2022/11/15
高橋清治郎覚書2

枯れ蓮,金色に輝く
先日の日曜日に南方公民館で「ロシア人が書いた登米の民俗」と題した石井正己氏の講演会があった。
題名にある「ロシア人」とは,ニコライ・ネフスキー氏のことである。以前から「遠野物語」の話者である佐々木喜善と,それをまとめた柳田國男,そして当時日本にいたニコライ・ネフスキーとの交流は注目すべきことで,特に大正9年8月の柳田國男と10日ほどずれてネフスキーが宮城の登米を訪れた東北旅行は実に興味深いところである。もう102年も前のことだが。
この柳田國男,ニコライ・ネフスキー,佐々木喜善らの研究を登米で支え,助けていたのが南方在住の高橋清治郎という人物です。

ポスター
高橋清治郎氏は「明治2年(1869)登米郡南方村に生まれた。教員となり,南方村本地東郷小学校,仙台市立東六番丁尋常高等小学校を経て,明治40年(1907)南方村本地尋常小学校校長,大正11年(1922)に退職,昭和19年(1944)に76歳で亡くなっている。」
「高橋紘「柳田國男と高橋清治郎~『来翰集と未完『登米郡年代記~』」から」
大正12年に発刊された「登米郡史」や「南方村誌」などの編纂のため,埋もれていた資料を広く掘り起こし,すべて記録していった功績はもっと世に知れていいはずだと感じます。
さて今日は登米にやってきた柳田國男やニコライ・ネフスキーを高橋清治郎がどのようにお世話したのかを日にちを追ってまとめてみたいと思います。
まず,柳田國男の大正九年の東北旅行の日程をおさらいしておきましょう。これらのコースは新聞に連載された柳田の「豆手帖から」に依る。
8月2日(月)柳田國男が東京を出発
8月4日(水)仙台出発,野蒜,小野,石巻(泊?)
8月5日(木)石巻から自動車で渡波,女川浦,そして稲井の沼津貝塚,(遠藤源八,毛利総七郎に会ったか?)
その後船越まで行ったか(泊) 「子供の眼」に出てくる
8月6日(金)船越から船に乗って十五浜(泊?)
8月7日(土)十五浜経由で追波川を上る。そして飯野川(泊)「子供の眼」に出てくる。「甲板に立って釜谷地区を見る」とある。
8月8日(日)飯野川から,柳津,登米,佐沼,南方-佐沼で高橋清治郎と会うか?どこに泊まったのだろうか。
8月9日(月)遅くに一関に着いていたのかもしれない。
8月10日(火)一関で朝,水害の状況を見ている。「町の大水」8/10~8/12まで鉄道は不通だった。(佐々木喜善日記より)
(大正9年8月の水害)盛岡の水害の様子 大正9年8月11日毎日新聞より被害の様子
9年8月4日以来,10日まで降りつゞいた雨は,各河川の増水を見,北上川の1丈2尺(約3.6m),中津川の9尺(約 2.7m)より,雫石川・簗川等の増水あり,各方面の被害が少くなかった。どうやら南に台風が来ていたようです。その影響でしょう。
8月12日(木)一関出発,岩谷堂,人首
8月13日(金)遠野着夕方か 高善旅館から佐々木喜善に到着したと知らせる使いが出される「佐々木喜善 日記から」
8月15日(日)遠野出発
途中,ネフスキーが柳田に同行する予定だったらしいが,歯痛のためネフスキーが出遅れて追いつけなかったかもしれない。
では出遅れたネフスキーはどんな日程で登米を訪れたのだろうか。ネフスキーから髙橋清治郎に宛てた葉書がある。


「高橋紘「柳田國男と高橋清治郎~『来翰集と未完『登米郡年代記~』」から」
9月9日付けのこの手紙は,ネフスキーが登米に宿泊する段取りや様々なお世話や依頼していた調査をすべて髙橋清治郎が親切に執り行ってくれたことへのお礼の手紙となっている。すでに小樽に帰ってから書かれたもので,文中「一昨日に」帰っていたというから9月7日には北海道に戻っていたのです。この後ネフスキーは9月7日までの間,どうしたのでしょうか。佐々木喜善の日記から拾ってみます。
佐々木喜善の日記に出て来るネフスキー
八月二十日 雨 旅行ニ出ル。柳田先生ニ出会フベク釜石へ
八月三十一日 晴 八戸ヲ立チ、夕方遠野に着、夜家ニカヘル。トコロガ町ニネフスキー君ガ来リイルト云フ。
明日タマヲ迎ヘニヤルコトトスル。
九月一日 ネフスキー君来ル。会フ早々学問話に耽ル。
九月二日 ネフスキー君滞在ス。
九月三日 晴 ネフスキー君ヲ送ツテ停車場マデ行く。伊能氏モ来ル。
(刑事が外国人のネフスキー氏が何のために遠野に来たのかを探っている)
ということで,九月三日までネフスキーは佐々木喜善のいる遠野に滞在していたのです。そして九月七日に北海道小樽の自宅に着きましたから,どうやら8月31日に既に八戸に着いていた柳田國男と弘前辺りで再会したのか,弘前という地名が手紙に見えます。とにかく身体の調子も良くなかったのか,ネフスキーは高橋清治郎と佐々木喜善に会って帰ってしまったのでした。
この話つづきます
