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詩集 いのちの芽2-自然と共に生きる意義-

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今朝12月4日のガンの飛びたち

詩集「いのちの芽」を読むと,詩の言葉がつくる世界の平穏さに出会う
やがて合歓の葉が
一枚 一枚
たたまれてゆく時
その花は
ほんとうに
匂いはじめたのです

だが

そんな静かな景色が
いつのまにか
私の眸(ひとみ)の中で
歪みながら
くずれていくのです
奥 二郎「景色」
彼等が生きる現実は,,むしろ死と隣り合うハンセン病という運命の不条理に叩きつけられた患者達だ。そんな苦しみの極にいる患者達が,なぜこのように自然を愛おしく書けるのであろう。何に対し,このような静謐な心象で自然を見ることができるのだろう。彼等の詩の言葉には,現実を突き抜けた,祈りに似た生き様が見える。
人間がいきるという,根源的な世界にさかのぼって追求するとき,ここはもはや健康者であると病者であるとを問わず,皆おなじ欲求をともなった問題であるように私は考える。志樹逸馬「生きるということ」
何という突き抜け方であろう。

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今朝12月4日のガンの飛びたち

2014年7月22日,天皇、皇后両陛下が宮城県を訪れた。
まず全国で14か所あるハンセン病療養所の一つ「東北新生園」を訪問されたのだ。新聞にはこう書いてあった。
 ◇半世紀かけ全14施設の入所者と懇談

 天皇、皇后両陛下は22日、宮城県登米(とめ)市のハンセン病国立療養所の東北新生園(とうほくしんせいえん)を訪れる。全国には14カ所(国立13、私立1)の療養所があり、両陛下の視察は13カ所目。ただ、唯一訪問していない大島青松園(おおしませいしょうえん)(香川県)の入所者とも施設外で会っており、今回の訪問ですべてのハンセン病療養所の入所者と懇談することになる。〈毎日新聞〉
天皇、皇后両陛下が半世紀をかけて全国にあるすべてのハンセン病療養所を訪問され,自ら声を掛けられたことは病気と偏見と差別の歴史を天皇陛下自らが身をもって正そうとすることになります。天皇陛下・皇后陛下に心より御礼申し上げ,敬意を表します。
 実は東北新生園は私の家の近くにあります。不治の病と言われたハンセン病は,私の子どもの頃は「らい病」と言われていて,あまり遊びに行くなよと家の人から言われていました。それでも友達と新生園に釣りに出かけたり,虫を捕りに出かけていたのです。よく山を散歩していた新生園の人たちとも会いました。

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今朝12月4日のガンの飛びたち

東北新生園の近くにいて,ごく当たり前のように子供時代から過ごしてきた私が,外からの目でハンセン病に向き合うことになったのは北条民雄の「いのちの初夜」を読んでからでした。そして大変な迫害の歴史があったことも知りました。そして遠藤周作の「わたしが・棄てた・女」を読んだりもしました。この作品は,のちに熊井啓が「愛する」という映画にしました。遠藤周作の作品は私にいつも現実の中にある倫理性の高さを要求してきました。例えば,隠れキリシタンの受難の歴史は,同じ人間がどうしてこんな残酷なことができるのかと涙を流したのも事実でした。遠藤周作はまっすぐな視線で隠れキリシタンやハンセン病の現実を通して私たちに語り続けてきました。

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ハクガンの群れ

山伏修行をしていたアメリカ人の若者が私に言いました。
「うちのお祖父さんはベトナム戦争を経て,ひどい鬱病になった」
その時,お医者さんはこう言ったという。
「自然の中で暮らしなさい」
病気でも,戦争でも,現実でも,人は極限まで行かされた時,自然の中で癒されることが必要になる。
詩集「いのちの芽」がこれ程に美しい詩に昇華しているのは,極限まで苦しんだ人間が自然の癒しによって,自然と共に生きる意義を見いだせたからであろう。


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詩集 いのちの芽

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詩集 いのちの芽

このところ毎日少しずつ本当に丁寧にこの詩集を読んでいる
一度に読むにはもったいなく,少しずつ大事な宝物にそっと触れるように読んでいる
そっと手に取りたいと思える詩群なのだ
ふかぶかと繁った森の奥に
いつの日からか不思議な村があった
見知らぬ刺(とげ)をその身に宿す人々が棲んでいた (後略)
「伝説」厚木叡
心地よいに自然にすっかりと埋もれた中,かすかな心の叫びをそっとあげている詩が多い。わたしはこんなそっと世界に触れようとする詩が好きだ。
同じ人の「路」という詩は,こう始まる。
村のなかで私はその路をひそかに愛した。
プラタナスと銀杏の若い並樹にはさまれ,遠く
まっすぐに見透しになった路。その遠景にうすみ
どりの絵具皿を溶いたように山原がみずみずしい
膚(はだ)の一部をためらいがちに覗かせていた。
いつ見ても人の影も疎らで,物思うに適していた。(後略)
この後並木の間から人形のような次々と生まれ出て,彼方の靄の中にのろのろと吸われていく幻想を見る。

