り続けたいと思っております。

 もう一つの趣味は短歌です。地元の趣味の会に入って16年。山形の山麓という結社に入って13年。毎月10首提出、6首ほど取られ冊子が届きます。樹陰作品に入った時の嬉しさも格別です。愚作ばかりですが、生きる証に作り続け、欠詠せずに続けております。
 また野菜作りは一手に引き受け、新鮮な野菜を使っての食事の支度も私の生き甲斐です。

 80年近く生きてきた人生経験を生かし、知恵を働かせて、体を動かし、いつもいきいきとすてきに生きる。これが私の生きる目標です。残りの人生を健康で明るく生きるために、感謝の心を忘れず、お互いの人権を守り、いたわりの心を持って接し、家族の和を一番大切にした老後を送りたいと思います。いつもいきいきと輝いているために年をとってもおしゃれをし、常に新しいものに挑戦し、楽しく夢のあるおばあちゃんを目指します。

 うす暗きランプの下に膝寄せて母の民話を聞きしは遠し

 吾語る民話に児らの瞳は光る豊かな心に育てと願う

 又きてねの声にふりむけば二階にて民話聞きたる児らが手を振る
(2005年8月23日 読売新聞から)

何と南方の語り部永浦誠喜さんとはいとこ同士。そして二人の昔話のルーツは同じ。おばあさんのよふさん。

伊藤正子さん,永浦誠喜さんという極めて優れた二人の語り部が,さらに祖母のよふさんという同一人物をルーツとしてどう語られ,そして語り続けたのかを探ることは「語りの伝承のメカニズム」を解くのに極めて大切な材料となります。女語りや男語りの違い,バリエーションの違いなど二人の語りの記録を比較すると「語りの伝承のメカニズム」が浮かび上がってくるのではないでしょうか。とても興味深いところです。

戒名は「芳英院正室妙伝清大姉」

合掌


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柳田国男「浜の月夜」から「清光館哀史」へ

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BRT気仙沼線 BRT陸前戸倉-BRT陸前横山 8/9撮影

この写真を見るとBRTの様子がよく分かります。バス一台だけ通ることの出来る細い道路は元気仙沼線の線路です。この線路を舗装してバス専用道にして列車の代わりにバスを走らせているのがBRTということなのです。各駅はバスの停留所のように整備され,ロケーションシステムが導入されて各駅のモニターに今バスが何処を走っているのかがリアルタイムに表示される仕組みになっています。
現在気仙沼発の上りは31本,下り気仙沼行きは気仙沼線の始発駅前谷地から5本,電車の終着駅柳津駅から10本,沿岸に出て本吉駅からは12本出ています。おおよそ一時間に2本という運行です。当初から比べるとかなり充実してきてBRTとしての利便性の高さがはっきりと出てきたように感じます。もちろんバス専用の専用道ですから,信号もなく,一般道のように渋滞に巻き込まれることもありません。その専用道は今のところ全体の50~60パーセントということでしょうか。これは気仙沼が沿岸部を通るため橋梁が極めて多く,津波で流された橋梁を架け直す工事箇所が多いために専用道進捗率が滞っているわけです。しかしJR東日本が震災次年度に専用道供用をまず60パーセントで進めるという目標を8年懸かっても確実に進める意志があって工事は進んでいることは頼もしいことです。

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台風の雨に煙る BRT陸前横山-BRT柳津 8/9撮影

ところで8月8日は柳田国男の命日だったんですね。ちなみに1875年(明治8年)7月31日生まれ - 1962年(昭和37年)8月8日没ですから87歳まで生きたということになります。

さて,大正9年8~9月の柳田国男の東北三陸沿岸旅行を取り上げている続きです。先回「浜の月夜」という柳田の情緒あふれる短編を紹介しましたが,今読んでも素晴らしい掌編です。現在の八戸の南,洋野町種市のさらに南,鉄道の駅で言えば陸中八木駅の南に小子内という小さな漁村がありました。そこで「清光館」とい小さくて黒い宿に泊まったのがお盆の頃でした。柳田の東北の三陸沿岸を北上する旅もおわりに差しかかった頃です。波音が聞こえる共同井戸の場所に月が昇り,三々五々集まった村の女達の笛も太鼓もない歌ばかりの静かな盆踊りが始まった夜の光景の描写がまた素晴らしいものでした。私も好んで紀行文は読みますが,日本を表現して極めて優れていると思います。

