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新・遠野物語-春蚕の出荷-

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繭の美しさ

宮城県内でも,もう十軒ほどしか残っていない蚕農家の一軒を登米市石越町に訪ねています。
スケジュール通りに蚕は生繭のまま出荷されていきました。80キログラム弱の生繭は,一個一個丹念にチェッされていました。中の蛹が死んでいる繭は出荷できず,取り除かれていきます。透過光でチェックすると中の蛹が死んでいると,黒くなっているので選別できるのだそうです。しかし取り除かれる繭は百個に一個くらいだけで殆どがOKです。繭研きをした後の繭は美しい楕円状で肌ざわりがとても良く,光に透かしてみると梅雨空の暗い雲の下で一際白く輝いていました。ここの蚕農家さんでも半分ほどに規模を縮小して,更に春蚕(はるさん)と秋蚕(あきさん)しか行わなくなったのだそうです。規模を縮小したとはいえ,三齢終わりで入荷した蚕の幼虫は卵にすれば60000個弱になります。これが繭になった場合約100キログラムになります。この100キログラムの内20%程の20キロ弱が生糸になります。あとの80キログラムが蛹の重さというわけです。蛹は蛹で加工され,鯉の餌や肥料になりますが,最近6/29日付けの日本農業新聞によれば九州大で蚕がコロナワクチン開発の可能性と出ていました。従来より蚕から薬を取るという事実がありましたから大いに期待したいです。

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出荷前の選別作業  透過光でチェックすると中の蛹が死んでいると,黒くなっているので出荷せず取り除かれるのだそうです。しかし取り除かれる繭は百個に一個くらいだけで殆どがOKです。

私は今回この蚕農家の見学をしてつくづく感じたことがあった。遠野で有名な「オシラサマ」というのは「お白さま」のことで,蚕のことだと合点がいったのである。幼虫も繭も白く美しい。美しい糸をつくる御蚕様(おかいこさま)と呼ばれるのも納得できる。ここで柳田國男の遠野物語の「オシラサマ」の項を改めて読んで見ましょう。
六九 今の土淵村には大同(だいどう)という家二軒あり。山口の大同は当主を大洞万之丞(おおほらまんのじょう)という。この人の養母名はおひで、八十を超えて今も達者なり。佐々木氏の祖母の姉なり。魔法に長じたり。まじないにて蛇を殺し、木に止とまれる鳥を落しなどするを佐々木君はよく見せてもらいたり。昨年の旧暦正月十五日に、この老女の語りしには、昔あるところに貧しき百姓あり。妻はなくて美しき娘あり。また一匹の馬を養う。娘この馬を愛して夜になれば厩舎(うまや)に行きて寝ね、ついに馬と夫婦になれり。或る夜父はこの事を知りて、その次の日に娘には知らせず、馬を連つれ出して桑の木につり下げて殺したり。その夜娘は馬のおらぬより父に尋ねてこの事を知り、驚き悲しみて桑の木の下に行き、死したる馬の首に縋すがりて泣きいたりしを、父はこれを悪にくみて斧をもって後うしろより馬の首を切り落せしに、たちまち娘はその首に乗りたるまま天に昇のぼり去れり。オシラサマというはこの時より成りたる神なり。馬をつり下げたる桑の枝にてその神の像を作る。その像三つありき。本もとにて作りしは山口の大同にあり。これを姉神とす。中にて作りしは山崎の在家権十郎ざいけごんじゅうろうという人の家にあり。佐々木氏の伯母が縁づきたる家なるが、今は家絶えて神の行方ゆくえを知らず。末すえにて作りし妹神の像は今いま附馬牛村にありといえり。
いなくなった娘を案じて,父は娘を探して大いに嘆いていたところ,父の夢に娘が出てきてこう言ったという。「お父さまよ。心配されるな。私も今達者に暮らしています。明日の朝,馬を吊した桑の木の下を見て下さい。桶の中に沢山の蚕を置いておきます。これを育てて私が働けなくなった分の収入に充ててください」と夢で告げたという。これが蚕の始まりであり,桑の木と蚕との関係である。実際に学説ではどう解明されているのかは分からないが白い蚕や繭が「オシラサマ」であることは私には腑に落ちた。

