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水辺の物語り「みみらくの島」

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みみらくの島

みみらくの島という島がある。
この島は,亡くなった人が再び現れ出る島だそうだ。

散歩して歩く長沼
写真を見てほしい
浮嶋に見える蓮の丸い島

どうしてもこの浮嶋が私には「みみらくの島」に見える
亡くなった人が再びこの世に現われるという島
しかし,近づき過ぎると消えてしまう

母親の葬儀もなんとか済ませてから十日あまり
なんとか自分も後を追って死んでしまいたいと藤原道綱母は
悲しみの余り,床に就いていた
亡くなった母の二七日なのだろうか
読経し終えた僧侶達が,隣の間で
「なくなった人が見える「みみらくの島」という処があるそうだ」
「だが,近づくと消えてしまうのだそうだ」と話している。

亡くなった母にもう一度会えるのであればと,道綱母は
「ありとだによそにても見む名にし負はば我に聞かせよみみらくの山」と詠んだ
(訳)母の姿をせめて遠くからでも見てみたい。噂に聞く耳を楽しませるという耳楽の山。母がそこにいるのならば・・・。

おそらく亡くなった母は,その島の砂浜で戯れ,
微笑み,気付けばこちらに手を振るかもしれない
こちらからでは,ちぎれるほどに手を振るだろう。
気付いてくださいお母さんと,着物のたもとがほころぶほどに手を振るだろう
残されてたった一人になったこの私
最後に一度,気付いてくれるのかもしれない

天の川ヒメボタル-7s
天の川を飛ぶヒメボタルです

そろそろこんな空が見たいと思います。13日夜は,ペルセウス座流群です。

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今朝の伊豆沼東側の蓮の様子


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中勘助7-夜歩く-

星桜 405s
夜,星を見上げる

中勘助の「沼のほとり」は,雑誌「思想」に大正十一年七月から連載されました。時期的には話題になった問題作「犬」が「思想7号」に載ったその年のことです。
「沼のほとり」は,大正十年一月一日から始まる日記形式の作品です。形式にこだわらず素直に自由に書く日記形式は中勘助の得意としたところです。この沼というのは,中自身が大正9年から3年間に渡って移り住んだ千葉県我孫子の「手賀沼」のことを指しています。この時手賀沼は「北の鎌倉」と称されて,志賀直哉(大正4年~),武者小路実篤(大正5年~),瀧井孝作(大正11年~),杉村楚人冠(大正12年~),嘉納治五郎とその甥の柳宗悦(大正3年~)とそうそうたるメンバーが移り住んでいたのでした。しかし,中勘助の「沼のほとり」にはそうした文人墨客との交流の様子などは一切出てきません。一人で静かに暮らす毎日のことや自然観察のことが殆どです。「銀の匙」で見せたあの観察眼の鋭さが手賀沼の自然に対しても注がれます。何でもない随筆なのに何故か彼の文章に惹かれるのはそうした観察の力と一人自然に対している時の心の安らぎがつくる中の自然親和性から来ると思います。彼は自然の中で,そして野尻湖やこの手賀沼で安らぎを憶える「水辺の文学」の書き手そのものでした。

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雨に濡れた今朝の桜

さてここで手賀沼を題材に書いた作家達の作品中での使用語句を比較した論文があります。中勘助の書き方は自然に没入していると言える程様々な自然の要素を取り上げていることが分かります。これが中の秀でた観察力を示していると思います。見てみましょう。
手賀沼使用語彙
手賀沼にいた作家達の語彙検索

「銀の匙」「島守」「沼のほとり」そして「沼のほとり」の中に所収された「孟宗の蔭」でも,独特な中の自然観は冴えています。その天候や景観や環境にするどく感応・同化できる感覚を備え持っているのが中勘助の描写の確かさを支えています。機会があればと思っていますが,特に鳥についての描写が多く(水辺にいるんだから当たり前と思わずに),鳥がかなり好きだったとも思わせます。特に分け隔てなく自然が好きだと思わせる文があります。見てみましょう。

