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再出発への暗いのろし

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ダブルファンタジー 11月15日

先日,遠野物語研究で有名な石井正己氏が登米市にやってきて,この話は毎回取り上げるのだがと前置きして,遠野物語九十九の津波の話をした。
福二は,遠野から三陸の浜辺,田之原に婿に行って二人目の子どもに恵まれた。ちょうど二人目の子どもが生まれた年に明治三陸大津波に見舞われて妻を失った。
その夏至も近い6月15日は日も長く,夕刻の明るみが空にまだ漂っていた。三日月を一日過ぎた月が西の山の端にかかろうとしている。最初は海の奥からドーンドーンと大砲を撃つような音が聞こえた。気付くと,目の前の波がするすると引いていく。このような急な波の引き方は尋常ではなかった。すぐ妻と二人の子どもを連れて月を目当てにして山に登った。もう少しで尾根というところで振り返ると夜のほのかな光で海が巨大な山のように膨れ上がって尾根をも超える高さで迫ってくるのが分かった。気付くと妻がいない。子どもの着物などを取りに戻ったか。

福二は妻がいつでも戻れるように,以前のところにまた粗末な小屋を立てた。
そしてまたたく間に一年が過ぎた。妻は帰ってこなかった。津波に呑まれたとあきらめるしかない。夏になろうとしているのに毎夜霧が布(し)かれ,寒い風が吹く。冷害を知らせる山背(やませ)である。風に踊り狂うような霧の中に月がぼんやりと浮き上がっている。福二は便所に起きて波打ち際に出た。霧が少し晴れると,月の光が遠くの渚まで写しだす。また霧の布(し)き始めるや,その霧の中よりぼんやりと男女二人が波打ち際沿いに歩いてくるのが見えた。月の光にぼんやりと浮かび上がった女の顔を見て福二は跳び上がるばかりに驚いた。男と連れ添って微笑みながら行く女は,まさしく死んだ福二の妻である。男の顔は知らない男だった。二人は福二の目の前を通り過ぎ,波音にかき消されるようにやがて小さくなっていった。福二は思わずその跡をつけて,はるばると船越村の方に行く﨑の洞ある所まで来た。福二はいよいよ思い切って妻に声をかけた。妻の名を呼ぶと,妻は振り返って福二を見てやがてにこりと微笑んだ。男はと近くからよく見れば同じ村の者でやはり津波で死んだという男であった。福二が婿に入る前に互いに深く心を通わせていた男がいたと噂に聞いていた。その男であった。
「おれと一緒になって,子どもも待っているというのに。子どもは可愛くはないのか」
女は少し顔の色を変えて俯いて泣きはじめた。
死んでしまった者に帰ってこいという酷いことも言われないものだと,悲しく情けなくなり足元に目を落として福二も泣いた。顔を上げ気付くと,男女の後ろ姿はもう小浦(おうら)へ行く道の山陰に廻り見えなくなろうとしていた。少し追いかけてみたが,ふと死んだ者を追いかけるものではないと心付いた。そのまま夜明けまでその場に立ち尽くして考え,しらじら朝になりてふと我に帰った。福二はその後病気で長く床に就いた。
読みやすいように現代文にしてみた。

この話は実に哀切極まりない話として私も強く印象に残っていた。
死んだ者が実は現実に生きる私たちのすぐ近くにいて,家族という役割を終えた一人の死んだ女が,若い頃に好いて一緒になれなかった男と死出の道行を伴にする。この切実な設定は現実に生きる私たちに暗い不安を投げかけている。いくら一生懸命に生きたとしても,成し遂げることが出来なかった男と女の互いに隠された思いがあるのだと突きつけてくる。
残してきた子どものことを考えると,俯いて泣くしかない女である。もう生き返ろうともできるものではない。死んでこの世に悔いだけを残せるものでもないだろう。せめて遂げられなかった若い娘時代の恋慕だけは遂げて清々とした気持ちであの世で成仏したいのである。

さてこの話をただ哀切極まりない話とまとめて落ち着けるものだろうか。
ここには「後追い」できるものとできないものとがあると,語られる真実がある。
死んだ者だから「後追い」は更にできないのである。そして引き止めることもできないのである。見捨てられても死ぬまでは現実の中で生きることを託されてしまった今。震えるような現実が男を完全に不安にさせている。そうであっても残された男は生き続けなくてはいけないのだ。たった一人でも。

