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高橋清治郎覚書2

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枯れ蓮,金色に輝く

先日の日曜日に南方公民館で「ロシア人が書いた登米の民俗」と題した石井正己氏の講演会があった。
題名にある「ロシア人」とは,ニコライ・ネフスキー氏のことである。以前から「遠野物語」の話者である佐々木喜善と,それをまとめた柳田國男,そして当時日本にいたニコライ・ネフスキーとの交流は注目すべきことで,特に大正9年8月の柳田國男と10日ほどずれてネフスキーが宮城の登米を訪れた東北旅行は実に興味深いところである。もう102年も前のことだが。
この柳田國男,ニコライ・ネフスキー,佐々木喜善らの研究を登米で支え,助けていたのが南方在住の高橋清治郎という人物です。

ネフスキーポスター
ポスター

高橋清治郎氏は「明治2年(1869)登米郡南方村に生まれた。教員となり,南方村本地東郷小学校,仙台市立東六番丁尋常高等小学校を経て,明治40年(1907)南方村本地尋常小学校校長,大正11年(1922)に退職,昭和19年(1944)に76歳で亡くなっている。」
                                 「高橋紘「柳田國男と高橋清治郎~『来翰集と未完『登米郡年代記~』」から」
大正12年に発刊された「登米郡史」や「南方村誌」などの編纂のため,埋もれていた資料を広く掘り起こし,すべて記録していった功績はもっと世に知れていいはずだと感じます。

さて今日は登米にやってきた柳田國男やニコライ・ネフスキーを高橋清治郎がどのようにお世話したのかを日にちを追ってまとめてみたいと思います。
まず,柳田國男の大正九年の東北旅行の日程をおさらいしておきましょう。これらのコースは新聞に連載された柳田の「豆手帖から」に依る。
8月2日(月)柳田國男が東京を出発 
8月4日(水)仙台出発,野蒜,小野,石巻(泊?)
8月5日(木)石巻から自動車で渡波,女川浦,そして稲井の沼津貝塚,(遠藤源八,毛利総七郎に会ったか?)
その後船越まで行ったか(泊) 「子供の眼」に出てくる
8月6日(金)船越から船に乗って十五浜(泊?)
8月7日(土)十五浜経由で追波川を上る。そして飯野川(泊)「子供の眼」に出てくる。「甲板に立って釜谷地区を見る」とある。
8月8日(日)飯野川から,柳津,登米,佐沼,南方-佐沼で高橋清治郎と会うか?どこに泊まったのだろうか。
8月9日(月)遅くに一関に着いていたのかもしれない。
8月10日(火)一関で朝,水害の状況を見ている。「町の大水」8/10~8/12まで鉄道は不通だった。(佐々木喜善日記より)
(大正9年8月の水害)盛岡の水害の様子 大正9年8月11日毎日新聞より被害の様子
9年8月4日以来,10日まで降りつゞいた雨は,各河川の増水を見,北上川の1丈2尺(約3.6m),中津川の9尺(約 2.7m)より,雫石川・簗川等の増水あり,各方面の被害が少くなかった。どうやら南に台風が来ていたようです。その影響でしょう。

8月12日(木)一関出発,岩谷堂,人首
8月13日(金)遠野着夕方か 高善旅館から佐々木喜善に到着したと知らせる使いが出される「佐々木喜善 日記から」
8月15日(日)遠野出発
途中,ネフスキーが柳田に同行する予定だったらしいが,歯痛のためネフスキーが出遅れて追いつけなかったかもしれない。
では出遅れたネフスキーはどんな日程で登米を訪れたのだろうか。ネフスキーから髙橋清治郎に宛てた葉書がある。
ネフスキーからの手紙5
ネフスキーからの手紙5-(1)
「高橋紘「柳田國男と高橋清治郎~『来翰集と未完『登米郡年代記~』」から」