つくえの上においた洋燈のまわりには螇蚚,あわふき,こくぞう虫,よこばい,羽蟻,かなぶんぶん,そのほか蟻や蜻蛉,ががんぼ,灰みたいな細かい虫が真っ黒に群がっている。・・・(かれらを)愛すべきものとして快く眺めている。「沼のほとり」八月九日の文



 今日は特に中勘助の書く夜の描写の魅力を紹介したいと思います。
ある夜。日が暮れるとは漁り歩く獣のように出て,森の中を逍(さまよ)ふ。一時あまり歩きまわって崖のはしへ出た。平野のかなたに紫に立ちこめた雲の中からいびつになった月がどす赤くのぼってくる。私はすこしの張りもないうつろな気もちをしてやや暫くそれを眺めていた。雨上がりの今夜は不思議と暖かくて空にはもかもかした雲がひくくとんでゆく。星ばかりが静に冷に群(むらがっ)ている。
                                                   「孟宗の蔭」大正3年2月2日終わりから引用
実に巧みな夜の描写です。ちなみに勘助は夜このように怖くもなく彷徨い歩いていたようです。特に真っ暗な森の中に入ると安心するという気持ちを何処かで書いています。夜の森の中などは漆黒の闇で普通の人は怖いと感じると思いますが,逆に中にとっては暗闇が落ち着くようです。

夜。雨。島のまわりを一本足のものが跳んであるく音がする。なに鳥か闇のなかをひゅうひゅう飛びまわる。雨の音はなにがなしものなつかしい、恋人の霊のすぎゆく衣きぬずれの音のように。
「島守」から

次に同じ「島守」から鴨が渡ってきた時の様子です。

夜。どん栗と杉の葉をならべて日記をつけてるとき南の浦にばさばさと水を打つ音がして鳥の群がおりたらしかった。月は遠じろく湖水を照しながらこの島へは森に遮られてわずかにきれぎれの光を投げるばかりである。大木の幹がすくすくと立って月の夜は闇よりも凄すさまじい。



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雨に煙る

私は「特集 夜の写真闇の文学」で作家達の夜の描写を取り上げたことがあったが,夜の描写の達人としてやはり中勘助の感性を見逃すわけにはいかない。そして,夜をこのように公平に親和的に見ることができる彼の感覚の鋭さは詩人の名に恥じない筆力でこの世にもたらされたことを素直に喜びたい。


夜の写真闇の文学3―隠されてあるもの-

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十七の

はやはりの出の姿です
望遠鏡を覗いていると,の力強くドラマチックな出方や静かな轟音を立てて昇っていく姿がなんとも素晴らしいです。

の光によって地上の風景が浮かび上がる様(さま)は,写真の現像をしている時に印画紙に像が浮かび上がってくる様子に似ています。
在るものが最初から持っていた輪郭が顕(あら)われるというよりは全くの無から立ち昇って造形化されるように感じてしまいます。
例えば雲一つない青空なのにいつの間にか一片の雲が現れ出るような感覚です。その一片の雲は風に乗って流れて来たのではなく青の虚空の一点から突然に湧き出て来るのです。言い直しましょう。あらかじめ形を持っていたものがその通りに浮かび上がって来るのではなく,この世に顕在化されるとまるで本来とは違っているように新鮮に見えるということです。夜という見えない闇から浮かび上がるものは,同時に存在の無からも浮かび上がってこの世に形をもって現れ出る。

