FC2ブログ

七夕の夜は更けて

DSC_1659-2gs.jpg
姿を現わした天の川 栗駒山 昨夜

昨日は旧暦の七夕
織り姫と彦星は晴れだした天の川を渡り
無事に逢瀬を重ねたのでした


DSC_1698-2s.jpg
栗駒山秋田湯沢側
スポンサーサイト



新・遠野物語―栗駒山の幻の名―

栗駒の星 065-2gs
栗駒山天狗岩

ある本に栗駒山に満徳成就寺という幻の寺があったと書いてあった。
安永風土記の平泉村毛越寺書出に金鶏東「金峯社跡」とあり,すでに安永4(1775)には神社跡になっていると書いてある。本尊は蔵王権現,別当は金剛院鳥屋ヶ崎坊となっている。
この金峯社の説明に次のようにある。山伏としての修行を積んだ後,「其後満徳山須川嶽の最上に登り修行成就を表示仕候由満徳山一名は烏帽子形山とも申候・・・」山伏が修行を終えた後,お祝いに栗駒山に登り,頂上で修行完了を報告したので須川嶽つまり栗駒山が満徳山と言われている時代があったということです。このように栗駒山頂上で晴れて山伏になった者は,奥羽二国(仙台藩出羽国)の山伏1萬余人に及ぶ。と書いてあります。

この栗駒山の中腹,「今は山の八分目程に。大石三つあり(昔は二つだったらしいが大地震で三つになったらしい)この大石二つを大日石と言う。其故に山を大日嶽と云るとぞ。」栗駒山を大日嶽というのは秋田側の栗駒山の呼び名です。そして山の下に成就寺という天台宗の寺があったと言います。

栗駒の星 068-2gs
天狗岩

まとめます。
栗駒山を満徳山と言った。
山の八合目付近大岩三つ(天狗岩のことでしょう)

多くの山伏達が声を張り上げて栗駒山の頂上で一生を仏に捧げる誓いを立てる様子が目に浮かびます。

遠流志別石(おるしわけいしの)神社と於呂閇志(おろへし)神社2

DSC_9485-2ト
ネオワイズ彗 さようなら

まさか彗を一回しか見ていないのに終わりと言うことはないだろうなと雨続きの空を見上げてはため息をついています
は毎日どんどん暗くなっていきます。今日辺りは5等近くまで減光していると思います。あー。ちょっとでいいから晴れて下さい。

さて「遠流志別石(おるしわけいしの)神社と於呂閇志(おろへし)神社」と題しての2回目です。
「遠流志別石(おるしわけいしの)神社」と声に出してみます。次に「於呂閇志(おろへし)神社」と声に出してみます。何だか似ています。関係ありそうだと思って書いてみようと思ったわけです。

おるしわけいし
おろへし


司東真雄氏は『東北古代探訪』において「おろへし」は元々は「おろしへ」ではないかと考えました。関連して谷川健一氏は遠流志別石(おるしわけいし)の「石(いし)」が「君(きみ)」を誤って写した誤記ではないかと考えました。つまり「おろしへの君」という意味,「おろしべ地区の村長さん」と解することができると言うのです。とすると

おるしわけきみ
おろしへ


と,無理がありますが,限りなく二つは同じ音感に近づいていきます。
しかしこの二つを限りなく同じにしたいという引力が働いているからです。それはまず「遠流志別石(おるしわけいしの)神社と於呂閇志(おろへし)神社」,両方が「延喜式」式内社に当たっているからです。その神社を抜き出してみます。

栗原郡 7座(大1座・小6座)
表刀神社
志波姫神社(名神大)
雄鋭神社
駒形根神社
和我神社
香取御児神社
遠流志別石神社(貞)


胆沢郡 7座(並小)
磐神社
駒形神社
和我叡登挙神社(貞)
石手堰神社
胆沢川神社
止止井神社
於呂閉志神社


延喜式に載る重要な神社二つの成立に何か根拠となるものがあるのではないかと考えたくなります。
その根拠が「続日本紀」巻七の次の記述です。

続日本紀巻七たて

霊亀元年(715),陸奥蝦夷第三等 邑良志別君(おるしわけのきみ)宇蘇弥奈(うそみな)という人が狄(えぞ)の襲撃のために親族は死に,子孫は数人しか残っていない。香阿村に於いて郡家を建てて編戸(へんこ)の民となりこの先安心して暮らしたいと訴え願い出て,許可されたのでした。

