春を待つ心

梅鉄道 017-2gs
ウメの花電車 東北本線 新田-石越

 東北の春というのは,おぼろな春霞の背景から少しずつ浮き上がってくるものですから,やがてある朝に待ち続けていた春がはたと存在感を表すことに驚かされます。長く待ち続けて心があきらめ色に染まる頃にやって来るのが東北の春です。その喜びはいつかはと待っている手紙が何年も経って,忘れていた時にやっと届く驚きの気持ちにも似ています。こんなおぼつかなさが東北の春にはあります。これだけすぐ欲を満たすことに慣れた資本主義という現代で,遠くのものを我慢強く待ち続けるテンポがまだ東北にはあるのです。その待ち遠しいという明確さに欠けた時間が実は私たち東北人の心を育ててきました。それは一年中青々とした常緑の,生命に満ちあふれて平均化された南方の気候にはない「思い」でしょう。

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春を待つ夕暮れ

実際,太宰治の「津軽」に出てくるような,客人を迎える主人の行き過ぎるくらいのもてなしや寺山修司の喜びの奥にひそむ悲しみ色は,厳しい雪と寒さに一旦死んでしまう東北の景色が作り出しているものです。だからこそ一旦死んでしまった死者の景色から再生する奇跡に満ちた春を迎える喜びが東北には満ちています。

そんな春が今やっとこちらにもやってきています。
うれしいです。


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115年を経た二つの石碑

岩井崎 458-2s 岩井崎 479s
明治29年(1896)三陸大津波の石碑    2011年3月11日東日本大震災の石碑

ここは本吉小泉地区です。
津谷川の河口であるこの地区でも東日本大震災では甚大な被害がでました。7年経とうとしている現在でも工事はまるで果てしもなく続いているような気がします。115年を経た二つの石碑はすぐ近くにあります。

写真左の石碑は今から122年前に建てられた三陸大津波の年に後世への教えとして建てられました。碑文を読んでみます。

明治廿九年六月十五日午后八時暴潮汎
溢倐忽間溺死者二百三十一人郡民三千
三百八十人縣内総三千五百人也益三□(不明)罹

有縁無縁三界万霊塔

此災死者殆三万人而負傷者及家屋耕地
流失また副之世以為前古未曾有大海嘯鳴
呼天降災亦酷矣哉  仝年十二月建□(不明)



写真右の石碑は高台に建てられた小泉小学校の校門にあります。

しみじみ考えました。
歴史が引き継がれていたならば・・・。何を私たちは勉強していたのだろう。
必要なことを習ってきたのだろうか・・・。


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コーラ

海沿いにて 010-2gs
朝の海 荒浜海岸

コーラ

それはたゆたうように在る
しかしその存在は証明されたことはない
それはちょっと変わった形である
だいたいが形があるかどうかも分からない
だれも見たことはないし
確かめたこともない
あるなと感じてもそれは次元が違うところにいるようにも思える
近くだけれど反り返った世界であってこの世ではない
とらえどころのないものなのだ
だから名前すらない

コーラ
まるで触媒のように立ち現れてくるのだ
それ自身では場所を持たない
あるものが存在しようとするときに
その場所を提供するだけだ
生成することを
この世にあらんとすることを・・・ただ許している
意志するとかすかに世界のどこかで反応する
小さな灯をともすように
しかし考える対象にするとたちどころに形容されることを許さない

目的なんてない
そもそも言葉や思考の文脈ではつかまらない
「コーラこそは、みずからを刻印するありとあらゆるものの記入の場を象るものなのだ」

コーラ
とある公園に椅子がある
その椅子は誰かが座るようにつくられている
しかし誰も座らない
誰かのために作られたが誰れのためでもない
その公園に辿り着いた者などいないからだ

コーラ
すべての意味ははぎ取られている
「これでもなくあれでもないようにみえ、同時にこれでありかつあれであるようにみえる」
接近すると消え
しかし大胆に存在しているがおよそ権威というものは持たず
平然としている
イノセントでありながらすべてを許す

