初日の出を見て

元旦2017 017-2s
元旦の初日の出の光 石巻線にて

2017年の初日の出がに懸かった雲からまばゆい光を注ぎ始めました。
それは神々しく,この世のすべてのものを平等に照らし出しているのです。
線路脇に立っていた私にもその赤い光は頬が熱いと感じられるほどでした。

『無量寿仏観経』には,精神を統一して浄土と阿弥陀仏や菩薩たちを観想する13の観法が説かれています。その最初の行が「日想観」と言われる集中して沈む太陽を見つめる行です。
みな日没を見よ。まさに想念を起し正坐し西向して、あきらかに日を観じて、心をして堅住ならしめて専想して移らざれば、日の没せんと欲して、状、鼓を懸けたるがごとくなるを見るべし。すでに日を見ること已らば、閉目・開目に、みな明了ならしめよ。これを日想とし、名づけて初めの観といふ。
聖徳太子が創建した四天王寺の辺りは大阪湾の方向に沈む夕日を眺める絶好の場所で,毎年春分の日と秋分の日に日想観の法要が執り行われます。沈む夕陽から阿弥陀如来が現われるという信仰は美しい作品も生み出してきました。また太陽や月に合わせて阿弥陀様が現われる越阿弥陀来迎図です。国宝もありますが,折口信夫が冷泉為恭筆の阿弥陀来迎図について書いていますから,見てみましょう。

山越阿弥陀来迎図
四天王寺西門は、昔から謂われている、極楽東門に向っているところで、彼岸の夕、西の方海遠く入る日を拝む人の群集したこと、凡そ七百年ほどの歴史を経て、今も尚若干の人々は、淡路の島は愚か、海の波すら見えぬ、煤ふる西の宮に向って、くるめき入る日を見送りに出る。此種の日想観なら、「弱法師よろぼうし」の上にも見えていた。舞台を何とも謂えぬ情趣に整えていると共に、梅の花咲き散る頃の優なる季節感が靡なびきかかっている。「越しの阿弥陀像の画因」から

現在の四天王寺で行われている日想観法要は2001年に復活したそうですから一旦なくなっていた行事が再興されたんですね。お彼岸の中日に執り行われるこの法要は何も寺だけでなく,庶民でも「日迎え・日送り」の行事として一般に行われていたことでした。宮城県でも名取に「名取老女」という話があります。
私が前に書いた記事から出します。
遠い昔。
陸奥の国,奥州名取郡に名取老女というお年寄りの女の人が住んでおりました。
名取老女は,大変信心深く,毎年,遠い熊野まで詣でることを欠かしませんでした。
その年も連れと共に熊野の那智の宮までやって来ました。するとあいの方から紫色の雲が湧き上がり,その雲の上に忽然と阿弥陀如来が現れたのです。

この話は,またたく間に有名になり,伝説となって行きました。
なぜ宮城のただのお年寄りの体験が伝説にまでなれたのでしょうか。

この名取老女の作った歌が,「熊野御歌」として,平安末期(1125)成立の藤原清輔の歌学書「袋草子」に出ているからです。

「道遠し年もやうやうおひにけり思いおこせよ我も忘れし」
是陸奥ノ国ヨリ毎年参詣シケル女ノ年老イ後夢ニ見歌也

名取老女は,歌詠みとしても有名だったのかもしれません。それとも阿弥陀如来に親しくお会いした人ということでセンセーションを起こして,時の人となり,その時の歌が取りあげられたのかもしれません。

更にこの出来事は,大きくなり,動かぬ伝説として,世阿弥の謡「護法」の中に「名取老女」として出て来ることになります。

現代で言えば,名取老女という人は大ヒロインでしょう。
このようにして一枚の仏画が描かれることになったのです。
この話に出てきた仏画が「熊野権現影向図」 京都 檀王法林寺蔵,元徳元年(1329)です。
熊野信仰 002s熊野権現影向図 京都 檀王法林寺蔵,元徳元年(1329)

