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オシラ遊び2

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山道に光差す

先回のオシラ遊びの様子の続きです
オカミサン(巫女)が両手にオシラサマを持ち,人形遣いのように動かしながらオシラ祭文を唱え始めました。
長者の一人娘が馬と仲良くなり,その果てに馬は殺され,皮を剥がされます。

「手に取ればこそ手になづーて遊だ神かな
そもしもしらわの御本地 くわしく読み上げたのみたてまつる
昔 まんの(満能)長者とてありかの長者こと姫君一にもたせたもたのもだてたも
ひとり姫ことなれば昼はかげんのざしき
夜はかいごの遊び いげをかじげを かぎりなし
しかりに 満能長者の厩に
千だん黒毛 いつの名馬とて つながせたも
かくて 歳月ふろほどにたつ姫君もー 十六歳にならせたもとゆう
ときは つかじきいかに にょうぼたつ 今年十六歳になりよけば
いままで 馬屋へおりて名馬 見物いたしたりことはなし
父母に おんめいはからいしのばせよとありければ
ざしきあいだにおんことてやいのびょうぶでしのばせたもなり
かおーどいじくしくめいばもさらになし 人間のみみなら 一夜の契り
ほめびきぞ あいそーつさいどゆうべきものとて 千だん黒毛
かすみのぶつて三度なでたせたもう」

男オシラは馬,女オシラは一人娘。やがてオカミサンの腕の中で小刻みにほろかれる度に二人のオシラ神はかすかに息をして,やがて二人の恋の炎が燃えさかっていく様子が分かる。その悲しい恋が女達の心にはっきりと浮かび始めた。何度聞いても前聞いた時とは違っている。年を重ねる毎に恋の情緒は激しくなり,悲しみは一層頭いっぱいに広がってくる。
八才になった若にもその遂げられることのない恋が分かる。この世には遂げることのできない命があることも八才なりに感じられる。女オシラ神が小刻みに身体を震えて泣くときは若も一緒に泣くのだと,心構えもはっきりしていた。オシラ祭文はいよいよクライマックスへと走っていく。若は母親の手をしっかりと握り,悲しみに耐えようとした。

「怒り罵り蘆毛の駒を引起させ ひらくべてうとはね落とし 皮を剥いで戌亥の方に 洒ざ給候へければ 不思議や其皮頗りに動いて 大地へ揺り落ち 玉世の姫の寝間へ飛び くるくると娘を捲きしめ給へば 折節まき風しきりに起りて 虚空へ捲上げ行方知れず候ひければ・・・」

泣いてこの世を去らんという者は,なぜにこれ程悲しいものか。

pho1_1361594770志津川新井田オコナイサマはオシラ神
南三陸町志津川新井田オコナイサマはオシラ神

岩手県ではオシラサマは元々オコナイサマと呼ばれ,目の神様でもありました。
オシラ遊びの流れとしては
1 祭壇づくり,お供え物を用意し,オシラサマを祭壇に祀る
2 オセンダク 新しい着物を着せる
3 イタコのオシラほろぎ(オシラ祭文)  ほろぎは「(オシラサマを持って)揺り動かす」という意
4 イタコの託宣 (占ってもらい,気を付ける月日などの指導を受ける)
5 イタコによって,オシラサマが身体の痛いところや具合の悪い処をさすってもらう
6 会食,オシラサマをおんぶしたり,撫でたりして喜んでもらう

柳田國男はこの独特な「オシラ遊び」の存在についてその意図が理解しかねる言い方を「大白神考」で何回かしています。
確かに簡単に神様に触ったり,神様に喜んでもらう,遊んでもらうためにだっこしたり,おんぶしたりすることは神事ではあまり多い事ではありません。例えば,イタコの指導でこのような「オシラ遊び」が行われるようになったと考えれば,なんでもかんでも理由をイタコやオカミサンの行法にこじつけてしまうという怖れもあります。簡単に理由付けを行えば,本来の「オシラ遊び」が発生してきた姿も見えなくなってしまいます。
このオシラサマ信仰は,実に複雑に信仰の様相が組み合わされ,ハイブリッド化しながら伝えられ,進化を遂げてきたと考えられます。ただこれ程広い範囲で行われることになったのは,やはりイタコの存在が大きいとも言えそうです。

私が想像逞しくしてみると,どうも人形(ひとがた),ヨンドリ(秋田),天兒(あまかつ)や這子(はいこ),オシラサマ,薩摩雛(さつまびな)などの木偶,土偶類のクグツ人形(傀儡)を連想させる。
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天兒(あまかつ)と這子(はいこ)