場所であって空間ではない
まよいが

あるいはカフカの「掟の門前」の開かれることのない門


海沿いにて 278-2gs
海沿いにて 石巻線 沢田-浦宿  万石浦に年の瀬の陽がきらきらと輝いていました


コーラとはプラトンのティマイオスに出てきた不思議な言葉です。
およそ概念化できず,実に可変性の高い,可塑性の高いものです。
何にでも変化可能で実体をもたないものです。強いて言えば「場所」と訳されていますが,とらえどころのないものです。それは永遠につかまらない蝶のようなものでもあり,永遠につかまらない蝶の存在をこの世に許すもののようにも受け取れます。あるものが形づくられようとするときに同時に現れるけれど,決して自分自身では形をなさないものです。



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中世期の実像を求めて-遠野の石碑調査報告から-

鳴子へ 194-2gs
陸羽東線 堺田駅

うっすらと雪が降りました。
そこで雪景色の写真を探しました。出てきたのが分水嶺の駅と知られる堺田駅の写真でした。

さて,遠野の石碑調査の考察部分を載せておきます。この資料は遠野文化研究センターが出している「遠野市綾織町石碑調査報告書」です。調査時期は「平成25 年(2013)に遠野文化研究センター職員によって行なわれた遠野市土淵町石碑調査の結果を参考にしながら、平成26 年(2015)から平成28 年(2016)にかけて現地調査を行った。」もので,最新の調査になります。石碑は「 253 基」だそうです。まずはその考察を読みましょう。
最古は,明和元年(1764)「青面金剛塔」碑 愛宕神社入口次は安永2年(1773)「念佛供羪塔」碑 照井工務店付近紀年銘が刻まれ判別できる石碑のうち、綾織町内最古の石碑は、明和元年(1764)に建てられた「青面金剛塔」である。
時代別にみると、江戸期に建てられたものは40 基、明治以降に建てられたものは112 基、年代不明が101 基である。
寛政12 年(1800)までの石碑は10 基あり、内訳は念仏5 基、祭祀講碑4 基、不明1 基である。
19 世紀に入ると、金毘羅などの社寺参詣碑、馬頭観世音などの馬畜供養碑なども加わり、0~5年間隔で継続的に町内に石碑が建てられた様子がうかがわれ、建碑が本格化してくる。しかし、
天保3 年(1832)~天保12 年(1841)の8 年間は町内で建碑された石碑は確認できない。嘉永年代(1848~)以降は再びペースを取り戻す。
次にここで遠野市土淵地区の調査の考察も併せて引用させていただきます。調査時期は「昭和49 年(1974) に遠野市立博物館によって行なわれた石碑調査の結果を参考にしながら遠野文化研究センター職員による現地調査を行った。山口地区は平成21 年(2009)に遠野市教育委員会によって行われた調査結果を引用した。(遠野市教育委員会 2013 年3 月 『遠野市文化財報告書第5 集 「遠野 土淵集落」文化的景観保存調査報告書』)」とあります。
最古享保7 年(1722)「南無光心天王」碑 薬師堂南西。次は享保10 年(1725)「奉書□大乗妙典一字一石」碑 常堅寺入口。
土淵町内最古の石碑は、享保7 年(1722)に建てられた「南無光心天王」である。これは「庚申」を「光心」と記す県内唯一の碑である。
時代別にみると、江戸期に建てられたものは78 基、明治以降に建てられたものは108 基、年代不明が72 基である。寛政12 年(1800)までは12 基建てられ、内訳は庚申8 基、念仏3 基、山岳1 基と、庚申塔が過半数を占める。
19 世紀に入ると、金毘羅、西国順禮塔などの社寺参詣碑、馬頭観世音などの馬畜供養碑なども加わり、0~5 年間隔で継続的に町内に石碑が建てられ、建碑が本格化する。しかし、天保7 年(1836)~天保14 年(1843)の8 年間は町内で建碑された様子は見られない。天保15 年(1844)以降は再びペースを取り戻すが、庚申塔の建碑は1860 年代より衰退していく。
20 世紀に入ると、初頭から中期ごろに社寺参詣碑、馬畜供養碑などの建碑はピークを迎え、
替わって人物の功績を讃える顕彰碑や、建築を記念した記念碑などが登場する。また1990 年代からは、詩歌などを刻んだ歌碑も建てられるようになる。これらの石碑の盛衰は岩手県内では一般的な傾向である。
と書いてあります。