仏教で「権現」という言葉があります。よく蔵王権現とか白山権現,愛宕権現という使い方がされます。本来の姿(本地仏)とは違った,仮の姿でこの世に現れ出てくるという意味に私は取っています。では本来のものは何時どんな形で現れ出るというのでしょうか。いつも見えない形で隠されているのです。
このような説明は実にたくさんの物語のバリエーションを古来からつくってきたように思えます。
 昔むかーし。
 ある冬の夕方、ある村に旅の坊さまがやってきた。
 腹(はら)をすかせ、一軒(いっけん)一軒訪(たず)ねては、
 「どうか一晩(ひとばん)だけ泊めて下され」
と、たのんだが、どこの家でもみすぼらしい旅の坊さまの姿を見ると、
 「よそに行ってくろ」
というて、泊めてくれなんだ。
 しかたなしに、村はずれに小(ち)っこい家にやってきた。
 坊さまは、またことわられるかもしれんと思いながら、板戸(いたど)をたたくと、中から婆(ばあ)さまが出てきた。
 「宿がなくて困っています。どうか一晩だけ泊めて下され。」
 「そうかそうか、それは難儀(なんぎ)じゃろう。こんな家でよかったら泊まってくろ」
 婆さまはそう言うと坊さまを家に入れ囲炉裏(いろり)に火を焚(た)いて部屋をあっためたんだと。
 さぞかし腹をすかせているだろうと思ったが、食べさせられるような物は何にも無い。婆さまは、夜おそうなってから家をぬけ出した。金持ちの家の大根置き場へ行くと、大根を一本、こそっとぬすんできた。
 雪の上には、婆さまの足あとがくっきりとついていた。家に戻った婆さまは、その大根を囲炉裏(いろり)の灰の中にうずめて、しばらくしてとり出すと 「さあ、大根焼きでも食うてくろ。からだがあったまりますで」と、坊さまに差し出した。
 「おー、これは寒い晩には何よりのごちそうじゃ」
 坊さまはうまそうに大根焼きを食うたと。
 その夜のこと、さらさらさらさら雪が降(ふ)りつもって、婆さまの足あとをみんな消してしもうた。婆さまの気持ちをうれしく思うた坊さまが、雪を降らせたんだと。 この坊さまは弘法大師(こうぼうだいし)さんだったと。
このように,「ぼろを着た坊様は,本当は大師様だったんだと」というように大切なことは最後まで隠されている話がたくさんあります。正体が明かされないのです。様々な縁起譚の中にこうした正体が隠されている主人公が語られます。例えば安倍晴明の「ほき内伝」の話の中では身分を隠して后を探して旅に出た牛頭天王が,行く先々で申し出を断った村を滅ぼしたり,罰を与えたりします。蘇民将来の話です。
旅の途中で宿を乞うた武塔神(むたふ(むとう)のかみ、むとうしん)を裕福な弟の巨旦将来は断り、貧しい兄の蘇民将来は粗末ながらもてなした。後に再訪した武塔神は、蘇民の娘に茅の輪を付けさせ、蘇民の娘を除いて、(一般的・通俗的な説では弟の将来の一族を、)皆殺しにして滅ぼした。by wiki
これらの話はどうも真実はいつも隠されている。真実は真実の姿をしてこの世に現れ出るとは限らないと言っているように思えるのです。真実の正体は狐だったり,蛇であったりもします。言わば神の使いです。

この世の現象がそうした仮象からつくられていると考えれば,違和感が生じます。
宗教家でもあった宮沢賢治は1925年(大正14)の正は厳冬の北三陸の旅から始まりました。賢治29歳になる年でした。この三陸の旅から戻ってから森佐一に『春と修羅』において「歴史や宗教の位置を全く変換しようと」したり,2月には岩波書店の岩波茂雄に次のように手紙を送ります。「六七年前から歴史やその論料、われわれの感ずるそのほかの空間といふようなことについてどうもおかしな感じやうがしてたまりませんでした。」と書いています。実に不思議な言葉です。どんな違和感を抱いていたというのでしょうか。私たちが感じているこの空間の「ほかの空間」といふようなことについてどうもおかしな感じやうがしてたまりませんでした」というのです。私たちのいる「この空間」ではなく感じている「ほかの空間」なのです。それを科学的に「厳密に事実のとほりに記録したもの」が『春と修羅』だったと言うのです。
このように,賢治も隠されていて現在は見えないものの正体に注目していたのでした。