「おるしわけいし」と「おろへし」はここに出てきた「邑良志別君(おるしわけのきみ)」宇蘇弥奈のことではないだろうかと考えているからです。

おるしわけきみ
おろしへ
そして,おるしわけのきみ


漢字にして並べると
遠流志別石(おるしわけいしの)
於呂閇志(おろへし)
邑良志別君(おるしわけのきみ)


同じ名前らしき関係する神社を地図上にプロットしていくと前の記事の地図になります。

おるしべ神社のあるところ2
おるへし,またはおるしわけいし神社のあるところ

これによって新しく移り住んだという「香阿村」とはどの辺にあるのかが推定できるでしょうか。
難しいですね。

ちなみに遠流志別石(おるしわけいしの)神社は現在登米市石越町にある遠流志別石(おるしわけいしの)神社と言われています。遠流志別(おるしわけ)という意味はアイヌ語で大きな川のほとりという意味があるのだそうです。私はアイヌ語はよく分からないので音感を頼りにメモしてみました。

奥羽観蹟聞老志巻之十 胆沢郡より「於呂閉志神社」を抜き出してみると
其七也
封内名蹟志曰。如今無称於呂閉志神社地。郷人曰。有呼猿山大明神者。其地曰下颪江(オロシエ)訓之曰於呂志閉。其峯巒樹林爵々古木森々。蓋於呂閉志之訓与下颪江。相近。然則郷人誤其訓来欠。甞疑其社号正下颪江。而郷説慣来伝言。其知文字者。因人易暁。而写称於呂閉志欠。神名帳伝写之時。却顛倒古来之訓者不可疑。言於呂閉志則言語順。而訓読平談也言下颪江則言語渋。而訓読難通也。古来郷人慣聞伝襲。而自然成方言者也。決神名伝写之誤■。以下颪江。而当正説矣。自之推之則猿山神社乃基本社也。

今の地名,「下颪江(オロシエ)」は「於呂閉志」から来たのでしょうね。読んで見ると「シエとヘシ」と逆転しています。この読みの逆転に司東真雄氏は目を付けたのでしょう。



昨日から日本ブログ村ネイチャーフォトランキングに参加することをやめました。
何位とかいらないことに悩まされるのもいやだし,もう十年以上やってきましたが方向性が合わないです。
自分の力でやります。

映画「もち」を観た

映画もち
映画「もち」のポスター 背景は私の撮影した本寺の冬の風景

映画「もち」を観た
とてもよかった

映画の舞台は一関市本寺地区
ここは世界遺産となった千年以上前の本寺(骨寺)の風景がある
そして餅はユネスコ文化遺産に登録された「もち本膳」のある一関市の伝統文化

閉校となる平成30年度の最後の本寺中学校の皆さんと家族,地区の人々が主人公です
亡くなったおばあさんのことを「いつも思い出そうと努力することが忘れないでいることだ」と言うおじいさん
学校もやがてなくなり,友だちもいなくなる。そんなことを考えざるを得ないユナはおじいさんに言う
「努力しないと忘れてしまうものなんて、なんだか本物じゃないみたい」

本当はユナの言うとおりなのかも知れない
しかし,人はドウシヨウモナク忘れていくのである
忘れ去っていくことがいつも生きることの隣にいる

忘れたくない
(が,)思い出せない
そのあいだに
わたしたちはいる

すてきなコピーだと思う

千年以上も変わらない風景の中に生きる本寺の人々
変わらないで生きてきたという誇りを抱いて卒業生の皆さんも生きていってほしいと願った



にほんブログ村 写真ブログ ネイチャーフォトへ
にほんブログ村

栗駒山に沈む太陽

毛越寺庭園 065s
若神子社(わかみこ社)幣束  中尊寺の寺領だった骨寺村の田んぼの中にぽつりと立つ社です

先日,お彼岸の中日に栗駒山の頂上に太陽が沈む,ダイヤモンド栗駒が見られる場所はどこかとカシミールを使って調べていた。答えは意外でした。
「達谷の窟(たっこくのいわや)」と出たのでした。
同時に達谷の窟の背後にある世界遺産の平泉の周到な立地に,はっと気付かされた思いがしました。

