2020/07/28

ネオワイズ彗
星 さようなら
まさか彗
星を一回しか見ていないのに終わりと言うことはないだろうなと雨続きの空を見上げてはため息をついています
彗
星は毎日どんどん暗くなっていきます。今日辺りは5等近くまで減光していると思います。あー。ちょっとでいいから晴れて下さい。
さて「遠流志別石(おるしわけいしの)神社と於呂閇志(おろへし)神社」と題しての2回目です。
「遠流志別石(おるしわけいしの)神社」と声に出してみます。次に「於呂閇志(おろへし)神社」と声に出してみます。何だか似ています。関係ありそうだと思って書いてみようと思ったわけです。
おるしわけいし
おろへし司東真雄氏は『東北古代探訪』において「おろ
へし」は元々は「おろ
しへ」ではないかと考えました。関連して谷川健一氏は遠流志別石(おるしわけいし)の「石(いし)」が「君(きみ)」を誤って写した誤記ではないかと考えました。つまり「おろしへの君」という意味,「おろしべ地区の村長さん」と解することができると言うのです。とすると
おるしわけきみ
おろしへと,無理がありますが,限りなく二つは同じ音感に近づいていきます。
しかしこの二つを限りなく同じにしたいという引力が働いているからです。それはまず「遠流志別石(おるしわけいしの)神社と於呂閇志(おろへし)神社」,両方が「延喜式」式内社に当たっているからです。その神社を抜き出してみます。
栗原郡 7座(大1座・小6座)表刀神社
志波姫神社(名神大)
雄鋭神社
駒形根神社
和我神社
香取御児神社
遠流志別石神社(貞)
胆沢郡 7座(並小)磐神社
駒形神社
和我叡登挙神社(貞)
石手堰神社
胆沢川神社
止止井神社
於呂閉志神社延喜式に載る重要な神社二つの成立に何か根拠となるものがあるのではないかと考えたくなります。
その根拠が「続日本紀」巻七の次の記述です。

霊亀元年(715),陸奥蝦夷第三等 邑良志別君(おるしわけのきみ)宇蘇弥奈(うそみな)という人が狄(えぞ)の襲撃のために親族は死に,子孫は数人しか残っていない。香阿村に於いて郡家を建てて編戸(へんこ)の民となりこの先安心して暮らしたいと訴え願い出て,許可されたのでした。
「おるしわけいし」と「おろへし」はここに出てきた「邑良志別君(おるしわけのきみ)」宇蘇弥奈のことではないだろうかと考えているからです。
おるしわけきみ
おろしへ
そして,おるしわけのきみ漢字にして並べると
遠流志別石(おるしわけいしの)
於呂閇志(おろへし)
邑良志別君(おるしわけのきみ)同じ名前らしき関係する神社を地図上にプロットしていくと前の記事の地図になります。

おるへし,またはおるしわけいし神社のあるところ
これによって新しく移り住んだという「香阿村」とはどの辺にあるのかが推定できるでしょうか。
難しいですね。
ちなみに遠流志別石(おるしわけいしの)神社は現在登米市石越町にある遠流志別石(おるしわけいしの)神社と言われています。遠流志別(おるしわけ)という意味はアイヌ語で大きな川のほとりという意味があるのだそうです。私はアイヌ語はよく分からないので音感を頼りにメモしてみました。
奥羽観蹟聞老志巻之十 胆沢郡より「於呂閉志神社」を抜き出してみると
其七也
封内名蹟志曰。如今無称於呂閉志神社地。郷人曰。有呼猿山大明神者。其地曰下颪江(オロシエ)訓之曰於呂志閉。其峯巒樹林爵々古木森々。蓋於呂閉志之訓与下颪江。相近。然則郷人誤其訓来欠。甞疑其社号正下颪江。而郷説慣来伝言。其知文字者。因人易暁。而写称於呂閉志欠。神名帳伝写之時。却顛倒古来之訓者不可疑。言於呂閉志則言語順。而訓読平談也言下颪江則言語渋。而訓読難通也。古来郷人慣聞伝襲。而自然成方言者也。決神名伝写之誤■。以下颪江。而当正説矣。自之推之則猿山神社乃基本社也。
今の地名,「下颪江(オロシエ)」は「於呂閉志」から来たのでしょうね。読んで見ると「シエとヘシ」と逆転しています。この読みの逆転に司東真雄氏は目を付けたのでしょう。
昨日から日本ブログ村ネイチャーフォトランキングに参加することをやめました。
何位とかいらないことに悩まされるのもいやだし,もう十年以上やってきましたが方向性が合わないです。
自分の力でやります。