イタコがオシラサマを両手に持ち,オシラ祭文を唱える様は,まさに傀儡師(くぐつし)そのものの技法ではないだろうかとも思わせる。
ではお雛様とはどう違うのだろうか,この辺も上巳の節句の行法が日本古来のクグツによる信仰と溶け合いながら日本独特の信仰に発展してきたとも思わせる。女達と巫女,女達のひな祭り,そして女達と山の神信仰とバリエーション(変異)を繰り返してきた形式がオシラサマ信仰,そしてオシラ遊びの中に,女達の幸せへの願いが脈々と受け継がれていったのではないだろうか。

この話は続きます

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オシラ遊び

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朝のガンの飛び立ち 12月1日撮影 蕪栗沼

いつも難しく書いているので,今度は読みやすく「オシラ遊び」についてを物語仕立てにしてみました。分かりやすくするために古い写真も入れてみました。写真は「いわてオシラサマ探訪」(岩手県立博物館調査研究報告書第23冊 2008)からコピーしました

登場人物は 八才の女の子「若」
親戚の女達
オカミサン
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山田町 昭和54年旧正月十六日 佐々木宅 オシラ遊びの様子がよく分かりますね 二体のオシラサマをおんぶして,遊ばせています

オシラ遊び

「お母さん。わたし,オシラサマ大好き」
オシラサマを背負ってにこにこと座敷を一回りしてきた若は顔を紅潮させ,息をはずませながら母親に言った。
「よかったわねえ」若の母もにこにことして,八才になった娘,若のおんぶひもを解いて,背中からオシラサマを下ろし,幼い胸に抱かせてあげた。
「きれいなオセンダク」
新しいオセンダクは,昨年本家から佐々木家に嫁に行った千代が持って来た物だった。その切が余程気に入ったのかオシラサマの表情が去年よりずっと明るく,嬉しそうに見えることは,集まった女達の皆が口々に揃えた。若もそう思った。私もオシラサマのように褒められたい,そしていつか綺麗な着物を着て千代さんのようにお嫁に出たい。
今日は正月十六日。オシラ遊びの日である。昨夜降った雪が午後の日の光を受けて眩ゆく座敷の障子を一際白くしていた。オカミサンのふでは,八才になる若がオシラサマを背負って座敷を所狭しとくるりと回る度に湧き上がる女達の歓声に合わせて,若に拍手を贈った。三才の時に失明して,十年以上も修行してオカミサンになったふでは目は見えないが,若を透視して眩しそうな目をして言った。
「若は身体からいい力が出ているねえ。明るく,透き通っている強い光だ」
オシラサマは一通り次々と女達の手元を去ると,オカミサンのふでの所に戻ってきた。ふでは,新しい青い正絹を纏っている男のオシラサマを右手に持ち,左手には鮮やかな紅い正絹に花が大きく染め出されていた女のオシラサマを持って双方の顔を覗き込むようにして,ひと息するとオシラ祭文を唱え始めた。どこか切ないが朗々とした声が正月十六日の早傾きかけている日の光を通して,座の雰囲気を厳粛にさせた。

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山田町 昭和54年旧正月十六日 佐々木宅 オシラ遊びの様子がよく分かりますね 二体のオシラサマをだっこしたりしてあやして,遊ばせています

この話は続きます


オシラサマの祭日について

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マッスに挑む 今朝11月29日 蕪栗沼

今日もオシラサマについての話の続きですが,特にオシラサマの祭日について書いてみたいと思います。
オシラサマについては,あの柳田國男も「大白神考(おしらがみこう)」であれやこれやと逡巡しながらだらだらと文庫本で219ページ余りも書いています。それだけ難しいんだと思います。親友ニコライ・ネフスキーが突然ロシアに帰ったと思ったら,全く音信不通になり,結局はスターリンの粛清で彼も,そして妻のイソさんも殺されていたと分かったのは昭和26年頃ではなかったでしょうか。オシラサマでつながっていたネフスキーと柳田。もう躊躇はしていられない。ネフスキーの深い学問を思い出の国,日本で残してあげたい。そう柳田は決心して書き始めたのでしょう。

まずはオシラサマの岩手県での分布図からです。
1591085241オシラサマ
「岩手のオシラサマ分布図」いちのせき市民活動センター「伝説調査ファイルNO.6「オシラサマ」」から

