春が降り立つ-栗駒山-

DSC_9812-2gs.jpg
春は小さく降り立つ

春は「張る」と折口信夫は言いいました。
中に張り詰めて入っていたものが春になると待ちかねて飛び出してくるというイメージでしょう、。埋もれ隠れていたものがその生命力の勢いで外界に出てくる。春はまさに現象的な面でもそうした考え方に一致しています。ヘーゲルは量から質への変化をまさに同じ考えで「アウフヘーベン(止揚)」という言い方をしていたのだと思います。これらの考え方は,何も難しいことではなくて,例えば花は種から芽を出して,生長し,花を咲かせて変化していく考え方と同じだと思うのです。芽を出した植物が量的な変化を遂げ,やがて花が咲くという大きな質の変化が訪れてきます。そして植物はまた生長していき,別のステージへと変化していく。
 これらの考え方は,生物発生の変化の原理から出てきているのでしょう。この考え方を一般では遅れた考え方としてアミニズムと言うようになりました。そして,いつの間にか未発達の社会の考え方として受け取られるようになりました。しかし,アミニズムは思想としても大切な考え方だと思うのです。自然の諸現象を表現する枠として実に有効だと思うのです。むしろこの思想の枠は様々な発達理論として援用されるようになったと踏んでいます。先ほど述べたヘーゲルのアウフヘーベンの考え方も自然現象の運動変化に言及しています。

DSC_9945-2gs.jpg
ブナの展葉始まる 林の明るさを感じるのはこの時辺りですね

折口信夫は魂もこの法則に従うことを極めて明らかに言及した人でした。今までにも何回か引用したことがありますが,もう一度取り上げてみます。
天中を行き経る遊離した魂,神が降らせた魂が人体の中府に降りて触れた魂を殖やし整えるということである。
こうして殖え整えられた魂が活動する力をもち、その余韻が威勢をもって外に放たれるのであり,「触(フル)」「威(フユ)」「振」は神を識り、聡く明るく身体剛健、寿命長遠の神術であると説いている。

                                       「折口信夫の霊魂論覚書」小川直之 から
私たちが生を受け,天上から幼きたましひが宿り始める。私たちはその「たましひ」を愛おしく大切に育てることが大切です。たましひは素直でうつろいやすく,また穢れやすいとも言われていました。はかなくたよりないものであるんです。やわらかくて外圧に弱く,そのくせしなやかでもある。日本人はその「たましひ」を「心もち」とも言いました。自分の中にその移ろいやすい「たましひ」を落ち着かせるためにたましづめの儀式をを行い,また増えたすがすがしい「たましひ」を人に贈る,人に贈ったたましひが長く附着させられるようにする。死んでも美しく穢れのない「たましひ」を呼び戻す,これが鎮魂の儀式でもありました。
このようなこころもとない人間の身体に美しく健気な「たましひ」はやってきて私たちに宿り,少しずつ育つ。私たちは少々弱くても,皆そのたましひを心やすく受け入れ,生き続けるのです。そしてさらに「たましひ」を清らかに,たくましく育て,殖やしていくのです。

神仏や幸せも外からやってきます。それを心安く受け入れる姿勢が「言祝ぎ」の儀式です。祭りでもあるのでしょう。しかし禍も入ってきます。禍は入れないと怒りますからやんわりともてなした上で出ていっていただくのです。魂もやってきます。すべて外界からやってくるものに処することが人の道であり,信仰なのです。日本人もそうでした。外界から訪れるものを大切にする,そんな生活の姿勢から成り立っていました。「まれびと」のことです。遠くにいても必ずやってきてくれて,私たちに幸せをもたらしてくれる。先祖の霊でもあり,神でもあり仏でもある。こんな自然発生的なステージ変化を春夏秋冬に当てはめてみるとたましいのこともよく分かってくるのではないでしょうか。そう考えれば,長い半年を超える東北の山国での春の訪れがどれほどの嬉しいものであり,豊作を約束してくれるものかが分かります。

DSC_0012-2gs.jpg
春を写す水面 田代沼

これらの考えを人はどう受け止めればよいのでしょうか。
ずばり言えます。「全肯定」です。外界からやってくるものは幸せなのか,悪なのかは分かりません。禍をも幸せに変えるすべは人は知りません。ただ受け入れることです。来る者は拒まずです。そこから始まります。貧乏神が来たら一旦受け入れて歓待して,やんわりと出ていっていただくのです。自然の為す事も受け入れるしかありません。雨も,風も,太陽の光も霧の朝も・・・。

折口はこうした魂を引き受ける態度を人の道にしようとしました。
道徳です。「たましひ」はただ放縦に育つわけではありません。その人の新しい反省と美しい世の中を望む心が必要なのです。歴史上己の感情だけで判断して,それをまことしやかに「公憤」としてすり替えて争いにしたことが何度あったでしょうか。清らかにたくましく伸びるたましひを育てるには一人一人に「道念(モラルセンス)」がなければいけないと言います。古語の「まこと」とは「個人が神に誓ったことばに対する責任を重んずる」という意味であって,個人が道徳的責任を負うという意味ではないのです。人の言葉は心の表れです。自分自身はできるだけの努力を行いながら,失敗することもある。人間とはそんな少しもろく,弱い面もある。だから新しい反省を行い,また生きる。道徳的な責任は上位の方(神)に任せるという枠組みです。この点の理解の取り違えが折口の思想をもろいものと
早合点することも多かったと思われます。
こう問うといいでしょう。「人が良い悪いを決められるものでしょうか」



