名付けざるものたちの系譜 3

松島 119-2-1gs
12/30 「希望への光」 仙石線 陸前小野-東名

皆様あけましておめでとうございます。
本年もどうぞよろしくお願いいたします。

年の初めからいきなり,前の記事の「コーラ」の話の続きを書くことにしました。すみません。適当に流して下さい。「コーラ」というプラトンのティマイオスの中で出てくる言葉は「場所」と訳されていますが,名付けられているだけで実に不思議なものを差し示しています。「コーラ」という語を再浮上させたのはジャック・デリダで「コーラ―プラトンの場 (ポイエーシス叢書)」として2004年に未來社から出ています。まず本の紹介をみてみましょう。
プラトンの宇宙開闢論『ティマイオス』に書き込まれた特異な語=「コーラ(場)」。「あるときコーラは、これでもなくあれでもないようにみえ、同時にこれでありかつあれであるようにみえる。」あらゆる概念的同一性を逃れ去る、そんな場なき場/その深淵状の謎をデリダが読み解く。今日、われわれは、みずからの“場”をどのように名づければよいのか?哲学のみならず、フェミニズム、建築の思考に深い影響を及ぼした事件的書物、翻訳刊行。
何を言おうとしているのか分かりませんね。

ここで書かれていることからちょっと引用していきます。

・「コーラこそは、みずからを刻印するありとあらゆるものの記入の場を象るものなのだ」
・「コーラは、なにかある主体ではない。それは主体というものではない。基底材でもない。解釈学的諸類型がコーラに情報=形をもたらすことができるのは、つまり、形を与えることができるのは、ただ、接近不可能で、平然としており、アモルフで、常に手付かず=処女的、それも擬人論に根源的に反抗するような処女性をそなえているそれが、それらの類型を受け取り、それらに場を与えるようにみえる限りにおいてのみなのである」

「コーラ」の特徴を一生懸命言おうとしていますが,コーラ自体は,文字化されたり,形容されることを嫌っているもののようです。
デリダはこの「コーラ」のイメージを「たとえば砂や水の表面に、反射によって何かが映し出され、訪問者の動きによって形が変化し、なにも痕跡を残さないような仕組み」と考えているようです。接近する人や観察者,注視などの存在によってコーラ自身はすぐその影響を受けて変幻自在に変態(メタモルフォーゼ)を繰り返すような存在です。高感度で,柔らかく,些細なことでもすぐ変化してしまうようなイメージでしょうか。もちろん把握不可能な空間に溶け込んで物質としての特性を持たない,奇妙きてれつなものです。しかし,静止した時間ではその存在すら観察不可能で,ある運動の中で顕現してくるようなものです。

ここで,もう一つコーラを説明する文章を読んでみましょう。
「コーラはありとあらゆる限定を、それらに場を与えるべく受け取るが、その限定のうちのどれ一つとして固有のものとして所有することはない。コーラはそれらを所有し、それらを持つ、というのも、コーラはそれらを受け取るからだが、しかし、それらを固有性として所有することはなく、何一つ固有なるものとして所有することはない。コーラとは、まさに、そのうえに、その主体に、それも、その主体にじかに、みずからを書き込みにやって来るものの総体ないしプロセスであるわけだが、しかしそれは、それらすべての解釈に還元されることはないのである」
どうやら外界からの刺激を受け取ると,その刺激に反応して場を提供するような役目を持っている感じがします。それもゆらぎのような「場」として,生成してくるようです。これらは解釈や二次元的な語法や思考の中に取り込まれることもなく,およそ生まれ出る,生成してくる者に場を与え,生成することを許すような存在なのでしょう。
この辺りの表現は実にデリダ的で,因果関係に即して語るというよりは,ひとつの芸術作品を仕立てているような記述の仕方です。デリダは更にこう言っています。「宇宙に震動を与える 篩 (ふるい)として「比喩」として発想されたものであり、この篩が水平でも垂直でもなく、斜めに置かれている。それは篩であると同時に一種の弦楽器にも似ていて、コーラをコーラル(合唱的)なものとするというのだ。」すべての生成を許す場として,波長を合わせながら(合唱的に),生まれ出ようとするものの形象化を司り,許可する存在とも言えます。

