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新・遠野物語「蛇神の行方6-身体の中の蛇-」

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続く道

先回は蛇の登場する昔話などを取り上げましたが,蛇が究極の執念深さや愛憎劇の表象として登場する話も随分あります。
「娘道成寺」などその最たるものですね。「安珍清姫」の話です。男前の安珍に一目惚れとした清姫は嘘を重ねて逃げようとする安珍に怒り,とうとう蛇に変身して鐘の中に隠れた安珍を鐘ごと焼き殺してしまう話です。「雨月物語」の「蛇性の淫」も蛇の執念の話です。また踊り念仏の一遍が発心したきっかけの話もあります。抜き書きします。
若い頃の一遍には二人の妾がいた。二人とも美しく心優しい性格をしており、一遍は両人を同じ位深く寵愛、また妾同士も仲良くしているようであった。しかしある日二人が碁盤を枕にうたた寝していると、突然二人の髪が立ち上り小蛇となって食い合った。それを見た一遍は刀で蛇同士を切り離し、執心や嫉妬の恐ろしさを知って出家したという
こんな話が「北条九代記」にあるそうです。これと全く同じパターンの話が高野山苅萱堂に伝わる「苅萱」の伝説で,巷では「石童丸伝説」として父と子の再会に涙誘われる物語です。

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宮城龍神 迫町北方上の台

「蛇女房」のように助けてもらったお礼にやってくるのではなく,憎しみの化身としての蛇は祟りの話と相まって恐ろしいものです。これらの話はむしろ仏教説話として広まったものが多く,南北朝・室町期から江戸にかけて特に唱導文学の領域で庶民にも深く浸透していったのでしょう。従って特に蛇の恐ろしい祟りや復讐の面が一般の人々の心に深く根付いてしまったのでしょう。

あの「宇賀神」の人首蛇体という奇妙な形は,「蛇身是れ三毒極成の体なる故に三悪道を摂る」とありました。三毒とは仏教の言う最も根本的な三つの煩悩、貪・瞋・癡(とん・じん・ち)のことを言います。貪・瞋・癡(とん・じん・ち),つまり貪り,怒り,愚かさです。この人間が本来持っている成仏を妨げる貪・瞋・癡(とん・じん・ち)という煩悩が蛇という形で表現されているのです。

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蛇王権現 

ところが蛇はただ単に人間の煩悩をシンボライズしているだけではないのです。驚くべき事に蛇そのものが人体に組み入れられているのです。ここから山本ひろ子「変成譜(へんじょうふ)」春秋社1993の中の「龍女の成仏」の章の流れに沿って引用したりします。
14世紀に成立した天台密教の書「渓嵐拾葉集」に次のようにある。

此に正法に約する時,我等が水輪の中に本初の龍神有り。此の龍神とは,我等が遍知分別の全体なり。

「正法」とは過去の業因によって受けた心身のことを言い,その心身は龍神として認識されているということです。「水輪」とはこの世界の五大元素である地水火風空の「水」を指しています。まさに「水」は人間の身体の構成の基底ということです。ところが我々の身体の水の中に龍神がいて,その龍神が遍く一切の法を知る智恵と考え分別する力を持っていると言うのです。

我等が水輪中に肺臓有り。其の中に金色の水有り。其の中に二三寸の蛇有り。我等が第六の心王なり。肺臓は西方の妙観察智の所在なり。妙観察智は第六識・邪正分別の識なり。是我等が思量なり。其の種字は「ウン」字なり。この字即ち弁才天の種字なり。所詮我等が無作本有の体は蛇形なり。蛇曲の心なり。

私たちの体内の肺臓の中に金色の水があってその中に二三寸の蛇が棲んでいるというのです。そしてその邪正分別の思量は弁才天として現れ出るというのです。
ここで宇賀神と弁才天が同じ種字「ウン」で表される点でつながったわけです。宇賀弁才天の誕生です。そして蛇と弁才天は同極異相であるのです。

驚くべき展開です。

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丘の上

人間の身体の中には蛇がいる。と同時に弁才天もいる。
この論理は人間そのものに三毒が内在していることからこの三毒を消し去る行(ぎょう)によって正なる妙観察智へ近づき弁才天へと連なるという考えでしょう。逆に三毒を消し去る行を積まないのであれば邪なる観察智ばかりで蛇という畜生道に落ちるぞと言っているのです。