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エナガ

いつからなのか 何故なのか知らないのです
私の唇は突然歌を喪ってしまい
私の喉はわたしの体にあいたまっ黒なただの洞穴になってしまい
私の中におやみなく湧きいでた美しかったもろもろの
思念たちは(後略)   同「唖の歌」

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今朝12月2日のガンの飛びたち

暖流
            伊藤 秋雄
ひとりは ひとりの苦痛が
幾らかでも
小康(やす)らぐようにとつとめ
病み衰えた ひとりは
冷えるからもう帰ってもいいと
ひとりを気遣う

ふたつの 心とこころが
とたんに ばったり 衝きあたり
美しい涛(なみ)しぶきとなって
崩れ
そのまま暖流に乗って
冬の海を流れて行った

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今朝12月2日のガンの飛びたち

風景
                國本 昭夫

三日月がほんのりと武蔵野に

襤褸をまとった女が通っていった

風は凪いでいた。

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西日を浴びて

芽  
                 志木 逸馬
芽は
天を指差す 一つの瞳

腐熟する大地のかなしみを吸って
明日への希いにもえる

ひかりにはじけるもの

芽は渇いている 餓えている
お前はもはや誰れのものでもない
(廻転する地球の風にゆれる
 花のものだ)

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今朝12月2日のガンの飛びたち

この詩集「いのちの芽」は,全国のハンセン病療養施設にいる73人の詩を集めて1953年に発刊されたもので,70年振りに国立ハンセン病資料館が復刊させた詩集です。この詩たちを読むと,実に素直で,苦しい中でも光差す方を見上げようとする生きるという姿が浮かび上がって来ます。
私は全国に7か所あるというハンセン病療養所の一つ,東北新生園がある新田に住んでいます。子どもの頃は山深い新生園によく遊びに行ったものでした。緑深い森の中で,秋の落ち葉敷く山道で,桜の花びらが舞い落ちる中で,私は散歩する患者の方々と挨拶を交したことを憶えています。この詩集を大切に読みたいと,そっと手に取るのは,埋もれてしまった子どもの頃の思い出をそっと呼び戻そうとしているからかもしれません。
北條民雄「いのちの初夜」を読んだのは,高校を卒業した頃でした。


オシラ遊び2

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山道に光差す

先回のオシラ遊びの様子の続きです
オカミサン(巫女)が両手にオシラサマを持ち,人形遣いのように動かしながらオシラ祭文を唱え始めました。
長者の一人娘が馬と仲良くなり,その果てに馬は殺され,皮を剥がされます。

「手に取ればこそ手になづーて遊だ神かな
そもしもしらわの御本地 くわしく読み上げたのみたてまつる
昔 まんの(満能)長者とてありかの長者こと姫君一にもたせたもたのもだてたも
ひとり姫ことなれば昼はかげんのざしき
夜はかいごの遊び いげをかじげを かぎりなし
しかりに 満能長者の厩に
千だん黒毛 いつの名馬とて つながせたも
かくて 歳月ふろほどにたつ姫君もー 十六歳にならせたもとゆう
ときは つかじきいかに にょうぼたつ 今年十六歳になりよけば
いままで 馬屋へおりて名馬 見物いたしたりことはなし
父母に おんめいはからいしのばせよとありければ
ざしきあいだにおんことてやいのびょうぶでしのばせたもなり
かおーどいじくしくめいばもさらになし 人間のみみなら 一夜の契り
ほめびきぞ あいそーつさいどゆうべきものとて 千だん黒毛
かすみのぶつて三度なでたせたもう」

男オシラは馬,女オシラは一人娘。やがてオカミサンの腕の中で小刻みにほろかれる度に二人のオシラ神はかすかに息をして,やがて二人の恋の炎が燃えさかっていく様子が分かる。その悲しい恋が女達の心にはっきりと浮かび始めた。何度聞いても前聞いた時とは違っている。年を重ねる毎に恋の情緒は激しくなり,悲しみは一層頭いっぱいに広がってくる。
八才になった若にもその遂げられることのない恋が分かる。この世には遂げることのできない命があることも八才なりに感じられる。女オシラ神が小刻みに身体を震えて泣くときは若も一緒に泣くのだと,心構えもはっきりしていた。オシラ祭文はいよいよクライマックスへと走っていく。若は母親の手をしっかりと握り,悲しみに耐えようとした。