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繭を切ってもらった 蛹はもう少しでカイコガになるという手に持ってみたらくねらせるように動いた

繭を出た成虫としてのカイコガは,飛べないし,そのまま死んでしまうと言う。究極まで家畜として改良され続けた結果である。自分でカイコガを育て卵を取ることは種苗法という法律によって禁止されているという。専門の機関でしか採卵や孵化は行えないという。今年配蚕(はいさん)されたカイコは「春嶺×鍾月」で糸の生産性が高い品種だという。すべて専門の機関で研究,交配されたものがスタンダードとして各蚕農家に配られるわけである。ただし産卵した卵は一年しかおけず,毎年更新され続けていくという。それも苦労なことだと感じた。

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袋に詰められた蚕の生繭は買い付け専門指導官が計量し,製紙工場へ送られていく。

今年の作柄を聞くと,暖かい気候で順調だったという。温度管理が大切な時期に暖かく24℃という管理温度を保ちやすかった結果良い作柄になったと言っていた。

何よりも毎年ながら出荷までやり終えて,ご夫婦は一安心したようです。毎日毎日おいしい桑の葉を与え続け,温度管理に気を遣い立派に蚕を育て上げたご夫婦のきまじめさにまた百姓の底力を感じて感銘を受けた。

尚,秋蚕は9月初めに配蚕されるそうなので9月にまたこの記事を続けたい。


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新・遠野物語-春蚕の上蔟(じょうぞく)-

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回転蔟(かいてんまぶし)を組み立てる

宮城県内でも,もう十軒ほどしかのこっていない蚕農家の一軒を登米市石越町に訪ねています。
この養蚕という伝統農業は時代的にも今でしか見学できない段階に来ています。私自身は幼い頃に蚕を飼っている祖父の実家を訪ねた折,ほの暗い中二階で蚕が桑の葉を食べる音や白い蚕をじっと見ていたことを懐かしく憶えています。あれからもう何十年が過ぎているでしょうか。農業の姿もすっかり変わりました。手の掛かる蚕を育てる農家は激減しました。桑畑は水田や果樹に変わり,辛うじて地名に残っているばかりです。また,農家の大きな中門や蚕を育てる中二階を持った昔の大きな家もなくなり,「こんにちは」と言って家に入ると土間のひんやりとした空気や入口脇に馬や牛がのーっと頭を出している光景も全く見られなくなりました。このような農家の風景を記録しておく時期に来ています。

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桑の枝に付いた蚕を条払機(じょうばらいき)にかけます。ざんざんと上下に震動するので蚕が桑の葉からふるい落とされます

蚕はいよいよ最終齢(5齢)を迎え繭をつくる時期を迎えました。そして夏至の6月21日に繭を作らせる「上蔟(じょうぞく)」という段階に入りました。その上蔟(じょうぞく)の作業を見学してきました。その作業の様子を順を追って見てみましょう。

まず,ざんざんという機械の音が私たちを迎えてくれました。条払機(じょうばらいき)の音です。桑の葉に付いた5齢の蚕をふるい落とします。写真を見ると分かりますが,ふるい落とされた蚕が下のブルーシートに溜まります。

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ふるい落とされた蚕に網をかけます。あみを懸けると網の穴から元気な蚕が頭を出して網の上に這い上ってきます。この元気な蚕を桶に集めて繭をつくるための小さな部屋に区切られた回転蔟(かいてんまぶし)と言われるものに移します。


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元気の良いかいこが網の中から頭を出してきました

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網から這い出た蚕を桶に入れて回転蔟(かいてんまぶし)の部屋に運びます

桶から雨樋のような容器に蚕を移し,回転蔟(かいてんまぶし)の上に降りかけるようにします。すると蚕は回転蔟(かいてんまぶし)の木枠や小さな区切りの部屋にひっかかり,お気に入りの個室を見つけて移動し,そこで糸を吐き出し始めます。次の写真を見ると分かります。

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百匹ほどの蚕が入った回転蔟(かいてんまぶし)を針金で吊り下げます。いろいろな重心の変化で自然と回転します。