9月9日付けのこの手紙は,ネフスキーが登米に宿泊する段取りや様々なお世話や依頼していた調査をすべて髙橋清治郎が親切に執り行ってくれたことへのお礼の手紙となっている。すでに小樽に帰ってから書かれたもので,文中「一昨日に」帰っていたというから9月7日には北海道に戻っていたのです。この後ネフスキーは9月7日までの間,どうしたのでしょうか。佐々木喜善の日記から拾ってみます。
佐々木喜善の日記に出て来るネフスキー
八月二十日 雨 旅行ニ出ル。柳田先生ニ出会フベク釜石へ
八月三十一日 晴 八戸ヲ立チ、夕方遠野に着、夜家ニカヘル。トコロガ町ニネフスキー君ガ来リイルト云フ。
            明日タマヲ迎ヘニヤルコトトスル。
九月一日 ネフスキー君来ル。会フ早々学問話に耽ル。
九月二日 ネフスキー君滞在ス。
九月三日 晴 ネフスキー君ヲ送ツテ停車場マデ行く。伊能氏モ来ル。
         (刑事が外国人のネフスキー氏が何のために遠野に来たのかを探っている)

ということで,九月三日までネフスキーは佐々木喜善のいる遠野に滞在していたのです。そして九月七日に北海道小樽の自宅に着きましたから,どうやら8月31日に既に八戸に着いていた柳田國男と弘前辺りで再会したのか,弘前という地名が手紙に見えます。とにかく身体の調子も良くなかったのか,ネフスキーは高橋清治郎と佐々木喜善に会って帰ってしまったのでした。

この話つづきます


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昨日と今日-「蛇神の行方」覚書き-

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吹雪

今日は私の「蛇神の行方」用の覚書きから柳田國男の取り上げた蛇の話をお送りします

「神がしばしば霊蛇の形をもって顕現したまい,人間に最もすぐれたる小児を授けたまうということに力を入れた結果,他の一面にその半神半人の小子(おさなご)が最初極度に小さく,後に驚くべき成長ぶりを示して幸福なる婚姻を成し遂げ立派な一氏族の基を開いた」柳田國男「物語と語り物」註より

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昨日の穏やかな湖面

ある百姓夫婦が薬師如来に子を禱ると葦の根を尋ねても茅の根を尋ねてもお前達に授ける児はないのだがあまりに願うゆえに脛に孕む子を一人やろうという夢のお告げがあった。それから女房の脛がだんだん太くなって,月満ちて小指ほどの男の子が生まれた。脛から生まれたからすね子たんぽ子と名を附けた。十五六になるまでちっとも大きくならなかった。それが隣の長者へ行って智恵をもって長者のうば子様(弟娘)を嫁に貰ってきた。

ところが同じ紫波地方で採集した昔話の中に隣の長者どんに嫁を貰いに行く蛇の息子の話がある。明白に蛇聟入りの別の話と結合している。

ある子どものいない百姓の夫婦が雨の日に畑に出ていると,笠の中に小さな蛇が入っていて,何ぼ追うてもまた入ってくる。ちょうど子がないので育てようと思って,家に連れ帰って鉢こに入れて養うておくと,だんだん成長して鉢に入れておかれなくなり,それからは盥に入れて次には馬槽(うまふね)に入れておいた。その蛇息子がある時父母に向かって今夜長者どんに聟に行くと言った。それから後が三人娘の末の方が嫁に来ることになった。

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今日の吹雪 昨日とほぼ同じ場所

ここで娘が蛇の夫を殺して退治するという話を読んだことは私にもありますが,続きはまた違う。

蛇は我が家に戻って藁打石の上に登り,俺はここに寝ているから,その藁打槌で俺の肝を打ってくれと言う。花嫁がそのいう通りにすると肝がパチンと弾けて向こうの隅に行って美しい青年になった。

柳田は次に佐賀県の喜左衛門という百姓の昔話を上げている。
子がないので籾岳神社に願掛けをした。そうすると満願の日に夢のお告げがあって,お前たちにはどうしても子供はできぬ。今日帰り道で最初に足にさわった者を拾い上げて養育するがよいということであった。悦んで下向する路すがら,足にさわった者は小さな蛇であった。驚きながらも連れて帰って可愛がっているうちに小蛇は人間の物を食って日一日と大きくなり,四五年もすると一丈四五尺の大蛇となって附いて歩くので村の人が怖れて付き合ってくれぬ。そこで夫婦は大蛇に,今まではお前を我が子として育てたけれど村の人達が怖がるから一時(いっとき)は身を隠してくれと涙ながらに言って聞かせると蛇は別れを惜しみつつ家を出ていった。それから年月が過ぎ,夫婦も歳を取り働けなくなった頃,田植えの時期になると塩田川の堤防が切れて川下一円の農家で農作業ができなくなった。易者を呼んで占ったところそれは喜左衛門の家の大蛇の仕業である。これからは村々の百姓が少しずつ米を出し合って老いて働けなくなった夫婦を養えば災いは止むと出た。