岩手だけではなく東北六県,更に全国的にオシラサマとは言わなくても同じような信仰が残っています。これは,すっかりオシラサマが養蚕だけではなく,庶民の生活そのものまで浸透していたといってもいいでしょう。つまり祈祷,占い,神降ろし等を執り行う巫女によって村の津々浦々まで入り込んでいたのでしょう。大正九年のネフスキーの登米市来訪に伴い,高橋清治郎が見つけただけでも佐沼中心に六人の巫女がいて,すべてオシラサマを祈祷や神降ろしに使っていたのですから,大正になっても信仰の一般化がかなり進んでいたと思われます。そしてその信仰が女性中心に行われていたと言うことも生活に深く入り込んでいたと思わせます。
さあ,そこでオシラサマの祭日です。これがいろいろですが,およそ「正月十六日」「三月十六日」「九月十六日」の三回になるというのです。年に三回も祭日があること自体が珍しいです。
まず,「正月十六日」ですが,「オシラサマ遊び」の日です。当然十六日は月齢16ですからその年の初めての望(満月)の次の日だということで,農村ではこの日にその年初めての墓参りが行われます。仏の正月です。女達の月暦による講の活動がいよいよ始まる意味もあるのでしょう。この日女達は集まり,オシラサマの衣裳を新しい衣裳にします。今までの来ていた衣裳の更に上に着せてあげます。そしてオシラサマと一緒に遊び,お茶を飲み,楽しく食べながら時を過ごすのです。この儀式にはどこか女達の,御先祖様を祭る儀式と重なるような気がします。
では「三月十六日」はどうなのでしょうか。三月もやはり満月の沈んだばかりの日です。わたしは三月が春彼岸と山の神を祭る(こちらでは三月十二日)女の講と結びついているような気がします。春彼岸に入りますと,まず村の女達は巫女を呼び,今年の作柄を占ってもらったり,口寄せの先祖の話を聞きます。そして無病息災を祈ってもらうのです。そしてお彼岸中日に百万遍念仏を行います。

そこでわたしは新田の石碑の建立月を調べてみました。
石碑月別建立数
迫町新田の石碑月別建立数

三月と九月が飛び出て多いことに気付きます。その内,約半数は馬頭観音です。ただ,断わっておきますが,オシラサマに関係した石碑はありません。あくまで石碑の全体的な数と馬頭観音碑と関係づけているだけです。
九月はどうでしょう。九月十九日は特にいろいろな寺社の祭日が集中しています。そしてこの日九月十九日に馬頭観音建立数がずば抜けています。下の図を見て下さい。
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九月に建てられた石碑の建立月日調べ

オシラサマもこれらの三月の春彼岸,九月の秋彼岸を中心とした寺社祭日に同じように祭られます。農作神の迎えの三月,お帰りの九月,そして作を占う正月とオシラサマも祭られていきます。社会を支える女達の手によって祈られ,巫女という女によって祭礼は執り行われ,山の神信仰を支える女達によって深く信仰されたオシラサマです。

この話はつづきます

オシラサマとは何か

今日はネフスキーが情熱を傾けた「オシラサマとは何か」と題して書いてみます。もちろん以前にも「オシラサマ」についての記事は書いてきましたが,さらに詳しく書いてみます。

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今朝11月27日のガンの飛び立ち 内沼

20140918064505363オシラサマ
遠野伝承園のオシラ堂

私たちが初めてオシラサマという名前を知ったのはやはり「遠野物語」でしょう。その遠野物語六九がオシラサマです。早速引用してみます。
六九 今の土淵村には大同(だいどう)という家二軒あり。山口の大同は当主を大洞万之丞(おおほらまんのじょう)という。この人の養母名はおひで、八十を超こえて今も達者なり。佐々木氏の祖母の姉なり。魔法に長じたり。まじないにて蛇を殺し、木に止まれる鳥を落しなどするを佐々木君はよく見せてもらいたり。昨年の旧暦正月十五日に、この老女の語りしには、昔あるところに貧しき百姓あり。妻はなくて美しき娘あり。また一匹の馬を養う。娘この馬を愛して夜になれば厩舎(うまや)に行きて寝(い)ね、ついに馬と夫婦になれり。或る夜父はこの事を知りて、その次の日に娘には知らせず、馬を連つれ出して桑の木につり下げて殺したり。その夜娘は馬のおらぬより父に尋ねてこの事を知り、驚き悲しみて桑の木の下に行き、死したる馬の首に縋すがりて泣きいたりしを、父はこれを悪にくみて斧をもって後うしろより馬の首を切り落せしに、たちまち娘はその首に乗りたるまま天に昇のぼり去れり。オシラサマというはこの時より成りたる神なり。馬をつり下げたる桑の枝にてその神の像を作る。その像三つありき。本もとにて作りしは山口の大同にあり。これを姉神とす。中にて作りしは山崎の在家権十郎ざいけごんじゅうろうという人の家にあり。佐々木氏の伯母が縁づきたる家なるが、今は家絶えて神の行方ゆくえを知らず。末すえにて作りし妹神の像は今いま附馬牛村にありといえり。

