2023/09/06

ご来迎(ブロッケン現象のこと)

月山方位図
先回は上の地図,霊場出羽三山の主な拝所を地図上にプロットしてみたところ,月山の北には東補陀落,虚空蔵岳,御瀧神社,三山神社,そして阿久谷とほぼ一直線に並んだことから,見事に南北のラインに連なるように霊場がデザインされていたことを書きました。「さらに北へ方位線を延ばすと,鳥海山山頂にぴったり一致します。そして鳥海山なのに月山森という1650㍍ピークにも合致するのには,もう鳥海山の月山森ピークが月山の遙拝所であったとしか思われません」と続けました。
今日は東西の軸を見てみます。
ご存じのように羽黒山,月山,湯殿山が現在の羽黒三山と呼ばれていますが,室町中期辺りから羽黒三山と呼べば「羽黒山,月山,葉山」だった時代がありました。で,湯殿山と言うと,三山の奥の院と言われていました。上の月山方位図を見ますと,葉山は月山,湯殿山と東西軸でほぼ一致します。地図で調べてみたら,葉山は月山の真東ではなく7度程南に位置しています。「
葉山は,すなわち昭和30年まで葉山山中にあった天台宗の御山医王山又注連山大円院をさします。大円院は薬師像、不動尊を安置し、境内に雷神、三猿を祀り、開祖とする役行者像を安置する寺として知られていました。また、葉山修験道場の霊山でもありました。
と,書かれているとおり,葉山は,薬師如来が本尊で,葉山修験道の霊場だったのです。しかし,1665(寛文4)新庄領と白岩領の境争いの結果、大円院は新庄領と決定したりする境界裁判に揺れ動いたりしながら,往時,万治元年(1658)に12あった宿坊が、安永5年(1776)になると6坊に半減して,江戸中期から急速に衰えたようです。
こうして羽黒三山は,「羽黒山,月山,葉山」で,湯殿山は三山の奥の院という枠組みが,現在では変化して「羽黒山,月山,湯殿山」の時代となりました。月山を中心とした東西軸で見ると,月山でご来光(日の出)を拝むとまさに葉山の上から日が昇る光景が見られます(正確には7度の違いは,春分の日,秋分の日の7日ずれとなります)。そして葉山頂上から見ると,日の入りは月山の頂上を真ん中にして見事に沈んで行くでしょう。霊場出羽三山は,まず方位を基軸とした,実に見事なデザイン空間であることが分かります。これらの方位による霊場のデザインはどのような考え方で進められていったのでしょう。このデザインに,奥州平泉の都の立地条件や胆沢城の立地条件,また遠く,奈良,京都などの都の立地条件などを重ねることで,当時の都や霊場の選定や立地条件などを探ることができます。ただ方位の考え方も北東の鬼門より以前は,北北西の戌亥が採用されていた等の陰陽道等の考え方の変遷もあるでしょう。更なる研究の余地があります。
さて,この月山,湯殿山,葉山によってつくられる東西軸ラインで,太陽や月,星の運行等の天文的な特徴をピラミッドのように出羽三山でも見出すことができます。「ご来迎」つまりブロッケン現象のことです。これが出羽三山では,西に傾いた夕方の太陽の光で現われる「ご来迎」を大切にしたきたという特徴があります。