ここまで来て庚申信仰に似ていると気付きませんか。庚申信仰の身体の中に虫がいるという三尸の考え方に近いのです。天台密教はこうした三尸説なども思想に吸収しながら学説をつくり上げていったようにも思えてきます。しかし天台密教と庚申信仰は雲泥の差があります。ただどうして庚申信仰は全国的にこれ程までも大流行を作り出すことができたのでしょうか。宗派仏教と民間信仰の関係はどうなっていたのでしょうか。
次回は石碑板碑を手がかりに両者の関係を見てみたいと思います。


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新・遠野物語「蛇神の行方5-蛇の物語-」

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夜明けの山神神社本宮

この新・遠野物語シリーズは東北の中世や近世の風景を写真や文章で再現しようとするものです。
今回の特集「蛇神の行方」は民間信仰や物語などで避けて通れない「蛇」に着目し,石碑調査の結果などから考えようとしました。「己巳供養塔」「巳待塔」「蛇神」「蛇王権現」「庚申塔」「龍神」「弁天」「弁財天」「白蛇弁財天」などの登米地方で確認された石碑はこれらすべてが「蛇」と結びついています。また民俗学では雷鳴や稲妻から,天から下りてくる「雷神」もまた龍や蛇との関連で語られてきました。日本五大弁財天(弁財天の権現は蛇)の一つ,金華山が宮城にあるので更に蛇との関わり合いがあると思われます。民俗学の吉野裕子の「蛇」の研究の実績もさることながら,自分でも「蛇」を読み直してみたいと思ったのでした。
そこで今回までは①北上川沿いにだけある己巳供養塔(不思議に内陸部には少ないこと)そして板碑を除いた石碑で一番古い石碑が上沼大泉長承寺の己巳供養塔であること
②これらの己巳供養塔と庚申信仰の盛んだったこの地域の庚申信仰との関係(庚申塔の本尊青面金剛も蛇をまとっていたこと)
③人頭蛇身の神「宇賀神」のこと
④「宇賀神」と弁才天が結びつく「宇賀弁才天」のことをお話してきました。
今日はその5回目になります。今日は蛇が出てくる昔話です。

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龍神 迫町新田飯島

宇賀弁才天の話で蛇は三毒の象徴と言われていました。三毒とは仏教の言う最も根本的な三つの煩悩、貪・瞋・癡(とん・じん・ち)のことを言います。この三毒を統括できるということが「三悪道を摂る」という意味です。障碍を除き,福徳を授け,財に預かる弁天信仰は昔からあり,更に七福神の一つとして「弁財天」と発展,その名が全国に知れ渡るようになりました。その弁才天のこの世での姿が蛇なのです。そして特に白蛇が崇拝されるようになりました。その蛇が伝説や昔話として多く残っています。

