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すずめの戸締まりからのメッセージ

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後ろ手に扉は閉めること 「すずめの戸締まり」公式HPから

とうとう昨日で北へ帰るハクチョウや雁の姿が空から消えた
ただ開け放たれた春の霞がかかった空ばかりとなった
もういくら呼びかけても,手を振っても届かない
わたしの記憶に彼等は生き続けても,彼等の記憶にもうわたしはないのだと思う
そのように私たちはもう戻れない世界に生き続けている
しかし,答えは意外と簡単だ
彼等は秋にまた数千㎞を越えて命がけで戻って来る
考えてみれば,「すずめの戸締まり」という映画も,遠くに行ってしまった者と今いる私たちとの間に喪失と別離ばかりではない新しい関係は築けないかという自問に似た哀しさにもがいていた。

雨ニモマケズ
大川小学校で雨ニモマケズ 新北上大橋から満月が沈む図

扉がある。どこでもドアである。イザナギもこのドアを使った。愛する者に会うために。
しかし,このドアを開けたままにしておいてはいけない。常世の国の禍事(まがごと)がこの世に出てくることになる。トンネルでもいい,隧道でもいい,穴でもいい。そこここに異世界への入口があることはずっと昔から言われてきたことだ。そんな扉を後ろ手で閉じて,しっかり鍵を掛けることが大切なのだと新海誠監督は言っている。これは,もう表面的には,私たちの住んでいるこの世と,常世の国や黄泉の国との交流を一切閉ざすのだという設定に見えてしまう。しかし,そんな表面的なことだけではないということを新海映画を観てきた私たちは知っている。あくまで私たちは震災で失ったものの大きさに苦しんでいる今を辛うじて生きている。この世に投げ出されたままになっている自分のトリセツすら見いだせないでいる。よく口々に絆と言われたが,失われたものはその絆であったことを忘れてはいない。震災ですっかり壊れた関係性を一体どうしたらいいのか。もっと幸せにしてあげたかった家族に,後悔ばかりで置き去りにされた自分をどう許す術があるというのか。

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母の残した椅子 「すずめの戸締まり」公式HPから

「君の名は」を思い出す。
山深い田舎の町に住む女子高生,三葉(みつは)と東京の男子高生,瀧。二人は入れ替わる。ここに新海監督が見出そうとする世界があったことをもう一度思いだそう。全く見知らぬ同士が知り合うということ。そこには被災者と非被災者,不幸と幸せ,善と悪,他者と家族といった二分法ではない,むしろ他人同士が,等質で,隔てるものがない交通可能な世界を描こうとしていたのではなかったろうか。むしろ交信不能という環境で生きている者同士だからこそ,そこに交信を見出そうとする試み。
ひょっとしたら私も震災の起きたあの場所にいたかも知れないという思い。津波のあったあの場所の記憶を時間を措いて訪ねた自分が,震災の時の声に耳を傾けようとすること(実際に「すずめの戸締まり」の映画の中では,その時の現場にいた人々の声がポイントだった)が存在の同時性を可能にさせる。わたしは,あなたです。あなたは,わたしです。
この世の区別,差,時空の違い,環境の差,私たちを隔てて自由にさせてくれないものを一気に越えようともがく試みが,新海監督の目指すものだったと言える。

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夕暮れの光

烈しい吹雪の現実から,一転して静かな,風の音ばかりの小さい花が咲き乱れる星空へ。
そして未来の自分が過去の自分へ「大丈夫,生きて行ける」と椅子を差し出して励ます
映画のことを思い出そう。死んだ母親が夢でも,回想であっても今の生きているすずめの前には一切現れ出てこなかった事実を確かめよう。それが新海監督の厳しいこれからを生きようとする私たちへの決意のうながしだと思う。死者は簡単に扉を越えて私たちの眼前に現れ出たりはしない,私たちに道を指し示したりもしない。死者は,ただ私たちの記憶の中で「大丈夫だ」と言い続けるのみである。

今でも私たちはこの世界に正しい意味を見いだせないまま,放り出されたまま生きている。
すずめの戸締まり」という映画は,この世から逃げることなく今の震災を描くことで,現代社会にコミットし続けている。素晴らしいと思う。ただひとつだけ,おしい点があるとすれば,作品の中の「みみず」があまりにも強く覆ってしまったことで新海監督の得意とするかすかな声を聞こうとするナイーブさに欠けてしまったのではなかったかと心配している。あまり商業ベースのマーケティングに振り回されないように,自分の思う映画をつくっていってほしいと切に願っている。


追伸
伊豆沼読書会の皆様へ
21日は伊豆沼,内沼のクリーンキャンペーンに参加します。
21日8時30分登米市サンクチュアリーセンターでお待ちしています。長靴,軍手等の準備をお願いいたします。終了後,交流会を持ちます。お楽しみに。

