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消えていく輪郭-溶暗-

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消えていく輪郭-溶暗-

やがて闇に溶け込んで見えなくなる。それを「溶暗」と言う。
すべての輪郭がおぼろになり夜の中に黒い底となって遠ざかっていく。そんな景色に出会いたいと写真を撮っている。しかし一つの画面で溶暗を表すとなると不可能に近く,どうしても人の「対比視覚」というものを利用することで溶暗というイメージに近づけていってしまいます。「対比視覚」,明るいものは暗いものがあることでより明るく,暗いものは明るいものがあることでより暗く感じることができる。つまり人は対比的に知覚することで得た感覚をまとめあげているわけです。かすかな明るさがあるから,より暗闇を感じることができるのです。一枚の写真の中のどこかに明るさを感じさせながら同時に圧倒的な暗闇をつくる作業が夜の文学や夜の写真の味わいになります。
わたしは今までそうした夜の世界を好んで撮ろうとしてきましたがうまくいった試しがありません。谷崎潤一郎の「美食倶楽部」や梶井基次郎の「闇の絵巻」の挿絵になる写真が撮れたらなんと幸せなことかと思ってきました。ロマン主義がその先鞭となりました。ロマン主義は夜の世界を殊更に色鮮やかに再現しようとしてきました。わたしもそんな真似事から始まったのです。フリードリヒの絵を見てため息をつき,星景写真を試みました。

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習作1 金星の場所

カメラで暗闇を撮れば,ただの平面です。画面の中のある部分にかすかな明るさがあってこそ暗闇は引き立ちます。それがさっき言った「対比視覚」です。明るい昼であれば影があってこそ明るさが引き立つことと同じです。自然の光景の中では暗闇に灯るぽつんとした光が適当な材料となったりします。それが次の写真です。

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習作2 外灯

この場面では夜明けの空と雲も入れました。ところが全く空を入れず外灯だけで撮るとどうでしょう。それが次の「霧の朝」という写真です。じっと写真を見比べて微妙な部分を自分の中で考えます。すると暗闇の多い写真から起こる印象とうっすらと見える状態の写真でもどこか暗闇から湧き起こる感情と同じような感情になります。不思議です。これはぽつんと置かれた光が暗闇を誘うことになっているからだと思われます。これが対比視覚の効果なのでしょう。それでは次を見て下さい。

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習作3 霧の朝

なぜ谷崎潤一郎の「美食倶楽部」や梶井基次郎の「闇の絵巻」の暗闇はこれほどに魅力的なのか,それを対比視覚というキーワードで写真に置き換えて考えてみました。やっとこのブログの名前「星と写真の部屋」らしきことが言えたかと安心しました。そんなことを考えてもうこのブログも10年を越えてしまいました。いつもありがとうございます。今年もよろしくお願いいたします。



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万引き家族を観て

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岩手山を咲く

映画「万引き家族」を観た
宮本常一の「忘れられた日本人」を思い出した
言わば,現代の「忘れられた日本人」を活写したというのが「万引き家族」を観た最初の印象だった。
この世の辺境に連れて行ってくれる映画もまた必要なものだ。
網野善彦が教科書に載った「忘れられた日本人」の中の「梶田富五郎翁」について筑摩書房から何か書けと執筆依頼を受けた。宮本常一が村々を回り,大切な古文書等を集めて歩いた。もう忘れるくらい預かり,返して歩いたのが網野善彦自身だった。そんな経緯もあっての執筆依頼だったと思う。執筆の際もう一度「忘れられた日本人」を読み直した網野善彦は歴史の底に埋もれている人々に歴史の価値を再発見した。システムという枠,効率的な社会の枠から逃(のが)れ,流浪する民の世界の価値だ。
例えば「梶田富五郎翁」では梶田翁が子どもだった頃,メシモライという形で漁の手伝いをしていたという。学校などは家の仕事が終わってからたまに行くものだった。学校に行かないものがたくさんいた。
浅藻ちう所は元来天道法師の森の中で人が住んではならんことになっておった。このあたりではそういうところをシゲというてなあ,あすこは天道シゲじゃけに住んではならん,けがれるようなことをしてはならんと,土地の人はずいぶんおそれておった。
そういうところへどうして住むことになったかといいなさるんか。
対馬という所は侍の多いところで,どの村でもなかなかしきたりがやかましい。わしら漁師のような礼儀も作法も知らんものは,とてもつきあいできるもんじゃあない。それでいっそ神様のバチが当たってもかまわんけえ,まあめんめら同士(銘々同士)気の合うたものだけてくらすのがよかろうちゅうて浅藻へ納屋を建てることになったんじゃいの。
侍の多い対馬では,しきたりがやかましく,住みづらいのでなんとか気の合う者同士が立ち入ることが禁じられていた神域であるシゲに逃げ込んでこっそりと住むようになった。反対に見れば,逃げ込むことの出来る神様の森もあって,その土地に入れば敢えて追うことはせず,治外法権となり,しきたりも権力も懲罰も無力化される空間が存在していたということだ。とんでもないことをしでかした奴が身を隠せる受け皿がいつの時代も存在しているものです。治外法権の場は山に逃げ込むことで成立することもありました。それが神隠しと称された時もあったと思われます。網野はそうした裏にあって,階級社会を支えていた人々を鋭くあぶりだした「忘れられた日本人」の人々の意味を再発見したのでした。それをアジールと言ったり無縁・公界・楽とも言っています。