ここで太陽の運行や日の出,日の入りが祭り事に欠くことが出来なかった暦や暦法に繋がっていったことは明らかでしょう。
役職と日奉部ひまつりべ(又、日祀部ひまつりべ)なる聖職の団体で、その舎人出身なるが故に、詳しくは日奉大舎人部とも言うた様である。此部曲かきべの事については、既に前年、柳田先生が注意していられる。之と日置部・置部など書いたひおきべ(又、ひき・へき)と同じか、違う所があるか、明らかでないが、名称近くて違うから見れば、全く同じものとも言われぬ。日置は、日祀よりは、原義幾分か明らかである。おくは後代算盤そろばんの上で、ある数にあたる珠たまを定置することになっているが、大体同じ様な意義に、古くから用いている。源為憲の「口遊くゆう」に、「術に曰いはく、婦人の年数を置き、十二神を加へて実と為し…」だの、「九々八十一を置き、十二神を加へて九十三を得……」などとある。此は算盤を以てする卜法である。置くが日を計ることに関聯していることは、略 疑いはないようである。ただおくなる算法が、日置の場合、如何なる方法を以てするか、一切明らかでないが、其は唯実際方法の問題で、語原においては、太陽並びに、天体の運行によって、歳時・風雨・豊凶を卜知することを示しているのは明らかである。「越しの阿弥陀像の画因」から


この考え方が現代でもダイヤモンド富士やパール富士の貴重さに繋がっている感じがします。
富士山の今年の春分の日(3月20日)にダイヤモンド富士はどこから見ることができるのでしょうか。調べてみました。

山梨県の七面山敬慎院前展望地付近,6時9分頃 「信仰の山」とされていて宗教色が強く見られるため、非常に特殊な山です。
ライブカメラが設置してあることから、カメラマン知名度も高いです。撮影ポイントは標高およそ1720m地点にある展望地。
背後に隋身門という門があり、ライブカメラはここに設置されています。HP「富士山とともに」から
山梨県にある標高1983mの七面山の本社随身門から富士山頂から太陽が昇るのを見ることができます。

この七面山はもともと真言宗の霊山でした。太陽信仰と修験道も深く結びつきます。

そこで世界遺産の平泉にもこのような太陽に関した信仰の跡が見えるのか。考えたいと思います。平泉といったら近くの束稲山が展望地となります。そこで束稲山から春分の日の日の入りが見える目印になる山はないかとカシミールで調べてみました。

平泉から栗駒山へ沈む太陽0306
束稲山から見た落日 栗駒山頂に沈むのは3月6日でした。

平泉のように自然地理条件から見た都市の形成や修験道と山岳との関係を解きほぐす作業が必要です。


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竈神の誕生2-冬空-

年末休み 288-2s
冬空

いくぜ!東北のポスターのようになりましたが,テーマは冬の青空に広がった雲です。
今年もいよいよあと一日となりました。
みなさんにとって来年はもっとよい年となりますように。
今日は先日取り上げた竈神の話の2回目です。よろしくお付き合いください。

かま神 083-2s
登米市平筒沼農村文化自然学習館蔵 竈神NO.10

登米市の平筒沼のほとりにある平筒沼農村文化自然学習館に行くと,豊里町に残っていた60面の竈神のうち有形民俗文化財に指定された20面の竈神を見ることができます。宮城県の有形民俗文化財に指定された竈神は全部で38面あり,東北歴史博物館に8面,塩竃神社に10面保存されているそうです。
登米市の竈神は壁材の土で作られていることが特長です。栗駒や仙台周辺では木を彫ったものが多く,壁土でできた竈神は宮城県北部,岩手県南部にしかありません。そして竈神の分布は新潟以北の東北地方,その中でも宮城北部,岩手南部が最も集中しています。
 
写真を見て分かるように,目はアワビの貝殻を使ったり,おちょこを裏返していたり,時代が新しくなるとガラスも使われていたりします。歯も同じ材料です。ひげもあったり,頭に縄を巻いていたりします。これを竈近くの柱の上部に取り付けてかまど神のように祀っていました。つまり火の神として祀られてきました。大きさとしては,縦が最大の62cmで,大体は縦40-50cmのものが多いです。

19yumefes.jpg
私が訪ねた時には,来年3月4日と5日に「竈神様の置き土産-豊里町町おこし物語-」という創作劇が上演されるそうで,上のパンフレットをもらいました。

