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新・遠野物語―栗駒山の幻の名―

栗駒の星 065-2gs
栗駒山天狗岩

ある本に栗駒山に満徳成就寺という幻の寺があったと書いてあった。
安永風土記の平泉村毛越寺書出に金鶏東「金峯社跡」とあり,すでに安永4(1775)には神社跡になっていると書いてある。本尊は蔵王権現,別当は金剛院鳥屋ヶ崎坊となっている。
この金峯社の説明に次のようにある。山伏としての修行を積んだ後,「其後満徳山須川嶽の最上に登り修行成就を表示仕候由満徳山一名は烏帽子形山とも申候・・・」山伏が修行を終えた後,お祝いに栗駒山に登り,頂上で修行完了を報告したので須川嶽つまり栗駒山が満徳山と言われている時代があったということです。このように栗駒山頂上で晴れて山伏になった者は,奥羽二国(仙台藩出羽国)の山伏1萬余人に及ぶ。と書いてあります。

この栗駒山の中腹,「今は山の八分目程に。大石三つあり(昔は二つだったらしいが大地震で三つになったらしい)この大石二つを大日石と言う。其故に山を大日嶽と云るとぞ。」栗駒山を大日嶽というのは秋田側の栗駒山の呼び名です。そして山の下に成就寺という天台宗の寺があったと言います。

栗駒の星 068-2gs
天狗岩

まとめます。
栗駒山を満徳山と言った。
山の八合目付近大岩三つ(天狗岩のことでしょう)

多くの山伏達が声を張り上げて栗駒山の頂上で一生を仏に捧げる誓いを立てる様子が目に浮かびます。

遠流志別石(おるしわけいしの)神社と於呂閇志(おろへし)神社2

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ネオワイズ彗 さようなら

まさか彗を一回しか見ていないのに終わりと言うことはないだろうなと雨続きの空を見上げてはため息をついています
は毎日どんどん暗くなっていきます。今日辺りは5等近くまで減光していると思います。あー。ちょっとでいいから晴れて下さい。

さて「遠流志別石(おるしわけいしの)神社と於呂閇志(おろへし)神社」と題しての2回目です。
「遠流志別石(おるしわけいしの)神社」と声に出してみます。次に「於呂閇志(おろへし)神社」と声に出してみます。何だか似ています。関係ありそうだと思って書いてみようと思ったわけです。

おるしわけいし
おろへし


司東真雄氏は『東北古代探訪』において「おろへし」は元々は「おろしへ」ではないかと考えました。関連して谷川健一氏は遠流志別石(おるしわけいし)の「石(いし)」が「君(きみ)」を誤って写した誤記ではないかと考えました。つまり「おろしへの君」という意味,「おろしべ地区の村長さん」と解することができると言うのです。とすると

おるしわけきみ
おろしへ


と,無理がありますが,限りなく二つは同じ音感に近づいていきます。
しかしこの二つを限りなく同じにしたいという引力が働いているからです。それはまず「遠流志別石(おるしわけいしの)神社と於呂閇志(おろへし)神社」,両方が「延喜式」式内社に当たっているからです。その神社を抜き出してみます。

栗原郡 7座(大1座・小6座)
表刀神社
志波姫神社(名神大)
雄鋭神社
駒形根神社
和我神社
香取御児神社
遠流志別石神社(貞)


胆沢郡 7座(並小)
磐神社
駒形神社
和我叡登挙神社(貞)
石手堰神社
胆沢川神社
止止井神社
於呂閉志神社


延喜式に載る重要な神社二つの成立に何か根拠となるものがあるのではないかと考えたくなります。
その根拠が「続日本紀」巻七の次の記述です。

続日本紀巻七たて

霊亀元年(715),陸奥蝦夷第三等 邑良志別君(おるしわけのきみ)宇蘇弥奈(うそみな)という人が狄(えぞ)の襲撃のために親族は死に,子孫は数人しか残っていない。香阿村に於いて郡家を建てて編戸(へんこ)の民となりこの先安心して暮らしたいと訴え願い出て,許可されたのでした。