まず早速「蛇女房」を読んで見ましょう。
 むかしむかし、炭焼きがしごとの男がいました。
 この男、心はやさしいのですが、よめさんももらえぬほどの貧乏(びんぼう)でした。
 ある日のこと。男が炭焼きがまに火を入れると、かまのうしろから大きなヘビがはいだしてきました。
「おっ、よく見かけるヘビだな。ああっ、かまに近づいちゃ、あぶないじゃないか。ほれ、あっちいけや」
 男はヘビを、外の草むらに出してやりました。その夜、男の家に、美しいむすめがたずねてきました。
「わたしは、あなたを山でよく見かけていました。なんでもしますから、よめさんにしてください」
 むすめをひと目見ただけで好きになった男は、よろこんでいいました。
「ごらんのとおりの貧乏で、何もないが、それでもいいなら」  こうして、むすめは男のよめさんになったのです。
 よめさんは働き者で、くらしむきもだいぶよくなってきました。  男はとてもしあわせでした。
 やがて、よめさんのおなかに子どもができました。  いよいよ生まれるというとき、よめさんは男にいいました。
「いまから赤んぼうを生みますが、わたしがよぶまでは、けっして部屋をのぞかないでください」
「わかった。やくそくする」
 だけど、赤んぼうの泣き声が聞こえると、男は思わず、戸のすきまから中をのぞいてしまいました。
「あっ!」
 男はビックリしました。部屋いっぱいに大蛇がとぐろをまき、そのまん中に、生まれたばかりの赤んぼうをのせて、ペロペロとなめているのです。  人間にもどったよめさんは、赤んぼうをだいて出てくると、かなしそうにいいました。
「あれほど、見るなとたのんだのに・・・。わたしは炭焼きがまの近くの池にすんでいたヘビです。あなたが好きでよめさんになりましたが、正体を見られたからには、もう、いっしょにはいられません。赤んぼうが乳をほしがったら、この玉をしゃぶらせてください。わたしは山の池にもどります」
 よめさんは赤んぼうと水晶のような玉をおくと、すがたをけしてしまいました。
 男はとほうにくれましたが、赤んぼうは母のくれた玉をしゃぶって、すくすくとそだちました。
「母親がいないのに、ふしぎなこともあるもんだ」
 玉の話はうわさになって、ついに殿さまの耳にもとどきました。
「その玉をめしあげろ!」
 玉は、殿さまにとりあげられてしまいました。
 玉をとりあげられた子どもは、お腹が空いてなきさけびます。
 男はこまりはて、子どもをだくと、よめさんのいる山の池にいって声をかけました。
「ぼうのかあちゃんよう。どうか乳をやってくれ。あの玉は殿さまにとられちまったんだ」
 すると、よめさんがあらわれ、
「この子のなくのがいちばんせつない。・・・さあ、これをしゃぶらせてくだされ」
と、いい、またひとつ玉をくれると、スーッときえました。
 玉をしゃぶった子どもは、たちまちなきやんで、元気にわらいました。  ところが、その玉もまた、殿さまにとりあげられてしまったのです。お腹の空いた子どもは、またなきさけびます。  またまたこまった男は池にいき、ことのしだいを話しました。すると、あらわれたよめさんは、かなしげに目をふせて、
「じつは、あの玉はわたしの目玉だったのです。ふたつともあげてしまいましたから、もう玉はないのです」
「そ、それでは、目も見えないではないか、ああ、むごいことをしてしまった」
 男は、だいた子どもといっしょになきました。それを見たよめさんは、
「ああ、いとしいあなたやこの子をなかせる者は、ゆるさない。いまから仕返しをします。さあはやく、もっと高いところへ行ってください。・・・この子のことは、たのみましたよ」
 そういうと、よめさんは見る間に大蛇のすがたになって、ザブン! と池にとびこみました。
 池の水が山のようにふくれあがり、まわりにあふれだします。男はわが子をかかえ、むちゅうで高い方へかけのぼりました。
 のぼってのぼってふりかえると、池はふきあげるように水をあふれさせ、ふもとのお城まで流れていきます。
 そして、あっという間に殿さまもろともお城をのみこみ、どこかへおし流してしまいました。福娘童話集「今日の日本昔話」から引用
この蛇女房の話は昔話の型としては異類婚姻譚に属しています。助けてもらったお礼としての嫁入り,見てはいけないのに見てしまい大蛇だったという禁止の掟破り,玉を無理矢理奪った殿様という権力への復讐という筋は他の話と全く同じです。しかし,蛇の目であった玉ですが,玉を持っていること,その玉が不思議な力を持っていること自体がまさに蛇神,龍神だとも言えます。この玉こそ如意宝珠でしょう。思うままに願いが叶うとされる仏さまが持つ宝珠です。蛇や龍がこの宝珠を守っているとも考えられます。
「龍女成仏伝説」と言われる話があります。八才の龍女が男に性転換して成仏したという話です。女性は成仏できないという考えが当時あったのでしょうか。今では考えられないことですが。その部分を読んでみましょう。
その時竜女は一つの宝を持っていた。それは三千大千世界の価値があった。竜女はそれを釈尊に奉ると、釈尊は直ちにそれを納めた。 竜女は舎利弗に言った。
『わたしは今、世尊に宝珠を献上し、世尊はそれを納受いたしました。世尊は速やか納められたでしょうか、どうでしょうか』
舎利弗は答えた。『世尊は速やかに納受されれました』
竜女は言った。『もし私が神通力をもっておれば、世尊が宝珠を納めるより速やかに成仏するでしょう』
このとき、会衆はみな、竜女が忽然として男子に変わって菩薩となり、南方の無垢世界へ行き、蓮華座に坐して成仏し、 如来を相を表して無量の衆生に法を説くのを見た。娑婆世界の天と人とすべての会衆は、歓喜し礼拝した。無垢世界と娑婆世界は 様々に揺れ、それぞれの衆生は菩提心を起こし、受記することを得たのである。
智積菩薩と舎利弗とすべての会衆は、黙然としてこれを信じた。法華経提婆達多品(だいばだったほん )第十二の最後
この中で龍女は三千大千世界の価値がある宝珠を釈迦に渡すのです。八才の龍女はその宝珠を持つことにふさわしい女の子であったのでしょう。宝珠を持つ資格を備えた知力も品性もあるからこそ仏になったと思われます。この世を統べる大切な宝珠は蛇神や龍神に守られてこそ統一された自然界を維持させることができたのです。
このように蛇が集まるところには宝珠ではないにしても大切な宝物があるという昔話が全国にたくさんあります。
蛇がいじめられていたのを助けたところ,その蛇は竜宮の姫神であった。そして竜宮城に招待された。地を掘り,建物を壊したらそこに白蛇がわだかまっていた。そこに多くの宝が隠されていた。これらは蛇や龍神でもそうですが,財宝を守り,もたらすのが蛇という考え方が昔からあったのでしょう。蛇が集まっているのをそのままにしていたらその家はまたたく間に栄えた。逆に厭わしく思って退治したり,殺したりするとたちまちその家や家の者は貧窮に陥りついには断絶した。こうした蛇の祟りが以前に紹介した遠野物語の18-21のおもしろ半分に蛇を殺した後,毒きのこを食べた家の者全員が毒にあたって死んでしまったという話にも発展してきます。
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龍神。長沼に現わる。