さて,竈神は火の神,火防の神ということですが,その起源が昔話に多く残っています。読んでみましょう。
芝刈りの爺さまが山の大きな穴に住んでいた白髪の翁から,醜い顔でへそばかりいじっている童をもらってきた。爺が火箸でへそをつつくと金の小粒が出てきた。一日に三度,金の小粒は出てきて爺さまの家は大金持ちになった。しかし,欲張りな婆さんがもっともっととつついて,とうとう童は死んでしまった。爺さまが悲しんでいると童が夢枕に現われ,「おれに似たお面をつくって竈の前の柱にかけていれば,金持ちになる」と言った。その通りにしたらまた金持ちになった。童の名は「ひょうとく」といった。
この話で,まず「醜い童」が登場します。醜いというよりはこちらでは「めぐせえわらす」と言って,どこか道化的な,温かみのある感じの子どもという意味も持っています。
もう一つ竈神の話を読んでみましょう。
「遠野物語」の話者,佐々木喜善の「江刺郡昔話」に「ひょっとこの始まり」という話があります。
ある所に爺と婆があった。爺は山に芝刈りに行って,大きな穴を一つ見付けた。こんな穴には悪いものが住むものだ。塞いでしまった方がよいと思って,一束の柴をその穴の中に押し込んだ。そうすると柴は穴の栓にはならずに,するすると穴の中に入っていった。また一束押し込んだがそれもそのとおりで,それからもう一束,もう一束と思ううちに,三月ほどのうちに刈り込めた柴をことごとく穴に穴へ入れてしまった。その時,穴の中から美しい女が出てきて,たくさんの柴をもらった礼を言い,一度穴の中に来てくれと言う。あまり勧められるので,爺はつい入ってみると中には目の覚めるような立派な家があり,その家の側には爺が三月ほどもかかって刈った柴がちゃんと積み重ねてあった。
美しい女にこちらに入れと言われて,爺は家の中に入ると立派な座敷があり,そこには立派な白髭の翁がいてここでも柴の礼を言われた。そして種々ごちそうになって還る時,これをしるしに遣るから連れて往けと言われたのが一人の童(わらし)であった。それは何とも言えぬみっともない顔の,へそばかりいじっている子で,爺も呆れたが,ぜひ呉れるといわれるのでとうとう連れて還って家に置いた。そのわらしは爺の家に来ても,あまりへそばかりいじくってばかりいるので,爺はある日火箸でちょいと突いてみると,そのへそからぷつりと金の小粒が出た。それからは一日に三度ずつ出て,爺の家はたちまち富貴長者になった。
ところが婆は欲張りな女でもっと多く金を出したいと思って,爺の留守に火箸を持ってわらしのへそをぐんと突いた。すると金は出ないでわらべは死んでしまった。爺は外から戻ってこれを悲しんでいると,夢に童が出てきて,泣くな爺さま,俺の顔に似た面を作って毎日よく眼にかかるそこの竈前の柱に懸けて置け。そうすれば家が富み栄えると教えてくれた。この童の名前はヒョウトクと言った。それゆえにこの土地の村々では今日まで,醜いヒョウトクの面を木や粘土で造って,竈前の釜男(カマオトコ)という柱に懸けて置く。所に依ってはまたこれを火男(ヒオトコ)とも竈仏(カマホトケ)とも呼んでいる。


かま神 082-2s
登米市平筒沼農村文化自然学習館蔵 NO.21

竈神の起源譚はこのようにまるでおむすびころりんのように地下の世界や海の竜宮城から帰ってくる浦島太郎に似た話として,関敬吾の「日本昔話大成」では「竜宮童子」型の話と分類されています。つまり,穴や海や川に薪,柴,門松,花などを投げ入れて,そのお礼に水神から子どもをもらいます。このお礼に贈られるものは,犬やネコなどの動物は四国地方や九州に多く,新潟以北の東北地方に多いのが「童」であるといいます。 宮城県では竈神に関した話に限った中でも,お礼に贈られた童が「みにくい子ども」「ショウトク(3)」「ショウトグ」「ショウドグ」「見たくねぇ顔付きの童」と共通しています。