柳田は6年経った1926年の全く同じお盆の十五日にまた清光館を訪れています。「浜の月夜」の一晩が忘れられなかったのでしょう。その再訪の様子が「清光館哀史」となって残っています。東北旅行から戻ると柳田は翌年から渡欧し,ジュネーヴの国際連盟委任統治委員に就任します。日本語が全く通じない遠い外国での勤務は難しく,彼は日本の存在をを知ってもらうための語学教育の重要性を痛感し,帰国してから新渡戸稲造とともにエスペラント語の公用語の必要性を説くことになります。そうして3年して日本に帰ってきます。そして懐かしく忘れられない小さな漁村の小さな宿屋「清光館」を訪ねるのです。

この時には八戸線も開通していました。柳田は八戸経由で南下し,出来たばかりの陸中八木駅に降り立ちました。小子内の清光館にさほど苦労することなく辿り着くことが出来ました。ところが・・・。

柳田国男が再訪した陸中八木駅-1
6年後に再訪した清光館から見た盆の十五日の満月の夜

懐かしく降り立った清光館への道を思い出と共に急ぐ柳田はこう書きます。
あの共同井があってその脇の曲がり角に,夜どおし踊り抜いた小判なりの足跡の輪が,はっきりと残っていたのもここであった。来てごらん,あの家がそうだよと言って,指を差して見せようと思うと,もう清光館はそこにはなかった。
まちがえたくても間違えようもない,五戸か六戸の家のかたまりである。この板橋からは三四十間,通りを隔てた向かいは小売店のこの茅葺きで,あの朝は未明に若い女房が起き出して踊りましたという顔もせずに,畑の隠元豆か何かを摘んでいた。東はやや高みに草屋があって海を遮り,南も小さな砂山で,月などとはまるで縁もないのに,なんでまた清光館というような,気楽な名前を付けてもらったのかと,松本・佐々木の二人の同行者と,笑って顔を見合わせたことも覚えている。

あの宿,清光館はなくなっていたのです。「その家(清光館)がもう影も形もなく石垣ばかりになってるのである。」

「月日不詳の大暴風雨の日に村から沖に出て帰らなかった船がある。それにこの宿の小造りな亭主も乗っていたのである。女房は今久慈の町に往って,何とかという家に奉公をしている。二人とかある子供傍に置いて育てることもできないのは可哀想なものだという。
その子供は少しの因縁から引き取ってくれた人があって,この近くにおりそうなことをいう・・・」


哀しいことである。たった6年だけの歳月が清光館の亭主を海に片付け,残された妻は子供も引き取れないままに奉公に行き,二人の子供は引き取られて所在もはっきりとはしない。海辺の寒村のこの出来事に柳田はただ呆然とするばかりだった。その哀しい運命を確かめるためにここにまた自分は来たのだろうかと彼は自分に問いかけて言った。
「一つにはあの時は月夜の力であったかも知れぬ。あるいは女ばかりで踊るこの辺の盆踊りが,特に昔からああいう感じを抱かしめるように,仕組まれてあったのかも知れない。」あの美しすぎる月夜の,夢のような静かな盆踊りはこの哀しい清光館の運命をすでに物語っていたのかと思わなければ言葉にもならなかった。

