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栗駒山きせつめぐり-春の林-

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展葉始まったブナの林

毎年栗駒山の春を確かめる場所は決まっている
ミズバショウ咲く残雪の湿原歩きから始める
そしてブナの林を巡る
ああ今年も来ることができてよかったといつも思う
雪解けが早い割には,ミズバショウは小さく,春はまさに,はじまったばかり。

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展葉始まったブナの林

陽が差すと,ブナの幹がかっと白く輝く
輝度差にして3絞り分もあろうか
まだ葉が半開きで,天井の空を覆い尽くしてはいないから,林に差し込む春の陽の光が実に眩しい


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櫻のしめくくり

いつも最後の見としている山のこの櫻は咲き始めたばかりだった


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栗駒山きせつめぐり-春の光-

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春の光-ミズバショウ-三枚の写真をHDR合成後,調整

折口信夫が「春(はる)」を「張る(はる)」と意味づけ,春の生命の爆発的な現象の意味に使ったことは納得感がある。外側から囲んで寒さや雨風から,柔らかくて弱い蕾がぱんぱんに膨らみ,弾けて,中身が飛び出す頃が「はる」なのである。ちなみに冬は「増ゆ」である。「春」を「張る」,「冬」を「増ゆ」と対応させることは,喋っていることばの「音(おん)」として,似ているもの同士を対応させる語源を探っていこうとする手法だろう。と同時に,「春」は「張る」という季節的な自然現象と対応させることで,納得感を見出そうとする。これは言語至上主義というか,発音された言葉の発せられる音に,すべての自然現象や運動などの意味が絡まり合いながら一挙に現れ出ていることを指し示している。万葉仮名は,言葉の一音一音の音に対応する漢字を当てはめたのだろうが,実際の処,それは同音を当てるという一つの対処の方法であって,それ以外の意味があってのことではなかったようだ。生活上,人は一つの音に一つの意味,一つの意味に一つの方法という繰り返しのやり方で生きてきたために,「音と意味と自然現象」という三つの意味が重層的に重なり合う局面についてまでは思いが届きかねていたのだろう。やがて,表面では言葉の音だけが残って,その奥にある語源的な意味は隠されて,時は経った。

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春の光-雪面に残された季節-

とすると,「ミズバショウ」は,「水」と「芭蕉のように大きくなる葉」と意味を探れば,その特徴がすぐ見いだせる。ところがそれは,単なる名付けた名前ということであって,自然現象とは嚙み合ってはいない。これは,名詞と動詞の違いに目を向けなさいということで,「ミズバショウ」は名詞,「春」「張る」は動詞扱いである。この動詞の用法に特に気を付けなさいということになる。


栗駒山きせつめぐり-春の湿原の花々-

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友だち

林に入ると,その年の春先の様子がすぐ分かる。
残雪の上に落ちた枝がどれくらいの量で,その落ちた枝の太さ,倒木の数や様子に少し気を付けて見てみるとよい。春先に林を往きすぎた嵐の規模や風の様子が分かる。今年の春は,例年より一週間以上早い様子で,既に林の沢沿いに残る雪も殆ど消えていた。さほど倒木も目立つほど多くなく,春先に嵐が吹きまくったという感じはあまりしなかった。自然が好きな人は,まず観察力を身に付けることが大切だとよく言われるが,毎年同じ時期に,同じ場所に通うと定点観察が出来て,林の様子,湿原,植物,花の付き方,生長の度合いなどを昨年とすぐ比べられる。昨年までに身に付いた観察力がそのまま使えるのである。無駄にここそこと忙しく歩きまわり,せわしく目を配る必要もなく,気分も落ち着いて観察できる。

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コバイケイソウの展葉 外の方から開いていく葉の頂点を辿って線を引いてみた

そこで今年歩いていてふと気付いたことを紹介してみたい。
私が行く湿原は,もう五月も中旬になると,密生したコバイケイソウが背丈以上に伸びてしまい,もう湿原の奥に足を延ばそうという気もしなくなる程である。
かわいいとは言えないが,葉が少しずつ開き始めた明るい緑のコバイケイソウをしみじみ見ると,その葉の何か規則的な重なりに気付いた。外の葉の方から開きつつあるそれぞれの葉の頂点を辿って線を引いてみた。すると中心に向かって美しい三角形ができた。
ここで,葉序がいくらか,葉の付き方はどうだとか,観察吟味してみる。と,言っても植物学者牧野万太郎だったら,的確に分類できるだろうが,こちらはただの素人なので,高が知れている。
ただ,展葉時では横に広がり,横に広がりきると,今度は垂直面(たて)に伸びていく。縦に伸びながら,螺旋状に葉が付いているのがはっきりとどれほどの開度なのかが分かる。太陽の光を効率的に葉で受け止めようとする。これは植物たちの生長の戦略だろう。タンポポだって,花が咲いたら今度は縦に伸びて背が高くなる。高い所から種を蒔いた方が,遠くに飛ぶ。ましてや他の植物より背が低ければ,日陰になって生長が途絶えて,不利となる。こんな風に考えながら,まんたろうのように植物を見ていくと,確かに興味深い。例えば,このコバイケイソウの葉の頂点で結んだ線を見ると三角形だが360度を黄金比の1.618で割ると222.5度となり,360-222.5=137.5度となります。多分このコバイケイソウは120度ずつで葉が付いていくだろうなと感じられます。従って葉の付き方は,1,2,3で螺旋状にずれて葉先が元の葉の向きに戻り,また1,2,3と,120度ずつずれて,また元の葉の向きに戻るという螺旋状の葉の付き方を繰り返します。なんだか難しくなってきたので,今日はこの辺でやめておきます。


栗駒山きせつめぐり-はるのおとつれ-

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栗駒山-はるのおとつれ-  昨日5月2日撮影

「おとつれ」とは何事だ
この場合「おとずれ」だろう,漢字で書くと「訪れ」だろう,と言われそうだが
あえて「おとずれ」という意味で「おとつれ」なのです
「おとつれ」は,「訪(おとず)れ」であり,「おと(音)つれ(連れ)」でもあり,「おとづれ」でもあるのです。
例年よりブナの展葉も一週間は早いかと感じる,今年の湿原を歩くと,春の訪れは,やはりもう後ろ姿を見る程の早さです。
妙に細々と伸びたミズバショウやリュウキンカ,ショウジョウバカマ,コバイケイソウ,キクザクイチゲ達の春のメンバーが勢揃いです。
「おとつれ」の春は,残った雪の上を風でからからと葉が走る音であり,静まり返った湿原に低く立てる雪解けの音であり,もう我慢できなくなった雪の重みで地面に押しつけられた若い枝が,しなやかにざっと雪を勢いよくはねつけてこの世に顔を出す音でもあります。ひろごりを得たばかりのブナの柔毛(にこげ)を着けた柔らかい葉がかすかに擦れ合う音でもあります。また,朽ちた枝がもう役割を終えて雪の上に落ちる音でもあります。鳥たちも鳴きますが,春の音に満ちたブナの林は,こんなさまざまな音で賑やかです。
だから「おと(音)つれ(連れ)」,「おとつれ」なのです。


ブナ林を彷徨う2-栗駒山-

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気になる一本のブナ 縦位置

斎藤茂吉「短歌写生の説」を読む
短歌における「写生」は,つくづく写真の考え方と同じだと思った
では写真での構図の取り方は,短歌では歌われた題材の配置(第一句~第四句)となるのか
そこら辺が問題だ

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気になる一本のブナ 横位置

「写生」という考え方を突き詰めていくと,風景論-写真論-短歌論-絵画論の蝶番となるものが見えてくるのだろうか