またこのような龍蛇がもたらす財宝や龍蛇が守っている宝珠がその使い方によって次から次へと尽きることがない財宝がもたらされる。四合しか炊いていないのに何人食べても無くならない釜や米びつやひょうたん(ひさご)に変わったりする,まさに「打ち出の小槌」のような存在。竜宮城のお土産に小さな醜い子どもをもらい約束通り大切に育てると黄金の糞を出す話。この場合にも約束があり,その約束を守らないで欲張ると子どもも犬も,ネコも死んでしまい気付いたら元の貧乏だった。また神より授けられた子どもが最初蛇であって家が富み,大きな立派な人間の若者に育つという話。神様が蛇になってこの世に降りてきて結婚して子どもをつくる話・・・。まさに手を代え品を代えて蛇を登場させるのです。
しかし柳田國男は蛇が明確に神様になって現われたために蛇が崇拝されたのではないと言います。これは「蛇にしか見えないもの」であったのではないか。それが例えば稲妻だったりして,光の蛇と考えて「雷神」が蛇と習合されることもあったと言います。

確かに神話総体の枠を考えると天津神の降臨と国津神の交流によってこの世の神々は次々と誕生していきます。天と地の合体こそがこの世を生む神話の基本型なのです。聖なる光の蛇という稲妻は天からの神の降臨であり,父となり,人間の最も清い女性を母として神子(神の子)は誕生します。そうした聖なる神子をこの世に留めておきたいという願いもあったのでしょう。

おむすびころりんの話にあるように,穴や川や池,沼によく薪を落としたおじいさんに神様がお礼を言いに来るという話もよくあります。これもまた龍神や蛇神だったりします。つまり水の神と結びついています。そして水の神は弁才天ともつながりを持ち,効験高い仏として庶民に親しまれていきます。このつながりをつくるのが蛇や龍という形をしたものです。この場合蛇や龍は仲間です。大きさには関係ありません。
迫町北方三方島は迫川,荒川等が交錯する氾濫常習地帯でした。荒川の河川の一角に八大龍王宮が河川工事以前にあったと言います。八大龍王と龍神,蛇神と最も大切な治水を司る神々は最も祀るべき存在でした。それらが「己巳供養塔」「巳待塔」「蛇神」「蛇王権現」「庚申塔」「龍神」「弁天」「弁財天」「白蛇弁財天」「雷神」と姿を変えながらも「蛇」という概念で信仰され続けて来ました。でも,どうして「蛇」でなければならなかったのか。柳田國男が言うように蛇が明確に神様になって現われたために蛇が崇拝されたのではない。「蛇にしか見えないもの」であったのではないか。と考えます。それは一体どういうことなのでしょうか。蛇に見えて実は蛇ではないものとは・・・。蛇のようなものにしか見えない他のもの・・・。

それは毛虫のようなもの,又は毛のない毛虫のようなものだった。それが発展したイメージとして蛇になったのではないだろうか。と考えています。それはどうしてか。実は体内にいる虫にも思いを馳せていたのではと思うからです。私が己巳供養塔と庚申塔を結びつけて話したのには,庚申信仰の三尸(さんし)のことが頭にあったからです。道教に由来するとされる人間の体内にいると考えられていた虫の事を考えていたからです。その辺のお話は第六回にします。