達谷の岩屋
2017.3.20の太陽が沈む栗駒山(達谷の窟から見て)

「達谷の窟(たっこくのいわや)」は重要な土地で,奥州征伐を果たした源頼朝も立ち寄っていることが「吾妻鏡」にも載っています。坂上田村麻呂の鬼征伐伝説の舞台がここです。

達谷の窟 042-2s

平泉の南側を東西に区切る太田川を遡ると,この達谷の窟にたどり着きます。達谷西光寺達谷窟毘沙門堂と言われ,北を守る毘沙門天が本尊となっています。天台宗です。かつては中尊寺も天台宗で,北上川流域の天台宗の寺は黄金時代を築いた時代が偲ばれます。
この地にちなんで鬼伝説があるのです。
この地に悪路王・赤頭・高丸という蝦夷がいました。坂上田村麻呂を征夷大将軍に任じ、蝦夷征伐の勅令を下します。延暦20年(801年)、坂上田村麻呂は窟に籠る悪路王等と戦い、激戦の上これを打ち破り首を刎ね、蝦夷を平定しました。
そしてこの地に毘沙門堂を建てたのです。この辺りの経緯を知りたい人は高橋克彦のアテルイの話「火怨 北の燿星アテルイ」(講談社文庫)を読むと分かりやすいです。

毛越寺庭園 148s
毘沙門堂の隣にある磨崖仏  目鼻とか分かりますか。

坂上田村麻呂伝説と鬼退治,そして修正会(追儺ついな-鬼やらい)が密接に結びついているのです。
「田村三代記」に載る達谷の窟を舞台にした辺りを内藤正敏氏の訳で引き出してみましょう。第四之巻です。
田村丸は都に着くとすぐ参内し,一部始終(高丸を討ち取ったこと)を奏聞した。帝は御感浅からず,田村の高名,立鳥帽子の神通に,言葉も述べられずとの宣旨だった。
翌年四月,勅使が来て参内すると,奥州桐山の絶頂に大嶽丸という鬼神が現われた。このままにしておくと日本の人種が全滅するという加茂の神勅が出た。急ぎ奥州へ下って大嶽丸を征伐せよ,という宣旨が下った。
田村丸は家来の霞野忠太を連れ,王城鎮守の稲荷,祇園,加茂,春日,貴船,男山八幡,特別に清水の観世音に深く祈り,吉日を選んで住吉,四社を拝んで出発した。
田村主従二人は商人の姿に身をやつし,逢坂の関を越え,(中略)古川,一ノ迫,二ノ迫,一ノ関,二ノ関を通って磐井川近くの達谷の麓にたどり着いた。(ここで四之巻は終わり)
立鳥帽子は眷属共を神通の縄をかけて,大嶽丸が留守の間に達谷の窟の門を開けて,田村丸を奥へと案内した。そこへ出かけていた大嶽丸が帰ってきた。大嶽丸はすぐさま桐山(岩手山か)に籠り,都へ上り帝を微塵にする神通力を身に付けようとしていた。大嶽丸によって神通の縄を解かれた眷属共は田村麻呂の四振の剣で討ち取られた。大嶽丸は桐山から箟嶽山きりんの窟に逃げ込んだ。四振の剣は隠れていた大嶽丸の身体を四つに切り裂いた。首は「鬼首(おにこうべ)」に飛んだ。身体は佐沼の郷に守らせておかせた。後に地名も大嶽とし観音堂を建立した。

毛越寺庭園 352-2s
中尊寺の寺領 骨寺村にある若神子社

そこで早速達谷の窟に行って栗駒山がどう見えるか,確かめてみました。
しかし,どこからも栗駒山を見ることができませんでした。不可能な夢になったのです。

しかし,栗駒山周辺と平泉と古代の物語が不思議に照合することを感じました。地形地勢に埋もれた大地の原理が顔を出した思いです。ダイヤモンド栗駒を辿ると新しい発見が見つかりそうです。



にほんブログ村 写真ブログ ネイチャーフォトへにほんブログ村 写真ブログ 鉄道風景写真へにほんブログ村 鉄道ブログ 東北の鉄道へ