2021/04/19
トポスの記憶-宮沢賢治「小岩井農場」解読③-

場所の記憶
年が改まってお正月にもなると賢治は,今年は何に挑戦しようかと考え,行動に出ることが多かったように感じます。
ちょっと書き出しただけでも大きな転機とも言える出来事が1月に起きています。彼の一月の様子を抜き出してみます。
1921(大正10)25歳 1/23無断で上京
1922(大正11)26歳 1/ 6詩作開始。のちの『春と修羅』になる
1923(大正12)27歳 1/4 トランク一杯の原稿を持って上京
1924(大正13)28歳 1/1『春と修羅』の刊行を意図し,「序」を書く
1925(大正14)29歳 1/5~1/8 異途への出発 三陸海岸を旅する
1926(大正15)30歳 尾形亀ノ助の『月曜』に『オツベルと象』発表
1927(昭和2) 31歳 『春と修羅』第二集の「序」を書く
もちろんここでは1922(大正11)26歳。のちの『春と修羅』になる作品群の詩作開始は1月 6日だったことから始まります。『春と修羅』を飾る巻頭詩は『屈折率』次に『くらかけの雪』『日輪と太市』『丘の眩惑』と続いていきます。
早速ここで記念すべき巻頭詩「屈折率」を読んで見ましょう。
七つ森のこつちのひとつが
水の中よりもつと明るく
そしてたいへん巨きいのに
わたくしはでこぼこ凍つたみちをふみ
このでこぼこの雪をふみ
向ふの縮れた亜鉛(あえん)の雲へ
( アラツデイン 洋燈ランプとり )
急がなければならないのか
解説は清六さんの素晴らしい解説にお願いしましょう。
大正十一年一月六日の小岩井農場には,三,四尺の雪が積もり,農場行きの橇は粉雪を吹き上げながら走ったろう。
そのときブリキ色の雲の切れ目から,棒のような光線が,七つ森の中の一番近くを黄金いろに照らした。
七つ森というのは,丁度同じ位の大きさの森が七つ並んでいるのだが,こんな風に明るい光線があたれば,その森だけが特別に巨きく見えてくる。もちろん此れは我々の眼の水晶体が短焦点レンズに切替えられる為であろう。
ところがこんどはそこらの景色が丁度水の底のように見えて来て,光線も変に屈折して輝いて来たようだ。
手帳を握って,彼は次々と不思議なことを考えながら七つ森を見ている。
(空気の屈折率は,真空に対してさえ殆ど絶体に近いと思うから,あんな風に光が屈折することはないはずだ。
然し雲の裂け目を通過するとき,上層と下層の空気の密度があんまり違って来れば,あんな風に屈折することもあるのだろうか。
それともおれの目だけにそう見えるのか。
あるいは,雲が特別に不思議な状態で,例えばありブリキ色をした雲の中に,酵母のような細かな吹雪の粉がたくさん入っていて,雲自身がプリズムのように,光線に特別な変化を与えるということも一応は考えられる。)
そこまで書いたとき,その棒のような光線はいよいよ不思議にゆがんで屈折し,ギラギラ輝いて無数の色に分散し,その辺りがまるで躍り上がるように見えてきた。
ほんとうにその吹雪の入った雲を,七つ森の上に装置した巨大なダイヤモンドのプリズムであると考えなければならなくなったのである。
驚いて彼は見ていたが,このような景色をたしかにどこかで前に見たことがあったと思い,やがてはっきりと思い出したのであった。
それはあの「シンドバットの舟」や,「アリババと四十人の盗賊」の話,アラビアンナイトの国の中に違いなかった。
( アラツデイン 洋燈ランプとり )
と手帳へ大きな字で,そして今までの詩より少し下げて書く。
この景色が『春と修羅』の誕生を支えるほどの奇蹟の景色だったのです。
そしてこの奇蹟的な景色をまた見るために5月21日再び小岩井農場を訪れることになりました。『小岩井農場』の誕生です。