私はこのような形容することが難しい,世の中で確たる存在の位置をも認められていないものたちを「名付けざるものたち」と見てきました。

以前の記事
「名付けざるものたちの系譜 その1」( こちら )
「名付けざるものたちの系譜 その2」( こちら )
 
1230iss-2s.jpg
曇りゆく空にISS

たとえば昔から言われている魂という存在です。折口信夫の言葉を読みましょう。
天中を行き経る遊離した魂,神が降らせた魂が人体の中府に降りて触れた魂を殖やし整えるということである。
こうして殖え整えられた魂が活動する力をもち、その余韻が威勢をもって外に放たれるのであり,「触(フル)」「威(フユ)」「振」は神を識り、聡く明るく身体剛健、寿命長遠の神術であると説いている。

                                       「折口信夫の霊魂論覚書」小川直之 から
降り注ぐもの(魂)を受け止め(誕生する),慈しみ育て(成長),増やし(子どもをつくり),やがて離れる(死ぬ)。自然界におけるあらゆる生き物の誕生から死までの運動体系をアナロジカルに表現しているのです。この考え方は,現代では古いアミニズムと呼ばれています。しかし自然の運動性を語る上で,この考え方ははきわめて効果的に思えます。何も古いアミニズムだからと排除せず,科学的な記述だけに偏らず,自然の生成と運動にシンクロする記述も存在しています。実はこの存在や運動の始まりを記述する周辺で「名付けざるものたち」が発生しています。コーラはそうした記述や言葉が生まれ出る,世界の始まりを支える存在としてこの世の発生を下支えする機能を持っているのです。

海沿いにて 227-2s
新しい年へ向かう女川駅

どうやらこのコーラは,無から有への場の発生やその運動を司る存在論の基礎に当たるものかもしれません。このコーラという存在論のエネルギーを自然の中に適用させると,誕生,生長,繁殖,死という生物の各ステージを生命という現象で説明できるのです。

月光 056-2s
13の月光を受けて 12/30 東北本線 新田-石越

この話はまたに続きます。

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柳田国男読み直し-日曜の蕪栗沼-

桜日曜 387-2s
11/19日の出

私は宮城県北に生まれ宮城で生活してきて,この地域独特の歴史に興味を持ってきました。地元の歴史を考えながらこのブログに備忘録を兼ねて修験道や神楽,伝説,農民史,宮沢賢治などを記してきましたが,どうもこの頃自分の見方や考え方に根本的な見直しが必要だと思うようになりました。

特に中世期の村々の葬送の手続きなどは誰がどのように行われてきたのだろうと考えると,宗派仏教の定着する前のことが気になるのです。その姿が,今日の遠野に残っている隠し念仏に現れています。隠し念仏は寺社で僧侶により葬式が執り行われ,その後に家に戻り,そこで村の衆がこっそりと弔いの念仏をあげていたのです。寺の住職はそのことも薄々は知っていただろうし,檀家である村の衆も公にはせず,ひっそりと執り行っていたので「隠し」念仏と名付けられたのでしょう。
このように意図的に隠さなければいけなかった葬式が何百年も連綿と続いてきたのはどうしてでしょう。

どうも中世期の村落共同体の葬式が寺の僧侶ではない,代わりの者が代表になって取り仕切ってきたと考えられます。ただ代わりの者ではなく信頼され,葬式の儀式や仏教のことをきちんと心得ている村の者が取り仕切ってきたのでしょう。それらの儀式はやがて東北の地に訪れる宗派仏教の波に洗われ,包み込まれ,塗り替えられていったのだと思われます。浄土宗や浄土真宗,天台宗,日蓮宗と次々と塗り替えられてその様式や教典の一部などがミックスされた形で「隠し念仏」の中に残ってきたのだと思います。ここに羽黒修験や全国を渡り歩く勧進聖(ひじり)などが残していく教えなども混じり合います。それを内藤正敏氏は読みほぐしていこうと成果を上げてきています。その視点は素晴らしいもので,例えば遠野の隠し念仏の中に残っていた不思議な呪文

