源初の風景

蕪栗のの岳 395-2gs
源初の風景

こんな景色を見ていると,人のいない時代に見えていた景色を思わせる。
連綿と続いてきた自然の営みは人を超えてこれからも続いていくのだと思う。
たかが人が生きる時間は90年とも思ってしまう。
「人どもよ。心せよ」
どこからかそういう言葉が聞こえて来る。


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マッス(塊)に挑む2017

11月日曜 180-2gs
11/5 満月沈む蕪栗沼

蕪栗沼は10月下旬に出されたデータでは,マガン類4万と出たと思いましたが,今朝行ってみて,優に8万はいるように感じました。とにかくすごい数です。一気に飛び立つと空全体がマガンで覆われます。まさに圧倒されます。


11月日曜 317-2gs
11/5朝のスタート

朝の飛びたちを見るのは,今の時期が一番いいかもしれませんね。マガンも慣れてくると散発的な飛び立ち方になってしまいます。一気に全体が飛び立つには今の時期が一番いいかもしれません。ハクチョウも昨年の伊豆沼では2000程いてなかなか南下しなかったようですが,今年はもう南下し始めたようですね。ヒシクイの鳴き声はよく聞きますが,カハーンカハーンというシジュウカラガンの声はまだ聞きませんねえ。シジュウカラガンも着実に数が増えて指定解除になったようですね。ところでフクロウか何かいるのか,カラスが追い立てていましたねえ。昔見たフクロウも伊豆沼では見られなくなりました。コミミズクも数年見ていませんねえ。そうそう以前スミナガシ(チョウ)がいたんですけど,これも見られなくなりました。10年経つと生息している動物相もかなり変わってくるんですね。チョウトンボは復活しましたね。オオムラサキは昔ほど見なくなりましたね。



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事,蛇蝎(だかつ)と同じ

伊豆沼 043-2gs
11/3今朝の伊豆沼

今朝の伊豆沼は朝霧と美しい雲に彩られた朝になりました。
このような自然の姿を見ていると,誰しも清浄な心持ちになります。

今日のタイトルは「事,蛇蝎(だかつ)と同じ」と付けました。
これは浄土教を解説した中国の僧 善導が人の心の有様を例えた言葉です。「事,蛇蝎(だかつ)と同じ」人の心はヘビやサソリと同じ。人の持っている強欲さと傲慢さを例えて言っている言葉です。私が石仏や板碑などに興味を持ってから,どうやら中世の日本浄土教の中に考え方が集約していくのではと思い始めました。「南無阿弥陀仏」という石碑が全国至る所にあります。遠野の里を歩いても,こちらの寺や道ばたに残っている石仏を見ても,日本人の考え方の底に浄土教が通奏低音のように流れているのではないかと思います。そしてそこから鎌倉時代を経て,大きく宗派仏教として分流していくようです。各宗派はそれそれ厳しく対立しているわけではなく,浄土教の流れを巧みに組み込みながら分立していくようです。
 例えば日蓮も浄土教は否定せず
最後臨終六字名号一遍唱フ可(ベ)シ,此儀秘ス可(ベ)シ
吾ガ宗人等最期ノ一念六字之名号心ノ内ニ唱テ,口外ニ出スベカラズ是他宗ニ見スベカラズ 山形立石寺「日蓮秘伝書」
と浄土教の教義をそのままに自派に引き込んでいくのです。

伊豆沼 571-2s
11/3ハクチョウのスタート

浄土教は法然が祖と習いましたが,その弟子に親鸞がいて,証空という僧もいました。その証空の流れにいたのが一遍です。親鸞の弟子に是信がいて東北へ,一遍も東北へ来て布教しています。東北地方に古くから残る石仏や板碑を見るとやはり浄土教の流れが色濃く残っていると思います。浄土教は浄土三部経という三つの教典があり,それぞれ「無量寿経」「観無量寿経」「阿弥陀経」となるそうです。そして「無量寿経」は阿弥陀仏の本願について,「観無量寿経」は浄土往生の方法について,「阿弥陀経」は極楽浄土について説かれているといいます。そして中国の僧 善導が注釈を行い,極めて優れていたと伝えられています。その優れた解説書『観無量寿経疏』(『観経疏』)4巻を法然が見いだしたのです。親鸞も一遍も浄土教の流れを汲み,そのバリエーションを追究していきました。対照的な2人と言われますが,徹底した他力本願,称名念仏,自力による真実を知ることの断念という点では実に同じです。禅は自力によって悟りへ導かれる点では修行に懸かっている比重がとても大きいものがあるでしょう。

伊豆沼 282-2s
11/3水の紋様

さて,救いの道は三心に帰すと言われます。一つに至誠心(真実の心)二つに深心(深く信じる心)三つに廻向発願心(これまでの修行の功徳を極楽浄土への往生に振り分けて,そのことの成就を願う心)の三つです。私たちは煩悩の徒であり,それらの煩悩を清め(反省し正しき道を望み),善徳を積み(修行を重ね),往生した後にも誠の道を進むという三心が極楽に辿り着く道なのです。

 私たちは誰しも真実を願い,反省をしながら自らの考え方や行いを正そうと生きています。このままの自分でよいのかと自分に問いただすこと自体が発願であり,スタートです。そして他の人のためにいくらかでも力になろうと努力します。つまり善いことを少しずつ重ねることで往生できるとも思っています。つまり積善信仰です。しかし浄土教は他力ながら実に厳しい見方から始まります。どんなに善徳を積んでもそれは貧しい自分勝手な知恵と見栄と偏見でしかないのです。人間の力では何もできないのです。自分の傲慢さを見捨てて,無力さを知ること。このような自己の絶対否定があって初めて他力となる資格を得るのです。その厳しさの極北が親鸞でもありました。人は本当に自分を捨て切って本願を遂げることができるのでしょうか。宗教はいつも人の側から突きつけられて来る問題の深刻さに気付かなくては煩悩の池に溺れてしまうことを言っています。



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