宮沢賢治「チューリップの幻術」-20世紀トレンド-

DSC_0404_2_3_tonemapped-2gs.jpg
ひまわり畑の夕暮れ

「宮沢賢治の「チューリップの幻術」を読みましたか」と聞かれた。
「はて。どんな話だったのだろう」と思い,家に帰って読んでみた。

そして,すぐ思い出したのがタゴール(1861年5月7日 - 1941年8月7日)の「園丁(gardener)」だった。登場人物が「園丁」だったということもあったのかもしれません。どうしてだか「チューリップの幻術」と賢治とタゴールが結びついたのです。今日はそのつながり方を綴ってみたいと思います。

もちろん賢治はタゴールのことを知っていたでしょう。賢治が盛岡高等農林に入学した時の年譜にはこう書かれています。
1915(大正4)年 19歳
1月  受験勉強のため、盛岡市北山の時宗教浄寺に下宿
4月  盛岡高等農林学校主席入学、寄宿舎へ。級長
     主任教授関豊太郎を知り、生涯にわたり指導を受けることになる。 「化学本論」、「タゴール詩集」愛読
     妹トシ、日本女子大学入学
8月  願教寺で島地大等の歎異妙法を1週間聞く
>「タゴール詩集」愛読とあるのです。タゴールは1913年にノーベル文学賞を受賞し,時の人となっていました。また,この翌年の1916年7月,賢治が20歳の時に来日していてるのですから賢治が知らないはずはありません。この時タゴールは56歳だったといいます。では賢治はタゴールの何を愛読していたのでしょうか。『ギータンジャリ』か『園丁』かもしれません。来日に合わせて出版物もたくさん出たと思います。

これに加えて年譜には「4月 妹トシ、日本女子大学入学」とあります。この日本女子大学に成瀬仁蔵がいたのです。トシが日本女子大学に入学して,成瀬仁蔵の倫理講義を受けたことは,今の自分が生きていく意義を見つめ始めるきっかけになったことは確かでしょう。成瀬仁蔵はメーテルリンクやタゴールを取り上げて熱心に講義を行いました。その講義にトシは深い感銘を受けたでしょう。メーテルリンクの『青い鳥』はもちろん『万有の神秘』1916,『タンタジールの死』1914 を知り,トシは熱心に賢治に読むように勧めたと思われます。タゴールについても成瀬は大きく取り上げたでしょう。何せタゴールを初来日させるのに成瀬はひとかたならぬ役目を果たしたのですから。成瀬の尽力でタゴールの来日ができたと言ってもいいでしょう。日本女子大学での講演がタゴールの来日毎に続いたのは,こうした成瀬とタゴールとの親交の厚さが感じられます。当の成瀬は1919年3月に亡くなっていますが,タゴールは日本女子大学での講演を続けています。実際にトシもタゴールに会い,タゴールの講演を聴いています。トシのタゴールを語る手紙や故郷に帰ってきての熱いしゃべり方で,賢治はタゴールの作品や思想に大きな興味を持ったことでしょう。これは賢治にとって大きな思想的な礎になったことは確かだと思います。

タゴールの作品を読んでみると,どこか賢治の自然に対する「心持ち」と似ているところがあったりします。それが作品成立上どんな影響が読み取れるかは研究者にまかせるとして,そのタゴールと賢治,2人の自然に対する見方や「心持ち」の面が,同時代的な息吹として当時の世界,20世紀初頭に満ちていたのではないかと思われるのです。この20世紀初頭という時代は,心霊主義,推理小説の台頭,フロイトによる精神分析学の成立,シュールレアリスム宣言とパラダイムそのものが一新する時代だったのです。20世紀トレンドです。賢治もその流れの中にいて,同じ空気を吸って生きていました。

夏の朝の伊豆沼s
ハスの花咲く朝

例えばオカルティズムと言われる「心霊主義」の嵐が押し寄せ,日本でも吹き荒れたのが同じ時代です。この心霊主義の流れを文学では川端康成らがいち早く受け入れました。その同時代的な考えが賢治自身の感覚の持ち方や構えとシンクロしていくのではないでしょうか。認識構造のコペルニクス的転回と言ってはおおげさですが,少なくても感じ方が変わってきたのです。

よく賢治のことで,唐突で不思議な出来事として語られている岩波茂雄への手紙を読みましょう。
「・・・わたくしは岩手県の農学校の教師をして居りますが六七年前から歴史やその論料、われわれの感ずるそのほかの空間といふやうなことについてどうもおかしな感じやうがしてたまりませんでした。わたくしはさう云ふ方の勉強もせずまた風だの稲だのにとかくまぎれ勝ちでしたから、わたくしはあとで勉強するときの仕度にとそれぞれの心もちをそのとほり科学的に記載して置きました。その一部分をわたくしは柄にもなく昨年の春本にしたのです。心象スケッチ春と修羅とか何とか題して関根といふ店から自費で出しました。友人の先生尾山といふ人が詩集と銘をうちました。詩といふことはわたくしも知らないわけではありませんでしたが厳密に事実のとほりに記録したものを何だかいままでのつぎはぎしたものと混ぜられたのは不満でした。…」