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新・遠野物語-蛇神の行方4「宇賀弁才天」-

達谷の窟 092-2s
宇賀神

前回の記事から
(宇賀神は)頭は老人の顔をして,身体は蛇です。奇妙なものです。
祭るときには器に水を張りこの像を入れて呪文を唱えるのです。後ろにももの形をした宝珠形の蓋のようなものがあります。小さくハートの形にくり抜かれていますが,蓋をした時に外形が宝珠になります。そしてくりぬかれたハート形から老人の目が覗きます。
①「この神王は西方浄刹に在り無量壽仏と号し娑婆世界に在って如意輪観音と称す。」とあって弁才天ではなく如意輪観音が実体とする説明もあります。宇賀神の宇は天,賀は大地を表すという。つまり天地すべてを統べる福徳を与える神で,効験極まりない究極の権現がこの宇賀神ということになります。
②また宇賀は宇迦とも音感的に似ているので宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)倉稲魂命(うかのみたまのみこと)として食べ物の神と関連づけられたりもします。とにかく本当のことは分からず宇賀神を説明する経典も偽経とも言われています。
③更にこの「宇加耶」は梵語では白蛇を意味しているそうです。
喜田貞吉に「福神研究」(昭和10)という本があります。この中で喜田氏は宇賀神を「宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)倉稲魂命(うかのみたまのみこと)として食べ物の神のから来ている」としています。宇賀神の「宇賀」は食べ物の神「ウカ」と解してよいという考え方です。②の音感の流れから結論づけています。とにかくポピュラーになっていた割には宇賀神は様々な性格を持ち合わせて,如意輪観音と言われたり,蛇だと思えば狐との関連もあって稲荷神に思われたり,弁財天と結びつき福禄寿がもたらされる蛇に姿を変えたりします。とにかく仏教での儀軌が定まって仏像図彙として形態が決定されているわけでもないので(天部には入っていますが)輪郭が不思議な神様になっています。
ところが更に驚くべき事にこの宇賀神が弁才天と合体する「宇賀弁才天」という仏があるのです。早速写真を見てみましょう。

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宇賀弁才天 山本ひろ子「異神」(1998)平凡社(口絵から複写)仏像は山形正善院

不思議です。第一仏像の頭頂部に鳥居です。そして鳥居の奥に「頭は老人の顔をして,身体は蛇」の宇賀神がいるのです。さらにアップの写真があります。見てみましょう。

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宇賀弁才天 山本ひろ子「異神」(1998)平凡社(口絵から複写)仏像は山形正善院

確かに弁才天の頭頂部の鳥居の奥には宇賀神のぎょろついた目玉が見えます。どうしてこのような仏像ができたのでしょうか。
弁才天は分かります。音楽,弁舌の上達などの職能の向上をもたらす仏で,後に「弁財天」という言い方になり福禄寿財宝などをもたらす効験高いポピュラーな弁天様になって現代でもお金を洗うとお金持ちになる弁天として人気を博しています。正徳 2年( 1712年 )の「和漢三才図会」には日本五弁天が紹介され,「竹生島,榎島(江ノ島),厳島,金花山(金華山のこと),富士山」の弁天が指定されています。そして全国の弁天の使わしめが蛇となっています。ずばり白蛇です。
山本ひろ子「異神」(1998)平凡社に図像が載っていたのでそのまま載せます。
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山本ひろ子「異神」(1998)平凡社から複写 図像は叡山文庫版「弁財天三部経略琉」

図像を見ると八臂(手)の弁才天です。昨日紹介した二臂(手)の琵琶を持った弁才天とは違います。
弁財天仏像図彙より

宇賀弁財天は福徳を主る。是れ観音所変の弁才なり。この時は 「オン」字を種字と為す。 「オン」字は即ち宝珠なる故なり。とあり,弁財天は「オン」の種字を使い,一方弁才天は「サ」の種字を使うようです。
宇賀神の身体が蛇身だということは「蛇身是れ三毒極成の体なる故に三悪道を摂る」という意味があります。三毒とは仏教の言う最も根本的な三つの煩悩、貪・瞋・癡(とん・じん・ち)のことを言います。この三毒を統括できるということが三悪道を摂るという意味です。 宇賀神の老人の顔は万徳を表すということだそうです。そして八臂(手)の弁才天の持ち物は左手は鉾,輪宝,宝弓,宝珠を持ち,右手は剣,棒,鑰(かぎ),宝箭(ほうせん)となる。如意宝珠の円光が頂にあるのだそうです。
また「この神王は西方浄刹に在り無量壽仏と号し娑婆世界に在って如意輪観音と称す。」と最初に書きましたが,宇賀弁才天が即如意輪観音となると説かれます。つまり宇賀弁才天は如意輪観音と同体だと言うのです。釈迦は宇賀弁才天のことをこう言います。「私が過去無量劫中のフシャ仏在世の時,私は「貧者」だったが宇賀神法を受持すると,たちまち「大福長者」になった。その名を「福宝光明女」という。」と宇賀弁才天の由緒が語られていきます。
山本ひろ子「異神」(1998)平凡社の中の「宇賀弁才天」の章は供養儀式にまで至ります。しかしかなり難解になりますので次回におもしろかったポイントだけ書きます。
次回は弁財天の垂迹の姿,蛇の伝説を考えてみます。