阿字十方三世仏
弥字一切諸菩薩 
陀字八方諸聖経 
皆量阿弥陀仏
が,神呪経の一節であったことを突き止めました。では,この宗派仏教の僧侶には殆ど知られていない呪文が,どのように遠野にもたらされたのかについて,山形の竹田賢正氏が「板碑偈文「阿字十方」の伝承系譜について-民衆念仏信仰研究の一視点として-」で,日蓮宗に改宗した高野聖の存在を挙げている。ここで大切なのは勧進聖や廻国聖,高野聖などの存在です。つまり土着していない渡り歩いていく僧達の存在です。それらが下地にあって宗派仏教が定着してきたと考えるのが妥当でしょう。
では村々で葬式などの厳粛な儀式を執り行っていたのは誰か。
これが僧侶の代わりとなった「善知識」(浄土真宗)と言われる人でしょう。ある程度の仏教の知識と修行を積んだ先導ができる村の者だったりします。その村に「善知識」がいなかったら隣村にいる「善知識」に来てもらうということもあつたでしょう。
これが私の勝手な理解でした。この流れで読み解こうとしていました。ところが・・・。

桜日曜 607-2gs
11/19蕪栗沼

先日宮沢賢治と同郷の花巻出身の山折哲雄の「これを語りて日本人を戦慄せしめよ: 柳田国男が言いたかったこと} (新潮選書)2014/3/28発行を読んでいたときに,柳田国男の「遠野物語」から「山の人生」までの15年間の論考に焦点をあてて見ると

イカタ及びサンカ1-3 明治44-45
巫女考1-12 大正2-3
山人外伝資料1-5 大正2-6
所謂特殊部落の種類 大正2
毛坊主考1-11 大正3-4
俗聖沿革史1-5 大正10
と柳田国男の決定的な考え方を集中しているのがこの時期だと気付かされたのです。柳田国男は仏教で重ね塗りされて見えづらくなった部分を敢えて避けてこう言います。

「社僧,仏僧が先行して俗聖が出現したのではなく,俗聖の系譜が先行して社僧,仏僧が歴史の舞台に登場する肉食妻帯の風は俗聖の発生とともに古い。」と言うわけです。

つまり民衆とカミ・仏を媒介する生活技能者としての「善知識」がいて,それらの人達が渡り歩いたり,土着したりして仏教の中に組み入れられて「粉飾を施されていった」という視点です。これが「毛坊主」(有髪妻帯肉食の坊主)です。これは生活あっての神仏であるということです。信仰はとにかく生活の次ということです。

この視点でいくと,遠野の「隠し念仏」も読み直しが迫られることになってしまいました。自分にとってはちょっとショックです。


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初日の出を見て

元旦2017 017-2s
元旦の初日の出の光 石巻線にて

2017年の初日の出がに懸かった雲からまばゆい光を注ぎ始めました。
それは神々しく,この世のすべてのものを平等に照らし出しているのです。
線路脇に立っていた私にもその赤い光は頬が熱いと感じられるほどでした。

『無量寿仏観経』には,精神を統一して浄土と阿弥陀仏や菩薩たちを観想する13の観法が説かれています。その最初の行が「日想観」と言われる集中して沈む太陽を見つめる行です。
みな日没を見よ。まさに想念を起し正坐し西向して、あきらかに日を観じて、心をして堅住ならしめて専想して移らざれば、日の没せんと欲して、状、鼓を懸けたるがごとくなるを見るべし。すでに日を見ること已らば、閉目・開目に、みな明了ならしめよ。これを日想とし、名づけて初めの観といふ。
聖徳太子が創建した四天王寺の辺りは大阪湾の方向に沈む夕日を眺める絶好の場所で,毎年春分の日と秋分の日に日想観の法要が執り行われます。沈む夕陽から阿弥陀如来が現われるという信仰は美しい作品も生み出してきました。また太陽や月に合わせて阿弥陀様が現われる越阿弥陀来迎図です。国宝もありますが,折口信夫が冷泉為恭筆の阿弥陀来迎図について書いていますから,見てみましょう。

山越阿弥陀来迎図
四天王寺西門は、昔から謂われている、極楽東門に向っているところで、彼岸の夕、西の方海遠く入る日を拝む人の群集したこと、凡そ七百年ほどの歴史を経て、今も尚若干の人々は、淡路の島は愚か、海の波すら見えぬ、煤ふる西の宮に向って、くるめき入る日を見送りに出る。此種の日想観なら、「弱法師よろぼうし」の上にも見えていた。舞台を何とも謂えぬ情趣に整えていると共に、梅の花咲き散る頃の優なる季節感が靡なびきかかっている。「越しの阿弥陀像の画因」から