さて,主人公の「見たくもない子ども」を佐々木喜善の聞いた話では「ひょっとこ」,宮城では,「ショウトク(3)」「ショウトグ」「ショウドグ」というのでしょうか。
内藤正敏は「東北竈神のコスモロジー-火神・水神・金属神-」で言います。「ショウトク(3)」「ショウトグ」「ショウドグ」は聖徳太子のことを言っているのではないか。つまり太子信仰が奥底に流れているのではないかと。喜善の言った「ひょっとこ」はどうでしょう。「ショウトク」「ヒョウトク」「ヒョットコ」と語音が転じていると考えます。確か,ある民俗学者が「ひょっとこ」面の竈神があるはずだ。探せ,と言った話があるそうです。言葉の転じ方を考えなくてはいけませんね。ひょっとこ面の竈神はないでしょう。

かま神 112-2s
登米市平筒沼農村文化自然学習館蔵 NO.5

ここで子どもが見かけはよくなくても,福をもたらす神となっている物語で思い出す話に西行伝説があります。
日本三景の松島に「西行戻りの松」があります。
西行が松島に来て『月にそふ 桂男(かつらおとこ)のかよひ来て すすきはらむは誰(た)が子なるらん』 と詠みました。
すると農作業の途中だったのか男の子が出てきて,『雨もふり霞もかかり霧もふりて はらむすすきは誰れが子なるらん』 と詠んだのです。西行はその歌の返しの巧みさに驚いて,そなたは何をしているかと尋ねると,男の子は「冬萌(ほ)きて夏枯れ草 を刈っている」と答えたのです。
「冬萌(ほ)きて夏枯れ草」とは何のことを言っているんでしょう。子どもが西行に謎かけをしているんですね。同じ話が宮城県遠田郡箟岳のの岳福島県いわき市,山形の米沢市に栃木県日光市にあるのです。西行は「冬萌(ほ)きて夏枯れ草」が何のことか分からず全国津々浦々で謎かけをされて閉口して引き返すわけです。ですから「西行戻りの松」と言われます。
実際,「冬萌(ほ)きて夏枯れ草 」とは何のことだと思いますか。私は「麦」ではないかと思ったのですが・・・。麦は寒い冬に青々として夏に収穫の時期を迎えるからです。
西行戻りの松だけではありません。西行戻しの涙坂(米沢),西行戻り石(日光市),西行戻しの石(箟岳)とまだまだあります。
青森の弘前にもこんな話が残っています。西行が「磯辺のわらはどハマ馴れてオキ来る波の数覚えたか」と童(わらべ)に聞くとその童がすかさず「西行は宿がなければ野に寝たり空出る星の数覚えたか」と返すわけです。西行は子どもにしてやられるわけです。(2015/8/25の記事「西行こぼれ話その三」から
とんちで西行をやっつけるのは小さな子ども,つまり童です。
聖徳太子は仏教を広めた天才としてしばしば伝説の人となり,信仰の対象ともなっています。ではどうして竈神と聖徳太子が結びつくのか。
その関係を知るために,もう一つ立ち寄らなければいけないところがあります。
遠野の「まいりの仏(十月仏)」についてです。
次回はその話をしましょう。



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竈神の誕生

夕方天皇誕生日 093-2gs
の力強さ

今日はイブなんですね。
私はどちらかというと,どんちゃん騒ぎのクリスマスは嫌いで,静かな北ドイツや北欧のクリスマスに憧れます。
「バベットの晩餐会」という傑作映画がありましたが,あのような雰囲気がいいんです。(過去の記事での「バベットの晩餐会」は こちら )

ところで,内藤正敏「東北の聖と賤」を読んで,この人はつくづくおもしろいと思いました。今まで「遠野物語」や菅江真澄や東北の宗教史を読んできて,実は語られていない空白部分に正直苛立ちを感じてきました。この空白部分というのは,民俗学の成果と歴史学の成果と仏教史の成果が交叉する地点ですから,それらを絡め取る該博な知識が要求される部分です。「遠野物語」と遠野の研究で素晴らしい業績を上げた内藤氏はこの部分に分け入り,大切なポイントをはずさず圧倒的な推理を該博な知識で緻密に編み上げていく興奮があります。東北を語る上で赤坂憲雄氏以上の逸材と思います。現在,赤坂憲雄氏と内藤氏がそろって東北芸術工科大学の東北文化研究センターにいることは幸せです。正直この大学に入りたいと思います。なんと学長が「遠雷」の根岸吉太郎監督なんです。