「うつぼ舟」

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今夜の月

何日か前から「うつぼ舟」について興味が湧いて読んでいる。「うつぼ舟」はまた,「うつろ舟」とも言われている。
「漂着神」と括られる民俗学の領域では流され辿り着いた貴種という物語のベースを形づくっている。
Wikiを読んで見ると次のようにある。
虚舟の伝説の中でも最も広く知られているのは、享和3年(1803年)に常陸国に漂着したとされる事例である。江戸の文人や好事家の集まり「兎園会」で語られた奇談・怪談を、会員の一人曲亭馬琴が『兎園小説』(1825年刊行)に『虚舟の蛮女』との題で図版とともに収録され今に知られているほか、兎園会会員だった国学者・屋代弘賢の『弘賢随筆』にも図版がある。この事例に言及した史料は現在までに7つが確認されており、内容には若干の異同がある[4]。

その内容は概ね以下のようなものである。

・享和3年(1803年)、常陸国鹿島郡にある旗本(小笠原越中守、小笠原和泉守などとされる)の知行地の浜に、虚舟が現れた。
・虚舟は鉄でできており、窓があり(ガラスが張られている?)丸っこい形をしている。
・虚舟には文字のようなものがかかれている。
・中には異国の女性が乗っており、箱をもっている。
柳田國男の「うつぼ舟の話」だと,台湾東岸のパイワン族には美女を朱塗りの箱の中に入れて海に流したという伝承が多いらしい。どこかの海岸に打ち寄せられ,そこで暮らし,または子をなしたという昔話にそっくりそんな話がありそうだ。例えば「竹取物語」などもその話に似ています。何かしらの貴いお方がひょんなことで咎(とが)を着せられ,うつぼ舟に乗せられて流されるというストーリーです。これは現実の世では罪を犯した罪人が遠島の処分となって流される事と共鳴しているようです。このうつぼ舟は形の奇妙さや異国の女が乗っていた,不思議な文字が残されていたということから当時からUFOの存在とからめて話がどんどん大きくなっていったのでしょう。
いずれにせよ,日本の至る所で不思議な「うつぼ舟」が海岸に打ち寄せられたという事例はあります。これが神様の漂着となって祀られることになるという例もたくさんあります。水を介して辿り着くことや水に流すことで神事が完了する行事も津島神社の渡御(とぎょ)を思わせます。私も子どもの頃には盆飾りなどを最後には川に流すように言われていました。

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風車から昇る

写真は長沼の風車から太陽が昇る写真ですが丁度今頃は対岸の新田側では風車から太陽が昇るシャッターチャンスになります。風車のすぐ側のこんもりとした森は津島神社本宮です。一方写真を撮った私は長沼対岸の大形神社付近から撮っています。水を介してサンロードができ,まっすぐ本宮からの日の光が大形神社側に達するのです。津島神社本宮から「うつぼ舟」に乗ったご神体が対岸の新田に流れ着いて上陸するという設定にぴったり合いすぎているように思えます。まずは地図を見てもらうことが分かりやすいでしょう。

時行神社位置関係図時行神社,津島神社本宮位置関係図

風車の建つ津島神社本宮から北西に方位線を延ばしていくと大形神社,時行神社と一直線上に結びつき,更に延ばすとしていくと栗駒山山頂に行き着きます。また反対に南東に延ばしていくと大嶽山を通過します。旧暦の12月始まりの日の光はこの方位線と見事に合致します。何が大切かと言えば,一直線に結ばれる時行神社は津島神社と同じ「スサノウノミコト」を祀っている神社です。つまりこれらのパズルのピースを合わせると津島神社本宮の主尊「スサノウノミコト」は「うつぼ舟」に乗って長沼を渡り上陸して大形神社や時行神社に移った,つまり分霊したとも言えるのではないでしょうか。