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為内の桜

「万引き家族」は敢えて法の隙間で,法をすり抜ける形で流浪する家族をあぶり出したのです。江戸時代,借金が返せなくなって人質として貸し主の家で奉公する子どもや娘。借金のために逃散する農民,水吞に身分を落とす者。いつの時代も流浪を強いられる人がいます。「万引き家族」を観ると,一生懸命に生きる家族の姿に演技であっても心打たれます。宮本常一の「忘れられた日本人」が名著と言われるのは何故でしょう。文字を書かなかった時代,教育制度が統一されていなかったプレ現代を歴史的に残しておくことは貴重です。

私はそうした時代の裏にいるが確かに存在している人や出来事を「新・逃走論」という形で以前にこのブログで書きました。
サンカ,走り,逃散,一揆,山人,神隠しといった社会の枠,システムから外れた部分に「万引き家族」のテーマがあるように思います。鉄道が敷かれ,統制が行き渡り,ことごとく社会は均一化されていきました。戦前の日本の姿を見事なまでに記録した宮本の鋭いまなざしは無文字文化の熟成を高らかに歌っていたとも言えるでしょう。そして現代では「万引き家族」が宮本の視線を受け継いでいると感じました。

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黒沢清の新作「散歩する侵略者」  

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ヒガンバナ咲く

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散歩する侵略者(2017)

9月9日に公開された黒沢清の「散歩する侵略者」を記念してwowowで「ダゲレオタイプの女」(2014)と前田敦子の「セブンスコード」(2013)を放送しました。一方,「散歩する侵略者」をテレビ用に「予兆  散歩する侵略者」を今日から放送するということです。先日録画した 「ダゲレオタイプの女」(2014)と「セブンスコード」(2013) を観ましたが,「セブンスコード」前田敦子主演で,秋元康から頼まれたのでしょうから,それなりの作品でした。もう一つの 「ダゲレオタイプの女」(2014)はすべてフランスで作られ,スタッフも全てフランスですから黒沢清に監督をして下さいと特別な指名があったのでしょう。

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「ダゲレオタイプの女」(2014)