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何十年と夫婦で養蚕を続けて来ました

あうんの呼吸です。

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回転蔟(かいてんまぶし)の作業所 暖房しています。

こうして3~4日すると蚕は糸を吐いてきれいな繭を完成させます。蚕の体内から本当に細い糸が限りなく紡ぎ出される不思議に改めて感銘を受けます。本当にすごい。蚕の繭は一繭約1.5~2グラムで,糸を繰って伸ばすと1800mにもなるそうです。一繭の80%が蛹部分で,後の2割が生糸になります。特に季節毎に春蚕,夏蚕,秋蚕,冬蚕とあるそうですが,この春蚕が最も質の良い出来柄だと言われています。以上が「上蔟(じょうぞく)」と言われる蚕が繭をつくるための作業です。

一年の流れで言いますと
1 孵化-蚕の卵を孵化させること
2 掃き立て-ふかした蚕(蟻蚕)に桑の葉を与えること
幼虫期間
3 給桑-桑の葉を与えること,一日2~3回
4 アドタテ-蚕糞蚕滓(糞尿)を取り除き,きれいにしておくこと
そして今回の
5 上蔟(じょうぞく)-最終齢幼虫が繭をつくりやすくする
6 ヤドイヌキ-一個ずつ繭を取り出す作業
7 毛羽取り(繭研き)-繭の表面をきれいに仕上げる
そしていよいよ
8 出荷となります。

この出荷は生繭のまま出荷します。
幼虫の3齢辺りで配付されますから,約1か月間ながら毎日の作業は気の抜けない大変な苦労があります。長い伝統に培われてきた養蚕の無駄がない,効率的な作業手順や道具にいちいち感銘をうけてしまいました。もう何万という繭が完成されている頃でしょう。


この記事は続きます。


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蚕農家の始まり

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蚕飼育始まる

私にとって蚕はとても懐かしい思い出と一緒です
現在滅びつつある日本の蚕飼育の歴史を今こそ見届けておきたいと思いました
登米市でただ二軒ばかりとなった蚕農家の一軒を石越に訪ねました
感想はすごいの一言ですが,蚕という生き物が実にデリケートで,質の良いものに育てるためにどんな苦労も厭わないというご夫婦の生き物に対する愛情がひしひしと伝わってきました。こんな人達だからこそ,たった一軒でも営々と何代も蚕を育て続けて来たのだと頭が下がりました。

いよいよ蚕飼育が始まりました。
昨日,4齢の状態で配蚕された蚕を,今日見てきました。
いよいよ始まりです。朝与えた桑の葉は旺盛な食欲でもう枝だけという状態でした。これで一週間経つと,いよいよ最終齢5齢となり糸を出して繭をつくります。糸を出す前に幼虫が透明になる時がきれいなんだと言っていました。

今度はその糸を出す直前の時期に当たる21日に行くことになりました。

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4齢の蚕

長さ10m以上のこの青い大きな蚕籠に1000頭の蚕がひしめいています。その図は正に壮観です。

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頭をもたげて止まっています

よーく見てみると,頭をもたげて止まっています。これはもう食べないという状態なのだそうです。2・3日もするとぐ脱皮に入るそうです。与えられる桑の葉の量が半端じゃありません。すごい量です。これから1ヶ月毎日朝昼晩と三回,新鮮な桑の葉を与えたり,温度管理をしたり,消毒をしたりします。いたわるように育てるとはこのことだと思いました。



