2023/11/17
再出発への暗いのろし

ダブルファンタジー 11月15日
先日,遠野物語研究で有名な石井正己氏が登米市にやってきて,この話は毎回取り上げるのだがと前置きして,遠野物語九十九の津波の話をした。
福二は,遠野から三陸の浜辺,田之原に婿に行って二人目の子どもに恵まれた。ちょうど二人目の子どもが生まれた年に明治三陸大津波に見舞われて妻を失った。
その夏至も近い6月15日は日も長く,夕刻の明るみが空にまだ漂っていた。三日月を一日過ぎた月が西の山の端にかかろうとしている。最初は海の奥からドーンドーンと大砲を撃つような音が聞こえた。気付くと,目の前の波がするすると引いていく。このような急な波の引き方は尋常ではなかった。すぐ妻と二人の子どもを連れて月を目当てにして山に登った。もう少しで尾根というところで振り返ると夜のほのかな光で海が巨大な山のように膨れ上がって尾根をも超える高さで迫ってくるのが分かった。気付くと妻がいない。子どもの着物などを取りに戻ったか。
福二は妻がいつでも戻れるように,以前のところにまた粗末な小屋を立てた。
そしてまたたく間に一年が過ぎた。妻は帰ってこなかった。津波に呑まれたとあきらめるしかない。夏になろうとしているのに毎夜霧が布(し)かれ,寒い風が吹く。冷害を知らせる山背(やませ)である。風に踊り狂うような霧の中に月がぼんやりと浮き上がっている。福二は便所に起きて波打ち際に出た。霧が少し晴れると,月の光が遠くの渚まで写しだす。また霧の布(し)き始めるや,その霧の中よりぼんやりと男女二人が波打ち際沿いに歩いてくるのが見えた。月の光にぼんやりと浮かび上がった女の顔を見て福二は跳び上がるばかりに驚いた。男と連れ添って微笑みながら行く女は,まさしく死んだ福二の妻である。男の顔は知らない男だった。二人は福二の目の前を通り過ぎ,波音にかき消されるようにやがて小さくなっていった。福二は思わずその跡をつけて,はるばると船越村の方に行く﨑の洞ある所まで来た。福二はいよいよ思い切って妻に声をかけた。妻の名を呼ぶと,妻は振り返って福二を見てやがてにこりと微笑んだ。男はと近くからよく見れば同じ村の者でやはり津波で死んだという男であった。福二が婿に入る前に互いに深く心を通わせていた男がいたと噂に聞いていた。その男であった。
「おれと一緒になって,子どもも待っているというのに。子どもは可愛くはないのか」
女は少し顔の色を変えて俯いて泣きはじめた。
死んでしまった者に帰ってこいという酷いことも言われないものだと,悲しく情けなくなり足元に目を落として福二も泣いた。顔を上げ気付くと,男女の後ろ姿はもう小浦(おうら)へ行く道の山陰に廻り見えなくなろうとしていた。少し追いかけてみたが,ふと死んだ者を追いかけるものではないと心付いた。そのまま夜明けまでその場に立ち尽くして考え,しらじら朝になりてふと我に帰った。福二はその後病気で長く床に就いた。
読みやすいように現代文にしてみた。
この話は実に哀切極まりない話として私も強く印象に残っていた。
死んだ者が実は現実に生きる私たちのすぐ近くにいて,家族という役割を終えた一人の死んだ女が,若い頃に好いて一緒になれなかった男と死出の道行を伴にする。この切実な設定は現実に生きる私たちに暗い不安を投げかけている。いくら一生懸命に生きたとしても,成し遂げることが出来なかった男と女の互いに隠された思いがあるのだと突きつけてくる。
残してきた子どものことを考えると,俯いて泣くしかない女である。もう生き返ろうともできるものではない。死んでこの世に悔いだけを残せるものでもないだろう。せめて遂げられなかった若い娘時代の恋慕だけは遂げて清々とした気持ちであの世で成仏したいのである。
さてこの話をただ哀切極まりない話とまとめて落ち着けるものだろうか。
ここには「後追い」できるものとできないものとがあると,語られる真実がある。
死んだ者だから「後追い」は更にできないのである。そして引き止めることもできないのである。見捨てられても死ぬまでは現実の中で生きることを託されてしまった今。震えるような現実が男を完全に不安にさせている。そうであっても残された男は生き続けなくてはいけないのだ。たった一人でも。
するとこの話のメッセージが見えてくる。
地獄のような艱難辛苦の現実からの自立の道である。
男は死んだ妻を追いかけることはしなかった。それはそのまま過酷な現実であっても生き続けなくてはいけないという再出発の暗いのろしなのである。