にほんブログ村 写真ブログ ネイチャーフォトへにほんブログ村 写真ブログ 鉄道風景写真へにほんブログ村 鉄道ブログ 東北の鉄道へ

山の春さがし-栗駒山の湿原めぐり-

栗駒 345-2gs
ミズバショウいっぱい

先週の土日は雨。行きましたがホワイトアウトの状態でさっぱり何も見えませんでした。
そして今週。2週間ぶりにあの景色はどうなっているだろう。あの湿原はどれくらい雪が解けただろうと確かめてきました。

栗駒山 313-2-1gs
2週間前のブナが展葉し始めた時

そして昨日

栗駒 147-ss
ブナの展葉はすっかり終わりこんもりとしたブナ林

雨のブナ林 504-2gs
あの雨で煙っていたブナ林の一枚

あの場所は・・・。
栗駒 493-2s
林床の雪は解け,青々とした葉。

たった2週間でこの変化です。
スタートダッシュというのは,まさにこのことです。


にほんブログ村 写真ブログ ネイチャーフォトへ

雨のブナ林に居て

雨のブナ林 060-2s
雨のブナ林に居て

奥へ奥へと引き込まれるままにブナ林を彷徨います。
霧が流れる雨の日の誰もいないブナ林も素晴らしいです。
たまにキビタキの声だけが聞こえます。
霧は音もなく流れては消えます。
木々の並び,展葉したブナの葉の光にとろけるような色
頬に当たる霧の触手
すべてこのままでいいよと
すべてを受け入れたものたちが囁きます。



にほんブログ村 写真ブログ ネイチャーフォトへ

雨のブナ林-栗駒山-

雨のブナ林 192-2trs
雨のブナの表情

しっとりとした春の雨の二日目
展葉はもう始まっていました

雨のブナ林 504-2gs
雨のブナの林


ただただ生まれたばかりの透き通る緑の葉を見上げます


にほんブログ村 写真ブログ ネイチャーフォトへ

半年の眠りから目覚めて-栗駒山-

栗駒山 403_4_5_tonemapped-2gs
半年の眠りから目覚めて

池塘がおよそ半年の眠りから目覚めて水面を覗かせました。

このところ桜を撮り,山へ行き,忘れていた感覚に襲われ,吉増剛造の「我が詩的自伝」を読むことでふつふつと眠っていた自分の中の何かが発酵し始めた感じがしています。

実際私たちは表現方法はなんであっても,小説であっても,詩であっても,写真であっても,とにかく時間と場所で今の表現を可能としていますが一体そこに見えないでいて,たまに部屋の隅にぼんやりと痕跡も残さないようなある存在に気付かされることがあります。それらは文脈も結ばず,たちどころに形態も残さず,まるで気配をすべてとしてまたたくまに消えていくようなものです。注視しようとすると逃げていく,ピントを結ぼうとするとその被写界深度の中では輪郭を顕わしてこない何かなのです。

半年も雪に埋もれていた山のブナの巨木を見上げていました。ブナは天頂部から展葉が始まります。どのようにして大気の中にその枝葉を伸ばしていくのかと思いました。枝葉が伸びていくのは何によってその方向が決まっているのか。樹形図に表される対関係から伸びていく。その通り。しかしそれだけでは規則性に乗っかっているだけだと自分の中の誰かが言います。規則性という引力に引き込まれているだけで説明しようとしているのです。類似性や違いから分類して分類してさらに細かい網の目を作っていった果てに黒く塗りつぶされて不可視の領域に入り込んでしまう。そしてはたと気付けば次の規則への引力圏にいることになる。詩人が恐れているのはこの便利な引力です。例えばシナプスができたことで回路が開かれ,それと同時に取り残されていく,捨て去られていく組織(場所)があるはずです。その影に隠れて注視の領域から外れていった場所とは何か。

デリダがプラトンの「ティマイオス」から「コーラ」という不思議な物を取り出しました。以下「コーラ」というものが何を表現しようとしているのかをいろいろなものから引用してみます。
「コーラこそは、みずからを刻印するありとあらゆるものの記入の場を象るものなのだ」
「~である」という意味賦与を剥ぎ取ること」
「つまり、コーラとは「空き地」なのであり、全てを受け容れる「空白」、どんな生徒が座ることも許す名もない「座席」なのだ。」
そして指し示そうとすると,また引き戻され,こう警戒されます。「我々が警戒したいと思ってきた擬人論の危険性を増大させはしないだろうか?」二項対立で考えていてはその文脈にさらわれてしまう。つまり気を取られているうちに注視しなくなってうち捨てられていった「空き地」のこと。目的性が成立していない,または目的がはぎ取られた「場所」つまり「空き地」すべての存在を,どんな刻印をも可能とさせる受容体。

栗駒山 313-2-1gs
目覚めたブナの林

言葉によって言葉の限界を超えていくことが吉増の目指しているものです。いいえ,全ての詩人は言葉によって自らの限界を超えていこうとしたのです。模倣,擬人化,アナロジー,コントラスト,文脈。すべては際立たせ,象(かたち)づくるものの総称です。ではフィルターを通しても顕在化してこないものとは・・・。
私たちにとって写真とは,何を写してきたのか。
世界の遠くの奥で何かが壊れ続けている音がしませんか。写真がただの紙くずに見えます。
「コーラ」とは実に映し出されることのない,まれに幻のように立ち顕われてはたちまちに消える,やわらかい場所です。
それを写したくてたまりません。それは詩人が辿り着くべき蜃気楼のような,天気の変わり目に訪れる一瞬のビジョンなのでしょう。


にほんブログ村 写真ブログ ネイチャーフォトへ