この話は「馬娘婚姻譚」と呼ばれ,唐の「捜神記」や「博異記」にすっかり同じ物語があるそうで,唐時代に中国にあった話が日本に伝わったと考えられます。佐々木喜善のこの話では大同という古い家での出来事ですが,おしら祭文などではよく長者伝説に乗っかった設定で語られもしています。ちなみにこの話では蚕の話は全く出てこないで,馬を吊したのが桑の木であったということしか書いてありません。娘がいなくなって嘆き悲しむ父の夢枕に娘が嘆き悲しむな臼の中に蚕の種を入れて置いたのでわたしのように可愛がってという続きの話があります。
とにかくオシラサマを見てみましょう。
遠野大晦日 514-2s
遠野ふるさと村に再現された古民家の仏壇に置かれていた二体のオシラサマ

このようにオシラサマは二体で一対が多く,男神と女神です。よく見ると男の方は頭の上に耳が立っていて馬です。物語の通りにつくられています。ネフスキーは宮城に来る途中磐城四ツ倉に立寄り,福島の神明(しんめい)様が形態上オシラサマと同じであったことを突き止めました。柳田國男はこのネフスキーの調査の情熱を讃え,その情熱を引き継ぐべく「大白神考(おしらかみこう)」を書きました。オシラサマは福島沿岸,会津ではシンメ(神明)サマ」と呼ばれ,宮城や山形東地域では「トデサマ」(尊い方という意),羽黒庄内地域では「オコナイサマ」(行法を「おこなう」という意)と云われているのです。これらはすべて信仰の御神体がオシラサマの形体と同じ点から導き出されたのでした。ちなみにネフスキー自らが採集した佐沼では「オシラサマ」で峠一つ越えた南三陸新井田では「オコナイサマ」です。更に仙台ではオシラサマのことを「オトートサマ」と呼ぶのだそうです。この呼び方だけでも地域変異が大きいことがオシラサマの解明を難しくしていました。
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本山桂川「日本民俗図誌」第二冊から岩手のオシラサマ 
下の段に「延宝五年」と記されているが,確認されたもので一番古いのは天正十五年だそうである

更に養蚕業と結びつき,蚕の神様となることで更に複雑な信仰様相を呈してきたのでしょう。ネフスキーは,手紙の中でオシラサマは「お知らせ」ではないかと踏んでいます。つまりオシラサマを扱う巫女達が吉凶を占う卜占(ぼくせん)の役割も担っていた点からの考えですが,やはり慧眼でしょう。日本を訪れ,柳田と初めて会ったのが大正四年だと柳田は回想していますが,民俗学黎明期のネフスキーの存在は複雑な様相を呈していたオシラサマの研究に果敢に挑み,大きな成果を上げていったことは特筆すべきことだと思われます。そして当地,宮城登米地方でネフスキーの研究を更に進めさせた高橋清治郎の存在も大きいものがあります。高橋清治郎の功績はもっともっと登米の皆さんに知ってほしいことは,石井正己氏が当地の講演で繰り返していたことでした。

このオシラサマの解明は変異を繰り返し,様々なバリエーションが存在していますが,
・正月,三月,九月の十六日がオシラサマノ祭日ということの解明
・長者伝説等の物語の伝播や説教節への発展経路の解明
・オシラ遊びという遊ばせる神様の意味
・巫女によって支えられていたオシラサマ信仰の解明
などをまた扱っていきたいと思います。

この話はつづきます

ネフスキーは,佐沼で何を調べたか

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冷えた朝 内沼

先回はニコライ・ネフスキーが大正九年八月二十八日と二十九日,佐沼にやって来て高橋清治郎の手助けを受けて,口寄巫女オカミン)に会い,調査した。夜は高橋宅に一泊した。口寄巫女の両手にはオシラサマがあった。オシラサマが神を降ろす重要な依り代であったのだ。ネフスキーはこの時「オシラサマ」の研究に熱中していて,大正九年の2月以来から調査を重ねていた。佐沼での調査が終わり,遠野の佐々木喜善を訪ねて小樽へ帰った。そしてすぐの九月九日,髙橋清治郎にお礼の手紙を書いている。(下図)