ゴシックホラーと称されているこの映画ですが,堅実なロマンスとなっていて,ダゲレオタイプという写真技術の復活に賭ける厳格な芸術家である父とその写真モデルである娘のマリー,同じようにモデルをしていて自殺した妻を設定に,助手に採用されたジャンが初めて訪れるところから映画は始まります。私の興味はただただ黒沢テイストがどのように出てくるかということばかりです。自殺した妻が徘徊する屋敷にはモデルの2代目になった娘のマリーが60分,70分,120分と動かずにモデルを務めるという過酷な撮影が続きながらストーリーは展開していきます。
私は黒沢作品で衝撃を受け続けてきたファンですから,特に叫 (2006),LOFT ロフト (2005),ドッペルゲンガー (2002),アカルイミライ (2002),回路 (2000),カリスマ (1999),CURE キュア (1997)などは大好きです。これらの作品群がどのように成熟されていくのかが最も興味あるところなのです。彼の作品を観た感想を以前このブログで次のように書きました。
他者はいともたやすく「あなたの中に侵入してくる」,むしろ暴力的に侵入してくるものに対して,いつも人は自分を守るすべがない。他者が入ってくることを止められない,自分自身を守ることなどできないのだ。と映像で言い切っている。
 「叫」の冒頭の夢のシーン。壁であっても,窓であっても,不透明なシートであっても,侵入してくるものにとっては障害でも何でもない。他と隔てているはずの壁など,全く意味がなくなる。まさに肉体や心は,すべてすぐ壊れる壁,窓,不透明なシートそのものなのだ。おまけに,あなたが一瞥のもとに見た相手が,脈絡もなく,傷つけられたと感じたら,その罪によっていわれなき攻撃を受けても仕方ないのだ。現実では実際に,こういうことってある。この世に取り込まれた畏れを感ぜずにはいられない。その恐怖の表現の仕方が誰よりも卓抜している。
 私たちはかつて(信じている者は今でも),自分と他者との間の壁を取り払うことを望んできたのではなかったろうか。互いに理解し合う,壁のない世界を私たちは夢見てきた。愛。平和。そんな世界を望むことはできる。
 しかし,愛のために開かれたわたしたちの心には,同時に『幽霊もやってくる。』いつも自分の求める願いに合うものだけがわたしたちにもたらされてきただろうか。
 地震,風に揺れる木々の枝,ざわめき出す水面,光が途切れた空。いやな音とともに・・・。
 部屋の隅を見るといい。
 幽霊がいる。よく見れば,幽霊とは勝手に自分自身がつくりだしたものではなかったろうか。自分の記憶の果てに消えていった無意識世界の復元や幻影・・・。それは自分の所有でありながらまったく記憶にも自覚にもないもの。それらは自分の理解を超えた他者となって今,立ち昇ってくる。
自分の中に入り込んでくる者は,ずばり形象化されていない「あるもの」です。それらは無防備な心に入り込んできて私たちを「侵食していくなにか」なのです。その侵食されていく怖さの表現が卓抜しているのが黒沢清の力です。幽霊という形を借りて表現されることもあるし,キングの小説のように悪さをする亡霊として登場することもあります。また,エイリアンであったりもするわけです。ただ黒沢のうまさはキャラクターデザインによって造形化されたもの「他者」ではなく,あくまで気配で語り続ける雰囲気であり,戦慄する状況の醸し出し方にあると思います。「叫」では道徳が取り払われたストーリーの中に「あるもの」つまり「あいつ」は遠慮無しに入ってくるという設定です。何の関係もない相手が突然に現れてくるのです。

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台風一過の今朝の伊豆沼

彼のフィルモグラフィーを見てみましょう。

予兆 散歩する侵略者 (2017)
散歩する侵略者 (2017)  
ダゲレオタイプの女 (2016)  
クリーピー 偽りの隣人 (2016)  
岸辺の旅 (2015)  
Seventh Code セブンス・コード (2013)  
リアル~完全なる首長竜の日~ (2013) 
贖罪 (2012)
トウキョウソナタ (2008)  
パルス (2006)  
叫 (2006)  
LOFT ロフト (2005)  
ドッペルゲンガー (2002)  
アカルイミライ (2002)
回路 (2000)  
カリスマ (1999) 監督/脚本  
CURE キュア (1997)

ただこの10年,黒沢映画が,かなり一般化されてきた感じがします。切っ先鋭い感じがなくなってきた感じがします。これは彼のつくる「モノガタリ」が求心力を失ってきたことを言っているのでしょうか。そうではないと思いたいです。新作の「散歩する侵略者」は彼の新境地になるのか,それとも一般化の過程を辿る作品になっているのか。期待して鑑賞したいです。

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台風一過の今朝のさんぽ道


とにかく今夜0時の「予兆」を観ましょう。


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悲しくてやりきれない-この世界の片隅に-

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差してきた光   気仙沼線 御岳堂-陸前豊里

昨晩は野外ステージで映画「この世界の片隅に」の原作者こうの史代さんのトークイベントと音楽を担当した「コトリンゴ」さんのミニコンサートがあるというので出かけてきました。こうの史代さんが賢治を知ったのは図書館で借りた伝記を読んで,一途に自分の思ったことをやり遂げる姿に感銘を受けたからだと言っていました。気持ちが沈んだときには賢治の短編を声を出して読むんだそうです。すると不思議と気持ちが落ち着くと言っていました。こうのさんから出てきた賢治作品は「山男の四月」これは映画のラストの橋のシーンで山男が出てきましたね。そして,「おきなぐさ」「気のいい火山弾」「黒ぶどう」「台川」「ざしきぼっこのはなし」「鹿踊りのはじまり」「毒もみの好きな署長さん」「林の底」と次々と賢治作品が出て来ました。こうのさんも根っからの賢治ファンなんですね。