やがて6年前に聞き取れなかった,あの盆踊りの歌の歌詞はなんだったであろう。

なにヤとやーれ
なにヤとなされのう

何なりとしてもいいよ
どうなりともされるがよい

女が男にこう呟くのです。

わたしのことをどうしてもよいのよ。
あなたの好きにしていいの

お盆の送りに,精霊達に語られるこの「しょんがえ」の言葉は今日の今夜の満月の夜に繰り返す波のように聞こえてきただろう。そして何年も何十年も何百年もこの村に女達によって歌い継がれてきただろう。柳田は6年前と同じ月夜に,石垣だけとなった清光館跡に佇み,こう締めくくった。
「この短すぎる歌詞は羞や批判の煩わしい世間から,ただ遁れて快楽すべしというだけの,浅はかな歓喜ばかりでもなかった。忘れても忘れきれない常の日のさまざまな実験(労働や人の営み),遣瀬(やるせ)ない生存の痛苦,どんなに働いてもなお追ってくる災厄,いかに愛してもたちまち催す別離」

なにヤとやーれ
なにヤとなされのう


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柳田国男が清光館で見た「浜の月夜」

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北三陸のヤマセに煙る星空 北山崎で

柳田国男の東北旅行は大正9年の8月4日に仙台から始まり,三陸沿岸を北上して9月12日に秋田県で一区切りを迎えました。
8月10日には一関,そして気仙沼へ足を伸ばし,8月13日には遠野にも立ち寄り,先に来ていた慶應の教員松本信広と合流し,遠野を15日に出発しています。そして20日に釜石で追いかけてきた佐々木喜善と合流して,三人旅が始まりました。佐々木喜善の日記には「八月二十日 雨 旅行ニ出ル、柳田先生ニ出合フベク釜石ヘ。」とあります。そして「八月三十一日 晴れ 八戸ヲ立チ、夕方遠野に着、夜家にカヘル。トコロガ町ニネフスキー君ガ来リイルト云フ。明日マタ迎ヘニヤルコトトスル。」とあることから三人は八戸まで十日かけて北上しています。途中,久慈を越えて北上の旅は見晴らしのきくなだらかな道となります。長い旅も終わりになり三人は和気藹々と進んで行ったでしょう。

この旅の様子は「豆手帖から」と題して東京朝日新聞に19回にわたって連載されていました。貴族院書記官長を46歳で辞した柳田は東京朝日新聞の客員となっていて,彼が長年温め続けていた民俗学の採集の旅が始まったのです。そして佐々木喜善の居る東北にやってきたのでした。

今回柳田国男の東北の旅をおさらいしてみると,まさに古来からの歩きの旅の最後の時代に来ていることが分かります。東北本線は開通していましたが,本線から離れると旅は大変だったでしょう。ちょうど大正10年あたりから所謂東北本線に接続する支線が続々と開通していく軽便鉄道のの時期にあたります。それ以前ですから移動は馬車か歩きか自動車に限られていたでしょう。また三陸沿岸では船での移動が楽だったでしょう。

今日の記事のタイトルは「柳田国男が清光館で見た「浜の月夜」」としました。東北沿岸の旅も終わりに近づいたお盆の夜のことでした。三人は久慈を後にして駅で言えば侍浜,陸中中野,有家,陸中八木と進んで行きました。その陸中八木駅の手前が小来内という小さな部落で,その部落にたった一軒だけの「清光館」という宿屋があったのです。彼らはそこに泊まりました。その夜が柳田にとっては忘れられない夜となったようです。なぜならちょうど6年後の1926年月遅れのお盆に柳田はわざわざこの清光館を訪れているからです。
忘れられない夜となった小来内の清光館での一夜とはどんなものだったのでしょうか。「浜の月夜」にその夜の様子が書いたあります。「浜の月夜」ですから再訪した時の星空を再現してみました。