これから数回にわたり,内藤正敏「東北の聖と賤」を辿るようにして,「かま神」を取り上げたいと思います。「かま神」は宮城県から岩手県にかけてかまどの所に祀られていた木や壁土でつくられた男の神さまです。
内藤正敏

かま神 083-2s
竈神の目

まず,かま神は漢字では「竈神」と書きます。特に「竈」という字は難しいです。大きくするとこうなります。
「竈」と書きます。火を使い,煮炊きするかまどのことです。ですから竈神は火の神さまです。どうして特に竈神は新潟県以北の東北地方,その中でも宮城県北部と岩手県に集中しているのでしょう。竈神の話を聞きましょう。
芝刈りの爺さまが山の大きな穴に住んでいた白髪の翁から,醜い顔でへそばかりいじっている童をもらってきた。爺が火箸でへそをつつくと金の小粒が出てきた。
一日に三度,金の小粒は出てきて爺さまの家は大金持ちになった。しかし,欲張りな婆さんがもっともっととつついて,とうとう童は死んでしまった。爺さまが悲しんでいると童が夢枕に現われ,「おれに似たお面をつくって竈の前の柱にかけていれば,金持ちになる」と言った。その通りにしたらまた金持ちになった。童の名は「ひょうとく」といった。

豊里のかま神-2
登米市豊里町の竈神  東北歴史博物館所蔵の8面の内の一つ

豊里町の現存する竈神は60面。その内38面が宮城県有形民俗文化財に指定されている。20面が平筒沼農村文化自然学習館で見ることができます。残りの8面は塩釜神社にあるそうです。

さて話に出てきた醜い童は「ひょうとく」と呼ばれています。挙げた「東北の聖と賤」の中の「東北竈神のコスモロジー」では宮城では「みにくい子ども,ショウトク3件,みたくねぇ顔付きの童,ショウトグ,ショウドグ」と呼ばれています。どうして「ショウトク」なのでしょう。

結論から言えば「ショウトク」は,聖徳太子の「ショウトク」ではないかと内藤氏は推測しています。
太子信仰との結びつきです。

(この話は続きます)


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遠野物語-付け加えられた言葉-

新田駅到着 001-2trgs
列車が入ります  東北本線 伊豆沼の最寄り駅 新田駅

今日は「遠野物語」の話をします。
先日「『遠野物語』と神々の世界」と題された2004年の『遠野物語ゼミナール2004講義記録』を読んでいたときでした。この本の初めに石井正己の「『遠野物語』と吉本隆明」が載せられています。
吉本隆明が「遠野物語」を選んで書いた「共同幻想論」は吉本の筆鋒鋭い44歳,1968年の時でした。そこで柳田国男,遠野物語,吉本隆明というラインが出来上がるのです。この「共同幻想論」は私たちが形作る村落共同体を維持する社会的な制約(掟)を浮かび上がらせる為にまず「遠野物語」を取り上げ,他方では国家としての社会秩序を浮かび上がらせる為に「古事記」を取り上げるという仕組みで書かれた本でした。その両方を浮かび上がらせることで個人から国家までの社会の仕組みを維持する,言わば無意識につくる「幻想」とそれに捕らわれていく姿を「共同幻想」という概念であぶり出そうとする意欲的な作品です。

まあ吉本隆明の「共同幻想論」と遠野物語は後に語る機会をもつとして,石井正己の講演の中で気になる文章に突き当たりました。
柳田国男が佐々木喜善から聞き書きした「遠野物語」に柳田自身が付け加えている言葉があるというのです。
例えば,先ほどの三話の最後の「山男なるべしと云へり」という一文は,現在残る一番古い草稿にはなく,清書で付け加えられています。

これは佐々木喜善は語らなかった言葉が柳田国男が何かの意図をもって(勝手に)付け加えている語や文があると指摘しています。
直解すると,柳田国男によってねつ造された部分がある,純粋ではない「遠野物語」と誤解される証拠が見つかったようなものです。
そこで現在残されている原稿の流れから遠野物語が誕生するまでを辿ったのが,石井正己の「遠野物語の誕生」若草書房2000年でした。
この本からどの程度の柳田自身の改変が「遠野物語」にあるのかを見てみました。

