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春のきざし

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長沼の夜明け

春霞立つ今日の夕ぐれの空を長く編隊をつくった百羽ものハクチョウの群れが夕日を横切って行った
もうさよならの声も届かない遠くだった

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高く架かる金星

金星が西の空でだんだん高くなっていると感じる
気のせいだろうか



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別れる哀しさ

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帰るハクチョウ達 今朝2/2撮影

昨日の夜は風もなく,ただ星の光ばかりが降り続ける哀しい夜となった。
雁やハクチョウ達が鳴き交わしながら星の光の中を北に向かってしばらくの間飛び続けていた。
渡り鳥が北に向かって帰り始めたのだ。いよいよお別れの時だ。
こう思うと毎年やるせない気持ちになる。
当然のように居た鳥たちがいなくなる寂しさにまた耐えなくてはいけない時期に差し掛かった。雁やハクチョウが飛ばなくなった空はがらんとして虚ろである。静かすぎる時間もまた苦痛になる。雁やハクチョウの鳴き声でつくられていた時空間が無くなってしまう。ただの青空だけが,ただの静けさだけががらんどうの春を連れてくる。

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昨夕月齢7の月と金星 雁もあまり飛ばなくなった。北へ帰ったのだ

西行の雁の歌を「山家集」から探してみた。
全千五百首ほどの歌に12首の雁の歌があった。

その中の一首に眼が留まった。「寄歸雁戀」というタイトルが附いている。恋の歌である。

つれもなくたえにし人をかりかねのかへる心とおもはましかは
<意訳>連れもなく付き合いも絶えてしまった私だが,かりがねのようにひたすら帰ろうとする心を知っていたならば帰る道も歩けたのに

西行は渡り鳥の雁の帰ろうとする気持ちの力強さに憧れを感じているが,それに引きかえ自分はどうだ。誰も待っていないし連れ添う相手もいないと苦り切っているようだ。人を思うことで恋の歌に入っているらしい。このような雁の帰ろうとする渡り鳥の本能は誰でも知っている。しかし実際雁やハクチョウの飛ばなくなった空や夕焼けはただ虚ろに美しいだけである。どこか耳の遠くに聞こえていた彼らの声が静寂の見えない底に沈んで行くことは懐かしい景色がなくなってしまうように感じる。つくづく彼らの声が,つまり音が私の世界をつくっていてくれたと改めて思い知らされるのもこの時期だ。「枕草子」で,嵐や台風の後の無造作に散らばった庭を見て,去っていってしまったものが残していったものに特段愛着があるわけではないのに何か妙な寂しさを感じるあの思い・・・。

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長沼の朝 今朝2/2撮影

理由無く生まれ出たものは見る夢も思い出せず一体どこに帰ればいいのだろう。
こう自分自身に尋ねてみると,夜に星の光を燈台として,星の光をまたたきにして山を越える雁やハクチョウ達の野生の帰巣本能の素晴らしさがつくづく理解できる。
彼らに大きく大きく手を振る。空から彼らの最後の声が降ってくる。青空に溶けて見えなくなるまで手を振り続ける。
自分の心の憂鬱をむりやりに掻き消すかのように空の果てに手をぶんぶんと振り続ける。

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雁やハクチョウ達が消えていった空 今朝撮影


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伊豆沼写真展始まる

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初売り列車は行く 今朝1/2撮影

明けましておめでとうございます。
本年もどうぞよろしくお願いいたします。
正月2日は,当地宮城県仙台の初売りが有名です。景品がたくさん出ます。その初売りに向かう電車には沢山の人が乗っていました。

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元旦の光 昨日1/1撮影

さて昨日1月1日から「伊豆沼写真展」が始まりました。総勢7名による伊豆沼の自然の魅力をご覧下さい。わたしはA450枚という「伊豆沼写真曼荼羅」という作品と「わたしのさんぽ道-定点撮影の魅力-」の2作品を出しました。自分の写真の全体のまとめとする写真展にしていきます。
尚,写真展はこれから3~4か月に一回ずつそれぞれの作者が作品を入れ替えながら果てしもなく続いていきます。これは今までの一般的な写真展が単発的,一時的という課題を「伊豆沼写真展」が乗り越えていくという意味もあります。質の高い作品を長く,伊豆沼の多様な変化と伴にライブ感を持ってお送りするという新しい写真展のカタチを模索していきます。是非おいでください。また皆さんからの出品も受け付けています。どんどん作品をお持ち下さい。