参考
夜の写真闇の文学」
「夜の写真闇の文学2」


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夜の写真闇の文学2―「春と修羅」―

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晴れゆく

5月27日の同じタイトルの記事で書いた続きです。
宮沢賢治の詩集「春と修羅」をどうにかして理解したいと思いながら探って来てはいますがさっぱり糸口が見えてこないのです。早速「春と修羅」の冒頭を飾る「屈折率」を読んでみましょう。
屈折率
七つ森のこつちのひとつが
水の中よりもつと明るく
そしてたいへん巨きいのに
わたくしはでこぼこ凍つたみちをふみ
このでこぼこの雪をふみ
向ふの縮れた亜鉛(あえん)の雲へ
陰気な郵便脚夫(きやくふ)のやうに
(またアラツディン、洋燈(ラムプ)とり)

急がなければならないのか
これを字面(じづら)の通りに読んでいきます。合いの手のように()書きで補足説明を入れます。《七つ森のこつちのひとつが水の中よりもつと明るくそしてたいへん巨きいのに(そっちの方に行きたいのに)わたくしはでこぼこ凍つたみちをふみ,このでこぼこの雪をふみ(この思いとは反対に)向ふの縮れた亜鉛(あえん)の雲へ(あの暗くにび色の不安を感じさせる雲の方へ,まるで)陰気な郵便脚夫(きやくふ)のやうに(また)(またアラツディン、洋燈(ラムプ)とり)(アラジンの魔法のランプのように,何かを探す旅に) 急がなければならないのか》という感じでしょうか。実にそのまんまです。あっちに行きたいのにこっちなのだ。それもひどい道をてくてくと一歩一歩あるいていかなければならないのだ。私はこのようなな孤独な旅に出るのだという意味に理解できます。詩集の冒頭で旅立ちが宣言されます。しかしです。なぜこの詩が「旅立ち」ではなくて「屈折率」という題名なのでしょうか。屈折しているのは自分なのですという意味なのか。世界そのものの見え方がある程度屈折した光で私たちが見ている,暗にこの屈折した光で見た世界に対して本当の見方をしたいという意味にも捉えることができます。
当然私は後者の考え方です。今見えている世界,そしてその見えている世界を見ている自分の映像は正しいのかという自問があります。そのようなことを感じさせる言葉が「水の中よりもつと明るく/そしてたいへん巨きいのに」 という表現です。水の中での屈折と大気中での光の屈折の違いを表現しています。そして大気中でのこの屈折は水の中においての光の屈折よりずっと明るく大きく見えているという比較をしているのです。
このようなことから「単なる孤独な旅立ち」に見えたこの詩は科学的な見方を取り混ぜた新たな認識論への旅立ちであるとも考えられるのではないでしょうか。

先回私は梶井基次郎の「闇への書」から人間の認識の不思議な飛躍をみました。もう一度引用してみます。
私はある不思議な現象を發見した。それはそれらの輕い雲の現はれて來る來方(きかた)だつた。それは山と空とが噛み合つてゐる線を直ちに視界にはいつて來るのではなかつた。彼等の現はれるのはその線からかなり距つたところからで、恰度燒きつけた寫眞を藥のはいつたバツトへ投げ込んで影像があらはれて來るやうな工合に出て來るのだつた。私はそれが不思議でならなかつた。
空は濃い菫色をしてゐた。此の季節のこの色は秋のやうに透き通つてはゐない。私の想像はその色が暗示する測り知られない深みへ深みへのぼつて行つた。そのとたん私は心に鈍い衝撃をうけた。さきの疑惑が破れ、ある啓示が私を通り拔けたのを感じた。
闇だ! 闇だ! この光りに横溢した空間はまやかしだ。
青すぎる空から現像する写真のように滲み出してそしてやがてはっきりと形を作っていく雲。ただの青と見えていたまやかし。そしてそのからくり。

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林の奥 重なり合うことで見えていないものが不安なのか,それとも重なり合いながらこちらの視線に進んでくるものに期待するのか