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緩んできた長沼湖面

そしてその証拠として地図に石舟戸という地名が見えます。ここは渡し場でした。ここから陸に上がると「入(いり)」という地名なのです。これこそ水から上陸して「入ってきた」所という意味に解されます。イザナギの御子二神を葦舟に乗せて流し去るという逸話や津島神社に伝わる御葦野の神事(定まった場所の葦を刈り束ね,祈祷の後葦束を舟にして水に流す神事)で,その葦束舟(つまりうつぼ舟)が流れ着いた場所に新しく祠を建てたという流れから,ここ風車のある津島神社本宮から流れ着いたことから大形神社,時行神社が創建されることとなった。そして神様が上陸した場所がそのまま「入り」という地名になって残ってきたと考えられます。

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長沼の日の出寸前

今日の話の場合,「うつぼ舟」でありながら,日の出の太陽の光が水面を走るサンロードも重要な役割を果たすことにも思いを馳せることができました。つまり神様の移動は具体的な依り代(よりしろ)となる乗り物「うつぼ舟」,御輿で渡御(とぎょ)すると同時に太陽の光の作る橋(サンロード)によっても移動できるということです。

ちなみに「うつぼ舟」は「漂着神」「貴種流離譚」と結びつきながら多くの共鳴する和声を受け,数々の豊かな物語をつくりだしています。この話を基に書いた澁澤龍彦の「うつぼ舟」は彼が真の優れた物語の話者であったことを改めて思い知らされました。読んで見て下さい。

単純化される世界

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単純化される世界

仏教の考え方やバリエーションは多元的な複雑化と差異を繰り返し,ポリフォニック(多声)と重層化した伽藍を作り上げてきた。
しかし権現から本地仏と本地仏のルールと縁起というか細い糸をたぐり寄せていくと少しずつその陰翳あるラインが顕在化してくる。そういうラインは現実には見えていないラインだが,単純化された世界ゆえのシンプルな美しさを見せる。それは胸のすくような広がりと強靱さで時間を超えて訴えかけてくる。これが写真で表現されたらどんな作品になるのか。

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単純化される世界

現実の現象は隠された本質を連れてくる。私のような凡人はそこに意味を見いだして歪曲して理解しようとするが,とにかくは目の前にさらけ出されている。しかしそれが一体何なのか,分からない。

雪の世界の単純化された風景を見ていると雪で隠される前の複雑でポリフォニック(多声的)な風景を忘れてしまう。
だが,それは何と幸せなことでもある。

己已巳(きいし)

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手持ち夜景撮影 散歩の時に手持ちで星を撮るが,やはり無理がある

今日は「己已巳(きいし)」という何の事やら分からないタイトル
まず読み方から,「己」は音読みで「き」,十干の「己」(つちのと)のことで「己巳」と書いて「つちのとみ」と読みます。
2番目の「已」は「い」,「既(すで)に」の「すで・に」と読みます
3番目の文字は,巳と書いて音読みで「し」訓読みで「み」,「巳年」(みどし)と使っていますね。蛇のことですね。

どうしてこの似ている三文字が気になるのか
石碑を調べていて「己巳供養塔」というのがあります。
私は普通に「己巳」を「きし」と読んできました。間違いはないと思っていましたが,石碑自体には結構「己已」と書かれている場合があるのです。
「巳」なのか「已」なのか
もし「已」だったら昔は「巳」を「已」と書いたのだろうか。そこで早速暦を見てみた。

IMG_9717-4sロゴs己巳の日 暦の真ん中辺り右に書いてあります。赤い線で囲んだところです。「己巳」です。

「己巳」です。
安心しました。

と・こ・ろ・が・・・。
明治二年の暦を見て下さい。
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明治二年己巳年の暦 「己巳」ではないのです。「己已」なのです

 「己巳」ではないのです。「己已」なのです

がっかりです。
石碑で「己已」が多いのはやはり昔の使い方として「巳」を「已」と記していたということになりますね。このことに悩み,どうもすっきりとしない日となりました。