「怒り罵り蘆毛の駒を引起させ ひらくべてうとはね落とし 皮を剥いで戌亥の方に 洒ざ給候へければ 不思議や其皮頗りに動いて 大地へ揺り落ち 玉世の姫の寝間へ飛び くるくると娘を捲きしめ給へば 折節まき風しきりに起りて 虚空へ捲上げ行方知れず候ひければ・・・」

泣いてこの世を去らんという者は,なぜにこれ程悲しいものか。

pho1_1361594770志津川新井田オコナイサマはオシラ神
南三陸町志津川新井田オコナイサマはオシラ神

岩手県ではオシラサマは元々オコナイサマと呼ばれ,目の神様でもありました。
オシラ遊びの流れとしては
1 祭壇づくり,お供え物を用意し,オシラサマを祭壇に祀る
2 オセンダク 新しい着物を着せる
3 イタコのオシラほろぎ(オシラ祭文)  ほろぎは「(オシラサマを持って)揺り動かす」という意
4 イタコの託宣 (占ってもらい,気を付ける月日などの指導を受ける)
5 イタコによって,オシラサマが身体の痛いところや具合の悪い処をさすってもらう
6 会食,オシラサマをおんぶしたり,撫でたりして喜んでもらう

柳田國男はこの独特な「オシラ遊び」の存在についてその意図が理解しかねる言い方を「大白神考」で何回かしています。
確かに簡単に神様に触ったり,神様に喜んでもらう,遊んでもらうためにだっこしたり,おんぶしたりすることは神事ではあまり多い事ではありません。例えば,イタコの指導でこのような「オシラ遊び」が行われるようになったと考えれば,なんでもかんでも理由をイタコやオカミサンの行法にこじつけてしまうという怖れもあります。簡単に理由付けを行えば,本来の「オシラ遊び」が発生してきた姿も見えなくなってしまいます。
このオシラサマ信仰は,実に複雑に信仰の様相が組み合わされ,ハイブリッド化しながら伝えられ,進化を遂げてきたと考えられます。ただこれ程広い範囲で行われることになったのは,やはりイタコの存在が大きいとも言えそうです。

私が想像逞しくしてみると,どうも人形(ひとがた),ヨンドリ(秋田),天兒(あまかつ)や這子(はいこ),オシラサマ,薩摩雛(さつまびな)などの木偶,土偶類のクグツ人形(傀儡)を連想させる。
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天兒(あまかつ)と這子(はいこ)

イタコがオシラサマを両手に持ち,オシラ祭文を唱える様は,まさに傀儡師(くぐつし)そのものの技法ではないだろうかとも思わせる。
ではお雛様とはどう違うのだろうか,この辺も上巳の節句の行法が日本古来のクグツによる信仰と溶け合いながら日本独特の信仰に発展してきたとも思わせる。女達と巫女,女達のひな祭り,そして女達と山の神信仰とバリエーション(変異)を繰り返してきた形式がオシラサマ信仰,そしてオシラ遊びの中に,女達の幸せへの願いが脈々と受け継がれていったのではないだろうか。

この話は続きます

オシラ遊び

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朝のガンの飛び立ち 12月1日撮影 蕪栗沼

いつも難しく書いているので,今度は読みやすく「オシラ遊び」についてを物語仕立てにしてみました。分かりやすくするために古い写真も入れてみました。写真は「いわてオシラサマ探訪」(岩手県立博物館調査研究報告書第23冊 2008)からコピーしました

登場人物は 八才の女の子「若」
親戚の女達
オカミサン
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山田町 昭和54年旧正月十六日 佐々木宅 オシラ遊びの様子がよく分かりますね 二体のオシラサマをおんぶして,遊ばせています

オシラ遊び

「お母さん。わたし,オシラサマ大好き」
オシラサマを背負ってにこにこと座敷を一回りしてきた若は顔を紅潮させ,息をはずませながら母親に言った。
「よかったわねえ」若の母もにこにことして,八才になった娘,若のおんぶひもを解いて,背中からオシラサマを下ろし,幼い胸に抱かせてあげた。
「きれいなオセンダク」
新しいオセンダクは,昨年本家から佐々木家に嫁に行った千代が持って来た物だった。その切が余程気に入ったのかオシラサマの表情が去年よりずっと明るく,嬉しそうに見えることは,集まった女達の皆が口々に揃えた。若もそう思った。私もオシラサマのように褒められたい,そしていつか綺麗な着物を着て千代さんのようにお嫁に出たい。
今日は正月十六日。オシラ遊びの日である。昨夜降った雪が午後の日の光を受けて眩ゆく座敷の障子を一際白くしていた。オカミサンのふでは,八才になる若がオシラサマを背負って座敷を所狭しとくるりと回る度に湧き上がる女達の歓声に合わせて,若に拍手を贈った。三才の時に失明して,十年以上も修行してオカミサンになったふでは目は見えないが,若を透視して眩しそうな目をして言った。
「若は身体からいい力が出ているねえ。明るく,透き通っている強い光だ」
オシラサマは一通り次々と女達の手元を去ると,オカミサンのふでの所に戻ってきた。ふでは,新しい青い正絹を纏っている男のオシラサマを右手に持ち,左手には鮮やかな紅い正絹に花が大きく染め出されていた女のオシラサマを持って双方の顔を覗き込むようにして,ひと息するとオシラ祭文を唱え始めた。どこか切ないが朗々とした声が正月十六日の早傾きかけている日の光を通して,座の雰囲気を厳粛にさせた。

