黒沢清の新作「散歩する侵略者」  

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ヒガンバナ咲く

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散歩する侵略者(2017)

9月9日に公開された黒沢清の「散歩する侵略者」を記念してwowowで「ダゲレオタイプの女」(2014)と前田敦子の「セブンスコード」(2013)を放送しました。一方,「散歩する侵略者」をテレビ用に「予兆  散歩する侵略者」を今日から放送するということです。先日録画した 「ダゲレオタイプの女」(2014)と「セブンスコード」(2013) を観ましたが,「セブンスコード」前田敦子主演で,秋元康から頼まれたのでしょうから,それなりの作品でした。もう一つの 「ダゲレオタイプの女」(2014)はすべてフランスで作られ,スタッフも全てフランスですから黒沢清に監督をして下さいと特別な指名があったのでしょう。

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「ダゲレオタイプの女」(2014)

ゴシックホラーと称されているこの映画ですが,堅実なロマンスとなっていて,ダゲレオタイプという写真技術の復活に賭ける厳格な芸術家である父とその写真モデルである娘のマリー,同じようにモデルをしていて自殺した妻を設定に,助手に採用されたジャンが初めて訪れるところから映画は始まります。私の興味はただただ黒沢テイストがどのように出てくるかということばかりです。自殺した妻が徘徊する屋敷にはモデルの2代目になった娘のマリーが60分,70分,120分と動かずにモデルを務めるという過酷な撮影が続きながらストーリーは展開していきます。
私は黒沢作品で衝撃を受け続けてきたファンですから,特に叫 (2006),LOFT ロフト (2005),ドッペルゲンガー (2002),アカルイミライ (2002),回路 (2000),カリスマ (1999),CURE キュア (1997)などは大好きです。これらの作品群がどのように成熟されていくのかが最も興味あるところなのです。彼の作品を観た感想を以前このブログで次のように書きました。
他者はいともたやすく「あなたの中に侵入してくる」,むしろ暴力的に侵入してくるものに対して,いつも人は自分を守るすべがない。他者が入ってくることを止められない,自分自身を守ることなどできないのだ。と映像で言い切っている。
 「叫」の冒頭の夢のシーン。壁であっても,窓であっても,不透明なシートであっても,侵入してくるものにとっては障害でも何でもない。他と隔てているはずの壁など,全く意味がなくなる。まさに肉体や心は,すべてすぐ壊れる壁,窓,不透明なシートそのものなのだ。おまけに,あなたが一瞥のもとに見た相手が,脈絡もなく,傷つけられたと感じたら,その罪によっていわれなき攻撃を受けても仕方ないのだ。現実では実際に,こういうことってある。この世に取り込まれた畏れを感ぜずにはいられない。その恐怖の表現の仕方が誰よりも卓抜している。
 私たちはかつて(信じている者は今でも),自分と他者との間の壁を取り払うことを望んできたのではなかったろうか。互いに理解し合う,壁のない世界を私たちは夢見てきた。愛。平和。そんな世界を望むことはできる。
 しかし,愛のために開かれたわたしたちの心には,同時に『幽霊もやってくる。』いつも自分の求める願いに合うものだけがわたしたちにもたらされてきただろうか。
 地震,風に揺れる木々の枝,ざわめき出す水面,光が途切れた空。いやな音とともに・・・。
 部屋の隅を見るといい。
 幽霊がいる。よく見れば,幽霊とは勝手に自分自身がつくりだしたものではなかったろうか。自分の記憶の果てに消えていった無意識世界の復元や幻影・・・。それは自分の所有でありながらまったく記憶にも自覚にもないもの。それらは自分の理解を超えた他者となって今,立ち昇ってくる。
自分の中に入り込んでくる者は,ずばり形象化されていない「あるもの」です。それらは無防備な心に入り込んできて私たちを「侵食していくなにか」なのです。その侵食されていく怖さの表現が卓抜しているのが黒沢清の力です。幽霊という形を借りて表現されることもあるし,キングの小説のように悪さをする亡霊として登場することもあります。また,エイリアンであったりもするわけです。ただ黒沢のうまさはキャラクターデザインによって造形化されたもの「他者」ではなく,あくまで気配で語り続ける雰囲気であり,戦慄する状況の醸し出し方にあると思います。「叫」では道徳が取り払われたストーリーの中に「あるもの」つまり「あいつ」は遠慮無しに入ってくるという設定です。何の関係もない相手が突然に現れてくるのです。