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ファーストライト

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ファーストライト 蕪栗沼

ファーストライトと言うと,できた天体望遠鏡に最初の星の光が入ることという意味らしい。
私はこのファーストライトを読んで字の如く「最初の光」と解して使っている。つまり一日の始まりの日の出の,その光が最初に景色に届く劇的な瞬間のことを言います。写真を撮るんだったら,この一日の最初の光を写すことだと思っています。
何でも最初が大切です。音楽でも最初のイントロの出だし,演奏だったら最初の音だし,映画も最初のシーンに作品のすべてが凝縮されているように感じています。つまり始まりにこそ,全てがあるのです。写真ならずとも絵でも最初にぐっと来るかです。観た最初の印象が判断のすべてとなり,最初の印象がよいものが後の視線の持続を生み出します。最初でがっかりしたら,後は見ようとする緊張が持続せず,そこで終わりとなります。つまり出会いの瞬間がすべてなのです。
一瞥,ファーストライト,ファーストインプレッション,閉ざされていた門が開かれた時に見える最初の景色,立ち現れてくる一陣の風,長く引く影。そよ風で波が起こる時の最初の水の動揺・・・。
これらの始まりは先程まで闇の中で暗かった眼に劇的な刺激となります。この射るような最初の朝日の赤い刺激は,もともと動物である人間の眼にはにはこの世のすべてと写ります。動物的な勘の冴えを持った人に分があります。
ところが文章などは読んでいって最後に初めて意味が分かる仕組みになっています。つまり文章を読んだり,書いたりすることは,あらかじめの集中と緊張の持続が必要となります。そして集中する力とその持続,我慢が教育の方法と一体化してきます。

ファーストライト派の最初がすべてか,ロゴス派の我慢して最後にすべてが分かる,あなたはどちら派ですか。


「ドライブ マイ カー」4―濱口竜介,語りの原型へ―

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美しい田んぼを見るISS―稲架け編―
私が勝手に新田一美しい田んぼだと思っているここ。
その田んぼの持ち主が千葉さんだ。
「今年はコンバインで稲刈るがら,もう稲架けすねど(やらないよ)」と言うではないか。
美しいものをつくるにはそれだけの手がかかるものとは分かっているつもりだが,とても残念。
この写真が美しい稲架けをする千葉さんの田んぼの最後の写真となる。

伊藤正子さん2
酒井耕・濱口竜介監督「うたうひと」は,彼らの東北記録映画三部作「なみのおと」「なみのこえ」の三作目となる

「ドライブ マイ カー」の感想で,「うたうひと」を出す人はあまりいないと思うが,「うたうひと」は,同じ濱口竜介が2013年に撮っている昔話の名手3人(宮城県栗原市の佐藤玲子、登米市の伊藤正子、利府市の佐々木健)の語りのドキュメンタリーだ。何気ない懐かしい昔話が全編に続く。
「ドライブ マイ カー」の登場人物達の語りと「うたうひと」の語りの空間は実に似ている。
それは語ることや語られることは,改めて一対一の実に壊れやすい私的な空間から発生していることに気付かせられるからだ。基本的に「ドライブ マイ カー」の登場人物達の語りは,よくよく考えるとどこか非常にモノローグである。伝わるか,伝わらないか際どい細いラインを紡いでいるようだ。そこには会話としての伝わらなさが前提になっている。外国語でも手話でも,ジェンダーでも,素でも演技でも,伝わらなさの条件の方が多いことが提示されている。閉じられた空間をつくる「ドライブ マイ カー」の車の中は実に孤立した語りに適した空間で,「うたうひと」の静かな雪の夜の部屋の静けさと一致している。
このような二つの作品の似たことを並べる心算(つもり)はない。
この一対一でしか存在できない小さな空間にそれこそ劇的な他人同士の信頼の交換がなされるという奇蹟がすばらしいのだ。
「ドライブ マイ カー」の中で家福音が夫の祐介に語り掛けるシーンと「うたうひと」で囲炉裏を囲んで昔話を語る人と聞く人の間に交される絶対的な信頼とは一体なんだろう。語ることは,自分のすべてを相手に投げ出すことであり,聞くことを許された者にしか語らないものなのである。
「ドライブ マイ カー」,「うたうひと」,どちらの作品も伝わらなさの深淵を越えて相互理解を命がけで図ろうとする者たちの語りが基本となってつくられている。このいわばある面で命がけとも言える他人の語りを私たちは真剣に聴いてきたのだろうか。恋人や家族,友だちや身近な人の語りを逃げながら,対立をつくるために,嫌悪の感情をもって,もう何度も同じことをと反抗の態度をもって聴いてこなかったろうか。相手を理解するということは相手の差し出す言葉を全面で肯定して受け取るということではないだろうか。相手から差し出される言葉を心から理解しようとする姿勢であなたは聴いてあげただろうか。資本主義や効率主義に染まりすぎた刺激だけを優先する枠で他人の話を聴いて批評などを返してあげなかったろうか。逆に話す相手の弱点を突いて反撃しなかったろうか。それらはすべて一対一からつくりだされる奇蹟の空間を,「ふり」をして効率的につくりだそうとするものなのだ。文字は後である,語りが先である。心が先である,文法は後である。相手が語ることを理解しようとする態度は,あらゆる利害関係を越えて相手を理解しようとする唯一の方法である。
濱口竜介監督は,「うたうひと」によって語ることの静的な豊かさを知った。そして同時に,彼は語ることは,容易に相手に理解されない現実を意識した。「ドライブ マイ カー」は語ることとその語りを理解する側の跳び越えようとする「飛躍」を浮き彫りにした。人には相手の言葉を手がかりに相手の心に飛び込む勇気が必要である。それが奇蹟を生み出す。ドイツ語で「satz」とは文を意味するが,元々は「飛躍」という意味だとハイデッカーが言った。濱口竜介がこれらの問いにどう向き合っていくのか(何も答える必要はない),今後に期待していきたい。


