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子どもの頃の思い出

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イネ頭(こうべ)を垂れ始める

昨夜の星空から朝方には気温が下がり,起きたときには靄が立ち込めていた。
夏の盛りの暑さが続く朝に霧が立つと子どもの頃の夏の朝のことを思い出す。大体は虫取りのために誰よりも早く起きてカブトムシやクワガタがいそうな木を回るのが日課なのだが,いまだに憶えている思い出はそうではない。

朝起きて茶の間に行くと玄関の戸や窓一切が大きく開け放たれていた。
家の中には誰も居ない。畑仕事にでも出掛けたのだろう。開け放たれた戸や窓からは足早に霧が入ってきていた。そう。とても深い霧が降りた朝だった。5,6メートル先の玄関の戸が入ってくる霧に滲んでよく見えない。つまりは家の中にも霧が立ちこめていたのだった。茶の間のテーブルの真ん中に蓄音機が置かれている。そうだ。我が家に始めて音楽というものが鳴り響いた日。その辺りの頃だ。透き通る南国の海を思わせる青いソノシートがターンテーブルの上に置かれてある。見れば前の晩何回も気に入って聴いた「真珠貝の歌」というソノシートだ。さっそく霧が流れる茶の間でかけてみた。音が霧の中で鋭く,きらびやかに立ち上がった。その「真珠貝の歌」を聴いて,霧立ち込める家の中にいる。戸外は何も見えない。ホワイトアウトになっている。しかしその霧の向こうは妙に明るい。ひょっとしてもう太陽が銀の皿になって雲間から顔を出しているのかもしれない。だと霧が晴れ始めるのはもうすぐだ。

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霞む道

どうしてこんなセンチな夢みたいな景色を憶えているのだろう。それ自体が不思議なことだ。
おまけに「真珠貝の歌」というハワイアンが妙に霧の朝を祝福し,霧の思い出の輪郭を際立たせているように感じたことを憶えている。子どもらしくない思い出である。
マンガで有名になった「銀の匙」ではない方の,中勘助の「銀の匙」を読むと何か自分の子どもの頃に体験してもう奈落の底に忘れ去られている思い出がふと影絵のようにおぼろげに甦ってくるような気持ちになるのはどうしてだろう。銀の匙を自分の背丈を超える祖母の引き出しを開け,かろうじて届く指先の感覚だけで引き出しの中をまさぐる時のこどもの集中した感覚。光沢のあるつるりとしているが皮膚に重くはりつくような革の財布の触感ではなく,竹のまろみをもった細長き筆でもなく,金属のどこかどっしりとした口に入れるとひんやりとした重い冷たさをかんじさせる匙。

もうこれは私が谷崎潤一郎の,例えば「美食倶楽部」などの小説を読んで感じる感覚遮断の世界なのだ。視覚が遮断された世界をまさぐる指先への異常な集中と執着。感覚が遮断されることで残された感覚が異常なまでに増感していくあの感覚。いやむしろ中勘助27歳の時に書かれた「銀の匙」は梶井基次郎が書く「闇の絵巻」のような闇の中に触手が伸びていくしかない環境で進化せざるを得なかった感覚の一つの究極の完成体ではないだろうか。昔,子どものお菓子で金属のチューブに入った絞り出しのチョコレートがあった。釣りの重りと同じ材質を思わせる鉛のような材質のチューブにチョコが入っている。歯磨き粉のチューブの形態だと思えばいい。最後のチョコまで舌先で吸い出すために実に涙ぐましい努力を重ねた。最後には金属のチューブに歯を立てる。すると金属の苦い味が口の中にひろがることがあった。身体が無意識にその金属的苦さに震えるのである。このような感覚は視覚という感覚が成熟していく成長過程の中で忘れ去られていくことは確かだろう。しかし何よりも視覚も,触覚も,聴覚も,臭覚も互いにリンクしあう感じ方,言い換えれば視覚がそのまま触覚に入れ替わり,味覚がそのまま触覚や,視覚に入れ替わる感覚の代替作用や感覚の横断的交通こそ独特の世界観を私たちに提示してくれていたのではないだろうか。中勘助が,谷崎潤一郎が,梶井基次郎がそんな忘れ去られている人間の感覚の活用法を作品を通して私たちに教えてくれている。

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水に映る世界

大人の行き過ぎたロゴスで傷つくよりはセンメンタルな子どもの感覚で,新しい世界を驚きをもった眼で感じ取ってもよいのではないか。そんな感覚の自由くらい,持たせてあげたい。いや,そんな感覚の自由を持った人は世界をセンスオブワンダーとして受け入れることが出来ている。

コロナの時代を迎えた今。人はコロナに勝つことだけに執着している。そこに現われているのは人間の弱さを認めたくないという一心から来る素直な感情でもある。それはそれで正しいだろう。しかし,どうだろう。人間は弱い一面を持っていると肯定してみては。その弱さを受け入れながら人間は進化してきたことも歴史の中では事実である。子どもだからできない。健常者だからできる。年寄りだからできない。そんな差別的な感情は正しくない。弱い存在だからこそ団結する。自分が弱いからこそ,相手を慈しみ,大切に思えるという地平を見いだすことは簡単である。自分の感情を抑えればいい。そうすれば優しい風が自分の中に吹き込んでくる。これが相手を理解するということになる。子ども時代の霧の朝の思い出は,こんなところに自分を連れてきてくれた。

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子ども時代の霧の朝の思い出は,こんなところに自分を連れてきてくれた。
誰だって自分の幼い頃を否定したくはない。否定する必要もない。夏の霧の朝のあの思い出が,青いソノシートの「真珠貝の歌」が私をいまだに成長させていてくれると思いたい。