お姉ちゃん帰宅電車 034-2s
夜の駅に電車は停まり

まず先ほど石井自身が取り上げた,「山男なるべしと云へり」と付け加えた第三話を引用してみます。
三 山々の奥には山人住めり。栃内(とちない)村和野(わの)の佐々木嘉兵衛(かへえ)という人は今も七十余にて生存せり。この翁おきな若かりしころ猟をして山奥に入りしに、遥はるかなる岩の上に美しき女一人ありて、長き黒髪を梳くしけずりていたり。顔の色きわめて白し。不敵の男なれば直(ただち)に銃(つつ)を差し向けて打ち放せしに弾に応じて倒れたり。そこに馳かけつけて見れば、身のたけ高き女にて、解きたる黒髪はまたそのたけよりも長かりき。のちの験(しるし)にせばやと思いてその髪をいささか切り取り、これを綰(わが)ねて懐ふところに入れ、やがて家路に向いしに、道の程にて耐たえがたく睡眠を催(もよお)しければ、しばらく物蔭ものかげに立寄りてまどろみたり。その間夢と現との境のようなる時に、これも丈(たけ)の高き男一人近よりて懐中に手を差し入れ、かの綰ねたる黒髪を取り返し立ち去ると見ればたちまち睡(ねむり)は覚めたり。山男なるべしと云えり。
最後の下線部を柳田自身が付け加えたというのです。
これは「山々の奥には山人住めり」という冒頭に呼応する形で取り入れられ,まとめとして「山男なるべしと云えり。」と入れることで一層不思議な背の高い男が山男だと強調する効果が出てくるのでしょう。このように清書段階までで付け加えられた言葉は「数字,方角,地名,人名,屋号」と詳しい点にまで及ぶが,柳田は草稿段階で空欄にしておき,その草稿を佐々木喜善に送り,空欄に正しい言葉を埋めるようにしていたようです。
また,柳田から送られてきた草稿を佐々木自身が事実確認を取る作業もありました。この三話の冒頭は最初こう記されていました。
「二三年前七十余にて身まかりし〔嘉兵衛〕という翁」となっていて,嘉兵衛というおじいさんは死んでいたように喜善は話したが,確認したら生きていたということが分かり,「栃内(とちない)村和野(わの)の佐々木嘉兵衛(かへえ)という人は今も七十余にて生存せり。」に直したという逸話も残っています。
どうして最初に「山人(やまびと)」が出てきて最後は「山男」なのだろう。これは「山女」に対して男だから「山男」としたのかもしれません。
山女と対にして山男を使った例が「五」にもあります。
五 遠野郷より海岸の田ノ浜、吉利吉里(きりきり)などへ越ゆるには、昔より笛吹峠(ふえふきとうげ)という山路(やまみち)あり。山口村より六角牛(ろっこうし)の方へ入り路のりも近かりしかど、近年この峠を越ゆる者、山中にて必ず山男山女に出逢であうより、誰もみな怖おそろしがりて次第に往来も稀まれになりしかば、ついに別の路を境木峠(さかいげとうげ)という方に開き、和山(わやま)を馬次場(うまつぎば)として今は此方ばかりを越ゆるようになれり。二里以上の迂路うろなり。
ここに出てきた下線部の「山男山女」は草稿段階では「山女」であった。柳田は「山男」を清書で付け加えたのです。

遠野物語には分類しやすいようにキーワードが物語冒頭に付けられている。これを「題目」と云っている。この題目で「山男」を見ると

山男
五、六、七、九、二八、三〇、三一、九二
山女
三、四、三四、三五、七五
とある。山男という扱いを新しく付け加えることで関連性を整えるため,他の個所にも「山男」を挿入したという作業が見えて来ます。この題目に従い,九話目を読むと「山女」だけが出てきて,「山男」は出てこないのです。しかし柳田は九話を山男に分類しているのです。不思議です。関連性が合わないのです。

このように柳田は「山男」を物語を系統立てる意味で造語して,新出させた言葉だと考えることができます。遠野物語は佐々木喜善からの聞き書きでありながら,一つの本としての体裁を整える作業が至る所に見えているのです。


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遠野の十月仏

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放光阿弥陀如来掛け図  「十月ほとけ」では掛け軸を掲げ,同族や隣近所が集まり読経したりした。