ドライブ マイ カー3「言語化の呪い」

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伊豆沼の朝

今日は「ドライブ マイ カー」の感想3回目となります
家福祐介(西島秀俊)の妻・音(おと)の不思議な性癖についてです。
音という女の存在はやはり前世がヤツメウナギなのか,どこか捉えどころがない内向性を秘めています。大体がセックスのオーガ二ズムに向かって物語が語られていき,身体の快楽を絶えず言語化しようとします。そして我に返るとどんな物語を紡いだか語った当人である彼女自身が忘れているのです。だから翌朝,祐介に再話してもらい脚本に起こしていくという作業をします。そう,彼女は脚本家なのです。自分の身体の快楽からほとばしり出る物語を語る彼女自身が憶えていない。これは不思議なことです。彼女の深層心理の「黒い渦」(祐介談)から浮上してくる忘れ去られていた「記憶のかけら」からイメージされているのか,はたまた口寄せの巫女のように彼女の感情の高まりに合わせて何かが憑依して彼女の口を借りて語らせているのでしょうか。この設定が非常におもしろいところです。彼女は言語化の呪いに取り憑かれています。それも意識に上がってくる世界をネタにするのではなく,身体的なオーガ二ズムをネタにして言語化に取り組みます。この設定は何か象徴的な意味が隠されているようにも感じます。

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伊豆沼の朝

前世が高貴なヤツメウナギであることの告白はおもしろいエピソードの断片として印象に残りますが,語られる物語は案外現実的です。
女子高生は気になっている同級生の男の子ヤマガくんの家の2階の彼の部屋に空き巣として忍び込み,ヤマガくんの部屋に少しずつ自分の存在の痕を残してきます。最後には自分の下着をヤマガくんの抽出の奥にそっと紛れ込ませたりします。そしてヤマガくんの物をこっそり,例えばちびた鉛筆などの知られないような物を持ち去ります。ある日,また彼の部屋に忍び込み,彼のベッドでオナニーをします。その時,階段を上ってくる音がします。果たして誰なのか・・・。
このような寝物語を音は祐介から聞き出して脚本に起こしていくわけです。
このような自分の秘密が発覚してしまうことを恐れる,幾分陳腐すぎる話は,むしろ彼女が優等生で,家庭環境にも恵まれている点からすると,音自身の無意識の夢から引き出されている気がします。けっして何かが憑依して彼女の口を借りて言わせているのではないようです。彼女は肺炎で4歳で死なせてしまった我が子の喪失から2年を経て,こうした言語化の方法を生きる術としたのでした。

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内沼

高槻は音から階段を上ってきた人が誰であったのかを聞き出していました。
それを祐介に語り出します。これは高槻という他人には語られますが,夫・祐介には終には語られることがなかった話でした。
高槻をホテルに降ろした後,この映画で最も美しい映像が出て来ます。運転手のみさきと祐介が車の中で煙草を吸うシーンです。

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映画「ドライブ マイ カー」より
このシーンは心情を言語化せずに映像に結晶化させた点で最も優れたシーンとなりました。

さて,まとめます。
映画「ドライブ マイ カー」は,コミュニケーションとしての言語を,現実,音の語る物語,多国籍言語による演劇,チェホフの戯曲,棒読みの台詞の練習の場面と幾層にも多声化したポリフォニックな構造をつくりながら人にとってコミュニケーションとしての言語とは何かを見事に語り尽くした完成度の高い映画です。
高槻が語ります。
「家福さんも音さんも細かい点にこだわり過ぎます。それは人には理解されません。」
言語を扱う者はそうなのだと思う。いまこそ他人に理解を促すコミュニケーションとしての言語,その言葉の恐ろしさ,暴力的な言語の力に気付き,バベルの塔になったこの世をもう一度温かい言語の魅力で満たそうとするテーマがこの映画の魅力である。


