栗駒山に沈む太陽

毛越寺庭園 065s
若神子社(わかみこ社)幣束  中尊寺の寺領だった骨寺村の田んぼの中にぽつりと立つ社です

先日,お彼岸の中日に栗駒山の頂上に太陽が沈む,ダイヤモンド栗駒が見られる場所はどこかとカシミールを使って調べていた。答えは意外でした。
「達谷の窟(たっこくのいわや)」と出たのでした。
同時に達谷の窟の背後にある世界遺産の平泉の周到な立地に,はっと気付かされた思いがしました。

達谷の岩屋
2017.3.20の太陽が沈む栗駒山(達谷の窟から見て)

「達谷の窟(たっこくのいわや)」は重要な土地で,奥州征伐を果たした源頼朝も立ち寄っていることが「吾妻鏡」にも載っています。坂上田村麻呂の鬼征伐伝説の舞台がここです。

達谷の窟 042-2s

平泉の南側を東西に区切る太田川を遡ると,この達谷の窟にたどり着きます。達谷西光寺達谷窟毘沙門堂と言われ,北を守る毘沙門天が本尊となっています。天台宗です。かつては中尊寺も天台宗で,北上川流域の天台宗の寺は黄金時代を築いた時代が偲ばれます。
この地にちなんで鬼伝説があるのです。
この地に悪路王・赤頭・高丸という蝦夷がいました。坂上田村麻呂を征夷大将軍に任じ、蝦夷征伐の勅令を下します。延暦20年(801年)、坂上田村麻呂は窟に籠る悪路王等と戦い、激戦の上これを打ち破り首を刎ね、蝦夷を平定しました。
そしてこの地に毘沙門堂を建てたのです。この辺りの経緯を知りたい人は高橋克彦のアテルイの話「火怨 北の燿星アテルイ」(講談社文庫)を読むと分かりやすいです。

毛越寺庭園 148s
毘沙門堂の隣にある磨崖仏  目鼻とか分かりますか。

坂上田村麻呂伝説と鬼退治,そして修正会(追儺ついな-鬼やらい)が密接に結びついているのです。
「田村三代記」に載る達谷の窟を舞台にした辺りを内藤正敏氏の訳で引き出してみましょう。第四之巻です。
田村丸は都に着くとすぐ参内し,一部始終(高丸を討ち取ったこと)を奏聞した。帝は御感浅からず,田村の高名,立鳥帽子の神通に,言葉も述べられずとの宣旨だった。
翌年四月,勅使が来て参内すると,奥州桐山の絶頂に大嶽丸という鬼神が現われた。このままにしておくと日本の人種が全滅するという加茂の神勅が出た。急ぎ奥州へ下って大嶽丸を征伐せよ,という宣旨が下った。
田村丸は家来の霞野忠太を連れ,王城鎮守の稲荷,祇園,加茂,春日,貴船,男山八幡,特別に清水の観世音に深く祈り,吉日を選んで住吉,四社を拝んで出発した。
田村主従二人は商人の姿に身をやつし,逢坂の関を越え,(中略)古川,一ノ迫,二ノ迫,一ノ関,二ノ関を通って磐井川近くの達谷の麓にたどり着いた。(ここで四之巻は終わり)
立鳥帽子は眷属共を神通の縄をかけて,大嶽丸が留守の間に達谷の窟の門を開けて,田村丸を奥へと案内した。そこへ出かけていた大嶽丸が帰ってきた。大嶽丸はすぐさま桐山(岩手山か)に籠り,都へ上り帝を微塵にする神通力を身に付けようとしていた。大嶽丸によって神通の縄を解かれた眷属共は田村麻呂の四振の剣で討ち取られた。大嶽丸は桐山から箟嶽山きりんの窟に逃げ込んだ。四振の剣は隠れていた大嶽丸の身体を四つに切り裂いた。首は「鬼首(おにこうべ)」に飛んだ。身体は佐沼の郷に守らせておかせた。後に地名も大嶽とし観音堂を建立した。

毛越寺庭園 352-2s
中尊寺の寺領 骨寺村にある若神子社

そこで早速達谷の窟に行って栗駒山がどう見えるか,確かめてみました。
しかし,どこからも栗駒山を見ることができませんでした。不可能な夢になったのです。

しかし,栗駒山周辺と平泉と古代の物語が不思議に照合することを感じました。地形地勢に埋もれた大地の原理が顔を出した思いです。ダイヤモンド栗駒を辿ると新しい発見が見つかりそうです。



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ご来迎

栗駒山1014 248-2gss
名取老女が見た阿弥陀様はブロッケン現象ではなかったのか

宮城県には熊野信仰と関連して「名取老女」という話があります。

遠い昔。
陸奥の国,奥州名取郡に名取老女というお年寄りの女の人が住んでおりました。
名取老女は,大変信心深く,毎年,遠い熊野まで詣でることを欠かしませんでした。
その年も連れと共に熊野の那智の宮までやって来ました。すると山あいの方から紫色の雲が湧き上がり,その雲の上に忽然と阿弥陀如来が現れたのです。

