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新・遠野物語―9年7か月の大川小学校―

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大川小学校で雨ニモマケズ

今日は11日。月命日。
河北新報では特集「復興再考」で大川小学校判決から1年経って,「10年遅れ」というタイトルで記事が書かれている。大川伝承の会の語り部はここ4年で15000組の見学者を案内してきた。すべて宮城県外の人達だそうだ。遺族の会の方は石巻市教育委員会は大川小事故に向き合おうとしていないのではないかと語ったという。

私自身にとっても誰にとっても大川小学校の事故は東日本大震災という1000年に一度の未曾有の災害の恐ろしさをそのままに突きつけられた出来事だった。大川小学校はもちろん,学校のある地区は新町裏と地図にあり,町並みが続いていた。そのひと街がそのままなくなったのだ。近くにある,地区の犠牲になった方々の慰霊碑を見ると二歳の子どもの名もあった。

柳田國男が大正9年8月に東北に入った時は以下のような日程だったと思われる。
8月2日(月)東京出発
8月4日(水)仙台出発,野蒜,小野,石巻,女川浦,飯野川,登米,佐沼へと続く 石巻辺りは遠藤源八,毛利総七郎案内か
8月7日(土)船越泊(石巻市雄勝)

8月8日(日)~9日(月)石巻,飯野川,柳津,登米,佐沼,南方-この辺りは高橋清治郎案内か

8月10日(火)一関
8月12日(木)一関出発,岩谷堂,人首
8月13日(金)遠野
8月15日(日)遠野出発

8月4日(水)に仙台を出発してから野蒜,小野,石巻,女川浦,飯野川,登米,佐沼へと続くが記録がうまく取れない。ただ8月7日(土)に船越泊(石巻市雄勝)に泊まったとある。大川地区へは次の言葉で来たことが伺える。
中一日置いて次の日には,自分は十五浜からの帰りに,追波川から上ってくる発動機船の上にいた。大雨の小やみの間に,釜谷の部落を見ようとして甲板に立つと・・・(略)
この辺りがどうやら船上からではあるが柳田國男は大川地区を見ていたであろう。

私が大川地区を知ったのは,翁倉山(531.4M)へ登った折であった。山頂から視界が開けた南東部を見下ろすと,広い北上川に新北上大橋が架かっていた。その橋の根元が大川地区である。津波の映像でこの新北上大橋が波に呑まれ,橋にぶつかった津波が白くしぶきを上げている様子が放送された。その映像に学校大丈夫かという男の人の声も入っていた。翁倉山の頂上付近から撮られた映像だと分かった。
しかし,まさかあんなことに・・・。


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林の中で雨ニモマケズ

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大川小学校卒業記念の壁画は宮沢賢治の銀河鉄道の夜でした。そこに子ども合作の雨ニモマケズを置きました。

大川小学校に子ども達と一緒に書いた雨ニモマケズの巻物を持っていったのは,今年の5月4日の子どもの日を前にした時だった。宮沢賢治の「雨ニモマケズ」は298文字全55行からできている。子ども一人が一文字ずつ好きな色で書いていくと総勢298名の子どもの手によって書かれた作品になります。文字も行替えもすべて:賢治が「雨ニモマケズ」を残した手帳通りにしました。子どもたちは時に真剣に,時に楽しく,時に笑いながらこの作品を書いてくれました。折角書いてくれたこの作品を写真として残したいと思い,新遠野物語シリーズの一環として「一人一文字雨ニモマケズ」を始めることにしました。そして大川小学校でその雨ニモマケズの寄せ書きを広げることにしたのです。

大川小学校で宮沢賢治好きの子ども達がつくった「銀河鉄道の夜」の壁画とこれまた賢治好きの子ども達が書いた「雨ニモマケズ」の寄せ書きを引き合わせたい。つまりまだ子ども達にとって宮沢賢治の作品を通した交流が時空を超えて続けられると思わせたいと自分がいたのです。9年たった今でも勉強中だよ。今度は「雨ニモマケズ」を書いてきたよと大川小の子ども達に伝えたいと思う一心で出かけて行きました。

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大川小学校で雨ニモマケズ

追波湾から北上川沿いに吹いてきた風は夕方に連れて強くなっていき,やがて雨ニモマケズの寄せ書きを飛ばす程になりました。しかし風は大川小学校の子ども達の喜びに起こす風だと感じました。だって互いに「風の又三郎」だもの。

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大川小学校で雨ニモマケズ

教室で,講堂で,音楽室で,図書コーナーで階段で。とにかく雨ニモマケズを広げて大川小学校の子ども達と読み合い,朗読し合い語り合いました。
今ではその雨ニモマケズの寄せ書きはしわしわになっていますが,次の授業の為にアイロンをかけて皺を取り,ちゃんと準備しています。

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大川小学校で雨ニモマケズ
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新・遠野物語―稲刈りが終わって―