ドライブ マイ カー「脚本読み」

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今朝の長沼

「ドライブ マイ カー」の続きです。今日は映画の中でも割合に大きな位置を占めている「脚本読み」についてです。

広島国際映画祭で家福祐介(西島秀俊)は上演されるチェホフ「ワーニャ伯父さん」の舞台監督を務めることになります。キャストは,台湾,中国,日本,韓国と多くの国から出演を希望した俳優によって演じられます。それぞれが自国の言葉で台詞を言うので,自分の台詞が終わったら机をコンと叩いて次の人に知らせます。ついには韓国人女優の手話まで入ります。この中に高槻(岡田将生)もワーニャ役で入ります。観る者は舞台のスクリーンに映し出される翻訳された字幕スーパーによって意味を知ることができます。バベルの塔的な感じがしますが,ありうる設定です。配役が決定していよいよ「脚本読み」です。この「脚本読み」がまた独特です。つまり台詞に感情を入れずに平坦で,ゆっくりと,棒読みをして下さいと要求されます。役者達もこの棒読みの意味がよく分かりません。とにかく家福の指示通りに皆は毎日魂の抜けたような「脚本読み」の読み合わせを続けます。感情を入れずに平坦で,ゆっくりと,棒読みの「脚本読み」に注意される高槻と少しうんざりしていたユアンが「わたしたちはロボットではありません」と言ったりもします。
ぐぐってみたらこの退屈そうな「脚本読み」の方法は「濱口メソッド」と言われているそうです。ところが,この繰り返しが本番では劇的なリアリティーを俳優達にもたらすのだそうです。家福役の西島秀俊さんが言います。

「ずっと本読みをしているので、全員の台詞が頭の中に完全に記憶されるんです。でも本番になったときに、相手が初めて感情を込めてその台詞を言うと、突然、目の前に生きている人がばーっと現れたような感じがして、毎シーン感動するんですよね。不思議な感覚です。もちろん相手は知っている人なんですけど、初めて見る面を見せつけられるような感じがして。何気なく見えるシーンでも、非常に演じている側は感動するという、初めての体験でした。個人的なキャリアとしては、全くいままでとは違う演技になっていたのかなと思います」

ここに述べられている毎シーンごとに感動する不思議な感覚とはどんなものなのでしょう。普通俳優の演技は台詞から得られる感情の更なる身体への強調と広がって行きます。これはある面では究極のビジュアルの競争へと俳優を駆り立てていきます。目つき,感情むき出しの台詞,無闇な身体の動きと段々派手になっていきます。しかし,それが良い演技になるのでしょうか。少なくても高槻はそう思っていました。オーディション時の彼の演技は相手に関係なく派手で暴力的なものさえ感じさせました。でもそうした自分のすべてを相手に投げ出すような演技があってもいいのです。そこで家福は高槻にワーニャを演じさせることにしました。自分のすべてを相手に投げ出した果てに,相手の聞き取れない程の小さな言葉に耳を澄ませることが俳優の演技の化学変化となると思うのです。家福は敢えて高槻の演じるワーニャで挑戦させてみようと踏んだのでした。

さて棒読みばかりを聞いてきた相手が本番で初めて感情を込めて台詞を言うと,そこに閉ざされていた人間としてのコミュニケーションが立ち上がります。相手の生身の感情が迫ってくるのです。俳優自身がその場でリアルな化学変化を起こしていきます。そういう点で濱口監督は「演じる俳優のドキュメンタリーを撮っている」とも言います。役づくりという言葉があります。それは俳優自身が演じる役の背景を読み込んでいく作業でしょう。相手に,特に女にすべてを投げ出すことのできる高槻は果てしもない自己への問いの連続が演技の姿勢ではないかと考えています。一方で「自分はからっぽだ」とも言います。しかし若い頃って誰でもそうです。若かったワーニャもそうだったでしょう。しかし,年老いて振り返れば人は自分の人生を「これでよかったのか」と疑うこととなります。その点で家福は47歳の現在のワーニャです。子どもが死に,愛していると信じていた妻,音(おと)のことも実はさっぱり分からないで死なせてしまいます。
現実の家福はやがて劇中のワーニャと重なり合い,往きつ戻りつしながら,演ずることと演じる人がやがて侵蝕して重なり合う構造を筋立てにした「ドライブ マイ カー」は深みを感じさせる映画です。ちなみに妻の音が死んでしまう朝に「今夜話したいことがあるの」と相談を受けた家福ですが,以後一切,妻は生きていたら何を話そうとしたのかと自分自身に問うことがないことが不思議でした。

この話は続きます
次はやっぱり不思議な前世はヤツメウナギの妻,音についてです。