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霊場出羽三山のデザイン3-伝説の生成-

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立ち込める靄  9月7日 内沼

出羽三山のデザインを方位,地勢的な点から探っての3回目
今日は「羽黒山縁起」などの内容の変化から,出羽三山が霊場としてどのようにデザインされていったのかを探ります。
出羽三山は,擬死再生の山と言われるように,人の現在,過去,未来をここ一箇所で体験し,生まれ変わることができると言います。
下の表が,その大きな枠組みとなります。
ホンチ
出羽三山の構成図

では,蘇我馬子の乱を逃れ,崇峻天皇の子,羽黒山の開祖,蜂子皇子が舟に乗り,八人の女達が踊る由良の港に着いた後,三本足の烏(八咫烏やたがらす)の導きで,正観音を発見し,羽黒山を開山したという縁起伝説は,どのように形成され,変化していったのでしょうか。

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霊場出羽三山のデザイン2-東西軸とご来迎-

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ご来迎(ブロッケン現象のこと)

月山方位図
月山方位図

先回は上の地図,霊場出羽三山の主な拝所を地図上にプロットしてみたところ,月山の北には東補陀落,虚空蔵岳,御瀧神社,三山神社,そして阿久谷とほぼ一直線に並んだことから,見事に南北のラインに連なるように霊場がデザインされていたことを書きました。「さらに北へ方位線を延ばすと,鳥海山山頂にぴったり一致します。そして鳥海山なのに月山森という1650㍍ピークにも合致するのには,もう鳥海山の月山森ピークが月山の遙拝所であったとしか思われません」と続けました。
今日は東西の軸を見てみます。

ご存じのように羽黒山,月山,湯殿山が現在の羽黒三山と呼ばれていますが,室町中期辺りから羽黒三山と呼べば「羽黒山,月山,葉山」だった時代がありました。で,湯殿山と言うと,三山の奥の院と言われていました。上の月山方位図を見ますと,葉山は月山,湯殿山と東西軸でほぼ一致します。地図で調べてみたら,葉山は月山の真東ではなく7度程南に位置しています。「

葉山は,すなわち昭和30年まで葉山山中にあった天台宗の御山医王山又注連山大円院をさします。大円院は薬師像、不動尊を安置し、境内に雷神、三猿を祀り、開祖とする役行者像を安置する寺として知られていました。また、葉山修験道場の霊山でもありました。

と,書かれているとおり,葉山は,薬師如来が本尊で,葉山修験道の霊場だったのです。しかし,1665(寛文4)新庄領と白岩領の境争いの結果、大円院は新庄領と決定したりする境界裁判に揺れ動いたりしながら,往時,万治元年(1658)に12あった宿坊が、安永5年(1776)になると6坊に半減して,江戸中期から急速に衰えたようです。
こうして羽黒三山は,「羽黒山,月山,葉山」で,湯殿山は三山の奥の院という枠組みが,現在では変化して「羽黒山,月山,湯殿山」の時代となりました。月山を中心とした東西軸で見ると,月山でご来光(日の出)を拝むとまさに葉山の上から日が昇る光景が見られます(正確には7度の違いは,春分の日,秋分の日の7日ずれとなります)。そして葉山頂上から見ると,日の入りは月山の頂上を真ん中にして見事に沈んで行くでしょう。霊場出羽三山は,まず方位を基軸とした,実に見事なデザイン空間であることが分かります。これらの方位による霊場のデザインはどのような考え方で進められていったのでしょう。このデザインに,奥州平泉の都の立地条件や胆沢城の立地条件,また遠く,奈良,京都などの都の立地条件などを重ねることで,当時の都や霊場の選定や立地条件などを探ることができます。ただ方位の考え方も北東の鬼門より以前は,北北西の戌亥が採用されていた等の陰陽道等の考え方の変遷もあるでしょう。更なる研究の余地があります。
さて,この月山,湯殿山,葉山によってつくられる東西軸ラインで,太陽や月,星の運行等の天文的な特徴をピラミッドのように出羽三山でも見出すことができます。「ご来迎」つまりブロッケン現象のことです。これが出羽三山では,西に傾いた夕方の太陽の光で現われる「ご来迎」を大切にしたきたという特徴があります。

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霊場出羽三山のデザイン

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宇宙,自然地形のデザインに浮かび上がる場所の風景

無事に出羽三山秋の峯入りから山伏号が授けられ,戻って来ました。
羽黒山伏の厳しい行に触れ,多くのことを学びました。
さて,今回から数回にわたり,広大な霊場羽黒山を全体から見直してみます。自然や天体と見事にリンクさせている羽黒山の霊場としてのデザインを見てみます。まず,羽黒山,月山,湯殿山の三つの山で羽黒三山と呼ばれていますが,その場所や関連する代表的な拝所を地図上にプロットしてみました。
すると,・・・・。
月山方位図
月山方位図

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新田中学校「天の祝福を歌う」

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新田中学校「天の祝福を歌う」

新田中学校の皆さん
 今年も皆さんの素晴らしい希望の歌声をありがとう
 65人の皆さんが歌った「歓喜の歌」は,天高く舞い昇り,天体のすべての々を讃え上げました。そして今は,皆さんに天の祝福が休みなく降り注いでいます。
ヒマラヤシーダの上には-4.7等の金が輝いています。また,上弦を迎えようとする齢6のは木を引き連れて歌に聴き入っていました。そして,木と金の間には土が輝いていました。
星々の祝福と家族の祝福,先生方からの祝福,新田地区の皆さんの祝福。全ての祝福を祈る新田中学校の歌声がいつもこの世界に鳴り響いています。ありがとう。皆さんの果てしない希望の歌声に力づけられました。
皆さんのこれからの活躍をいつも応援しています。
そしてメリークリスマス
この写真をクリスマスのプレゼントとして感謝の気持ちを込めて贈ります


新・遠野物語―昔気質(むかしかたぎ)―

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ほんにょ(稲架け)のある風景

素晴らしい,素晴らしいと私は連呼した
現代にこのように昔の通りに稲架けにして天日干しをしている農家はない
素晴らしい,素晴らしいと私は連呼する
するとはにかんだ顔付きで千葉さんは答える
「なーに。息子に譲るまでの間だけだ。あとは息子が好きにやればいい」
農家の人からこんな言葉をよく聞く
代替わりまでは自分がなんとかするが,子どもに代を譲ったらなんとかやってくれるだろう
親から引き継いだ田んぼを子どもに譲るまでは自分の責任だ
なにがなんでも
自分の代で滅ぼすなんてことは生き恥だ
そういう思いで一生働いて生きてきた

しかし美しい。コンバインならば一回で済むことを稲杭を三百本以上立てて,一本一本に滑り止めの支え竹を結わえ付ける。そして刈り取った稲を架けていく。なるべく簡単な方法で,手間をかけずに金儲けしろと資本主義の世の中は言う。しかしそんな奴らにはこのような苦労をしてつくった美しい田んぼは分からないだろう。世界を芸術に変えている。なにより風景を愛している仕事人の技だ。今の人には美しい心と手によってつくられた米の本当の味なんて分からないだろう。

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霧の夜明け前