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蛇神の行方-宇賀神-

田んぼの見回り
田んぼの見回り

この連載「蛇神の行方」は蛇が絵馬や石碑に多く取り上げられていることに気付いたことがきっかけでした。
は虫類が苦手な人には疎(うと)まれがちな蛇なのにどうしてこんなに多く祀られることになったのか。確かに世界の日本の神話や「蛇女房」などの日本の昔話などに蛇は主役として出てきます。石碑を調べてみてもその通りだと思いました。蛇つながりで「己巳供養塔」「巳待塔」「蛇神」「蛇王権現」「庚申塔」「龍神」と結びついていきます。石碑の年代からすると己巳信仰が古くからあり,やがて同じ日待ち信仰の庚申信仰に合体・吸収されていったのではと思いました。その点を先回までのお話の中で展開してきました。信仰の形態を変えても蛇は力強く生き続け,室町期から現代まで七福神の中の弁財天の使わしめとしていよいよ効験高い存在として名を馳せ続けています。今回,蛇に着目した研究者の吉野裕子氏の諸作を本棚から引っ張り出して再び読み流しましたが,なんでも蛇に結びつけるようで私には少し食傷気味でした。しかし吉野氏の視点は有意義なものがあります。

DSC_9627s147s-2-2.jpg迫町新田駒林の「駒形神社」にある芸術性の高い蛇神

上の写真は先回も紹介しましたが,遊佐萬という地元の人が立てた蛇神です。その言われを聞くと藪の刈り払い中に誤って蛇を殺してしまったのだそうです。そこで蛇の供養のために石碑を建てたのだそうです。このような話はよく聞きます。やはり蛇は昔から特別な存在で,それは祟りも大きいと感じた故の建立だったのでしょう。
先回の記事で「遠野物語」18からの蛇の祟りから一家が毒きのこを食べて全滅するという話はあながちフィクションだとしても昔はあり得る話として伝えられてきたと思われます。

DSC_9414s飯島白蛇弁財天
迫町新田飯島にある「白蛇弁財天」

白蛇が弁財天の使わしめということから室町期辺りから更に蛇に対する信仰は勢いづいていったと思われます。弁財天そのものが壽福財宝をもたらす効験高い神様でした。弁財天がこの世に現われ出た姿が蛇なのです。弁財天は仏像図彙では次のように描かれます。
弁財天2
女天で琵琶を持っているのは様々な技能の習得に効く神様だったからでしょう。しかし弁財天の「財」の文字が入ることで金銀財宝の意味が強くなります。「弁才天」と書くとさらに話し方,文筆活動,書道や音楽,芸術と才覚の向上を示す神様となります。また八臂(手)の弁才天もあります。

しかし白蛇はこの弁才天だけの特許ではないのです。
登米市南方にある大嶽山興福寺の明治初期の覚書にそれを見つけました。月毎に配付されるお札の覚書です。
一月 としとく神
二月 はらい神
三月 水神
四月 明神
五月 山の神
六月 えびす
七月 大黒さま
八月 天照大神宮
九月 かぎ
十月 宇賀神
十一月蒼前さま
かぎは計量秤の神様,蒼前さまは馬の神様。そして宇賀神です。
宇賀神は現代ではすっかり忘れられた神様ですが,昔はかなりポピュラーでベスト11に入るほどの神様だったようです。まずは写真を見て下さい。

達谷の窟 092-2s
宇賀神像

頭は老人の顔をして,身体は蛇です。奇妙なものです。
祭るときには器に水を張りこの像を入れて呪文を唱えるのです。後ろにももの形をした宝珠形の蓋のようなものがあります。小さくハートの形にくり抜かれていますが,蓋をした時に外形が宝珠になります。そしてくりぬかれたハート形から老人の目が覗きます。
「この神王は西方浄刹に在り無量壽仏と号し娑婆世界に在って如意輪観音と称す。」とあって弁才天ではなく如意輪観音が実体とする説明もあります。宇賀神の宇は天,賀は大地を表すという。つまり天地すべてを統べる福徳を与える神で,効験極まりない究極の権現がこの宇賀神ということになります。また宇賀は宇迦とも音感的に似ているので宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)倉稲魂命(うかのみたまのみこと)として食べ物の神と関連づけられたりもします。とにかく本当のことは分からず宇賀神を説明する経典も偽経とも言われています。更にこの「宇加耶」は梵語では白蛇を意味しているそうです。