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新・遠野物語-蛇神の行方8「蛇髪譚の起こり」-

ミズバショウ 188-2s
荒沢湿原

先回は説教節「苅萱」を取り上げ,加藤繁氏の出家発心の動機に,その妻と妾の互いの嫉妬で髪が蛇と化し,いがみ合い,喰らい合うというシーンが付け加えられたと言いました。このエピソードが付け加えられることで繁氏の出家発心の理由が更に明確になり,説得力のあるリアリティーが話の筋に生まれていきました。女の髪の毛が蛇となり,互いに争い,喰らい合うというエピソードは「蛇髪譚」として,語り,浄瑠璃,歌舞伎,そして聖や絵解きによって全国津々浦々に室町時代以降に広く定着していった流れが伺えます。今日は堤邦彦の論文「近代仏教説話の研究-唱導と文藝-」を辿る形で「蛇髪譚」の起こりを見てみたいと思います。まず「蛇髪譚」が出てくる話を一遍の出家発心の逸話からもう一度確かめておきましょう。
若い頃の一遍には二人の妾がいた。二人とも美しく心優しい性格をしており、一遍は両人を同じ位深く寵愛、また妾同士も仲良くしているようであった。しかしある日二人が碁盤を枕にうたた寝していると、突然二人の髪が立ち上り小蛇となって食い合った。それを見た一遍は刀で蛇同士を切り離し、執心や嫉妬の恐ろしさを知って出家したという
この話と同様な話が見られます。まずは論文の中から年代順に書き拾ってみます。

NO  物語名 作者    和暦   西暦 備考
1 曽呂利物語 不明   寛文三   1663 万治年間成立
2 京雀        浅井了意   寛文五   1665
3 嵯峨釈迦御身拭   元禄十三  1700 構成は苅萱,蛇髪譚を挿入
4 一遍上人直談鈔   正徳四   1714
5 苅萱桑門筑紫𨏍 並木宗輔
               並木丈輔   享保二十  1735 大当たりを取る
6 道成寺霊蹤記 礼淵編   寛延二    1749
7 播陽万宝知恵袋 天川友親編  宝暦十 1760 天正元年の出来事と記述
8 昔語質屋庫 滝沢馬琴   文化七年 1810 一遍上人を苅萱道心と作りかえたるなるべし

上記以外にも「蛇髪譚」がエピソードとして出てくるものがたくさんあります。
最後に出てきた滝沢馬琴も「苅萱」物を書いていますが,「昔語質屋庫」(文化七年,1810)の六章で「蛇髪譚」に触れ,「この別府通秀入道(一遍上人)を加藤重氏(苅萱道心)とつくりかえたるなるべし」と言っています。つまり「苅萱」は,一遍上人の発心出家の話を土台にしてつくられたのだと言っています。そして場面設定はある時には女二人が双六盤を介してだつたり,碁盤だったりすると場面の違いにも言及しています。そして論文を書いた堤邦彦氏は,この蛇髪譚と一遍伝との関係が公になったのは2 「京雀」 浅井了意  寛文五 1665であり,同じ話が「九条年代記」延宝三1675にあると言います。

では一遍伝の「蛇髪譚」が原型かと言うと,他の一遍の伝記には見当たらないのです。見当たらないどころか一遍自身が二人の女を囲っていた話がその後,一遍自身に起きたことではなく縁者に起こったことを一遍が目撃したという伝聞型に変化していきます。どうも後で俗伝を加えたとも考えられます。では本当の蛇髪譚の起こりはどこにあるのでしょうか。これは高野山の出家物語だけではなく広く市井にもあったらしい「二妻狂(ふためぐるい)」の地獄絵として説話のテーマとして描かれてきた経緯があったのです。例えば次の写真を見て下さい。

富士の人穴草子
「富士の人穴草子」慶長八年1603 絵の真ん中に二匹の蛇に巻かれた男が描かれている

市井に暮らす俗人にとっても二人の女を持つことは地獄の一つだったようです。この「二妻狂(ふためぐるい)」というイメージが一遍の出家譚や「苅萱」に援用されていきます。滝沢馬琴は「蛇髪譚」の原型は一遍の出家譚にあると言いましたが,すでに古くから「蛇髪譚」は邪淫の罪科としての唱導文学や絵解きで広められていたのでしょう。絵解きというのは絵にした説話や地獄絵,曼荼羅などを使い,分かりやすく説明しながら仏教の功徳を教える方法です。市が立った街角でも広く行われていたのです。