正しい見え方とは何か。梶井自身も一石を投じています。景色の中で聞こえている音についてはどうでしょう。「音といふものは、それが遠くなり杳(はる)かになると共に、カスタネツトの音も車の轣轆(れきろく)も、人の話聲も、なにもかもが音色を同じくしてゆく。其處では健全な聽覺でも錯覺にひきこまれ、遠近法を失つてしまふ。そしてはたと辺りに氣がついて見れば、其處が既に今まで音の背景としてゐた靜けさといふ渺々とした海だといふことに氣がつく。」音が遠くなるに従い,音の特色は平滑化されて遠近法を失い,はたと気付くともう静けさという沈黙に音は沈んでいっているわけです。

今ここで自分が自然の中に居て何かの音が聞こえてきたとしましょう。その音が一体何の音なのか,どこから出ている音なのか。その音を分析しようと耳を傾け,視力を働かせます。つまり理解は出てきた音という情報を視力で更に関連づけて対象を理解しようとしています。そして音の対象の場所が分かり,同時に見ることで,「ああ,水が流れている音だったんだ」と認識を落ち着かせています。このようなことは私たちが生活している世界ではごくありふれたことです。

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田毎の星  反射するものを見ることは世界を角度で理解しようとしていること

「春と修羅」は私たちに普通に見えているものとその媒介となっている光,湿度,雲という気象条件を関数化しながら記述するというまれな方法を取っていることに気付くと思います。そして「春と修羅」の冒頭は
「屈折率」1922/01/06
「くらかけの雪」1922/01/06
「日輪と太市」1922/01/09
「 丘の眩惑」 1922/01/12
「カーバイト倉庫」 1922/01/12
「 コバルト山地」 1922/01/22
「 ぬすびと」 1922/03/02
「恋と病熱」1922/03/20と8編続きます。そしていよいよ春の始まりの本編「春と修羅 (mental sketch modified)」 《1922/04/08》 となっていきます。


この記事はまたつづきます。


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夜の写真闇の文学

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月が昇るまでの間

どうしてまた私が夜の写真をもう十年以上も撮り続けていられたのかと思う。
暗い夜に山に登り,暗闇の道を辿り,その景色を撮り続けてきました。このように続けることができたのはそれなりの訳があったのでしょう。一言で言えばですが,「夜の見えない世界を視覚的な写真で表現する試みにおもしろさを感じている」からかもしれません。星の光も,音も,匂いも,風も,夜の暗がりと静けさの中に溶け合っている。そんな写真が撮りたいという一心で続けて来たんだと思います。まさに詩や文学作品と肩を並べる夜の写真への試みです。

この頃宮沢賢治の詩の言葉とは何か。他の詩人の作品とどう違うのか。科学的に記述したと自負しているメンタルスケッチ「春と修羅」はどこが科学的なのかという疑問にさいなまれています。その答えを得るにはもう一度自分の立ち位置を洗い直す所から始めないといけないと感じるようになりました。

そこで私たちが風景を見ているときに何に反応しながら見ているのか,観察によって風景(対象)を的確に描写する技術がどう関わり合っているのかをどうしても知りたくなりました。
このような大きな問題にいつかはぶち当たるとは思っていましたが,準備できる分だけメモとして残しておこうと思います。
そこで第一回目は「夜の写真闇の文学」と題して梶井基次郎,串田孫一から始めていきます。尚どうして梶井基次郎で,串田孫一なのかは過去の記事に依っていますので,お読みいただくと分かりやすいかもしれません。

