寒さに耐える木

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寒さに耐える木

東北の土地で育った羽生選手が
耐え続けて立った頂点
すごいなあと思います

まさに黒々とした森の中で
耐える白い一本の木です
ただただ美しい


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夜明けの氷瀑-栗駒山-

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夜明けの氷瀑-栗駒山-

こんなに青く写ることにびっくり。
氷の奥にこの世の青が閉じ込められていたのです。


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おらおらでひとりいぐも-栗駒山冬景-

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朝霞む 一関骨寺村

第158回芥川賞を受賞した若竹千佐子の「おらおらでひとりいぐも」を読みました。いろいろ話題には上がっていましたが,実は私は読み始めに苦労しました。休みのない独白に乗れないでいたのです。やがて74歳だという主人公桃子の圧倒的なモノローグのエネルギーに呆然としてきました。そしてそのモノローグの沸々としたエネルギーは,「口寄せ巫女」の言葉ではないかと思いついたのです。まるでおしら祭文を唱えるような語り口で終始機関銃のようにこの世の煩悩を神の言葉でなだめさせ,この世の霊を大地に沈めていくイメージなのです。

巫女なので憑依が同次元で繰り返されていきます。だから表現はポリフォニックに多声的に発展していきます。多人格が同時間に交錯しながら独特な言語空間をつくりあげていくのです。若竹氏はその多声法を「小腸の柔毛突起」と呼んでいます。ゆらゆらとそよいでは勝手に語り始めるイメージなのでしょう。この柔毛突起という言葉は,この無時間の物語のまるでライトモティーフの役割を担っているのです。
オラハオメダ。オメハオラダ。(おれはおまえだ。おまえはおれだ)と。

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冬の沢

このような叙述は若竹氏自身がほとばしる内的な脳内言語を「奉納する」意味を持っているからこそ生のままに語られていきます。物語なんかに頼る必要がないようです。だからこそ物語が欠如していることが欠点として批評家から指摘される畏れはあると思うけれど・・・。しかし,ただ陳腐な物語に退行して再話するという方法よりは,一貫性のない無人格へ向かう「柔毛突起」の動きに任せることで普遍性を獲得していく作品を私たちは忘れていると思う。つまり「語りという手法」をそのままひたすら祈りの言葉と「対他」というあの世から送り返される言葉によってこの若竹氏の「告白録」は成り立っているのだ。

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冬樹際立つ

しかしこの74歳の主人公桃子の力強さはなんだろうと思う。自由へ向かう,この指向性の強さはどこから来るのだろう。したたかすぎる生への同化性といってもいい。この現実的な考え方の例を私は明治時代の女性を描いた小泉八雲の「明治日本の面影」所収の「おばあさんの話」に見つけることができる。
他人の為だけに働き、他人の為だけを思い、他人の為だけに生きる人、限りない愛情と限りなく無私の心を持ち犠牲を厭わず返礼を求めないそんなひとだ。しかし、何世代に渡り幼い頃からあらゆる面で厳しく押さえ込む事によりついに、その有り得べからざる理想が現実の物となった。
蟻か蜂のようにエゴイズムを知らず、我がままとは一切無縁で、人を悪く思う事の出来ない人、生まれ育った社会を離れては生きて行けないほど善良な人、無論これほど出来た人は古来、稀有で女性一般の風となることは決して無かったが少なくとも昔の日本では、それがお手本に出来るくらい身近な存在であった。そして、女性というものが教育によりどれほど変わりえるかを見事に称していた。
こうした女子は声高に褒められる事もなく、静かに愛され皆に慕われた。(中略)でも、おばあさんは、とても辛い目に遭ってきた。沢山の武士の家が金貸しに騙されて潰れて行った時代にはおばあさんも随分とひどい仕打ちを受けた。その上多くの愛する者達と死に別れた。しかし、その苦しみも悲しみもおばあさんは決して人に漏らさない。怒りをあらわにした事は一度もない。世の悪行についておばあさんはお釈迦様と同じように考える。それは迷いであり無知であり、愚かなのだから、怒るよりも哀れんでやらなくてはいけないと。おばさんの心には憎しみの付入る隙もない



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ブナの紋様

若竹千佐子の「おらおらでひとりいぐも」は,もう歴史に埋もれてしまった「口寄せ巫女」の語りと明治時代まで残されてきた女性の考え方を再発見することとなった。彼女が遠野出身だと知ってなるほどと感じた。東北の「口寄せ巫女」の血筋を受け継ぐ人がまだいることに安心した。


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赤い月-月食の思い出-

月食銀河-2gs
赤い月-月食の思い出に寄せて-(これは合成創作です)

1/31の皆既月食はブルームーンでブラッドムーンそしてルナ・エクリプス(月食)という話題性の高い天文現象でしたね。
私自身天気予報で一喜一憂しながら,楽しみにしていました。最初から最後までこの長すぎる月食をたっぷりと楽しみました。かなりハードでした。月食途中で月暈(つきかさ)も見えたのはラッキーでした。1月最後の日が満月ですから月めぐりを見ると,なんと3月もブルームーンが見られますね。ラッキーな年です。

さて今回の月食をアップしてから,気持ちとしてはもう次の天文ハイライトへと進み,ゆっくりと撮った写真を楽しむということがないような気がします。次々と写真をとるものですから一枚の写真をじっくりと眺めることがないのです。写真が世の中にフラッシュバックのように投げ込まれて次々に沈んで死んでゆくという感じですね。投票されない写真がそのままうち捨てられる風潮が蔓延し,刺激性の高い一枚に人気が集まって,世の中に広がってスタンダードになっていくわけです。

実際,私もそうです。月食時の月を丹念に眺めたり,写真で気付かされる大切なプロセスを省略してしまっています。まるで祭りが終わったら次だと案外あっさりと切り替えてしまっている自分がいます。だから手法的には敢えてプリントしてじっくり見てもらうという方法が逆に今の時代は大切なのかもしれません。加速しすぎる眼や意識や感情にブレーキをかけながら対象をしっかりと記録したいものですね。

Blue Moon with Last train  2010.1.31 Blue Moon with Last train『20:52』

この写真は8年前の2010.1.31の写真です。やはりこの夜はブルームーンでした。今回の月食のためにプリントして昔の月食ということでいろんな人に見せました。そしたら大きな反響がありました。その時に思ったのです。じっくりと見てもらうことで写真の質が実に深まっていくのだなと。実に当たり前のことですが写真の見せ方にもう少しこだわろうと思わされました。パソコン上では駄目かもしれません。写真の魅力と質は,色,輪郭,グラデーション,深さ,いろいろですね。大切なのは写真のディテールです。その情の全てを知ってこそ作品の良さが理解されるのでしょう。

そういう点で今日の1枚目は改めて月食時の赤い月をしみじみと見たいと思って敢えて合成にしてみました。説明したいのですが微妙な違和感がかえって見る人に強い印象を与える効果があります。この違和感は画角の違う写真同士で生まれてくるのです。背景は180°の画角で撮っています。月食時の月は200mmで撮っています。かなり違和感があります。しかし赤い月が冴え渡るように見えます。このように写真のフィクションでの効果が期待できます。ただ合成した写真について,人が見た場合のその人の心理的な影響もあります。まず合成を許さない人もいます。つくられたものと感じるのです。一方おもしろい写真と受け止める人もいます。1/31の月食の赤い月がもう一度私の中に思い出として再現されるにはこのような写真になったとしか言えません。


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