現在の四天王寺で行われている日想観法要は2001年に復活したそうですから一旦なくなっていた行事が再興されたんですね。お彼岸の中日に執り行われるこの法要は何も寺だけでなく,庶民でも「日迎え・日送り」の行事として一般に行われていたことでした。宮城県でも名取に「名取老女」という話があります。
私が前に書いた記事から出します。
遠い昔。
陸奥の国,奥州名取郡に名取老女というお年寄りの女の人が住んでおりました。
名取老女は,大変信心深く,毎年,遠い熊野まで詣でることを欠かしませんでした。
その年も連れと共に熊野の那智の宮までやって来ました。するとあいの方から紫色の雲が湧き上がり,その雲の上に忽然と阿弥陀如来が現れたのです。

この話は,またたく間に有名になり,伝説となって行きました。
なぜ宮城のただのお年寄りの体験が伝説にまでなれたのでしょうか。

この名取老女の作った歌が,「熊野御歌」として,平安末期(1125)成立の藤原清輔の歌学書「袋草子」に出ているからです。

「道遠し年もやうやうおひにけり思いおこせよ我も忘れし」
是陸奥ノ国ヨリ毎年参詣シケル女ノ年老イ後夢ニ見歌也

名取老女は,歌詠みとしても有名だったのかもしれません。それとも阿弥陀如来に親しくお会いした人ということでセンセーションを起こして,時の人となり,その時の歌が取りあげられたのかもしれません。

更にこの出来事は,大きくなり,動かぬ伝説として,世阿弥の謡「護法」の中に「名取老女」として出て来ることになります。

現代で言えば,名取老女という人は大ヒロインでしょう。
このようにして一枚の仏画が描かれることになったのです。
この話に出てきた仏画が「熊野権現影向図」 京都 檀王法林寺蔵,元徳元年(1329)です。
熊野信仰 002s熊野権現影向図 京都 檀王法林寺蔵,元徳元年(1329)

ここで太陽の運行や日の出,日の入りが祭り事に欠くことが出来なかった暦や暦法に繋がっていったことは明らかでしょう。
役職と日奉部ひまつりべ(又、日祀部ひまつりべ)なる聖職の団体で、その舎人出身なるが故に、詳しくは日奉大舎人部とも言うた様である。此部曲かきべの事については、既に前年、柳田先生が注意していられる。之と日置部・置部など書いたひおきべ(又、ひき・へき)と同じか、違う所があるか、明らかでないが、名称近くて違うから見れば、全く同じものとも言われぬ。日置は、日祀よりは、原義幾分か明らかである。おくは後代算盤そろばんの上で、ある数にあたる珠たまを定置することになっているが、大体同じ様な意義に、古くから用いている。源為憲の「口遊くゆう」に、「術に曰いはく、婦人の年数を置き、十二神を加へて実と為し…」だの、「九々八十一を置き、十二神を加へて九十三を得……」などとある。此は算盤を以てする卜法である。置くが日を計ることに関聯していることは、略 疑いはないようである。ただおくなる算法が、日置の場合、如何なる方法を以てするか、一切明らかでないが、其は唯実際方法の問題で、語原においては、太陽並びに、天体の運行によって、歳時・風雨・豊凶を卜知することを示しているのは明らかである。「越しの阿弥陀像の画因」から


この考え方が現代でもダイヤモンド富士やパール富士の貴重さに繋がっている感じがします。
富士山の今年の春分の日(3月20日)にダイヤモンド富士はどこから見ることができるのでしょうか。調べてみました。

山梨県の七面山敬慎院前展望地付近,6時9分頃 「信仰の山」とされていて宗教色が強く見られるため、非常に特殊な山です。
ライブカメラが設置してあることから、カメラマン知名度も高いです。撮影ポイントは標高およそ1720m地点にある展望地。
背後に隋身門という門があり、ライブカメラはここに設置されています。HP「富士山とともに」から
山梨県にある標高1983mの七面山の本社随身門から富士山頂から太陽が昇るのを見ることができます。

この七面山はもともと真言宗の霊山でした。太陽信仰と修験道も深く結びつきます。

そこで世界遺産の平泉にもこのような太陽に関した信仰の跡が見えるのか。考えたいと思います。平泉といったら近くの束稲山が展望地となります。そこで束稲山から春分の日の日の入りが見える目印になる山はないかとカシミールで調べてみました。