晴れてホタル

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晴れてホタル

あと何日ホタルを見られるのか
がんばりたい
昨年のピークは6/25-6。そして二日の雨。それでも減りませんでした。

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流されていたホタル(真ん中)を木の杭に止まらせてあげました 2019年


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テイクオフ 2019年

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ピークが近いか 2019年6/25

月曜日はしっかりとした雨が降って昨晩はからりと晴れ上がりました。
かなりの数が飛んでいました。ピークが近いと思われます。星もきれいに出て天の川が昇っていきます。
ホタルなのか,星なのか分からなくなるほどの景色でした。


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北天に遊ぶ 2019年6/25


今年の場合ははっきりとしたピークが望めそうにありません。


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にぎわい

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にぎわい 6/28撮影 比較明合成124コマ

にぎわいといっても124コマも合わせればこのようににぎわっているようには感じるものだ。
連続写真を撮るのはホタルの出方などが後から確かめられるかなと思っているからだが,案外一コマずつチェックしていっても新しいことが簡単に見つかるわけでもない。
ただ,ホタルが一匹動き始めるとそれに反応するように葉陰に留まっているホタルが光り始め,また後を追うように飛び始めるたりすることは確かなことだ。わたしは今,沢の岸のメスらしいホタルが留まっているところに椅子を持ってきて腰掛けているが,飛んでいるホタルが視界に入ると留まっているホタルは呼応するように強く光ったりする。それを見て,飛んでいるホタルが近づいて来る。この呼応する時の光り方が大切らしい。でもその光り方に規則性があるようには思われない。私にはただ強く光ったということが分かるだけである。とすると光の信号は待っているホタルが定期的,自発的に点灯させている(数打ちゃ当たる的)わけではなく,あくまで相手が近づいた時点で光り始めるという反応の仕方らしい。光って飛んでくるホタルにこちらから少し暗くした懐中電灯の光を向こうと同じように点灯するとやはり私の所に近づいて来る。とにかく留まっている光でも動いている光でも近くまで行って相手を確かめている。
また下流に飛んでいったホタルはしばらくすると上流に向きを変え,引き返してくる個体もけっこういる。ということは彼らの活動範囲が何㎞もあるわけでもないらしいことも伺える。とにかくホタルは奥が深い。


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上弦の月沈む

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晴れだした9時過ぎ D810 F5.6 267s ISO320 ポタ赤トースト  

午後7時過ぎの雷を伴った雨の後,やっと晴れだしたのは午後9時を過ぎていた。晴れるに連れて雲間に隠れていた上弦を迎えたばかりの月が高く,ホタルの飛び交う沢を照らしだし,まだらな陰翳をそこここにつくりはじめた。
今年もホタルに誘われここに通い出して5回ほどを数えるが,ホタルの数はあまり増えず例年のような乱舞は今年は見られそうもないようだ。
瀬の音とカジカガエルの鳴き声と藪の中を追いかけ合う小動物達のうなり声が時折私を現実に引き戻した。ホタルが多いとか少ないとかはやっぱり大切なことかもしれないが,少なければ少ないで一匹一匹をゆっくりと眺めることが出来る。実際時計も持たずここにいる私には草陰に隠れて光っているメスのゲンジボタルと戯れたり,その光に誘われてやってくるオスの光跡がカメラの前をかすめていけば数は少ないけれど楽しい写真になる。

川の中に三脚を立ててポータブル赤道儀のスイッチを入れる。沢の中だから取り囲むような木々や竹林の隙間から北極星を探し,極軸を合わせる。ところが,星景モードで撮ると星が流れる。そこで星モードにして撮った。トーストという機種である。電源が入ると緑色のランプが点灯するが,この光がホタルにとってはまた不思議に見えるらしい。近寄ってきては機械の光だと分かると飛び去っていく。自分のヘッドランプを点滅させたりしてホタルはどんな行動をするか,近寄ってくるのか,光を強く出したりするのかと暇に任せてお手軽な実験などしてみるが,その内ホタルの方もこりゃいたずらだなと相手にもしなくなる。カメラの方は自動撮影にしているが,時計がなくてもけっこう雰囲気でもう三分だと感じられる。星空は人を飽きさせることがない。いて座のところに-2.7等の木星が一際強い光を放っている。その右のさそりのアンタレスを寂しくさせるほどの輝きである。そして明るすぎる木星の南西側に土星。西へ目を向けると月がもうそろそろ沈むかと思わせる高さにあって大きな木のてっぺんに懸かり始めている。(3枚目の写真)

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上弦の月が沈むまで F22 ISQ100 10000s

一枚撮りで月の沈むまでをどこまで撮れるかとずっとシャッターを開きっぱなしにしてみる。画面で写ったのは10000秒分である。10000秒÷60=166.6で166分。2時間46分となる。ホタルが何匹もカメラの前を通過しているが長時間露光で撮ると消えてしまう。強く絞り込むからかもしれない。

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南の空

ふと気が付くと南の空が美しい。木々の切れた沢沿いから南の星がきれいに見えている。沢の水面に木星やアンタレスが写り込んでいる。例年だと忙しくこの画面を横切るホタル達の光跡が重なるところだが今年はこのように少し寂しい。

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違った夜のひとコマ

しかしこの山里は晴れると天の川が実に美しい。遠くの高地にわざわざ時間をかけて遠征しなくてもここに来ればいいのさ。

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天の川いよいよ高く


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