籠耳から絵解きの図
「籠耳」(貞享四1687)から地獄絵で絵解きをしている図

絵解きは何も僧や尼僧が行わなくても一般人が行ってやがて職業化していったそうですから寄り合いなどで,絵解きは気軽に頻繁に行われていたかもしれません。また注目したいのは,名所図会などの観光ブームに乗って全国五大弁財天めぐりとか,七観音めぐりとか,絵解きと同時に最新の観光情報などもセットになって人々に知らされていたようです。更に文藝面では歌舞伎,浄瑠璃,和讃等の歌いなどでより大衆化され,「蛇髪譚」はますます全国津々浦々の人々の心に深く浸透していったと思われます。地獄に現われていた蛇はやがて弁財天と結びつき,福徳財の象徴と変身し,そして江戸時代,巷の観光ブームの蛇の信仰はより深まりを見せていったのでしょう。

ミズバショウ 058s
雪解け進む
ミズバショウ 224-2s
にぎわい
ミズバショウ 417-2gs
ひっそりと咲く


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新・遠野物語-蛇神の行方7「苅萱(かるかや)」-

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この新・遠野物語シリーズは東北の中世や近世の風景を写真や文章で再現しようとするものです。
この特集「蛇神の行方」は「蛇」に着目した民間信仰の様子を考えています。先回の6回目が3月でしたから2か月ぶりのアップになります。各所にある「己巳供養塔」「巳待塔」「蛇神」「蛇王権現」「庚申塔」「龍神」「弁天」「弁財天」「白蛇弁財天」などの石碑はすべてが何らかの形で「蛇」と結びついています。まず,民俗学では蛇や龍を水の神と雷鳴や稲妻から,「雷神」も蛇と関連して語られてきました。また,日本五大弁財天(弁財天の権現は蛇)の一つ,金華山が石巻にあるので弁財天の使わしめとしての蛇の存在がまた強く出ている地域です。この弁財天は,宇賀神という蛇身人頭と弁才天が合体した宇賀弁才天としての存在感も持ち合わせています。そして先回は昔話や諺にある蛇の話などを取り上げてきました。

宇賀弁才天の話で蛇は三毒の象徴と言われていました。三毒とは仏教の言う最も根本的な三つの煩悩、貪・瞋・癡(とん・じん・ち)のことを言います。この三毒を制御することが「三悪道を摂る」という意味です。障碍を除き,福徳を授け,財に預かる弁天信仰は七福神の一つとして「弁財天」と発展,重ねて水の神としても全国に知れ渡るようになりました。その弁才天のこの世での姿(垂迹形)が「蛇」なのです。

そして今日は説教節「苅萱(かるかや)」です。
私がこの「苅萱」を実際に見たのは神楽の演目「石童丸」でした。
石童丸は母と,自分が生まれる前に出家した父を訪ねて高野山に登り,父と不動坂で対面することになります。しかし,顔さえ見たこともない父ですから,今この不動坂で出会った目の前の僧が父だとは分かりません。一方,父(苅萱道心)は話している内に正に自分の息子,石童丸だと分かりますが,実際は自分ももう出家した身,「そなたの父は亡くなった」と嘘をつくことになります。この辺りが一つの山場ですが,父との再会を果たしたい,純粋でまっすぐな気持ちを持った石童丸と出家した手前,捨てた我が子を抱き寄せることすらできない父親の葛藤が最高潮に達します。苦渋の果て,なんとか嘘をついてその場を取り繕うしかない父親の葛藤が激しくまっすぐな気持ちの石童丸とぶつかり合います。二人はついに他人のまままた生き別れることになります。
石童丸はとぼとぼと高野山の坂を下り,下で待つ母に父はもう亡くなっていたことを伝えなければいけない哀しさ,情けなさにさいなまれます。ところが,下で待っている母の宿に着くとなんと母は石童丸が高野山に登った日から倒れ,病気で亡くなっていたことを知らされます。
なんとも悲しい,この世の理不尽が幼気(いたいけ)のない子どもに次々と降りかかっていくのがこの説教節の魅力です。同じ説教節で思い出すのは森鴎外が再話した「山椒大夫」でしょう。あの安寿と厨子王の受ける仕打ちや残酷さが「苅萱」の石童丸にも当てはまります。悲しい涙を誘います。