闇の紀行文-串田孫一のことば その7


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月夜の棚田

風景の認識論を語る上でその最たる作家が梶井基次郎だと思う。まずは彼の語り口に耳を傾けよう。青空から湧き上がる雲の様子を見ての「闇への書」からの文です。
次へ次へ出て來る雲は上層氣流に運ばれながら、そして自ら徐(おもむ)ろに旋回しながら、私の頭の上を流れて行つた。緩い渦動に絶えず形を變へながら、青空のなかへ、卷きあがつてゆく縁を消しながら。
――それはちやうど意識の持續を見てゐるやうだつた。それを追ひつ迎へつしてゐるうちに私はある不思議な現象を發見した。それはそれらの輕い雲の現はれて來る來方(きかた)だつた。それは山と空とが噛み合つてゐる線を直ちに視界にはいつて來るのではなかつた。彼等の現はれるのはその線からかなり距つたところからで、恰度燒きつけた寫眞を藥のはいつたバツトへ投げ込んで影像があらはれて來るやうな工合に出て來るのだつた。私はそれが不思議でならなかつた。
空は濃い菫色をしてゐた。此の季節のこの色は秋のやうに透き通つてはゐない。私の想像はその色が暗示する測り知られない深みへ深みへのぼつて行つた。そのとたん私は心に鈍い衝撃をうけた。さきの疑惑が破れ、ある啓示が私を通り拔けたのを感じた。
闇だ! 闇だ! この光りに横溢した空間はまやかしだ。
青い空の虚空から突然白く沸き立っていく雲の生まれ方が問題なのです。それが写真を現像してやがて輪郭が浮き立ってくるような現れ方をしていると言うのです。ですから青空に青く見えている色はまやかしで,青の奥の深い部分では次々と白い雲が生成されている。その生成する姿は青空の青に隠されて見えないのです。隠されているからこそ闇があるのです。梶井独特の発見です。
また同書の続きではこうした文も出て来ます。

「太陽は空にたゆまない飛翔を續けてゐる。自然はその直射を身體一ぱいにうけてゐる。その外界のありさまが遠い祭りのやうに思ひなされる。」

太陽の激しすぎるその直射光を受けていると,感覚が徐々に遠ざかっていって観察している自然がまるで「遠い祭り」のように思えてくると言うのです。この感覚もよくあります。この遠ざかっている景色は次に

「音といふものは、それが遠くなり杳(はる)かになると共に、カスタネツトの音も車の轣轆(れきろく)も、人の話聲も、なにもかもが音色を同じくしてゆく。其處では健全な聽覺でも錯覺にひきこまれ、遠近法を失つてしまふ。そしてあたりに氣がついて見れば、其處が既に今まで音の背景としてゐた靜けさといふ渺々とした海だといふことに氣がつく。」

遠くなった景色が「遠い祭り」に感じると音が聞こえてきます。その音も遠ざかっていくと同じ音色に聞こえて来る聴覚の錯覚に陥ると言います。また自然界で起こる音と見えている景色との関係を次のように言います。
その音は通常音が人に與へる物的證據を可見的な風景のなかに持つてゐないからかと。即ちその音を補足する水の運動が見えないからかと。すると私はその樋が目にはいらなかつた前の、音のもとを探してゐるときの深祕に逆戻りしてゐるのだ。しかし今はその階段よりは一歩進んでゐる。その音を補足する視覺的な運動のかはりに樋といふもので補足が出來てゐる。そしてまだ以前のやうな神祕が殘つてゐるとすればそれは樋が未だ視的證據ではないからだ。それは知的證據にしか過ぎない。すると知識と視覺との間にはあんなにも美しい神祕が存在するのか。
これは水の流れる音だけが聞こえていて,まだ景色の中に水の流れが認められていない不安定な理解の時にどんなことが思考の中で起きているのかが語られます。私たちは見えているものや聞こえて来る音を景色の中に証拠を見つけながら理解していく,人間の風景の認識の仕方が語られます。

これこそ宮沢賢治が「春と修羅」の中で展開していった風景の認識論の枠につながっていくと思います。そしてそれが自然から受けた賢治という感覚器官がどう反応していくかをそのまま,まさに生のまま,純粋経験として綴っていったものが「春と修羅」の科学性ということになります。梶井基次郎が「闇への書」で構築しようとした風景の認識論は実に大切なことです。さらにこれらの手法が極限まで駆使されるのが夜を舞台とした場合です。

この話は次に続きます。


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