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稲刈りが終わって

稲刈りが終わりに近づいています。
週末毎にどんどん刈られた田んぼが増えていきます。
農家は刈り取った稲を乾燥の機械に掛けるので一晩中明かりが点いていてモーターの音がしています。昔は,このような乾燥・脱穀の音の奥からどこかの秋祭りの歌謡曲や演歌の曲,奉納する神楽の太鼓や笛の音が澄んだ秋の夜を通して聞こえてきたものでした。「東の方は祭だなあ」と自然と収穫の喜びに満ちた笑い声がどこからか聞こえてくるような気がしていました。秋の月が出ていれば,このような収穫の音を一層明るくしていたように感じます。
今は収穫したらすぐ巨大な工場のような建物,カントリーエレベーターに送ります。カントリーエレベーターでは何百トンもの米を乾燥保存できます。農家の昔の音が消えています。唱歌の「村祭り」そのままの景色が懐かしく感じます。

新・遠野物語―昔のスタイルを守る―

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稲架けとめぐるたち

前作の続きの写真です。
60枚比較明合成の30分のの動きです。
画面右端に太く明るいは今再接近している火です。この夜は火も-2.6等まで光度が上がっていて,夕暮れの東の空に赤く轟くように光っていました。ふと現像して分かったのですが,画面中央に散在流が明るく移っていました。ラッキーでした。まるで収穫の喜びに答えるかのように流れてくれました。秋の晴れた夜はひんやりとして星が美しいです。ゆっくりと夜の風景を楽しみました。

20200903-伊豆沼を楽しく学ぼう会-伊豆沼の鳥を知ろう!
10月18日のマガン観察会のお知らせ

伊豆沼・内沼クラブでは9月の講演会に続き,第2弾の「マガンの飛び立ち観察会」を開きます。
日の出と同時に飛び立つマガンを見るので,朝早くの登米市迫町新田のサンクチュアリーセンター集合です。前沼の野鳥観察館で
見ます。参加してみたい方は伊豆沼農産0220-28-2986(にくやろう)へご一報下さい。鳥好きのメンバーがお待ちしております。

新・遠野物語―門口(もんぐち)のある風景―

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門口のある風景

毎朝おばあさんは長い門口(もんぐち)を歩いて新聞や手紙を取りに来る。
降り注ぐ木漏れ日や落ち葉や通りかかるリスなどがおばあさんを迎える。
朝靄に煙る朝もあれば,夜露敷き詰められた砂利の道である。最近敬老の日に孫達から贈られた杖は坂道では何となく使いやすい手頃な長さである。杖を使う自分はあまり好きではない。しかし,転んでしまったら家族に迷惑を掛けて申し訳ないとも思う。この家に嫁いで65年。毎日この門口の長い坂を登り下りしてきた。まだ元気で歩ける。このように長い門口を歩いて取ってきた新聞は必ずおじいさんの席卓にまず置く。おばあさんのこのルーティーンも65年。

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田舎へ行けば行くほど,道路から奥に入って家がある。
本道から家までの道をよくこちらでは門口(もんぐち)と言ったりする。門口(かどぐち)と言うのかもしれない。
この門口を歩いて新聞を取りに行ったりする。また郵便受けを本道の近くに立てたりして配達夫の手をわずらわせないようにしている。この頃ではあまり見られなくなったが,昔に建てられた家は,こんもりとした林を抜けて奥にある家にたどり着くようなとてもエントランスが長く,風情を感じさせる家が多かった。
番犬
番犬の迎える門口

この長い門口の情景をテーマに写真など撮っている人はいないけれど,さんぽをしていると一瞬とんでもない山奥に来てしまっているという感覚に襲われることがある。昔の人は自然に溶け込む家造りを考えていたのでしょう。長い門口を曲がりくねりながら行くと,ぱっと目の前が開け家が現われてくる。家そのものは南面に開け,そこに畑がつくられている。

この長い門口は,春は花びらで彩られ,夏はひんやりとして木漏れ日が揺れ,秋は落ち葉で埋まり,冬は掃き清めた雪でつくられる。訪ね来る人はこの長い門口という自然の出迎えを受けながらこんにちはと家にたどり着く。
「こんにちは」
「こんにちは」
大体は開け放たれた雨戸や玄関だが,返事はない。

野良に出ているのである。

(この記事は2013年4月27日の再録です)

新・遠野物語―栗駒阿弥陀如来来迎図―

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栗駒阿弥陀如来来迎図 室根山から

お彼岸の時期は毎年ここから栗駒山に沈む太陽を撮ります。
お彼岸の中日,太陽は真西に沈みます。ここからほぼ同緯度にある栗駒山を見ると,太陽は山頂に沈むことになります。
今年はお彼岸の中日は22日ですが,どうも晴れないようです。そこで昨日見に行きました。劇的な夕暮れの風景はそのままでした。齢2のが薄く出て澄み切った秋の空はやがて夕闇に溶けていきました。