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台風一過の今朝の伊豆沼

彼のフィルモグラフィーを見てみましょう。

予兆 散歩する侵略者 (2017)
散歩する侵略者 (2017)  
ダゲレオタイプの女 (2016)  
クリーピー 偽りの隣人 (2016)  
岸辺の旅 (2015)  
Seventh Code セブンス・コード (2013)  
リアル~完全なる首長竜の日~ (2013) 
贖罪 (2012)
トウキョウソナタ (2008)  
パルス (2006)  
叫 (2006)  
LOFT ロフト (2005)  
ドッペルゲンガー (2002)  
アカルイミライ (2002)
回路 (2000)  
カリスマ (1999) 監督/脚本  
CURE キュア (1997)

ただこの10年,黒沢映画が,かなり一般化されてきた感じがします。切っ先鋭い感じがなくなってきた感じがします。これは彼のつくる「モノガタリ」が求心力を失ってきたことを言っているのでしょうか。そうではないと思いたいです。新作の「散歩する侵略者」は彼の新境地になるのか,それとも一般化の過程を辿る作品になっているのか。期待して鑑賞したいです。

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台風一過の今朝のさんぽ道


とにかく今夜0時の「予兆」を観ましょう。


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悲しくてやりきれない-この世界の片隅に-

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差してきた光   気仙沼線 御岳堂-陸前豊里

昨晩は野外ステージで映画「この世界の片隅に」の原作者こうの史代さんのトークイベントと音楽を担当した「コトリンゴ」さんのミニコンサートがあるというので出かけてきました。こうの史代さんが賢治を知ったのは図書館で借りた伝記を読んで,一途に自分の思ったことをやり遂げる姿に感銘を受けたからだと言っていました。気持ちが沈んだときには賢治の短編を声を出して読むんだそうです。すると不思議と気持ちが落ち着くと言っていました。こうのさんから出てきた賢治作品は「山男の四月」これは映画のラストの橋のシーンで山男が出てきましたね。そして,「おきなぐさ」「気のいい火山弾」「黒ぶどう」「台川」「ざしきぼっこのはなし」「鹿踊りのはじまり」「毒もみの好きな署長さん」「林の底」と次々と賢治作品が出て来ました。こうのさんも根っからの賢治ファンなんですね。

この世界の片隅に


さて,「この世界の片隅に」の映画の方ですが,戦時中の呉の日常を描いていましたが,戦時下の生活というものがどんなものであったのかがとても丹念に描かれていてとてもよかったです。戦地に散った兵隊さんの遺骨や遺品が骨壺を開けてみたら,石ころ一つだけだというシーンも心に残りました。
私はそんな戦争で死んだ命が,故郷に還ることなくいつか帰ってくるのではないかと家族は待ち続け,そのまま遺族も死んでいったことも事実です。彼らの,あるとき家族が突然いなくなり,死んだ証拠もなく「不在」のままになっている事実は認められない,何か夢のようなことでもあったのでしょう。
私はこんな一人の家族の不在といつまでも待ち続ける家族の苦しみを次のような写真として表現してみました。

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宴を待ち続ける

コトリンゴさんの美しい声はその切なく「悲しくてやりきれない」気持ちを切々と語り掛けてきました。夏の終わりの夕暮れの青い空と雲に合っていました。




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往き来する時間-吉増剛造の写真-

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ブナの合成写真 これは私の写真です。 

吉増剛造は昭和14年生まれで,今年78歳になりますが,いよいよ自分の詩の磁場を強くしているようです。
なにせ昨年は近代美術館で展覧会も行い,ブームが訪れているそうですが,現役の詩人が展覧会を開くと言うこともまた異例かもしれません。
私は彼の処女作の「出発」「黄金詩編」あたりですから1970年代から愛読してきました。彼の詩の疾走感に共感していた1人でした。やがて彼の詩も時代そのものが疾走する村上龍の「コインロッカーベイビーズ」に重ね写しになっていきました。
昨年出版された彼の「我が詩的自伝」も先日懐かしくおもしろく読みました。彼の詩的遍歴が分かりやすく書かれていた。当初の刻印するような異常な筆圧の字は変わることはなかったが,やがて疾走が消えていったのは彼が歩き始めたからだった。

