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追悼 岩手宮城内陸地震から13年-あの夜,カッコウは・・・-

地震2日前震源地の天の川-6s
地震2日前震源地の天の川 2008年6月13日午前0時過ぎ

わたしは地震前日に当たる6月12日深夜,写真は13日に入った0時過ぎ,岩手宮城内陸地震の震源地の近くでこの天の川の写真を撮っていた。
静かな晴れた夜だった。
まさか次の日にこの地点の近くを震源地とした大地震が起きるとは夢にも思わなかった。もう13年も経つが,よくよくこの写真を見ながら当時の夜を思い出してみる。
2008年6月12日は木曜日だった。梅雨時の晴れ間の空を待っていたわたしはがよく見える栗駒山を選んだ。真湯温泉から入り,須川温泉に向かう岳道路は終日ゲートが開く6月に入っていた。もう少しで須川温泉へ数㎞という景色が開けた場所を選んだ。当日の月齢8.6の上弦過ぎの月はもう沈もうとしている。0時を過ぎている。極軸をなんとか合わせて撮影している間は残雪で遊んでいた。6月だがもう標高は1000mを超えているので道路脇には雪は多く残っている。ちなみにこの2008年という年はこの時期,写真にあるように明るい-2.6等まで光度を上げた木天の川の近くにあるので特徴的である。この木も小一時間で南中しようとしていた。
さてこうした夜。何か地震を予感させることがあっただろうか。
例えば異音,地響き,発光,鳥の声,静寂,けものの動きや沢の水音・・・。全部思い出してみる・・・。
地震の予兆と思われる現象は一切なかったのです。現地では薄明までいましたから4~5時間はいました。一切なかったのです。もう一度今日この記事を書くためによく思い出してみました。そしてとうとうあることに気付きました。それは今までの6月に栗駒山付近で夜の撮影をしていることと比べて見たときにあの夜にだけなかったことに気付きました。そしてはっとしました。

「カッコウの鳴き声が一切なかったのです。」
の写真を撮る人は分かると思いますが,例えば桜が咲く頃の夜の撮影ではフクロウの声と一緒です。そして6月のこの時期ですとカッコウなのです。夜夜中のカッコウの声は静けさの中でよく響きます。そのカッコウの声がない夜だったんです。
カッコウが鳴かない夜だってあるだろうよ。と普通思いますよね。しかし,無風でよく晴れた夜,撮影をしていると割合カッコウの声を耳にしてきました。その違いだけでした。だからと言ってカッコウが鳴かないからといって地震が起きるとか何かの前触れだとも言えません。何かいつもと違うことがが「ある」という事だけが大切なことではないと思います。むしろ「ない」ということも大切なのです。この時期に大体はあったことが今夜はない。「無」であることを前兆と捉えることは難しいことです。しかし,よくその場所と季節の特色を知っている人であれば可能だと思います。
特に忙しいこの現代に「ない」ことへの気付きまで辿り着くには静かに考える時間も必要でしょう。しかしある程度可能だと思われます。観察力ある人々は実は行っています。メモを取り,家に帰るとそのメモからノートに清書する行為です。串田孫一の方法はまさにそうです。宮沢賢治の方法も瞬間的な思考のメモから出てきました。わたしはとても彼らまでは行きませんが,手本にしてメモを取るようにしています。この記事も今回そうした当時の自分のメモから思い起こして,カッコウの鳴き声に辿り着きました。
誰か,カッコウが夜鳴く習性についてご存じの方がいたら,教えて下さい。
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七夕の夜は更けて

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姿を現わした天の川 栗駒山 昨夜

昨日は旧暦の七夕
織り姫と彦星は晴れだした天の川を渡り
無事に逢瀬を重ねたのでした


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栗駒山秋田湯沢側

新・遠野物語―栗駒山の幻の名―

栗駒の星 065-2gs
栗駒山天狗岩

ある本に栗駒山に満徳成就寺という幻の寺があったと書いてあった。
安永風土記の平泉村毛越寺書出に金鶏東「金峯社跡」とあり,すでに安永4(1775)には神社跡になっていると書いてある。本尊は蔵王権現,別当は金剛院鳥屋ヶ崎坊となっている。
この金峯社の説明に次のようにある。山伏としての修行を積んだ後,「其後満徳山須川嶽の最上に登り修行成就を表示仕候由満徳山一名は烏帽子形山とも申候・・・」山伏が修行を終えた後,お祝いに栗駒山に登り,頂上で修行完了を報告したので須川嶽つまり栗駒山が満徳山と言われている時代があったということです。このように栗駒山頂上で晴れて山伏になった者は,奥羽二国(仙台藩出羽国)の山伏1萬余人に及ぶ。と書いてあります。

この栗駒山の中腹,「今は山の八分目程に。大石三つあり(昔は二つだったらしいが大地震で三つになったらしい)この大石二つを大日石と言う。其故に山を大日嶽と云るとぞ。」栗駒山を大日嶽というのは秋田側の栗駒山の呼び名です。そして山の下に成就寺という天台宗の寺があったと言います。

栗駒の星 068-2gs
天狗岩

まとめます。
栗駒山を満徳山と言った。
山の八合目付近大岩三つ(天狗岩のことでしょう)

多くの山伏達が声を張り上げて栗駒山の頂上で一生を仏に捧げる誓いを立てる様子が目に浮かびます。

遠流志別石(おるしわけいしの)神社と於呂閇志(おろへし)神社2

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ネオワイズ彗 さようなら

まさか彗を一回しか見ていないのに終わりと言うことはないだろうなと雨続きの空を見上げてはため息をついています
は毎日どんどん暗くなっていきます。今日辺りは5等近くまで減光していると思います。あー。ちょっとでいいから晴れて下さい。