これが書かれたのが1925年です。アンドレブルトンの「シュールレアリスム宣言」とそんなに変わりありません。むしろ1925年2月にはもう森佐一にこう書いています。岩波茂雄への手紙の10か月前です。

「・・・前に私の自費で出した「春と修羅」も、亦それからあと只今まで書き付けてあるものも、これらはみんな到底詩ではありません。私がこれから、何とかして完成したいと思って居ります、或る心理学的な仕事の仕度に、正統な勉強の許されない間、境遇の許す限り、機会のある度毎に、いろいろな条件の下で書き取って置く、ほんの粗硬な心象のスケッチでしかありません。」

もう一度出してみます。「或る心理学的な仕事の仕度」とは何か。『春と修羅』はただのラフスケッチで本当は最後に「或心理学的な仕事」を仕上げてみせる。このような考えがあったのです。


遠野黎明s
遠野黎明のとき


賢治の「チューリップの幻術」にもいたるところ現実世界の認識の枠からはみ出ているところがたくさんあります。それがおもしろいことも確かです。「光の酒」「エステル」「溶けてしまうヒバリ」 まさに賢治ワールド万華鏡です。

最後に川端康成の感覚と賢治の中にある感覚の同時代性を川端の「抒情歌」から見てみたいと思います。どうも「或る心理学的な仕事」が薄く見えてくるような気がします。
「私」は輪廻転生を、「人間が作った一番美しい愛の抒情詩」だと思いながらも、昔の聖者も今の心霊学者も人間の霊魂だけを尊び、動物や植物を蔑んでいるようにも感じた。人間は結局何千年もかけ、自身と自然界の万物とを区別する方向ばかり進み、その「ひとりよがりの空しい歩み」が、今こんなに人間の「魂」を寂しくしているのではないかと「私」は考える。
    
「あなた」に捨てられ、アネモネの花の心を知り、「哀れな女神」でいるよりも美しい草花になった方がどんなに楽しいか、綾子や「あなた」への恨みに日夜苦しめられる哀れな女でいるよりも、アネモネの花になってしまいたいと「私」は何度も思った。愛を失い、全てが味気なくなっていた「私」は「輪廻転生の抒情詩」を読むうち、禽獣草木のうちに「あなた」や「私」を見つけ、次第に天地万物をおおらかに愛する心を取戻していった。                 wikiによる川端康成「抒情歌」より



ネムの木 010s
今が盛りと咲くネムノキ

「禽獣草木のうちに「あなた」や「私」を見つけ、次第に天地万物をおおらかに愛する心を取戻していった。」
これは人間にとって感覚を土台に据え直して,もう一度世界を「再読み込み」しようという試みです。リセットボタンを押したいのです。こういう土台に立てば,「チューリップの幻術」は賢治ワールドを代表する極めて優れた作品の一つだと言えます。



にほんブログ村 写真ブログ ネイチャーフォトへ
にほんブログ村 写真ブログ 鉄道風景写真へにほんブログ村 鉄道ブログ 東北の鉄道へ

現代の賢治の後継者

のの岳展望 063-2gs
箟岳山遠望  6/3 どこに電車が写っているでしょうか

石と賢治のミュージアムから夏恒例の今年のグスコープドリの大学校の案内が届きました。
その初日7月23日(日)に講演2つがあって,一つ目は澤口たまみ氏の「ナチュラリストとしての宮沢賢治-自然が教えてくれること-」と佐藤竜一氏の「宮沢賢治と震災-「雨ニモマケズ」の祈り-」があるようです。
澤口たまみさんは最近絵本「わたしのこねこ」(2016)で産経児童出版文化賞美術賞を受賞しました。昔からブログを見てきて,宮沢賢治のこともそうですが,また昆虫への想いにも共感させられます。

その絵本作家の澤口たまみ氏がブログでこう書いています。
小さな子どもに、この世のいのちのありようを伝えてゆく。
 それが、わたしの仕事だと思っています。
 そしてそのためには、奇をてらったオノマトぺも、わたしの視点を押しつけることになる形容詞も、不必要だと考えてきました。
 ただ、そのもののありようを、できるだけ同じ大きさで言葉にしてゆく。
 それは結果として、文章を地味にします。
 大きく評判になることもないかも知れない。
 けれど、生きものや自然を紹介するということは、そういうことなんだと肝に銘じてきたのです。
 過度の表現は、厳に慎むべきと。
なかなかいい言葉ですね。