剛造シネ「予告する光」
剛造シネ「予告する光」予告編から

今日は多彩な表現を模索する吉増の写真を取り上げて写真と詩の接点を探ってみたいと思います。彼の詩の表現と写真はかなり記録としてもシンクロしている部分があります。彼の写真はやはり独特で「ぶれ」と「合成」が特色と言ってもいいでしょう。この「ぶれ」は疾走感でありながら時間の堆積層を遊離させるという意味があります。つまり写真という瞬間の映像の中に時間を引き込む姿勢が変わらずにあるようです。書くと言うことは紙に対して刻む,彫るという行為です。刻み続ける確かさを吉増は大切にしています。ですから若林奮から送られてくる厚さ1cmの銅板に彼は刻み続けるのです。写真も同じく永久に刻みつける道具でもあったのです。下の彼の写真を見てみましょう。

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幾分か華やかさもあるいい写真です。
やはり合成です。コスモスが咲く庭とカーテン越しの廊下のガラス戸が重ねられています。もちろん合成によって得られる現実のフィクション化によって詩独特の浮遊する空間が生まれます。と同時に新しい写真そのものが疾走した後に辿り着く自由なる場所(トポス)になるのです。彼,吉増にとって写真は自由への道しるべとしての看板のような存在になります。そして更に動的な空間へと向かう物が一連の「剛造シネ」となります。吉増剛造の写真のすべてをまだ見ていない私は彼の実験性の方向が見えています。あくまでも表現は詩へと向かうための写真です。ですから詩への道しるべとなる写真群となります。ぶれと合成によって特徴付けられる彼の写真には刻み込まれない時間というものをどう視覚化するかという実験性もありました。明らかに時間が刻み込まれる願いが重ねられた映像の奥から滲み出ています。

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ニリンソウ咲く 私の合成です。

吉増を読み解くには詩はもちろんのこと,写真,映画,音声,空間と多岐にわたります。それぞれに深く,おもしろみもあります。
私は吉増剛造の仕事を「多世界構造から読み解く詩の伽藍」と呼びたくなります。多世界構造という考え方は今唯一時間を超越できる考え方だと思います。吉増剛造の詩はこの多世界構造によって読み解かれていくことでしょう。



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養蜂家Mr.ホームズ

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ウメ咲きそろう

先日テレビで「Mr.ホームズ 名探偵最後の事件(2015)」をしていました。おもしろかったので書いてみます。

93歳になったシャーロック・ホームズが物忘れに苦しみながら,最後の事件であるアン・ケルモット夫人の自殺を食い止められなかった後悔を綴る形で映画は進んでいきます。 監督はビル・コンドン。ミッチ・カリンの 『ミスター・ホームズ 名探偵最後の事件』(角川書店刊)を原作にしています。

今日はその2回目ということで「養蜂とシャーロックホームズ」と題して書いてみます。
映画の最初と最後のシーンに蜂が出てきて,映画の中でも蜂が重要なモチーフになっています。まず最初のシーンが子どもが電車の窓にいる蜂を見付けるところから始まります。「蜂にいたずらしてはいけない」ホームズが子どもに注意します。「それはミツバチじゃない。スズメバチだ」映画のモチーフがまず最初に語られます。

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「Mr.ホームズ 名探偵最後の事件」から最初のシーン。「それはミツバチじゃない。スズメバチだ」

シャーロック・ホームズが少なからず養蜂に興味を持っていたことは,例えば『最後の挨拶』にこう出てきます。
「しかし君は引退していたんだろう?ホームズ。僕は君が蜂と本に囲まれて、サウスダウンズの小さな農場で隠匿生活を送っていると聞いていたが」