平泉から栗駒山へ沈む太陽0306
束稲山から見た落日 栗駒山頂に沈むのは3月6日でした。

平泉のように自然地理条件から見た都市の形成や修験道と山岳との関係を解きほぐす作業が必要です。


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竈神の誕生2-冬空-

年末休み 288-2s
冬空

いくぜ!東北のポスターのようになりましたが,テーマは冬の青空に広がった雲です。
今年もいよいよあと一日となりました。
みなさんにとって来年はもっとよい年となりますように。
今日は先日取り上げた竈神の話の2回目です。よろしくお付き合いください。

かま神 083-2s
登米市平筒沼農村文化自然学習館蔵 竈神NO.10

登米市の平筒沼のほとりにある平筒沼農村文化自然学習館に行くと,豊里町に残っていた60面の竈神のうち有形民俗文化財に指定された20面の竈神を見ることができます。宮城県の有形民俗文化財に指定された竈神は全部で38面あり,東北歴史博物館に8面,塩竃神社に10面保存されているそうです。
登米市の竈神は壁材の土で作られていることが特長です。栗駒や仙台周辺では木を彫ったものが多く,壁土でできた竈神は宮城県北部,岩手県南部にしかありません。そして竈神の分布は新潟以北の東北地方,その中でも宮城北部,岩手南部が最も集中しています。
 
写真を見て分かるように,目はアワビの貝殻を使ったり,おちょこを裏返していたり,時代が新しくなるとガラスも使われていたりします。歯も同じ材料です。ひげもあったり,頭に縄を巻いていたりします。これを竈近くの柱の上部に取り付けてかまど神のように祀っていました。つまり火の神として祀られてきました。大きさとしては,縦が最大の62cmで,大体は縦40-50cmのものが多いです。

19yumefes.jpg
私が訪ねた時には,来年3月4日と5日に「竈神様の置き土産-豊里町町おこし物語-」という創作劇が上演されるそうで,上のパンフレットをもらいました。

さて,竈神は火の神,火防の神ということですが,その起源が昔話に多く残っています。読んでみましょう。
芝刈りの爺さまが山の大きな穴に住んでいた白髪の翁から,醜い顔でへそばかりいじっている童をもらってきた。爺が火箸でへそをつつくと金の小粒が出てきた。一日に三度,金の小粒は出てきて爺さまの家は大金持ちになった。しかし,欲張りな婆さんがもっともっととつついて,とうとう童は死んでしまった。爺さまが悲しんでいると童が夢枕に現われ,「おれに似たお面をつくって竈の前の柱にかけていれば,金持ちになる」と言った。その通りにしたらまた金持ちになった。童の名は「ひょうとく」といった。
この話で,まず「醜い童」が登場します。醜いというよりはこちらでは「めぐせえわらす」と言って,どこか道化的な,温かみのある感じの子どもという意味も持っています。
もう一つ竈神の話を読んでみましょう。
「遠野物語」の話者,佐々木喜善の「江刺郡昔話」に「ひょっとこの始まり」という話があります。
ある所に爺と婆があった。爺は山に芝刈りに行って,大きな穴を一つ見付けた。こんな穴には悪いものが住むものだ。塞いでしまった方がよいと思って,一束の柴をその穴の中に押し込んだ。そうすると柴は穴の栓にはならずに,するすると穴の中に入っていった。また一束押し込んだがそれもそのとおりで,それからもう一束,もう一束と思ううちに,三月ほどのうちに刈り込めた柴をことごとく穴に穴へ入れてしまった。その時,穴の中から美しい女が出てきて,たくさんの柴をもらった礼を言い,一度穴の中に来てくれと言う。あまり勧められるので,爺はつい入ってみると中には目の覚めるような立派な家があり,その家の側には爺が三月ほどもかかって刈った柴がちゃんと積み重ねてあった。
美しい女にこちらに入れと言われて,爺は家の中に入ると立派な座敷があり,そこには立派な白髭の翁がいてここでも柴の礼を言われた。そして種々ごちそうになって還る時,これをしるしに遣るから連れて往けと言われたのが一人の童(わらし)であった。それは何とも言えぬみっともない顔の,へそばかりいじっている子で,爺も呆れたが,ぜひ呉れるといわれるのでとうとう連れて還って家に置いた。そのわらしは爺の家に来ても,あまりへそばかりいじくってばかりいるので,爺はある日火箸でちょいと突いてみると,そのへそからぷつりと金の小粒が出た。それからは一日に三度ずつ出て,爺の家はたちまち富貴長者になった。
ところが婆は欲張りな女でもっと多く金を出したいと思って,爺の留守に火箸を持ってわらしのへそをぐんと突いた。すると金は出ないでわらべは死んでしまった。爺は外から戻ってこれを悲しんでいると,夢に童が出てきて,泣くな爺さま,俺の顔に似た面を作って毎日よく眼にかかるそこの竈前の柱に懸けて置け。そうすれば家が富み栄えると教えてくれた。この童の名前はヒョウトクと言った。それゆえにこの土地の村々では今日まで,醜いヒョウトクの面を木や粘土で造って,竈前の釜男(カマオトコ)という柱に懸けて置く。所に依ってはまたこれを火男(ヒオトコ)とも竈仏(カマホトケ)とも呼んでいる。