刈萱
苅萱 妻,妾が蛇になって争う場面 この場面は後から付け加えられたという説がある。

さてこの「苅萱」という話は,元々,筑前国の武将、加藤左衛門尉繁氏は六カ国を知行し,八万騎の侍の大将の身です。恒例の花見の宴を開いたその時に杯に一房の桜花が落ち,杯の縁を三回回ったそうです。正にその時,繁氏はこの世の無常を知り,すべてを捨てて仏門に入ることを決心します。一族郎党はすべて繁氏の出家を止めますが,当の大将はすべてを振り切って高野山に登ります。杯に一房の桜花が落ちたことで富も栄誉も家族も妻も三歳の鶴姫やお腹の中に居る石童丸という子どももすべてを捨てて出家するという話です。こうした話は高野聖がつくって語りとして広めたと言われていますからこのような言わば遁世譚として成立するのでしょう。

ところが実際,花が散ってこの世の無常を知ったためにすべて置き去りにされる方の身になって考えると,繁氏もかなり自分勝手な,無責任な行いだとも思われます。水上勉の「説教節を読む」の中でも水上はそんな無責任なことは・・・とため息をつきます。
と・・・。時間を経るに従い,話に説得力を増させるためなのか,新しいエピソードが加わっていきます。繁氏が妾を持って,その妾
と家族が同居している中で妻と妾の嫉妬の嵐が吹き荒れるというエピソードです。この妻と妾が表面上は仲良くもしながら,夜,互いの髪が蛇と化し,いがみ合い,喰らい合うというシーンが「苅萱」の筋に付け加えられたといいます。
物語の効果としては繁氏の出家の理由が女同士の醜い争いが出家の理由として急浮上していき,話の筋に納得感がまされていくわけです。このエピソードを付け加えることで出家の理由がはっきりと,聞く者にも矛盾なく感じることができるというものです。

苅萱堂s
女同士が髪を蛇にして争う場面

この女の髪が蛇と化すという話は,「苅萱」の中では「蛇身と書いて女と読む」という書き方が出てきます。
これがまるで身体は蛇で,頭は人という「宇賀神」を表象しているように感じませんか。この蛇はそのまま「三毒」を表しているのです。「蛇身是れ三毒極成の体なる故に三悪道を摂る」とあり,その三毒とは仏教の言う最も根本的な三つの煩悩、貪・瞋・癡(とん・じん・ち)のことを言っています。貪・瞋・癡(とん・じん・ち),つまり貪り,怒り,愚かさです。この人間が本来持っている成仏を妨げる貪・瞋・癡(とん・じん・ち)という煩悩が蛇という形で表現されているのです。「苅萱」でもこの蛇の存在が付け加えられました。
ところで類似する話に「西行出家物語」にも西行が出家する際に泣きすがる子を足蹴にしたというエピソードがあります。また,一遍の出家の際にも似たエピソードがあります。
若い頃の一遍には二人の妾がいた。二人とも美しく心優しい性格をしており、一遍は両人を同じ位深く寵愛、また妾同士も仲良くしているようであった。しかしある日二人が碁盤を枕にうたた寝していると、突然二人の髪が立ち上り小蛇となって食い合った。それを見た一遍は刀で蛇同士を切り離し、執心や嫉妬の恐ろしさを知って出家したという
この一遍の出家譚は後に一遍自身に起こったことではなく,一遍の親戚に起きたことを一遍が見ていたという話に変わっていきます。この一遍の蛇髪譚のエピソードが「苅萱」の中に取り入れられたようです。いずれにしても浄瑠璃や歌舞伎で「苅萱」を創作していった作家達が当たりを取るためにより過激に仕立てていったことは言えるのかもしれません。

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今朝のさんぽ道


蛇はこのように煩悩の極致として表現され続け,演劇を通して民衆に深く浸透してきたことは確かです。そして蛇が表象しているものは,人の貪り,怒り,愚かさということが分かります。
次回はこのエピソードの起こりがどの辺にあるのかを探っていきたいと思います。そしてどうしても蛇と人とのこうした関わりが室町以前にはもう出ていたと考えています。その辺を弁財天信仰との関係で解決できたらと思います。難しいですが・・・。



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