「その通りだ、ワトソン。これが僕ののんびりした休息生活の成果だ。僕の後半生の代表作だよ!」彼はテーブルから本を取り上げて完全な表題を読み上げた。【実用養蜂便覧、女王蜂の分封に対する観察付き】「僕はこれを一人で書いた。寂しい夜と忙しい日の成果に注目だ。僕がかつてロンドンで犯罪界を観察したように小さな働き蜂を観察してきたおかげだよ」
と引退後にはミツバチの本まで書いています。ミッチ・カリンはホームズの養蜂について,「養蜂における彼の真の関心は,あくまで蜜蜂が持つ独自の文化とローヤルゼリーの効能にあり,蜂蜜は栄養豊富な副産物と考えていた」また「賢くなりたければ進化し続ける科学を学び,窓の外に広がっている自然への鋭い観察力を学びなさい」 と書いています。ホームズの鋭い観察や推理は,ミツバチを飼い,観察することで養われ続けているということを強調しているようです。

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「Mr.ホームズ 名探偵最後の事件」から 左がホームズ,右がロジャーです。

引退して田舎に引っ込んだホームズのお世話をしているのは,マンロー夫人とその子どもロジャーです。ロジャーはホームズのミツバチの世話を手伝うことになります。聡明なロジャーはホームズの良き理解者になっていきます。そんな時に重大な事件が起きます。
ロジャーが,蜂に刺されてミツバチの巣箱の近くに倒れていたのです。救急車で運ばれて病院でも意識が回復しないほど重症でした。一人息子が意識不明の重態に陥って動転しているマンロー夫人はミツバチの巣箱に灯油を撒いて火をつけようとします。ところがホームズは気が付くのです。
「ミツバチの所為ではなく,近くに巣喰っていたスズメバチにやられたんだ」と。

ミツバチは刺すと針が残り,ミツバチ自身も死んでしまいます。
よく考えると,ロジャーがここかしこ刺された所に蜂の針は残っていませんでした。ロジャーを刺したのはミツバチではなかったのです。ロジャーはミツバチの天敵であるスズメバチがミツバチを攻撃しているところを見て,スズメバチを退治しようと,スズメバチの巣に水をかけてスズメバチの群れに襲われたのでした。ホームズは乱れているロジャーの足跡からこの事実を考えます。真実は全くその通りでした。

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「Mr.ホームズ 名探偵最後の事件」から  スズメバチの巣を焼き払っています 
左がホームズ,右がj家政婦のマンロー夫人です

ラストは元気になったロジャーが母マンロー夫人にミツバチの習性を教えているところで終わります。この映画自体がミツバチをモチーフにすることでうまく過去,現在,未来が繋がっていきます。重要なアン・ケルモット夫人の自殺での推理の過ちを正す場面にもミツバチが登場します。ケルモット夫人が庭園にやってきてホームズと話をする場面です。「奥さんの香水は何ですか」と最初に聞いて「カメオ・ローズ」という香水の香りによってミツバチが誘われて手袋に留まる場面があります。ホームズの香水の知識が冴え渡る場面です。
「七十五種類の香水をかぎ分けられるくらいでないと犯罪の専門家は務まらないんだ。僕自身の経験から言っても香水を敏感に嗅ぎ取ったおかげで解決できた事件はひとつやふたつじゃない」『パスカヴィル家の犬』
香りに対する造詣はホームズの独壇場でしょう。エラリークィーンが『Yの悲劇』で使った香りの演出は1932年でした。

養蜂の技術によって自然を知るホームズの後半生のポイントをよく生かした映画の演出に巧さを感じました。これは映画上の演出もあるんでしょうが,原作のミッチ・カリンの 『ミスター・ホームズ 名探偵最後の事件』の視点から来ているものです。
(ホームズが)新宿の町を奥へ奥へと歩いている時だった。忙しそうに飛び回っている何匹かの働き蜂が目に留まった。・・・彼は働き蜂の飛行経路を辿ってみた。やがて中心街に近いオアシスに辿り着いた。そこにはざっと見て20近いコロニーがあった。
とあり,映画とは違い,原作でホームズは下関,広島,神戸,東京と日本各地をまわって山椒を探していたのでした。