柳田国男が再訪した陸中八木駅-1
6年後1926年再び小来内(今の陸中八木駅から南の地区)を9月21日に訪れた時の星空。旧盆の頃で満月前夜の明るい夜だった。

もう「あんまり草臥(くたび)れた」と始まる「浜の月夜」は,三陸の長い旅もそろそろ終わりに近づいた見通しもついたのでしょう。いつになく情緒豊かに綴られていきます。この日は小来内(現在今の陸中八木駅から南の地区)というさびれた漁村にあるたった一軒の宿「清光館」に泊まることにしました。この清光館は岡の影に西を向いて建っていて小さくて黒い宿でした。2階に上がると障子が4枚ばかり立てられた部屋でした。ところが宿の若い夫婦はそれ客だと一生懸命板敷きを拭いたり,夕食の魚は何を出そうかとしきりに一生懸命で盆の帰る仏様もあろうというのに申し訳なくも思ってしまう。
外はもう蝙蝠もとばない黄昏で黒々とした岡の遠くに波が崩れる音だけがしている。長かった三陸の旅だったがもう九戸に入っている。明日は種市に行けば八戸はもうすぐだ。この北三陸まで来ると何故か北の海が少し寂しさも連れてくる。おだやかな海ながら北の果てにはるばる来たという気持ちになる。
 見れば,五十戸あまりの村と言うが,薄く月が昇って光に照らされた屋根は十二三戸ぐらいしか見えない。
「今夜は踊るのかね」と主人に聞くと,「もう踊る頃です」と言う。ふと波音の上に歌の声が始まる。岡の向こうの街道の共同井戸あたりが踊りの場所となるらしい。切れ切れに歌声が聞こえ,いつの間にかするすると昇った月が辺りを広く照らしている。少し雲も出て来た。踊りは笛も太鼓もない。寂しい踊りだと思う。後から来る者が踊りの輪から出た手によって輪の中に引っ張られていく。踊るのは女ばかりで男衆は輪を取り囲んでいる。踊っている女衆はみな白い手ぬぐいをかぶり顔は見えない。帯も足袋も揃いの白で真新しい下駄を履いている。前掛けは紺無地だが今年初めてその前掛けに金紙で家紋やら船印を貼り付けて工夫を凝らしているらしい。時折月の光が踊りに会わせてその飾りに反射している。踊りの動きに合わせてちらちらと光る様もまたいいものだ。歌を歌う女はまたなんとよく透る声だろう。太鼓も笛もなく歌だけが波の音を圧して月の光に色を添えているようだ。
 「なんと歌っているのか」とそこら中にいた村人に聞いたが,にやりとして首をかしげた。何でもごく短い発句を三通りくらい高く低く繰り返しながら歌うらしかった。
翌朝出立の際に共同井戸の所を通ると,掃いたよりもきれいに楕円の輪が残っていた。昨晩の踊りの輪の跡である。村人は昨日の満月一つ前の月の光で踊ったことなど忘れたように動いている。今夜は満月だ。また一生懸命黙々と月の下で踊ることだろう。

異途への旅立ち 089-2gs
北三陸の日の出

八木から一里余りで鹿糠(かぬか)という宿場に入る。ここでも浜へ下りる辻の処に小判なりの踊りの跡の大遺跡があった。夜明け近くまで踊ったはずなのに疲れも見せぬ女衆にはきついだろうに。



今日の文章は「浜の月夜」で感じた景色を私が再話するような形で書きました。柳田が優れた書き手であったことを感じさせる短編です。尚,この夜から六年後の丁度お盆に柳田は再度小来内の清光館を訪れています。この夜が三陸の旅で忘れられない夜だったと思っているからでしょう。その様子は後の「清光館哀史」に綴られます。
その話はまたします。

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火星轟く

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火星とどろく   気仙沼線 BRT柳津-BRT陸前横山

7/1に柳津-陸前戸倉間がBRT専用線として開通して以来,電車だけでなくBRTも撮りたいと思っていました。
やっと8月から撮り始めました。もう写真展も終わろうとする頃になって撮り始めるなど言語道断ですが,もう少しするとまた開通区間が延びてくるので楽しみです。現在取りかかってかなり進んだのが橋梁工事です。先日バスに乗ったら最知-松岩間の橋が完成していて通過できていました(写真次)。

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最知-松岩間の橋

このように橋が出来て,また専用線が延びてを繰り返しながら専用線は距離を延ばしていくでしょう。
志津川-清水浜間もまもなく開通するという話です。

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日が落ちてからの電車の灯り  石巻線 佳景山-鹿又


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