この世界の片隅に


さて,「この世界の片隅に」の映画の方ですが,戦時中の呉の日常を描いていましたが,戦時下の生活というものがどんなものであったのかがとても丹念に描かれていてとてもよかったです。戦地に散った兵隊さんの遺骨や遺品が骨壺を開けてみたら,石ころ一つだけだというシーンも心に残りました。
私はそんな戦争で死んだ命が,故郷に還ることなくいつか帰ってくるのではないかと家族は待ち続け,そのまま遺族も死んでいったことも事実です。彼らの,あるとき家族が突然いなくなり,死んだ証拠もなく「不在」のままになっている事実は認められない,何か夢のようなことでもあったのでしょう。
私はこんな一人の家族の不在といつまでも待ち続ける家族の苦しみを次のような写真として表現してみました。

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宴を待ち続ける

コトリンゴさんの美しい声はその切なく「悲しくてやりきれない」気持ちを切々と語り掛けてきました。夏の終わりの夕暮れの青い空と雲に合っていました。




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往き来する時間-吉増剛造の写真-

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ブナの合成写真 これは私の写真です。 

吉増剛造は昭和14年生まれで,今年78歳になりますが,いよいよ自分の詩の磁場を強くしているようです。
なにせ昨年は近代美術館で展覧会も行い,ブームが訪れているそうですが,現役の詩人が展覧会を開くと言うこともまた異例かもしれません。
私は彼の処女作の「出発」「黄金詩編」あたりですから1970年代から愛読してきました。彼の詩の疾走感に共感していた1人でした。やがて彼の詩も時代そのものが疾走する村上龍の「コインロッカーベイビーズ」に重ね写しになっていきました。
昨年出版された彼の「我が詩的自伝」も先日懐かしくおもしろく読みました。彼の詩的遍歴が分かりやすく書かれていた。当初の刻印するような異常な筆圧の字は変わることはなかったが,やがて疾走が消えていったのは彼が歩き始めたからだった。

剛造シネ「予告する光」
剛造シネ「予告する光」予告編から

今日は多彩な表現を模索する吉増の写真を取り上げて写真と詩の接点を探ってみたいと思います。彼の詩の表現と写真はかなり記録としてもシンクロしている部分があります。彼の写真はやはり独特で「ぶれ」と「合成」が特色と言ってもいいでしょう。この「ぶれ」は疾走感でありながら時間の堆積層を遊離させるという意味があります。つまり写真という瞬間の映像の中に時間を引き込む姿勢が変わらずにあるようです。書くと言うことは紙に対して刻む,彫るという行為です。刻み続ける確かさを吉増は大切にしています。ですから若林奮から送られてくる厚さ1cmの銅板に彼は刻み続けるのです。写真も同じく永久に刻みつける道具でもあったのです。下の彼の写真を見てみましょう。

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幾分か華やかさもあるいい写真です。
やはり合成です。コスモスが咲く庭とカーテン越しの廊下のガラス戸が重ねられています。もちろん合成によって得られる現実のフィクション化によって詩独特の浮遊する空間が生まれます。と同時に新しい写真そのものが疾走した後に辿り着く自由なる場所(トポス)になるのです。彼,吉増にとって写真は自由への道しるべとしての看板のような存在になります。そして更に動的な空間へと向かう物が一連の「剛造シネ」となります。吉増剛造の写真のすべてをまだ見ていない私は彼の実験性の方向が見えています。あくまでも表現は詩へと向かうための写真です。ですから詩への道しるべとなる写真群となります。ぶれと合成によって特徴付けられる彼の写真には刻み込まれない時間というものをどう視覚化するかという実験性もありました。明らかに時間が刻み込まれる願いが重ねられた映像の奥から滲み出ています。

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ニリンソウ咲く 私の合成です。

吉増を読み解くには詩はもちろんのこと,写真,映画,音声,空間と多岐にわたります。それぞれに深く,おもしろみもあります。
私は吉増剛造の仕事を「多世界構造から読み解く詩の伽藍」と呼びたくなります。多世界構造という考え方は今唯一時間を超越できる考え方だと思います。吉増剛造の詩はこの多世界構造によって読み解かれていくことでしょう。



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