ミツバチ属は世界で9種類のみで,アジアに広い範囲で生息しているトウヨウミツバチと西洋に生息しているセイヨウミツバチが東西のミツバチの横綱になっています。この2種は複数枚の巣板を作ります。つまり旺盛な活動能力を持っているのでしょう。その点が養蜂の対象となった理由でしょう。あとの7種のミツバチは一枚だけの巣板をつくり,その巣も開放的な場所に作ります。トウヨウミツバチとセイヨウミツバチは開放的な場所ではなく閉鎖的な木の洞のような場所に巣をつくります。日本には昔からトウヨウミツバチがいました。他の地域と区別してニホンミツバチと呼ばれていたのです。北海道を除いた青森から鹿児島まで広く生息しているそうです。
ミツバチのちがい
左がセイヨウミツバチ,右の黒っぽい方がニホンミツバチ 藤原養蜂場のHPより転載させていただきました

ミツバチは一つの巣で1~2万匹,女王バチは1匹。後の働き蜂は全てメスです。卵を産むのは女王バチだけで,同じメスの働き蜂は卵を産まないので,その産卵管が変化して針になっていったのだそうです。オスの蜂は針自体を持っていないのだそうです。この辺りはびっくりです。日本にもセイヨウミツバチが明治時代に家畜用として運び込まれて現在に至っているそうです。ホームズの鋭い観察や推理がミツバチのコロニーの観察から来ていたということは大いに肯けることではないでしょうか。

ニホンミツバチが暮らす島
『ニホンミツバチが暮らす島-対馬の伝統養蜂をめぐる旅-』2015 宮城教育大学 環境教育実践研究センター


ミツバチについては溝田浩二氏の本を参考にしました。この本で対馬が舞台の伝統的な養蜂の方法を興味深く書いてありました。
昆虫を専門にする溝田浩二氏のおもしろい仮説も見逃せません。
対馬というと思い出すのが,宮本常一の「忘れられた日本人」です。あの中には養蜂については触れられていませんでしたが,馬喰の話「土佐源氏」の中に百姓に動物を預けると,とても大切にしてもらいどんな馬も元気にしてもらえるというくだりが思い起こされました。日本人は古来から動物や生き物を大切にしていたことが知られて今でも覚えていました。対馬の人々のミツバチに対する気持ちも分かる気がしました。


次回は,「ホームズの推理」という話になるでしょう。ありがとうございました。


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Mr.ホームズの観察

最後の事件簿
Mr.ホームズ 名探偵最後の事件(2015)

先日テレビで「Mr.ホームズ 名探偵最後の事件(2015)」をしていました。おもしろかったので書いてみます。

93歳になったシャーロック・ホームズが物忘れに苦しみながら,最後の事件であるアン・ケルモット夫人の自殺を食い止められなかった後悔を綴る形で映画は進んでいきます。 監督はビル・コンドン。ミッチ・カリンの 『ミスター・ホームズ 名探偵最後の事件』(角川書店刊)を原作にしています。まだ読んでいないのでぜひ読みたいと思いました。

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ミッチ・カリン 『ミスター・ホームズ 名探偵最後の事件』

で,本棚から古い本を探してきました。『三人の記号デュパン/ホームズ/パース』ウンベルト・エーコ,トマス・A・シービオク編です。シャーロックホームズでおもしろかった時にぱらぱらとめくっている本です。
三人の記号
『三人の記号デュパン/ホームズ/パース』ウンベルト・エーコ,トマス・A・シービオク編(1990)東京書籍