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山田町 昭和54年旧正月十六日 佐々木宅 オシラ遊びの様子がよく分かりますね 二体のオシラサマをだっこしたりしてあやして,遊ばせています

この話は続きます


オシラサマの祭日について

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マッスに挑む 今朝11月29日 蕪栗沼

今日もオシラサマについての話の続きですが,特にオシラサマの祭日について書いてみたいと思います。
オシラサマについては,あの柳田國男も「大白神考(おしらがみこう)」であれやこれやと逡巡しながらだらだらと文庫本で219ページ余りも書いています。それだけ難しいんだと思います。親友ニコライ・ネフスキーが突然ロシアに帰ったと思ったら,全く音信不通になり,結局はスターリンの粛清で彼も,そして妻のイソさんも殺されていたと分かったのは昭和26年頃ではなかったでしょうか。オシラサマでつながっていたネフスキーと柳田。もう躊躇はしていられない。ネフスキーの深い学問を思い出の国,日本で残してあげたい。そう柳田は決心して書き始めたのでしょう。

まずはオシラサマの岩手県での分布図からです。
1591085241オシラサマ
「岩手のオシラサマ分布図」いちのせき市民活動センター「伝説調査ファイルNO.6「オシラサマ」」から

岩手だけではなく東北六県,更に全国的にオシラサマとは言わなくても同じような信仰が残っています。これは,すっかりオシラサマが養蚕だけではなく,庶民の生活そのものまで浸透していたといってもいいでしょう。つまり祈祷,占い,神降ろし等を執り行う巫女によって村の津々浦々まで入り込んでいたのでしょう。大正九年のネフスキーの登米市来訪に伴い,高橋清治郎が見つけただけでも佐沼中心に六人の巫女がいて,すべてオシラサマを祈祷や神降ろしに使っていたのですから,大正になっても信仰の一般化がかなり進んでいたと思われます。そしてその信仰が女性中心に行われていたと言うことも生活に深く入り込んでいたと思わせます。
さあ,そこでオシラサマの祭日です。これがいろいろですが,およそ「正月十六日」「三月十六日」「九月十六日」の三回になるというのです。年に三回も祭日があること自体が珍しいです。
まず,「正月十六日」ですが,「オシラサマ遊び」の日です。当然十六日は月齢16ですからその年の初めての望(満月)の次の日だということで,農村ではこの日にその年初めての墓参りが行われます。仏の正月です。女達の月暦による講の活動がいよいよ始まる意味もあるのでしょう。この日女達は集まり,オシラサマの衣裳を新しい衣裳にします。今までの来ていた衣裳の更に上に着せてあげます。そしてオシラサマと一緒に遊び,お茶を飲み,楽しく食べながら時を過ごすのです。この儀式にはどこか女達の,御先祖様を祭る儀式と重なるような気がします。
では「三月十六日」はどうなのでしょうか。三月もやはり満月の沈んだばかりの日です。わたしは三月が春彼岸と山の神を祭る(こちらでは三月十二日)女の講と結びついているような気がします。春彼岸に入りますと,まず村の女達は巫女を呼び,今年の作柄を占ってもらったり,口寄せの先祖の話を聞きます。そして無病息災を祈ってもらうのです。そしてお彼岸中日に百万遍念仏を行います。

そこでわたしは新田の石碑の建立月を調べてみました。
石碑月別建立数
迫町新田の石碑月別建立数

三月と九月が飛び出て多いことに気付きます。その内,約半数は馬頭観音です。ただ,断わっておきますが,オシラサマに関係した石碑はありません。あくまで石碑の全体的な数と馬頭観音碑と関係づけているだけです。
九月はどうでしょう。九月十九日は特にいろいろな寺社の祭日が集中しています。そしてこの日九月十九日に馬頭観音建立数がずば抜けています。下の図を見て下さい。
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九月に建てられた石碑の建立月日調べ

オシラサマもこれらの三月の春彼岸,九月の秋彼岸を中心とした寺社祭日に同じように祭られます。農作神の迎えの三月,お帰りの九月,そして作を占う正月とオシラサマも祭られていきます。社会を支える女達の手によって祈られ,巫女という女によって祭礼は執り行われ,山の神信仰を支える女達によって深く信仰されたオシラサマです。

この話はつづきます