さて「遠流志別石(おるしわけいしの)神社と於呂閇志(おろへし)神社」と題しての2回目です。
「遠流志別石(おるしわけいしの)神社」と声に出してみます。次に「於呂閇志(おろへし)神社」と声に出してみます。何だか似ています。関係ありそうだと思って書いてみようと思ったわけです。

おるしわけいし
おろへし


司東真雄氏は『東北古代探訪』において「おろへし」は元々は「おろしへ」ではないかと考えました。関連して谷川健一氏は遠流志別石(おるしわけいし)の「石(いし)」が「君(きみ)」を誤って写した誤記ではないかと考えました。つまり「おろしへの君」という意味,「おろしべ地区の村長さん」と解することができると言うのです。とすると

おるしわけきみ
おろしへ


と,無理がありますが,限りなく二つは同じ音感に近づいていきます。
しかしこの二つを限りなく同じにしたいという引力が働いているからです。それはまず「遠流志別石(おるしわけいしの)神社と於呂閇志(おろへし)神社」,両方が「延喜式」式内社に当たっているからです。その神社を抜き出してみます。

栗原郡 7座(大1座・小6座)
表刀神社
志波姫神社(名神大)
雄鋭神社
駒形根神社
和我神社
香取御児神社
遠流志別石神社(貞)


胆沢郡 7座(並小)
磐神社
駒形神社
和我叡登挙神社(貞)
石手堰神社
胆沢川神社
止止井神社
於呂閉志神社


延喜式に載る重要な神社二つの成立に何か根拠となるものがあるのではないかと考えたくなります。
その根拠が「続日本紀」巻七の次の記述です。

続日本紀巻七たて

霊亀元年(715),陸奥蝦夷第三等 邑良志別君(おるしわけのきみ)宇蘇弥奈(うそみな)という人が狄(えぞ)の襲撃のために親族は死に,子孫は数人しか残っていない。香阿村に於いて郡家を建てて編戸(へんこ)の民となりこの先安心して暮らしたいと訴え願い出て,許可されたのでした。

「おるしわけいし」と「おろへし」はここに出てきた「邑良志別君(おるしわけのきみ)」宇蘇弥奈のことではないだろうかと考えているからです。

おるしわけきみ
おろしへ
そして,おるしわけのきみ


漢字にして並べると
遠流志別石(おるしわけいしの)
於呂閇志(おろへし)
邑良志別君(おるしわけのきみ)


同じ名前らしき関係する神社を地図上にプロットしていくと前の記事の地図になります。

おるしべ神社のあるところ2
おるへし,またはおるしわけいし神社のあるところ

これによって新しく移り住んだという「香阿村」とはどの辺にあるのかが推定できるでしょうか。
難しいですね。

ちなみに遠流志別石(おるしわけいしの)神社は現在登米市石越町にある遠流志別石(おるしわけいしの)神社と言われています。遠流志別(おるしわけ)という意味はアイヌ語で大きな川のほとりという意味があるのだそうです。私はアイヌ語はよく分からないので音感を頼りにメモしてみました。

奥羽観蹟聞老志巻之十 胆沢郡より「於呂閉志神社」を抜き出してみると
其七也
封内名蹟志曰。如今無称於呂閉志神社地。郷人曰。有呼猿山大明神者。其地曰下颪江(オロシエ)訓之曰於呂志閉。其峯巒樹林爵々古木森々。蓋於呂閉志之訓与下颪江。相近。然則郷人誤其訓来欠。甞疑其社号正下颪江。而郷説慣来伝言。其知文字者。因人易暁。而写称於呂閉志欠。神名帳伝写之時。却顛倒古来之訓者不可疑。言於呂閉志則言語順。而訓読平談也言下颪江則言語渋。而訓読難通也。古来郷人慣聞伝襲。而自然成方言者也。決神名伝写之誤■。以下颪江。而当正説矣。自之推之則猿山神社乃基本社也。

今の地名,「下颪江(オロシエ)」は「於呂閉志」から来たのでしょうね。読んで見ると「シエとヘシ」と逆転しています。この読みの逆転に司東真雄氏は目を付けたのでしょう。



昨日から日本ブログ村ネイチャーフォトランキングに参加することをやめました。
何位とかいらないことに悩まされるのもいやだし,もう十年以上やってきましたが方向性が合わないです。
自分の力でやります。

映画「もち」を観た

映画もち
映画「もち」のポスター 背景は私の撮影した本寺の冬の風景

映画「もち」を観た
とてもよかった

映画の舞台は一関市本寺地区
ここは世界遺産となった千年以上前の本寺(骨寺)の風景がある
そして餅はユネスコ文化遺産に登録された「もち本膳」のある一関市の伝統文化

閉校となる平成30年度の最後の本寺中学校の皆さんと家族,地区の人々が主人公です
亡くなったおばあさんのことを「いつも思い出そうと努力することが忘れないでいることだ」と言うおじいさん
学校もやがてなくなり,友だちもいなくなる。そんなことを考えざるを得ないユナはおじいさんに言う
「努力しないと忘れてしまうものなんて、なんだか本物じゃないみたい」

本当はユナの言うとおりなのかも知れない
しかし,人はドウシヨウモナク忘れていくのである
忘れ去っていくことがいつも生きることの隣にいる

忘れたくない
(が,)思い出せない
そのあいだに
わたしたちはいる

すてきなコピーだと思う

千年以上も変わらない風景の中に生きる本寺の人々
変わらないで生きてきたという誇りを抱いて卒業生の皆さんも生きていってほしいと願った



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