映画は1947年の,ワトソンが結婚するためにホームズの元を離れ,兄のマイクロフトも死んだところから始まっています。ホームズも年を取って物忘れがひどくなっていました。もう93歳になっています。大切なことが思い出せません。名前などは袖口に書いてなんとか思い出そうとします。ところが袖口に名前を書くことで思い出したことがありました。ホームズはよく言っていました。特に袖口や手,指先などの観察の重要性です。
「僕の方法は知っての通り,細部の念入りな観察にもとづくものだ」『ボスコム谷の謎』
シャーロック・ホームズの魅力は『観察』なのです。それも一瞬のうちの並外れた観察と推理力(『三人の記号』ではこの推理力の特徴を「アブダクション」と言っています。機会があれば後でお話しします)の魅力と言っていいでしょう。つまり私たちは同じものを普通に見てはいますが,注意深く観察まではしていないのです。例えばホームズはワトソンに言いいます。「もう何千回も玄関からこの部屋に辿り着くのに何段の階段を上がってくるかさえ分からないでいる。ワトソン君,17段だよ」これが観察するという意味です。見ている物が客観的なデータとして使用可能状態になっていくことを観察と言うのです。「世の中にも明白に見て取れるものが一杯あるのに,誰も何かの偶然でそれを観察するということがない」『パスカヴィル家の犬』とも言います。
もう一つ,ホームズの観察の典型を見てみましょう。ワトソンとホームズの会話です。
ホームズ「見えない,というよりは見ていないのさ。ワトソン君。目のつけどころがわからないので重要なものをみな見逃してしまうのだよ。袖口の様子,親指の爪,それから靴紐に絡んでいる物あれこれ-こうしたものがどれほど大切かを教えることはとうていできないな。それで君があの夫人の様子から何を見てとったか言ってもらおうか」
ワトソンは記憶を頼りに観察した夫人の様子を伝えます。
ホームズはやっぱりやり返します。
「いやなかなか,ワトソン君いい線いっている。かなりよくやったことは認めてあげよう。肝心なところをことごとく見過ごしているのは確かだが・・・。いいかい,全体の印象に頼ってなどはいけない。細部に集中することだ。・・・」
このように観察とはその人物の細部がどうなっているかでおおよその境遇,職業,性格,そして未来も見当はつくのです。

映画の中でまずポイントになっているのがアン・ケルモット夫人を死なせてしまった事への後悔でした。夫のトーマス・ケルモットがホームズを訪ねて来ますが,ホームズはどうして分かったのか,開口一番「奥さんのことですか」と切り出します。どうして依頼の内容が妻のことだと分かったのか。ホームズは家政婦の子ども,ロジャーに謎解きをします。「服は安物だったが皺はない」ロジャーはすかさず答えます。「皺がないということは奥さんがアイロンをかけたんだ。安物だから家政婦を雇えない。だから奥さんがアイロンをかけたのだ。」ホームズの観察力がケルモット氏の境遇まで言い当てていることが分かります。

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春の兆し

ウィルソン「ホームズさん。いったいぜんたい,どうやってそこまで私のことが分かったのです。例えば私が力仕事をしていたことがどうして分かったのでしょう。全くおっしゃる通りで,私はもと船大工をしていました。」
ホームズ「あなたの手ですよ。右手が左手に比べてずいぶん大きい。きっと右手を使う仕事をしていて,その分筋肉がついたのでしょう。」
ウィルソン「そ,それではフリーメイスンのことは?」
ホームズ「あなたの教養を疑っているとは思っていただきたくないのですが,その規律正しさとうらはらにアークとコンパスの飾りピンをしていらっしゃる。」
ウィルソン「私が書き物をしていることは?」
ホームズ「その右手の袖口が5インチにわたって擦れて光っている上に左の肘の辺りに机につくため当て布をしているのを見て他のことが思い浮かびますか。」
ウィルソン「では中国のことは?」
ホームズ「あなたが右の手首の上にしている魚の刺青ですが,それは中国でしかできぬものです。その魚の鱗の部分に微妙な赤味を加える技術は中国独特のものなのです。」
ホームズはこうやってしばしば依頼人を驚かせたりします。「知識」「観察」「推理」を探偵の必要な条件に挙げています。観察する大切さを説くことは逆に言えば「明白な事実ほど人の目を欺く」ものだとホームズが考えているからです。

行方不明の競走馬を捜索する『シルヴァー・プレイズ』での会話です。
グレゴリー警部「私が注意を払うべき点が他にありましょうか?」
ホームズ「夜中の犬の奇怪な行動ですよ」
グレゴリー警部「あの犬は夜中には何もしませんでしたが」
ホームズ「それこそが奇怪なことなんです」



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