ネフスキーからの手紙5
ネフスキーからの手紙5-(1)
そして史料番号(4)の九月二十七日付けで更に写真を撮って送ってもらう旨の手紙をよこしている。

ネフスキーからの手紙4

さて,佐沼に来たネフスキーは口寄巫女オカミン)に会って,何を見、何を感じたのでしょうか。
九月二十一日付の柳田國男への手紙に書いてあります。ちょっとオシラサマのその部分を読んでみましょう。
(前略)一、佐沼町黄金町にゐる伊藤さよのもの
  御神体は一本しかない。真竹でできている。(以下も皆同じ)もう一本があったがゆずりましたって。御衣裳は五色の絹(毎年一枚ずつ掛ける・重に赤い)。本当は無地ですが,模づきあるのは皆あげられたものだ。オシラサマは神づけの時の幣束を入れたものです。祈念の時之を用ゆ。仙台ではオシラのことをオトートサマといふそうです。
一、佐沼町松栄寺内の遊佐かめよのもの二体。こしらへ方は同様。祭日は正月十六日。その日には新しい御衣裳の一枚を掛ける。オシラサマは淤母陀琉(おもだる,か?)の命と訶志古泥(かしこで,か?)の命である。あるオカミンが廃業してオシラを川へながした処が,さかさに流れたから(下流の方へ)又拾っておわびしましたと云う話もありました。かめよのつき神は不動尊です。
一、佐沼町丸の内、永浦たまきのもの
オシラは二体。御衣裳は全部モスリン。御祭日は旧暦の十二月十七日(新しい切れ一枚を掛ける)。御祈祷の時に之を用ゆ。その時つき神のお守り(お札)を出す。オカミンのつき神は塩竃大明神である。
一、南方村字十三間町の高橋綾寿一の家にあるもの(右の人はめくらです。妻はオカミンだったが先年死んだ)
切れは五色の絹。頭は秘密になって居りますが実は頭の方へ縫い針を入れるのです。オシラはイザナギとイザナミだそうです。(右は高橋翁の調査に依る)
一、佐沼町横町にゐる高橋みののオシラ
体数―二体。長さ―一尺斗り。木―真竹。きれ―紅い絹。(きれの)長さ―二尺四寸(二つに折って掛けるもの)。幅―一寸五分位。
両尖は裂いてある。これを頭から掛けるので頭が見えません。頭は鞠のようでは円くって平つたいまめです。恰も一銭の銅貨を二枚重ねて竹の上へ乗せた様に見える。則ち(図の如く)。縁日は十月十七日と正月十七日。
頭の方へはハナエの三四粒が入ってゐるそうです。オシラは八百万神を代表するものだそうです。神憑(かみつけ)の時に持っていた幣束に師匠が絹の切れを結附けて与へたものだそうです。右のオカミンの憑神は木花さくや姫だそうです。憑神祭は毎月十二日に行ふ(重に三月と十月)。稀にオシラの只一本だけを有っているオカミンもある。之は宗旨によって違うのだそうです。右のオカミンの宗旨は日蓮宗です。
オカミンと云う言葉を人民が使うだけ、彼等連はお互いにミコと云ふ名前で呼ぶそうです。
高橋清治郎の有っている宝永二年の記録には和歌と書いてあります。(伊能氏の話では遠野でもイタコを丁寧に呼ぼうとする場合、必ずオワカサマと云ふそうです)。
一、佐沼町横町にゐる目々沢サダヨのオシラ、やはり二本。作り方は前と同様です。少しく力を入れると頭が動きます。竹の棒に、確かに御幣が巻き付けられてゐる。下から見ると頭の中へ真綿が入ってゐる。オシラの祭は正三九月の十七日。正月の祭には必ず絹一枚を掛ける。オカミンの憑神は大泉の千手観音だそうです。(憑神祭は正月八日と九月八日)前祈祷の時はオカミンの前に供えてあるオハナエへオシラ二本を挿して弓をたたき,数珠をすりながら降ろしますのだそうです。
一、佐沼町黄金町にゐる伊藤さよのもの  
一、佐沼町松栄寺内の遊佐かめよのもの二体。
一、佐沼町丸の内、永浦たまきのもの
一、南方村字十三間町の高橋綾寿一の家にあるもの
一、佐沼町横町にゐる高橋みののオシラ
一、佐沼町横町にゐる目々沢サダヨのオシラ、
たった一日で六人もの巫女を調査している。二月から調査を依頼されていた高橋清治郎の支援も大きかったと思われる。

この話は続きます