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死に顔

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海から昇る天の川

義母(はは)が亡くなった
毎日苦しく息をつぎ
周りにいる私たちに「がんばるから」と
逆に気を遣ってくれた

亡くなって駆けつけた時
今までにはない表情が顔から溢れていた
すべての苦しみから解放された
深く安心した顔に見えた

美しいと思った
むしろこの世のすべてを
最後までやり終えた顔が
このように現れるものか


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マイ ブロッケン

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「ご来光所」嵯峨立 「登米郡史」p965より
  「嵯峨立蛙石(びっきいし)崖より見ること時々あり。其形虹の全形にして見る人を其中央に映ず。多く初春に現る。北上川の清流に反射するなり」

このご来光所が一体どこか
探しに探した
山の中に入り込んで
蛙石(びっきいし)崖はどこか
探した
そして朝日の入射角度
地図を睨んでは
可能になる地点はどこか
どれくらいの霧の深さだといいのか
実験も繰り返した
そしてついに11月19日
よく冷えた朝
あ・ら・わ・れ・た


霧踊る

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霧踊る

瀟湘八景から始まった私の風景の旅だが,朝晩の冷え込みが進むと川の景色が実に素晴らしいことに気付いて,この頃は川にばかり通っている。
朝霧が立ち込め,やがて霧が踊り始め,そして流れていく様は今までは気付かなかった魅力を私にもたらしてくれた。
よく考えてみると風景は川で成り立っているとつくづく思わされる。
栗駒下ろしなどのこの土地ならではの季節風は川沿いにまず入ってくる。つまり風は水の流れに従いながら新しい空気をもたらしながら吹いてくる。もちろん川なので水もまたしかりである。空気も水も風もすべて大地の凹部,川から流れ込む。これが古来より山神や神が降りてくる交通路になっていた。神は山から下りてきて,山に登って帰っていくが正しくは川を伝って下り,川を伝って上るのであろう。実に自然なことだ。

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微かなる風景

実は東日本大震災の時に放射能の広がりが川沿いに奥に入り込んでいったと見ている。
栗駒のきのこなどはまる三年も放射能レベルが高くて出荷できなかったのは水の流路,つまり川を伝って風や水の流れに乗って山間部に入ってきたからだった。今私が通っている北上川も一関付近までしばらく放射能が高かったのである。つまり川沿いに良い神様も下りてくるが,放射能という悪い神様も入り込んで来るのである。このように川は外部と内部をつなぐものであるから,水が現実的に堤防を決壊させる場合には最も内と外との交流が最大になっている時である。北上川などはこの数百年でトータルにしておよそ三年に二年は何かしら水害に見舞われてきた歴史を持っている。自然は人間の思惑で押さえつけることはできない。まだ見えていないことがたくさんある。それを知るべきだと思う。

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北上川狭窄部に陽昇る


今朝の一枚-十六夜の月沈む-

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十六夜の月沈む  今朝 東和町嵯峨立

ある天体現象を探して東和町に通っています
場所特定が難しく,毎日地図と現地を照合させながらの試行錯誤です。
これはこれで楽しいです。


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夜の虹 満月の光を浴びて

これも珍しいですね。
満月の光でできた虹です。



土地を読む

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北上川俯瞰

中沢新一は「建築のエチカ」の中で,「ではどんな土地を選んで寺院を建てたらよいか」と問いを出して,チベットの寺院を建てるための文書を引用します。それを簡単に箇条書きにしてみます。
・背後に高い山がそびえている
・前にはいくつもの小さな丘がある。左右から流れてきた川が一つになる
・中央には岩や草原があるなだらかな峡谷となって開けた場所
・「大地の四本の柱」と言われる吉相もほしい。東に広大な大地,南には小高い山,西にはこんもりと盛り上がった丘,北にはひだをなすカーテンのような山々の連なり
・次に四方を守護するために,東には白っぽい道か岩(虎を意味する)深い峡谷があってはいけない
・南の川には緑地(青龍を意味する)
・西には赤鳥を意味する赤土や岩
・北にはギザギザ状の岩(カメを意味する)
このような土地の選定がまず行われ,大地の形相や地磁気,太陽との位置関係,天体の運行が検討され,月日を測って地鎮の式が行われる。これは建築そのものが自然そのもののつくり出す環境の時流に乗った上での創作物だという考えがあるのでしょう。祝福を受けるとはそうした大気から大地までのリズムに乗ったものであるべきで,その地球そのものが持っているリズムや流れを妨げてはならないと言うのです。それを犯すと大地の女神が怒ると言います。

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川霧立つ

ではそんな場所に建てられる建造物のルールとはなんでしょう。チベットでは「四」「四角形」がふさわしいという数論があるそうです。「1,4,8,16・・・」柱や梁はこのような秩序があるべきで,そのルールによって自然との違和がなくなり大地の女神の祝福もうけられるのだそうです。

これらは実は建築という部分よりは,自然をどう捉えたかという思考の深さが土地の形相や地磁気に関係していく自然科学みたいなものです。そしてその自然科学のルールの根幹をなす考えは「自然成長性」でしょう。植物や動物と同じように成長する太陽の下で恵みを受けて成長するものと共に同じプロセスを辿るという意味です。
私がよく口に出す「魂」ということばは,このような自然成長性の運動に乗ることによって現実でも生き物は生まれ,死んでいくという意識で表現されているものです。わたしはこの運動性がどのようになっているのかと考えますが,単純に言えば「風の通り道」「川の流れ」「土地の高低」に沿って出来上がる運動だと思います。しかし,人間にはまだ見えていない運動がたくさんあってそこがこれからのポイントだと思っています。

どうやらそれらの運動はねじれや噴き出しや様々な現れ方をしてして,不規則よりは多様性から探し出していくのかなと感じます。
風景の中に運動を見いだしていく作業は建築ならずとも様々な分野で続きます。(この文は再掲しています)