しかし,この宇賀神が寺のお札祭にわざわざ配られている位ですから当時かなり人気があったと思われます。明治に入り神仏分離令で素性よろしからぬ謎めいた権現などは廃止するという中で一気にこの神様は時代に消され,人々の記憶から消し去られていったのでしょう。しかしこの宇賀神が弁才天と一体になった像も存在しています。「宇賀弁才天」です。なんと弁才天の頭上にこの宇賀神が載っているのです。この宇賀弁才天については山本ひろ子氏が「異神」で取り上げています。

次回の蛇は,山本ひろ子氏の「異神」から「宇賀弁才天」を取り上げてみます。


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新・遠野物語-蛇神の行方2-

5月栗駒 571s
蛇の絵馬

先回の記事で私は「己巳(きし)供養塔」を取り上げて蛇を信仰の対象とする石碑について述べた。
蛇を信仰の対象とする石碑は「己巳供養塔」だけではなく「蛇神」「蛇王権現」また蛇を使いめとする「弁財天」信仰という形で古くから広く信仰されてきた。特に「中田町上沼大泉長承寺境内 己巳供養碑 永仁二年 1294年」は驚くほど古く,登米市中田町では板碑以外の石碑では最も古いとされる石碑がこの「己巳供養塔」です。しかしもう享保十七年には「 庚申・己巳塔」のように庚申信仰と己巳信仰が合体された形で石碑が建てられ,寛延二年(1749)に一気に増え,庚申塔が急激に多くなっていきます。
石碑記録からもう一度抜き出してみましょう。

653 千厩町奥玉 庚申・己巳塔 享保十七年 1732
646 石ノ森小倉天神境内 奉己巳供養塔 寛延二年 1749
647 石ノ森八幡神社境内 己巳供養塔 寛延二年 1749
648 石ノ森蓬田蘭塔場 奉己巳供養 寛延二年 1749
655 花泉町金沢 己巳供養 宝暦四年 1754

寛延二年に「己巳供養塔」が三基も集中しているのは「寛延二年が己巳の年だった」という当たり年であったからでしょう。
民間信仰があまりに忙しく多岐にわたっては大変です。己巳の日も供養し,また庚申の日も供養するという二重の手間を省く動きがあり,己巳供養は流行ってきた庚申供養にやがて吸収されていったのではと仮説を立ててみました。
この二つの信仰は若干似ている部分もあります。

①約60日毎の祭日になること
②日待ち信仰(庚申の勤行は仕事が終わった夜に行われること)
③種々の大きな効験がもたらされること
そして何よりも大切なことは
④庚申信仰の三尸(さんし)(身体の中にいる虫)と己巳供養の「蛇」とがイメージとして結びついたのではないか。
そう考えています。

こうした考え方で当時の社会の流行の庚申信仰が台頭し始め,やがて己巳供養を包括吸収していったのではないか。
この登米市には意外と「二十三夜待ち」などの月待ち信仰の石碑は殆ど無く,これらの要素も庚申にまとめられていき一括して供養されてきたとも考えられます。ここで出てきた庚申塔を見てみましょう。

ことは入り
絵で彫られた庚申塔 本尊は青面金剛童子

碑面上の月と太陽は月が沈み,日が出るまで。つまり「一晩中」という意です。また,本尊の青面金剛童子は邪鬼を踏み,庚申の夜に自分の罪を天帝に知らせようとする身体の中に居る「悪い蟲」を出さないために夜っぴて眠らず皆で集まって読経したり,会食直会(なおらい)していたようです。だから碑面下の「見ザル 言わザル 聞かザル」の三猿は「私の罪を見ないで下さい。言わないで下さい。聞かないで下さい。」という意味です。

仏像図彙で確かめましょう。
青面金剛
庚申信仰の本尊青面金剛童子

庚申の説明が書いてありますが分かりやすく説明した文を引用してみます。
三尸(さんし)とは、道教に由来するとされる人間の体内にいると考えられていた虫。三虫(さんちゅう)三彭(さんほう)伏尸(ふくし)尸虫(しちゅう)尸鬼(しき)尸彭(しほう)ともいう。

60日に一度めぐってくる庚申(こうしん)の日に眠ると、この三尸が人間の体から抜け出し天帝にその宿主の罪悪を告げ、その人間の寿命を縮めると言い伝えられ、そこから、庚申の夜は眠らずに過ごすという風習が行われた。一人では夜あかしをして過ごすことは難しいことから、庚申待(こうしんまち)の行事がおこなわれる。