わたしがまだずっと幼かった頃,おばあさんに連れられて講に行ったことがあります。
これは「頼母子講(たのもしこう)」と言われていた。隣近所の女達が集まって会食をしたりして話をしていました。多分これは他所では「無尽講」とか言われていた寄り合いの一種で,相互扶助を考えた助け合いの講でした。
「どこそこでは出産で大変だから,出費もかさむだろう」と言ったりして,みんなでお金を出し合ってその家に贈るのである。こんな行事は確かに昔に多くあったように思います。小正月は女正月と言われたり,遠野ではオシラサマにお化粧してあげたり,新しい服を着せてあげたりする行事も残っています。

伝えられているこんな古きよき行事はどうも様々な神式,宗派仏教の行事に取り込まれていって断片だけがかすかに垣間見られるだけです。それは様々な幕府の政治や統制に適応していくために,他のものと融合を図りながら伝え続けてきた結果,「隠し念仏」という形態にならざるを得なかったのかもしれません。今となってはその表面に現われた断片をつなぎ合わせて予想するしかありません。
例えば,村で誰かが亡くなった場合,檀家である村人はきちんとお寺で葬式をしてもらった後,こっそりとその地区の者だけが集まって葬儀を執り行うということもありました。その事実は遠野物語どころか,佐々木喜善の日記にも出てきますし,つい最近まで行われていました。お寺が出来る前にはその地区の「善知識」と言われるある程度の修行を積んだ一般人の村人が弔いの儀式を執り行っていた時代もあったと言います。表面的には幕府による統制や宗教規制に順応しながらも,秘密裏に村人だけでの信仰を守り抜いてきたのです。

さて,そんなちょっと秘密結社のように長く受け継がれてきた村の行事に「十月ほとけ」別名「マイリのほとけ」という行事があります。この信仰は岩手を中心に多く残っていて,十月に同族の者達が集まり,阿弥陀如来や善導大師,聖徳太子の画像や「南無阿弥陀仏」の六字名号を掛け軸にしたものを掲げ,読経したり会食したりして執り行います。掛け軸を見ると古いものでは1359年の善導大師画幅が昔に極楽寺があった江刺市稲瀬のお寺に残っているといいます。なんと十月ほとけは14世紀まで遡るのです。

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極楽寺の裏山の道  今は極楽寺はなくなっていますが,昔は大層栄えたと言われています。

しかしどうして十月なのでしょう。
様々な説があります。だいたいこの行事そのものが浄土真宗の布教の原初形態ではないかと言われ,こちらに真宗を伝えた親鸞の弟子の是信坊が亡くなったのが十月十六日だから十月に行うんだという考えもあれば,十月は「神無月」だから神様がいない時に仏式の行事は行っておいた方がよいとか,様々な説があるようです。

そしてこれらの信仰は巧妙に隠れながら,やがて外部のものと複雑に絡み合いながら連綿と続いてきました。そのパズルのピースは少しずつ繋がってきています。

隠し念仏,十月ほとけ,羽黒修験,天台浄土教,オシラサマ信仰,真言密教,高野聖または遊行聖,六十六部聖とからまった糸はどこまでも複雑です。

まず,十月ほとけの掛け軸を見ていくと,室町以前に描かれたものは種類が定まっているといいます。
善導大師,放光方便報身阿弥陀如来,南無阿弥陀仏の六字名号,孝養太子,黒駒太子,真宗の七師像(竜樹,天真,曇鸞,道棹,善導,源空,源信),連座の御影(善導,源空,源信,親鸞,是信,性信,信海など)です。孝養太子は聖徳太子のことであり,黒駒太子も黒駒に乗った聖徳太子です。これは聖徳太子信仰で,聖徳太子は阿弥陀如来の再来とする太子信仰に基づいているのでしょう。

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修験霞状  山伏がここの地区はあなたの担当ですよと許可を出した証明書ですね

従って,十月ほとけは,是信などの親鸞の弟子達が岩手で熱心に布教した在家で行う浄土真宗の形と真言の念仏が溶け合い,民間の阿弥陀信仰として営々として続いてきたと思われます。

ここまで自分なりにつなげるのに2年以上かかっています。奥の深い特に中世期の仏教や布教の形跡を民間信仰からなぞることは大変興味深い地平が見えてきます。

異途への旅立ち 129-2s




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