この阿弥陀如来を見た名取老女の作った歌が,「熊野御歌」として,平安末期(1125)成立の藤原清輔の歌学書「袋草子」に出ています。
道遠し年もやうやうおひにけり思いおこせよ我も忘れし
是陸奥ノ国ヨリ毎年参詣シケル女ノ年老イ後夢ニ見歌也

名取老女は,歌詠みとしても有名だったのかもしれません。それで時の人となり,その時の歌が取りあげられたのかもしれません。

更にこの出来事は,大きくなり,動かぬ伝説として,世阿弥の謡「護法」の中に「名取老女」として出て来ることになります。そしてその話を基に熊野権現影向図が描かれるようになったといわれています。

熊野信仰 002s熊野権現影向図 京都 檀王法林寺蔵,元徳元年(1329)

山岳宗教では,ご来迎と言って阿弥陀様に出会う事が何よりの最高の体験とされます。そしてその徴(しるし)としてブロッケン現象が上げられます。朝日でも夕陽でも起きますが特に立山では朝日で阿弥陀様に出会うブロッケン現象が大切と思われています。
苦心惨憺してお参りをする「名取老女」が,日が出て霧渡るという気象条件の中で,偶然に西方浄土の西に特別な色の雲が沸き立った彼方に阿弥陀如来が来迎する最高の幸せに出会ったことはブロッケン現象を介してではなかったのかと思います。


今日の写真は栗駒山で見たブロッケンです。2012.10.14のことでした。


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栗駒ダイヤモンドをどこから見るか

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峠を越えて  陸羽東線

昨日降った雪で宮城県鳴子温泉の積雪は7cmです。陸羽東線沿線は雪景色に変わったでしょう。

さて今日は鉄道とは離れ,ダイヤモンド富士ならぬダイヤモンド栗駒の話です。
1月4日の「初日の出を見て」という記事に,春分,秋分の日に沈む太陽を見ると,紫の雲たなびいてそこから阿弥陀如来が立ち現れるという日想観の信仰を紹介しました。その信仰を裏付けるように山越阿弥陀来迎図という絵がたくさん描かれています。
阿弥陀様がお迎えにきていただけるというありがたさ以上の幸せはなかったのです。

このような考え方で春分,秋分の日の太陽が栗駒山から昇るダイヤモンド栗駒を見たり,栗駒山に沈む夕陽を拝むことはこれとない幸せなことと感じます。
では実際にダイヤモンド栗駒はいつ,どこから,どのように見ることができるのでしょうか。カシミールを使って調べてみました。

室根山から見たお彼岸の日没
お彼岸の日に室根山から見た栗駒山に沈む太陽

これは実際に今年2017年の3月20日のお彼岸の日に栗駒山に沈む太陽を室根山から見たときです。お彼岸の日の太陽は室根山からではダイヤモンド栗駒にはならないようです。室根山から見てダイヤモンド栗駒になるのは日にちが少し前のようです。

室根山から見たダイヤモンド栗駒317
ダイヤモンド栗駒が室根山から見えるのはお彼岸の3日前の3月17日です。

これはあくまで場所を室根山から見てという事に限定したものです。お彼岸の日には室根山よりももっと南の位置であるならば丁度ダイヤモンド栗駒になるはずです。ではお彼岸の日の太陽が栗駒山頂上に沈んで,ダイヤモンド栗駒となるのはどこでしょうか。調べていくとある場所にたどり着きました。不思議な一致を発見しました。
「達谷の窟(たっこくのいわや)」なのです。
達谷の岩屋
今年お彼岸の日にダイヤモンド栗駒になるのを見る場所はここでした。

ここまで辿りついたら平泉という場所がどれだけ条件を兼ね備えた土地であったかが分かります。平泉周辺の地図を見てみましょう。
平泉と達谷の窟
ダイヤモンド栗駒の見える達谷の窟からの延長上に平泉の都があります。

達谷の窟は坂上の田村麻呂が悪路王,赤頭,高丸という蝦夷を征伐した地です。そしてこの出来事は鬼伝説となり鬼を平定する修正会が現在でも執り行われていることは実に興味深いことです。この話は「田村三代記」という素晴らしい物語として伝えられています。

お彼岸の太陽が栗駒山頂上に沈むことを達谷の窟から見ることができること。その達谷の窟は歴史上の要所だった場所。そしてその背後に平泉があること。
方位と太陽の運行と地形とは平泉の都市発祥の基盤となっていたことでしょう。興味は尽きません。


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伊豆沼の鯉料理

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伊豆沼の水田を往く上り電車バックに栗駒山を望む

鉄道写真を撮るようになり,鉄道が敷かれた時代を感じさせる文章にも興味を持つようになりました。
私自身,伊豆沼の所に住んでいて,やはり宮城県辺りの紀行文に目を通したいと思っています。

「随鑾紀程(ずいらんきてい 1884)」という本の「巻2」は仙台を出て岩手県に入る記述が載っています。この本は明治14年,明治天皇が北海道巡幸に随行した際に書かれたものです。
そこに伊豆沼で穫れた鯉の料理が美味であったと出てくる。川田 甕江(かわだおうこう, 1830-1896)という人が書いたものです。