日本では平安時代に貴族の間で始まり、民間では江戸時代に入ってから地域で庚申講(こうしんこう)とよばれる集まりをつくり、会場を決めて集団で庚申待をする風習がひろまった。

道教では人間に欲望を起こさせたり寿命を縮めさせるところから、仙人となる上で体内から排除すべき存在としてこれを挙げている。by Wiki
本尊の青面金剛童子が持っている縄はなんとなく私には「蛇」に見えてしまいます。こうした共通性が庚申信仰と己巳信仰を合体させることになったのではないでしょうか。そうして「蛇」は一旦姿を隠したかのように思われましたが,やがて室町時代辺りから始まる七福神信仰の「弁財天」の中で一層明確に,弁財天の垂迹が蛇という形ですぐに脚光を浴び,以前より大きく「蛇」の出番となるのです。

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右上に「蛇神」と彫られています。場所は新田駒形神社境内に立てられています。碑面全体に蛇が大きく踊っている絵は生き生きとして素晴らしい彫りです。
拡大して下も見ましょう。
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「蛇神」下の部分 生き生きとした蛇が身体をくねらせています。

遠野物語18から,蛇を殺したために一族がすべて没落するという話まであります。
早速読んで見ましょう。
18 ザシキワラシ又女の児なることあり。
同じ山口なる旧家にて山口孫左衛門と云ふ家には、童女の神二人いませりといふこと久しく言伝へたりしが、或年同じ村の何某と云ふ男、町より帰るとて留場の橋のほとりにて見馴れざる二人のよき娘に逢へり。物思はしき様子にて此方に来る。お前たちはどこから来たと問へば、おら山口の孫左衛門が処から来たと答ふ。此から何処へ行くのかと聞けば、それの村の何某が家にと答ふ。その何某は稍􀀀離れたる村にて、今も立派に暮らせる豪農なり。さては孫左衛門が世も末だなと思ひしが、それより久しからずして、此家の主従二十幾人、茸の毒に中りて一日のうちに死に絶え、七歳の女の子一人を残せしが、其女も亦年老いて子無く、近き頃病みて失せたり。
19 孫左衛門が家にては、或日梨の木のめぐりに見馴れぬ茸のあまた生えたるを、食はんか食ふまじきかと男共の評議してあるを聞きて、最後の代の孫左衛門、食はぬがよしと制したれども、下男の一人が云ふには、如何なる茸にても水桶の中に入れて苧殻(をがら)を以てよくかき廻して後食へば決して中ることなしとて、一同此言に従ひ家内悉く之を食ひたり。七歳の女の児は其日外に出でゝ遊びに気をとられ、昼飯を食ひに帰ることを忘れし為に助かりたり。不意の主人の死去にて人々の動転してある間に、遠き近き親類の人々、或は生前に貸ありと云ひ、或は約束ありと称して、家の家財は味噌の類までも取去りしかば、此村草分の長者なりしかども、一朝にして跡方も無くなりたり。
20 此凶変の前には色々の前兆ありき。男ども苅置きたる秣(まぐさ)を出すとて三ッ歯の鍬にて掻きまはせしに、大なる蛇を見出したり。これも殺すなと主人が制せしをも聴かずして打殺したりしに、其跡より秣の下にいくらとも無き蛇ありて、うごめき出でたるを、男ども面白半分に悉く之を殺したり。さて取捨つべき所も無ければ、屋敷の外に穴を掘りて之を埋め、蛇塚を作る。その蛇は蕢(あじか)に何荷とも無くありたりといへり。
21 右の孫左衛門は村には珍しき学者にて、常に京都より和漢の書を取寄せて読み耽りたり。少し変人と云ふ方なりき。狐と親し
くなりて家を富ます術を得んと思ひ立ち、先づ庭の中に稲荷の祠を建て、自身京に上り正一位の神階を請けて帰り、それよりは日々一枚の油揚を欠かすことなく、手づから社頭に供えて拝を為せしに、後には狐馴れて近づけども遁げず。手を延ばして其首を抑へなどしたりと云ふ。村に在りし薬師の堂守は、我が仏様は何物をも供へざれども、孫左衛門の神様よりは御利益ありと、度々笑ひごとにしたりと也。」
蛇を殺したことから後にその一家全員が毒きのこに中り亡くなるというショッキングな話です。これを蛇の祟りと言うのでしょう。

それでは「蛇神」は庚申信仰や弁財天信仰の中でどのように復活活躍していったかを次回に「宇賀神」という神様から見ていきましょう。

この話は続きます。



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