鳴子へ 215-2gs
峠を登る 陸羽東線 堺田駅に下り電車が入ります

ここでこんなことがが思い浮かんだのです。
・意外と新しい石碑が多い。道路整備などで整理されたのではないだろうか。
・鎌倉,室町,南北朝期の板碑などはないのだろうか。あってもいいはず。
・司東真雄氏の「岩手県中世の石塔婆」や「遠野町史」「岩手の板碑」(岩手県博物館)と比較してみたい。
・宮城県北の石碑と比べてみたい。

広大な考察になりそうですが,まずはメモのようにして少しずつ思いつくままに綴っていくことにしました。


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中世期の実像を求めて-北上川沿い-

金曜日 117-2gs
東北本線 新田駅 12/8

先日,遠野の石碑調査を読んでいた際に,遠野市綾織地区の「最古は,明和元年(1764)「青面金剛塔」碑 愛宕神社入口」で,土淵地区は「最古は,享保7 年(1722)「南無光心天王」碑 薬師堂南西」となっていました。この土淵地区の最古の「南無光心天王」の「光心(こうしん)」とは,「庚申(こうしん)」でしょう。とても珍しい表記です。
いずれにせよ,私が住んでいる宮城県北部の石碑を見ていると,遠野のこれらの石碑の年代が実に新しく思えるのです。鎌倉初期のものもあってもよいと思えるのです。例えば,岩手で最古と言われている石碑が一関市川崎門崎の最明寺にある建長8年(1256)の石碑で,次に平泉中尊寺の文永9年(1272の石碑)と,岩手県立博物館発行の「岩手県の板碑」(2015)に書かれています。そこで司東真雄「岩手県中世の石塔婆」を見ると,遠野松崎神社観音堂に天文6年4月14日(1537)の板碑があると書いてあります。ですからもっと実態は遡ってもいいはずで,現存する記録から実物に該当する石碑だけを取り出したために享保まで新しくなったのかもしれません。

ちなみに「岩手の板碑」から地域別にその数を書き出してみましょう。
岩手県の板碑の地域での分類
地域板碑数(基)
胆沢・江刺郡50
気仙郡67
上閉伊郡2
下閉伊郡4
和賀郡2
稗貫郡4
紫波郡62
岩手郡2
二戸郡6
鹿角郡1
やっぱり北上川沿いに多いと言えます。

特筆すべきは岩手県にある石碑1000基強のうち,北上川流域の一関,平泉のある磐井地方に800基もあるというのです。これは異常に高い密度です。つまり北上川沿いに異常なほど石碑が多いのです。これは宮城県でもそうで,北上川河口の石巻を起点として北上川沿いに異常な密度で鎌倉期からの石碑が存在しているのです。
これらは北上川沿いに天台宗の寺が多いことに関係しています。また,北上川に沿った宮城県北部や岩手県南部の石碑の材質が石巻の稲井(いない)石,井内石とも言うからして稲井石文化と呼ばれたりもしています。興味深いのはどういうきっかけでこれ程に多くの石碑が建てられることになったのかということです。中尊寺から鎌倉の葛西までの武士文化が東北で花開いたといってもいいでしょう。この中世期の鎌倉,室町,南北朝時代に東北はどのように変遷を遂げていったのかを石碑で読み解くことができると思います。これが遠野の文化を読み解く鍵にもなると思います。
しかし,幾層にも薄く重なった生活や文化の変化を,宗教の入り組んだ重なりを一つ一つ剥がしていく行為は大変難しいことでしょう。

次回は今回のきっかけとなった遠野の石碑調査の結果から考えられることを書きたいと思います。


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