するとこの話のメッセージが見えてくる。
地獄のような艱難辛苦の現実からの自立の道である。
男は死んだ妻を追いかけることはしなかった。それはそのまま過酷な現実であっても生き続けなくてはいけないという再出発の暗いのろしなのである。


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柳田国男「先祖の話」から「二つの実際問題」

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朝の漁

柳田国男の「先祖の話」は,よく新聞の社説や8月の終戦の日に合わせて,取り上げられまた引用されているが,思うに何と言っても最後の八十一話目「二つの実際問題」こそが柳田の言いたかったことであった。その「二つの実際問題」とは,「家というものの理想は外からも内からもいい頃加減にほったらかしておくわけにはいかぬのである」という家の存続の問題が一つ。もう一つは「少なくとも国の為に戦って死んだ若人だけは何としても無縁仏の列に疎外しておくわけにはいくまい」という戦争で亡くなった方への実際的な「まなざしの問題」であった。つまり戦争で亡くなった,家を引き継ぐべき若者達の希望がさっぱりと失われてしまったことに立ち返らないといけないということだ。若い霊が安まることなく,徘徊をして,家にも帰れず,生き残った家族を心配に思うようでは,心安らかにあの世に赴かしめる途(みち)ではないだろう。
これは必ず直系の子孫が祀ることだというだけでは,済まされない問題である。長男にしろ,次男,三男にしろ,あの一代は戦争があって,亡くなってしまったという一代人(いちだいびと)の思想だけでは片付けられない問題なのだ,と柳田は言う。
もうたまにしか行くことのない墓参で,改めて戦争でなくなった先祖がいたと気付くだけでは,おのれの幸せも虚飾であろう。何の犠牲の上に自分は生きていられるのかという,遠い祖先からの脈々とした営みに対する感謝や尊敬なくして,自分の人生はあり得ないのだ。

家の制度を,いたずらに自分の自由を阻むものだと考えたり,親の干渉をただうざいと感じて逃げ続けることで,当人の生は充実するものだとも言えないだろう。そういった自分だけの,自分一代だけの生き方で,戦争を忘れ去ろうとすることは死者を死者として更に遠ざけていくことになる。

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昨日,11月9日のガンの飛びたち

愛しいと思われるひとは,絶えず人の心に呼び戻される
呼び戻されたひとは,喜んであなたに寄り添い,あなたを守るだろう
先祖とはそういう存在で,あなた自身を絶えず支え続けてくれる

こんな想像力もあなたの人生を豊かにしてくれると思う


発音が横滑りする転訛の例-「ショウトク」という名のめぐせ(醜い)わらす-

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今朝の伊豆沼

「かま神」を取り上げたいと思います。「かま神」は宮城県から岩手県にかけてかまどの所に祀られていた木や壁土でつくられた男の神さまです。かまどある柱の上に祀るので「かまど神」と称され,火の神でもあります。

特にこの竈神は東北地方,その中でも宮城県北部と岩手県にだけ集中しています。不思議なことです。話には,へそをいじると金を出すめぐさい(醜い)童(わらす)が登場します。その童の名前がまたいろいろなのです。「ショウトク」「ショットク」「ヒョウトク」「ヒョットグ」そして最後には更に発音が横滑りを起こして「ヒョットコ」にまでなります。本当の名前は何なのでしょうか。

内藤正敏の論文「東北竈神のコスモロジー」(『東北の聖と賤』所収)では,宮城県では「みにくい子どもを,ショウトク3件,みたくねぇ顔付きの童,ショウトグ,ショウドグ」と呼ばれています。内藤氏は,「ショウトク」という呼び名についての起源を,聖徳太子の「ショウトク」ではないかと言っています。つまり聖徳太子信仰との結びつきです。

本当にそうでしょうか。まずはその昔話を聞きましょう。
芝刈りの爺さまが山の大きな穴に住んでいた白髪の翁から,醜い顔でへそばかりいじっている童をもらってきた。爺が火箸でへそをつつくと金の小粒が出てきた。
一日に三度,金の小粒は出てきて爺さまの家は大金持ちになった。しかし,欲張りな婆さんがもっともっととつついて,とうとう童は死んでしまった。爺さまが悲しんでいると童が夢枕に現われ,「おれに似たお面をつくって竈の前の柱にかけていれば,金持ちになる」と言った。その通りにしたらまた金持ちになった。童の名は「しょうとく」といった。
今日取り上げたいのは,ここに出てきた童(わらす)の「しょうとく」です。違う話では「ひょうとく」となっています。微妙に名前が違うのです。