かま神 082-2s
登米市平筒沼農村文化自然学習館蔵 NO.21

竈神の起源譚はこのようにまるでおむすびころりんのように地下の世界や海の竜宮城から帰ってくる浦島太郎に似た話として,関敬吾の「日本昔話大成」では「竜宮童子」型の話と分類されています。つまり,穴や海や川に薪,柴,門松,花などを投げ入れて,そのお礼に水神から子どもをもらいます。このお礼に贈られるものは,犬やネコなどの動物は四国地方や九州に多く,新潟以北の東北地方に多いのが「童」であるといいます。 宮城県では竈神に関した話に限った中でも,お礼に贈られた童が「みにくい子ども」「ショウトク(3)」「ショウトグ」「ショウドグ」「見たくねぇ顔付きの童」と共通しています。

さて,主人公の「見たくもない子ども」を佐々木喜善の聞いた話では「ひょっとこ」,宮城では,「ショウトク(3)」「ショウトグ」「ショウドグ」というのでしょうか。
内藤正敏は「東北竈神のコスモロジー-火神・水神・金属神-」で言います。「ショウトク(3)」「ショウトグ」「ショウドグ」は聖徳太子のことを言っているのではないか。つまり太子信仰が奥底に流れているのではないかと。喜善の言った「ひょっとこ」はどうでしょう。「ショウトク」「ヒョウトク」「ヒョットコ」と語音が転じていると考えます。確か,ある民俗学者が「ひょっとこ」面の竈神があるはずだ。探せ,と言った話があるそうです。言葉の転じ方を考えなくてはいけませんね。ひょっとこ面の竈神はないでしょう。

かま神 112-2s
登米市平筒沼農村文化自然学習館蔵 NO.5

ここで子どもが見かけはよくなくても,福をもたらす神となっている物語で思い出す話に西行伝説があります。
日本三景の松島に「西行戻りの松」があります。
西行が松島に来て『月にそふ 桂男(かつらおとこ)のかよひ来て すすきはらむは誰(た)が子なるらん』 と詠みました。
すると農作業の途中だったのか男の子が出てきて,『雨もふり霞もかかり霧もふりて はらむすすきは誰れが子なるらん』 と詠んだのです。西行はその歌の返しの巧みさに驚いて,そなたは何をしているかと尋ねると,男の子は「冬萌(ほ)きて夏枯れ草 を刈っている」と答えたのです。
「冬萌(ほ)きて夏枯れ草」とは何のことを言っているんでしょう。子どもが西行に謎かけをしているんですね。同じ話が宮城県遠田郡箟岳のの岳福島県いわき市,山形の米沢市に栃木県日光市にあるのです。西行は「冬萌(ほ)きて夏枯れ草」が何のことか分からず全国津々浦々で謎かけをされて閉口して引き返すわけです。ですから「西行戻りの松」と言われます。
実際,「冬萌(ほ)きて夏枯れ草 」とは何のことだと思いますか。私は「麦」ではないかと思ったのですが・・・。麦は寒い冬に青々として夏に収穫の時期を迎えるからです。
西行戻りの松だけではありません。西行戻しの涙坂(米沢),西行戻り石(日光市),西行戻しの石(箟岳)とまだまだあります。
青森の弘前にもこんな話が残っています。西行が「磯辺のわらはどハマ馴れてオキ来る波の数覚えたか」と童(わらべ)に聞くとその童がすかさず「西行は宿がなければ野に寝たり空出る星の数覚えたか」と返すわけです。西行は子どもにしてやられるわけです。(2015/8/25の記事「西行こぼれ話その三」から
とんちで西行をやっつけるのは小さな子ども,つまり童です。
聖徳太子は仏教を広めた天才としてしばしば伝説の人となり,信仰の対象ともなっています。ではどうして竈神と聖徳太子が結びつくのか。
その関係を知るために,もう一つ立ち寄らなければいけないところがあります。
遠野の「まいりの仏(十月仏)」についてです。
次回はその話をしましょう。