鯉料理伊豆沼
「随鑾紀程(ずいらんきてい)」巻2 赤い線が伊豆沼の記述

大体を訳すると
古川から北へ行くと,だんだんと粗末な家々になり,出される食事も口に合わなくなってきたが,その中で出た鯉料理はまた格別においしく,どこで獲れた鯉かと尋ねるとよく分からない。その話す言葉では分からないので書いてもらうと「伊豆沼」だと分かった。なんだかおかしかった。
となるのでしょう。

電車と伊豆沼 018s
伊豆沼を通る東北本線

明治時代の様子をよく伝えています。しかしこんな土地だった所に鉄道を延々と敷設するという大事業そのものがすごいことであったと思われます。東北本線は明治16年7月に上野-熊谷で開通。青森まで開通するのは明治24年です。明治天皇が来て10年後の鉄道開通ということになります。



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百姓の力

栗駒田んぼの見回り-2gs
満月の夜の田んぼの見回り(5月22日)

田植えが終わった田んぼを見ると,本当にきれいだなあと思います。
畦の直線,水の管理が行き届いて濁りのない水,美しく刈り揃えた畦道,きれいに植えられた苗。芸術品のように見える田んぼがあります。それを昔から美田と言いました。

そうした田んぼの美しさは世界でも水の国日本と自慢できることでしょう。
日本産のトキが絶滅して中国から譲り受けてから放鳥される時に,地元の農家の人は稲を倒したりしないか心配だと言いました。その発言について私は最初「トキはもう絶滅して最後のチャンスなんだから稲が倒される心配よりも・・・。」と正直思ったのでした。しかし,日本の隅々まで広がる美しい田んぼを見ると,農家の人がそう言ったことの心情が分かるような気がするのです。米をただ作っているのではないのです。きれいに作る,おいしく作る,丹精込めて作ることが稲作の最初から最後まで行き渡っているいるのです。まさに百姓のプライドを賭けて米を作っているのです。苗代作りや草刈りから,毎日の水の管理まで細心の注意をはらいおいしい米を作る。適当なやり方では米は育たないのです。そうしたことを知っているから百姓はどこまでも田んぼの隅々まで美しくきれいに作ることを信条としているのです。

棚田-2gs
2014年に撮った上の写真と同じ田んぼ

宮本常一の「忘れられた日本人」の中の「土佐源氏」は一旦読んだら忘れられないものですね。その「土佐源氏」の主人公は馬喰(ばくろう)をしています。つまり馬を売ったり,買ったりする職業です。その主人公が何かにつけ,百姓の素晴らしさを言うのです。どんなにやせ細った弱い馬でも,性格の悪い馬でも,百姓に育ててもらうとほんとに良い馬となって帰ってくる。百姓は素晴らしいと言うわけです。百姓は生き物を大切にして家族同然にして育て上げます。病気がちの馬にはいい物を食べさせ,運動をさせ,体をきれいにして健康な馬にします。性格の悪い暴れ馬にも愛情を注ぎ,やさしい馬に育て上げます。そんな百姓の素晴らしさを何回か言うシーンがあります。

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栗駒 厳美町祭畤(まつるべ)地区 新緑に包まれる田んぼ

稲作の始め以来,連綿として稲作は日本の主産業として続けられてきました。人々は未開の土地を湿地を開墾し干拓し,稲作や美しい野菜や果樹を育ててきました。日本人の美意識に基づく稲作は芸術であり,その質は世界一と言えます。それなのに効率が悪いからTPPでは自由化ですか。緑成す美田を見てほしいと思います。

栗駒満月 058-2s
栗駒滝ノ原地区の美しい田んぼ

よく日本史で江戸時代の職業別人口を教えられました。そして農業が圧倒的で,比率からすると農業80%,工業4%,商業7%,雑業9%,雇い人2%(古島敏雄『産業史』明治初年から五年)となっています。
本当にこんなに農家が多かったのでしょうか。歴史学者の網野善彦氏はこの農家は果樹,蚕業,絹,大豆,堅果等も農業に入れている事実があり,みな米に換算していることからくるもので正確ではないと言います。百姓は実は米作りだけではなく,野菜,畜産,果樹,運輸等,多岐にわたる生産活動で多角的に最新情報を得て,新しい作物なども生産していたのです。ですから百の面を持つ何でも知っている農家が百姓なのです。
また,全人口の80%にも及ぶという農業従事者は土地持ちである者は農業と規定していたのではないかと思わせる資料もあります。私が二度ほど書いている「修験の身分」という資料を見てみると,修験者が「お前は土地もあって畑にして耕しているから百姓だ」と代官所で言われるシーンがあるのです。とにかく少しでも土地があって,そこで何か育てていれば区分は百姓扱いにしていたことが伺えます。

本当はここで一揆のことに触れ,百姓の心意気を書きたいのですが,長くなるので別の機会に改めて書きます。

読んでいただきありがとうございました。
また今日は鉄道写真ではなかったことをご了承下さい。



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