「おるしわけいし」と「おろへし」はここに出てきた「邑良志別君(おるしわけのきみ)」宇蘇弥奈のことではないだろうかと考えているからです。

おるしわけきみ
おろしへ
そして,おるしわけのきみ


漢字にして並べると
遠流志別石(おるしわけいしの)
於呂閇志(おろへし)
邑良志別君(おるしわけのきみ)


同じ名前らしき関係する神社を地図上にプロットしていくと前の記事の地図になります。

おるしべ神社のあるところ2
おるへし,またはおるしわけいし神社のあるところ

これによって新しく移り住んだという「香阿村」とはどの辺にあるのかが推定できるでしょうか。
難しいですね。

ちなみに遠流志別石(おるしわけいしの)神社は現在登米市石越町にある遠流志別石(おるしわけいしの)神社と言われています。遠流志別(おるしわけ)という意味はアイヌ語で大きな川のほとりという意味があるのだそうです。私はアイヌ語はよく分からないので音感を頼りにメモしてみました。

奥羽観蹟聞老志巻之十 胆沢郡より「於呂閉志神社」を抜き出してみると
其七也
封内名蹟志曰。如今無称於呂閉志神社地。郷人曰。有呼猿山大明神者。其地曰下颪江(オロシエ)訓之曰於呂志閉。其峯巒樹林爵々古木森々。蓋於呂閉志之訓与下颪江。相近。然則郷人誤其訓来欠。甞疑其社号正下颪江。而郷説慣来伝言。其知文字者。因人易暁。而写称於呂閉志欠。神名帳伝写之時。却顛倒古来之訓者不可疑。言於呂閉志則言語順。而訓読平談也言下颪江則言語渋。而訓読難通也。古来郷人慣聞伝襲。而自然成方言者也。決神名伝写之誤■。以下颪江。而当正説矣。自之推之則猿山神社乃基本社也。

今の地名,「下颪江(オロシエ)」は「於呂閉志」から来たのでしょうね。読んで見ると「シエとヘシ」と逆転しています。この読みの逆転に司東真雄氏は目を付けたのでしょう。



昨日から日本ブログ村ネイチャーフォトランキングに参加することをやめました。
何位とかいらないことに悩まされるのもいやだし,もう十年以上やってきましたが方向性が合わないです。
自分の力でやります。

映画「もち」を観た

映画もち
映画「もち」のポスター 背景は私の撮影した本寺の冬の風景

映画「もち」を観た
とてもよかった

映画の舞台は一関市本寺地区
ここは世界遺産となった千年以上前の本寺(骨寺)の風景がある
そして餅はユネスコ文化遺産に登録された「もち本膳」のある一関市の伝統文化

閉校となる平成30年度の最後の本寺中学校の皆さんと家族,地区の人々が主人公です
亡くなったおばあさんのことを「いつも思い出そうと努力することが忘れないでいることだ」と言うおじいさん
学校もやがてなくなり,友だちもいなくなる。そんなことを考えざるを得ないユナはおじいさんに言う
「努力しないと忘れてしまうものなんて、なんだか本物じゃないみたい」

本当はユナの言うとおりなのかも知れない
しかし,人はドウシヨウモナク忘れていくのである
忘れ去っていくことがいつも生きることの隣にいる

忘れたくない
(が,)思い出せない
そのあいだに
わたしたちはいる

すてきなコピーだと思う

千年以上も変わらない風景の中に生きる本寺の人々
変わらないで生きてきたという誇りを抱いて卒業生の皆さんも生きていってほしいと願った



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新・遠野物語―ダブル ファンタジー―

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新・遠野物語―ダブル ファンタジー―

この山の頂に神社がある
この地点にいて,日の出の太陽の位置や方位,太陽の昇る角度は山の稜線と一致している。そして水を湛えた湖面に写るもう一つの太陽。自分の写真人生でこれほどの驚異の発見はなかった。

山全体が,山自体がご神体だということがよく分かる。
昔の人はことごとく自然を深く読み込んでいた。
だからこの山の山頂に神を祀ったのだ。
現代の「新・遠野物語」のテーマ写真にもなるだろう。


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