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竈神の誕生

夕方天皇誕生日 093-2gs
の力強さ

今日はイブなんですね。
私はどちらかというと,どんちゃん騒ぎのクリスマスは嫌いで,静かな北ドイツや北欧のクリスマスに憧れます。
「バベットの晩餐会」という傑作映画がありましたが,あのような雰囲気がいいんです。(過去の記事での「バベットの晩餐会」は こちら )

ところで,内藤正敏「東北の聖と賤」を読んで,この人はつくづくおもしろいと思いました。今まで「遠野物語」や菅江真澄や東北の宗教史を読んできて,実は語られていない空白部分に正直苛立ちを感じてきました。この空白部分というのは,民俗学の成果と歴史学の成果と仏教史の成果が交叉する地点ですから,それらを絡め取る該博な知識が要求される部分です。「遠野物語」と遠野の研究で素晴らしい業績を上げた内藤氏はこの部分に分け入り,大切なポイントをはずさず圧倒的な推理を該博な知識で緻密に編み上げていく興奮があります。東北を語る上で赤坂憲雄氏以上の逸材と思います。現在,赤坂憲雄氏と内藤氏がそろって東北芸術工科大学の東北文化研究センターにいることは幸せです。正直この大学に入りたいと思います。なんと学長が「遠雷」の根岸吉太郎監督なんです。

これから数回にわたり,内藤正敏「東北の聖と賤」を辿るようにして,「かま神」を取り上げたいと思います。「かま神」は宮城県から岩手県にかけてかまどの所に祀られていた木や壁土でつくられた男の神さまです。
内藤正敏

かま神 083-2s
竈神の目

まず,かま神は漢字では「竈神」と書きます。特に「竈」という字は難しいです。大きくするとこうなります。
「竈」と書きます。火を使い,煮炊きするかまどのことです。ですから竈神は火の神さまです。どうして特に竈神は新潟県以北の東北地方,その中でも宮城県北部と岩手県に集中しているのでしょう。竈神の話を聞きましょう。
芝刈りの爺さまが山の大きな穴に住んでいた白髪の翁から,醜い顔でへそばかりいじっている童をもらってきた。爺が火箸でへそをつつくと金の小粒が出てきた。
一日に三度,金の小粒は出てきて爺さまの家は大金持ちになった。しかし,欲張りな婆さんがもっともっととつついて,とうとう童は死んでしまった。爺さまが悲しんでいると童が夢枕に現われ,「おれに似たお面をつくって竈の前の柱にかけていれば,金持ちになる」と言った。その通りにしたらまた金持ちになった。童の名は「ひょうとく」といった。

豊里のかま神-2
登米市豊里町の竈神  東北歴史博物館所蔵の8面の内の一つ

豊里町の現存する竈神は60面。その内38面が宮城県有形民俗文化財に指定されている。20面が平筒沼農村文化自然学習館で見ることができます。残りの8面は塩釜神社にあるそうです。

さて話に出てきた醜い童は「ひょうとく」と呼ばれています。挙げた「東北の聖と賤」の中の「東北竈神のコスモロジー」では宮城では「みにくい子ども,ショウトク3件,みたくねぇ顔付きの童,ショウトグ,ショウドグ」と呼ばれています。どうして「ショウトク」なのでしょう。

結論から言えば「ショウトク」は,聖徳太子の「ショウトク」ではないかと内藤氏は推測しています。
太子信仰との結びつきです。

(この話は続きます)


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