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高橋清治郎覚書2

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枯れ蓮,金色に輝く

先日の日曜日に南方公民館で「ロシア人が書いた登米の民俗」と題した石井正己氏の講演会があった。
題名にある「ロシア人」とは,ニコライ・ネフスキー氏のことである。以前から「遠野物語」の話者である佐々木喜善と,それをまとめた柳田國男,そして当時日本にいたニコライ・ネフスキーとの交流は注目すべきことで,特に大正9年8月の柳田國男と10日ほどずれてネフスキーが宮城の登米を訪れた東北旅行は実に興味深いところである。もう102年も前のことだが。
この柳田國男,ニコライ・ネフスキー,佐々木喜善らの研究を登米で支え,助けていたのが南方在住の高橋清治郎という人物です。

ネフスキーポスター
ポスター

高橋清治郎氏は「明治2年(1869)登米郡南方村に生まれた。教員となり,南方村本地東郷小学校,仙台市立東六番丁尋常高等小学校を経て,明治40年(1907)南方村本地尋常小学校校長,大正11年(1922)に退職,昭和19年(1944)に76歳で亡くなっている。」
                                 「高橋紘「柳田國男と高橋清治郎~『来翰集と未完『登米郡年代記~』」から」
大正12年に発刊された「登米郡史」や「南方村誌」などの編纂のため,埋もれていた資料を広く掘り起こし,すべて記録していった功績はもっと世に知れていいはずだと感じます。

さて今日は登米にやってきた柳田國男やニコライ・ネフスキーを高橋清治郎がどのようにお世話したのかを日にちを追ってまとめてみたいと思います。
まず,柳田國男の大正九年の東北旅行の日程をおさらいしておきましょう。これらのコースは新聞に連載された柳田の「豆手帖から」に依る。
8月2日(月)柳田國男が東京を出発 
8月4日(水)仙台出発,野蒜,小野,石巻(泊?)
8月5日(木)石巻から自動車で渡波,女川浦,そして稲井の沼津貝塚,(遠藤源八,毛利総七郎に会ったか?)
その後船越まで行ったか(泊) 「子供の眼」に出てくる
8月6日(金)船越から船に乗って十五浜(泊?)
8月7日(土)十五浜経由で追波川を上る。そして飯野川(泊)「子供の眼」に出てくる。「甲板に立って釜谷地区を見る」とある。
8月8日(日)飯野川から,柳津,登米,佐沼,南方-佐沼で高橋清治郎と会うか?どこに泊まったのだろうか。
8月9日(月)遅くに一関に着いていたのかもしれない。
8月10日(火)一関で朝,水害の状況を見ている。「町の大水」8/10~8/12まで鉄道は不通だった。(佐々木喜善日記より)
(大正9年8月の水害)盛岡の水害の様子 大正9年8月11日毎日新聞より被害の様子
9年8月4日以来,10日まで降りつゞいた雨は,各河川の増水を見,北上川の1丈2尺(約3.6m),中津川の9尺(約 2.7m)より,雫石川・簗川等の増水あり,各方面の被害が少くなかった。どうやら南に台風が来ていたようです。その影響でしょう。

8月12日(木)一関出発,岩谷堂,人首
8月13日(金)遠野着夕方か 高善旅館から佐々木喜善に到着したと知らせる使いが出される「佐々木喜善 日記から」
8月15日(日)遠野出発
途中,ネフスキーが柳田に同行する予定だったらしいが,歯痛のためネフスキーが出遅れて追いつけなかったかもしれない。
では出遅れたネフスキーはどんな日程で登米を訪れたのだろうか。ネフスキーから髙橋清治郎に宛てた葉書がある。
ネフスキーからの手紙5
ネフスキーからの手紙5-(1)
「高橋紘「柳田國男と高橋清治郎~『来翰集と未完『登米郡年代記~』」から」

