山の春さがし-栗駒山の湿原めぐり-

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ミズバショウいっぱい

先週の土日は雨。行きましたがホワイトアウトの状態でさっぱり何も見えませんでした。
そして今週。2週間ぶりにあの景色はどうなっているだろう。あの湿原はどれくらい雪が解けただろうと確かめてきました。

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2週間前のブナが展葉し始めた時

そして昨日

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ブナの展葉はすっかり終わりこんもりとしたブナ林

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あの雨で煙っていたブナ林の一枚

あの場所は・・・。
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林床の雪は解け,青々とした葉。

たった2週間でこの変化です。
スタートダッシュというのは,まさにこのことです。


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雨のブナ林に居て

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雨のブナ林に居て

奥へ奥へと引き込まれるままにブナ林を彷徨います。
霧が流れる雨の日の誰もいないブナ林も素晴らしいです。
たまにキビタキの声だけが聞こえます。
霧は音もなく流れては消えます。
木々の並び,展葉したブナの葉の光にとろけるような色
頬に当たる霧の触手
すべてこのままでいいよと
すべてを受け入れたものたちが囁きます。



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雨のブナ林-栗駒山-

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雨のブナの表情

しっとりとした春の雨の二日目
展葉はもう始まっていました

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雨のブナの林


ただただ生まれたばかりの透き通る緑の葉を見上げます


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半年の眠りから目覚めて-栗駒山-

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半年の眠りから目覚めて

池塘がおよそ半年の眠りから目覚めて水面を覗かせました。

このところ桜を撮り,山へ行き,忘れていた感覚に襲われ,吉増剛造の「我が詩的自伝」を読むことでふつふつと眠っていた自分の中の何かが発酵し始めた感じがしています。

実際私たちは表現方法はなんであっても,小説であっても,詩であっても,写真であっても,とにかく時間と場所で今の表現を可能としていますが一体そこに見えないでいて,たまに部屋の隅にぼんやりと痕跡も残さないようなある存在に気付かされることがあります。それらは文脈も結ばず,たちどころに形態も残さず,まるで気配をすべてとしてまたたくまに消えていくようなものです。注視しようとすると逃げていく,ピントを結ぼうとするとその被写界深度の中では輪郭を顕わしてこない何かなのです。

半年も雪に埋もれていた山のブナの巨木を見上げていました。ブナは天頂部から展葉が始まります。どのようにして大気の中にその枝葉を伸ばしていくのかと思いました。枝葉が伸びていくのは何によってその方向が決まっているのか。樹形図に表される対関係から伸びていく。その通り。しかしそれだけでは規則性に乗っかっているだけだと自分の中の誰かが言います。規則性という引力に引き込まれているだけで説明しようとしているのです。類似性や違いから分類して分類してさらに細かい網の目を作っていった果てに黒く塗りつぶされて不可視の領域に入り込んでしまう。そしてはたと気付けば次の規則への引力圏にいることになる。詩人が恐れているのはこの便利な引力です。例えばシナプスができたことで回路が開かれ,それと同時に取り残されていく,捨て去られていく組織(場所)があるはずです。その影に隠れて注視の領域から外れていった場所とは何か。

デリダがプラトンの「ティマイオス」から「コーラ」という不思議な物を取り出しました。以下「コーラ」というものが何を表現しようとしているのかをいろいろなものから引用してみます。
「コーラこそは、みずからを刻印するありとあらゆるものの記入の場を象るものなのだ」
「~である」という意味賦与を剥ぎ取ること」
「つまり、コーラとは「空き地」なのであり、全てを受け容れる「空白」、どんな生徒が座ることも許す名もない「座席」なのだ。」
そして指し示そうとすると,また引き戻され,こう警戒されます。「我々が警戒したいと思ってきた擬人論の危険性を増大させはしないだろうか?」二項対立で考えていてはその文脈にさらわれてしまう。つまり気を取られているうちに注視しなくなってうち捨てられていった「空き地」のこと。目的性が成立していない,または目的がはぎ取られた「場所」つまり「空き地」すべての存在を,どんな刻印をも可能とさせる受容体。

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目覚めたブナの林

言葉によって言葉の限界を超えていくことが吉増の目指しているものです。いいえ,全ての詩人は言葉によって自らの限界を超えていこうとしたのです。模倣,擬人化,アナロジー,コントラスト,文脈。すべては際立たせ,象(かたち)づくるものの総称です。ではフィルターを通しても顕在化してこないものとは・・・。
私たちにとって写真とは,何を写してきたのか。
世界の遠くの奥で何かが壊れ続けている音がしませんか。写真がただの紙くずに見えます。
「コーラ」とは実に映し出されることのない,まれに幻のように立ち顕われてはたちまちに消える,やわらかい場所です。
それを写したくてたまりません。それは詩人が辿り着くべき蜃気楼のような,天気の変わり目に訪れる一瞬のビジョンなのでしょう。


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ブナの木の下で

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ブナの木の下で

ぶれています。
いや,ぶらしています。
強い風の吹く日でした。
スローシャッターでぶらすのか。合成でぶらすのか。
手持ちでぶらすのか。

とにかく風の存在を入れたいと思いました。
どういう方法によるのか。
画面に動的な揺れをつくり出すことで時間や風を感じること。
一瞬ではなく時間の要素を画面に入れ込むこと。
そうしたことは可能だと思います。


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