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「伊豆沼曼荼羅」部分

伊豆沼の映像作家達が自分の限界まで挑み,作品を出し続けます。
たくさんのご指導とご助言賜りまして写真展を継続していくつもりです。


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水面をなでる風

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水面をなでる風 今日12/30撮影

好きでやっている写真ですが,ふと,気付くとろくでもないことも考えたりしています。
実はこのように写真撮ったり,アップしていますが,知らないうちに他の人様を不快にさせたりしていないだろうか,と思ってしまうことがあります。とにかく自分が何でも無自覚にいることが問題で,別に罰当たりなことをしているわけでもないからいいじゃないかと思うんですが,それは身勝手な自分の解釈で,罰当たりな自分にも気付いておらず,挙げ句の果てには自分に何らかの罰が当たっているのに,それにさえ無自覚でいる浅ましさは不思議に自分には納得できるような気もするのです。あまりにも美しい今朝の日の出の景色を見て,確かに心躍り,そして勿論写真も撮りました。しかしぼんやりと自分の写真は罰当たりな写真ではないだろうかと思ったりしてしまいます。自然の美しさに対しての失礼さと言うか,つまり美しい朝をうまく美しく撮れない自分の写真の未熟さのような罰当たりにも感じるのです。

このような妄想を続けていくと,思春期の頃に読んだ太宰治の短編「家庭の幸福」などを思い出します。「家庭の幸福」のラストは,あの有名な言葉,「曰く、家庭の幸福は諸悪の本(もと)。」でまとめられます。青空文庫でたった今また読んでみましたが,なんか人(自分)の至らなさが他人を不幸にしているのではないかという畏れがやっぱり自分にもあると感じてしまうのです。そうすると具体的な法律上は問題ないにせよ,自分の存在で他の人様に多大な影響を与えてしまっていること自体が「未必の故意」の概念に当たるのではないか。そこで「未必の故意」を調べてみると・・・。
「未必の故意」とは、自分の行為によって違法状態に至る可能性を認識しており、結果的に犯罪行為が発生してもかまわないという心理状態を表す法律用語です。
例えば、「横断歩道に歩行者が大勢いる交差点に、信号無視をして車で突入すれば、誰かが死ぬ可能性が高いが、誰かが死んでもかまわない」と考えて突入した場合「未必の故意」になります。
まあ,この場合「誰かが死んでもかまわない」というあからさまに強い表現になっていますが,もっともっと微弱な臆病な考え方で「申し訳なさ」と言いかえてもいいです。心理的な「未必の故意」とでも言うようなことが気になるのです。ちなみに未必の故意の説明と共に「認識ある過失」というのもあったので引用してみます。
「認識ある過失」、自分の行為によって違法状態に至る可能性を認識しながら、その発生を避けられるものと信じて行為したが、結果的に違法状態を発生させた状態をいいます。
例えば、「横断歩道に歩行者がいない交差点に、信号無視をして車で突入すれば、誰かが飛び出してきた場合死ぬ可能性はあるが、過去には一度も飛び出してきたことはないので大丈夫だろう」と考え、結果的に事故を発生させた場合「認識ある過失」になります。
非常に区別が微妙です。
ひねくり回しましたが,言いたいことは他人様に負の影響を及ぼしてはいないかということが心配なのです。はい。

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朝の色 今日12/30撮影

人間,状況的に証拠がそろうと意図していなくてもそういう意図があったのではないかと思われてしまうことは自然のことかもしれません。例えばクリスティの「うぐいす館」です。夫の机の奥から夫が以前に住んでいた町で起きた殺人事件の新聞記事の切り抜きが出てくる。へんな場所に工具が隠されていることを発見する。その工具は殺人事件に使われた凶器かもしれない。この頃,夫はよく家を空ける。何かを準備しているのでは・・・。妻はそれらの状況から次の標的は自分なのだと信じ,ノイローゼになります。こういったただの事実の羅列があらぬ状況への証拠となってしまう。そんな反転した解釈をつい人間はしてしまうものです。

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沈む三つ 内沼にて

あらぬことで疑われてしまう。意図しないところで犯人にされてしまう。まるでヒッチコックの映画を観るようなことも起きます。ヒッチコック映画は「巻き込まれ型」として有名ですが,状況が揃えば意図や心情は二の次になってくる事がこの頃よく起きています。報道の挙げ足取りです。言葉は人なりと言い,軽率な例え話をしたりするとその言葉だけがコピペされて大きく取り上げられるのです。浅い考え方は浅い短絡的な結末をねつ造してきます。

水面をなでる風は,波をつくりますが,わたしはこの頃,沼や川などは水深によって同じ風でも波の立ち方が違うのではないかと思っています。伊豆沼は浅いです。今日撮影した長沼は深いです。長沼の水面には同じ波でも美しい色が乗って,細かい波が揺れるようにゆっくりと立ち上がります。波は皆同じでしょうが,表面だけ見ても分からない現象もよく考えれば深い意味があるものだと思うのです。その点で写真も表面だけでは終わりたくないものです。


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