9月9日付けのこの手紙は,ネフスキーが登米に宿泊する段取りや様々なお世話や依頼していた調査をすべて髙橋清治郎が親切に執り行ってくれたことへのお礼の手紙となっている。すでに小樽に帰ってから書かれたもので,文中「一昨日に」帰っていたというから9月7日には北海道に戻っていたのです。この後ネフスキーは9月7日までの間,どうしたのでしょうか。佐々木喜善の日記から拾ってみます。
佐々木喜善の日記に出て来るネフスキー
八月二十日 雨 旅行ニ出ル。柳田先生ニ出会フベク釜石へ
八月三十一日 晴 八戸ヲ立チ、夕方遠野に着、夜家ニカヘル。トコロガ町ニネフスキー君ガ来リイルト云フ。
            明日タマヲ迎ヘニヤルコトトスル。
九月一日 ネフスキー君来ル。会フ早々学問話に耽ル。
九月二日 ネフスキー君滞在ス。
九月三日 晴 ネフスキー君ヲ送ツテ停車場マデ行く。伊能氏モ来ル。
         (刑事が外国人のネフスキー氏が何のために遠野に来たのかを探っている)

ということで,九月三日までネフスキーは佐々木喜善のいる遠野に滞在していたのです。そして九月七日に北海道小樽の自宅に着きましたから,どうやら8月31日に既に八戸に着いていた柳田國男と弘前辺りで再会したのか,弘前という地名が手紙に見えます。とにかく身体の調子も良くなかったのか,ネフスキーは高橋清治郎と佐々木喜善に会って帰ってしまったのでした。

この話つづきます


昨日と今日-「蛇神の行方」覚書き-

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吹雪

今日は私の「蛇神の行方」用の覚書きから柳田國男の取り上げた蛇の話をお送りします

「神がしばしば霊蛇の形をもって顕現したまい,人間に最もすぐれたる小児を授けたまうということに力を入れた結果,他の一面にその半神半人の小子(おさなご)が最初極度に小さく,後に驚くべき成長ぶりを示して幸福なる婚姻を成し遂げ立派な一氏族の基を開いた」柳田國男「物語と語り物」註より

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昨日の穏やかな湖面

ある百姓夫婦が薬師如来に子を禱ると葦の根を尋ねても茅の根を尋ねてもお前達に授ける児はないのだがあまりに願うゆえに脛に孕む子を一人やろうという夢のお告げがあった。それから女房の脛がだんだん太くなって,月満ちて小指ほどの男の子が生まれた。脛から生まれたからすね子たんぽ子と名を附けた。十五六になるまでちっとも大きくならなかった。それが隣の長者へ行って智恵をもって長者のうば子様(弟娘)を嫁に貰ってきた。

ところが同じ紫波地方で採集した昔話の中に隣の長者どんに嫁を貰いに行く蛇の息子の話がある。明白に蛇聟入りの別の話と結合している。

ある子どものいない百姓の夫婦が雨の日に畑に出ていると,笠の中に小さな蛇が入っていて,何ぼ追うてもまた入ってくる。ちょうど子がないので育てようと思って,家に連れ帰って鉢こに入れて養うておくと,だんだん成長して鉢に入れておかれなくなり,それからは盥に入れて次には馬槽(うまふね)に入れておいた。その蛇息子がある時父母に向かって今夜長者どんに聟に行くと言った。それから後が三人娘の末の方が嫁に来ることになった。

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今日の吹雪 昨日とほぼ同じ場所

ここで娘が蛇の夫を殺して退治するという話を読んだことは私にもありますが,続きはまた違う。

蛇は我が家に戻って藁打石の上に登り,俺はここに寝ているから,その藁打槌で俺の肝を打ってくれと言う。花嫁がそのいう通りにすると肝がパチンと弾けて向こうの隅に行って美しい青年になった。

柳田は次に佐賀県の喜左衛門という百姓の昔話を上げている。
子がないので籾岳神社に願掛けをした。そうすると満願の日に夢のお告げがあって,お前たちにはどうしても子供はできぬ。今日帰り道で最初に足にさわった者を拾い上げて養育するがよいということであった。悦んで下向する路すがら,足にさわった者は小さな蛇であった。驚きながらも連れて帰って可愛がっているうちに小蛇は人間の物を食って日一日と大きくなり,四五年もすると一丈四五尺の大蛇となって附いて歩くので村の人が怖れて付き合ってくれぬ。そこで夫婦は大蛇に,今まではお前を我が子として育てたけれど村の人達が怖がるから一時(いっとき)は身を隠してくれと涙ながらに言って聞かせると蛇は別れを惜しみつつ家を出ていった。それから年月が過ぎ,夫婦も歳を取り働けなくなった頃,田植えの時期になると塩田川の堤防が切れて川下一円の農家で農作業ができなくなった。易者を呼んで占ったところそれは喜左衛門の家の大蛇の仕業である。これからは村々の百姓が少しずつ米を出し合って老いて働けなくなった夫婦を養えば災いは止むと出た。