タルコフスキーなんかの映画も物語を避けているようにも思われます。ストーリーに過度に引きづられる映像を嫌うのです。つまり目的のために浪費されていく映像を嫌っているとも受け取れます。映像や文字がそれ自体で独立していて,声に出して発音してみるとその音が静かに世界にこだまして響き,その佇まいで心が静まってくる。そんな映像や言葉が好みです。これは写真についても言えることです。誇張することは刺激を強くする方向へ進みます。
宮沢賢治が嫌っていた「慢」はまさにこの誇張や誇張を招く心のあり様(よう)を言っているのではないでしょうか。言葉による誇張や物語の誇張を抜いていくと,静かに個々の映像や言葉が立ち上がっていきます。従って澤口氏が言うように,文章は地味になります。押しつけるメッセージや意味をおしきせることもなくなります。音や文字の形や意味が本来の姿でたたずんでいることが分かります。すべての存在がフリーになるということです。フリーであるということは,こどもの甘えた言葉も,花も,葉も,ことばも平等に独立した存在が与えられこの世に存在していることが許されているということなのです。賢治はこのことを自然から受け取っていました。この世のありとあらゆるものが平等に並立しているのです。その考えは仏教に触れることでさらに倫理化されていったと思います。さらにフリーであることは階層化を嫌います。階層化からフリーだということは,権力からもフリーだという姿勢に繋がります。
このようなフリー思想は簡単に言うと,地球にあるすべての存在が並立して平等だという確信を得た人は自然の中にその美をみつけやすく,調和してある自然に憧れます。

澤口氏が賢治のそうした考え方の核心を模索しながら作品を生み出していることに東北人としての素朴さと力強さを感じます。


にほんブログ村 写真ブログ 鉄道風景写真へにほんブログ村 鉄道ブログ 東北の鉄道へにほんブログ村 写真ブログ ネイチャーフォトへ

鹿踊りの始まり

栗駒1月最後 287-2s
中尊寺荘園 骨寺村駒形根神社にあった行山流鹿踊り碑 文久三年(1863)

ここは骨寺村。
昔,藤原氏の時代から中尊寺の荘園であった所です。一関市厳美渓から栗駒山に向かう途中若神子地区に骨寺村はあります。この骨寺村は美田の村で,昔懐かしい村の景色を味わえる数少ない場所だと思います。この村に駒形根神社があり,その境内にこの石碑はあります。「行山鹿子踊供養碑」と銘されており,右に文久三年(1863)とあります。明治維新前の新しく感じる供養碑でした。石碑には「中立鹿・・・」まで見えていますが,「中立」はこの辺りの地区の名前でしょうか。石碑の上部に伊達家の家紋「九曜の紋」が刻まれています。
「行山流鹿踊」の「行山流」が伊達式部宗倫に召し抱えられて発展したので,伊達家認定の九曜の紋が太鼓にも衣装にも使われています。

6年生を送る会 658-2s
一関市東山町の行山流大木鹿踊「くるい踊り」

今日は東日本大震災があった3.11の日です。一関文化ホールで「第13回いわい地方民俗芸能祭」が行われ,追悼や鎮魂の意味も込めて,神楽や鹿踊りが披露されました。今日の写真は奉納された鹿踊の様子です。

鹿踊りは説明も必要でしょう。WIKIを見てみましょう。
鹿踊(ししおどり、しかおどり)は、江戸時代の南部氏領(盛岡藩)、および、伊達氏領(仙台藩・一関藩・宇和島藩)、すなわち現在の岩手県、宮城県、そして愛媛県宇和島市周辺で受け継がれている伝統舞踊。福島県にも類似の鹿舞(ししまい)がある。(中略)「太鼓踊系」は大きく行山流(ぎょうざん)、金津流(かなつ)、春日流(かすが)の3つに分類される。このうち最も古い行山流から、金津流および春日流が分派し、行山流においても諸派(仰山流、山口流、奥野流、奥山行山流、早川流ほか)に分かれた。行山流は現・宮城県本吉郡南三陸町志津川、金津流は現・宮城県仙台市泉区(旧・宮城郡国分松森村)[7]、春日流は現・岩手県花巻市東和が発祥地と考えられている。伊達氏に認められた流派では、衣装や締太鼓に伊達家の家紋である「九曜」「竹に雀」「竪三引両」等が染め抜かれている。伝統的な踊りは神社での神事やお盆に際して行われ、鹿頭をかぶった踊り手が8人(八ツ鹿踊)ないし12人集まり、仲立を中心に各々が役回りを持った演目が舞台に見立てた場所で踊られる。
もともと行山流は,宮城県本吉郡南三陸町志津川水戸辺が発祥の地とされてきました。

6年生を送る会 602-2s
大東町の行山流小沼鹿踊「入羽,大入羽,水車,一人狂い,三人狂い」

私が見た小沼鹿踊も大木鹿踊りも素晴らしいものでした。
子どもの頃にお祭りでよく神楽が奉納されていました。義経の東下りなどが演目にあって,村の年寄り達が感動して泣いていたのを憶えています。まだ娯楽も少なかった時代に神楽などは本当に楽しみなものの一つだったのでしょう。子ども心に神楽は不思議なものでしたが,それを見て泣くとは。こんなお年寄りの感情を子ども心に不思議に思ってよく憶えていたのでしょう。
宮澤賢治だって昔の人ですから,鹿踊の魅力はよく知っていて,名作「鹿踊りの始まり」を書いたのでしょう。「注文の多い料理店」のラストを飾る童話が「鹿踊りの始まり」なのです。この話は嘉十が膝の療養のために温泉に向かう途中で大きなはんのきのあるススキ原で休みました。栃の実団子を食べて腹ごしらえをして出発すると手ぬぐいを忘れたことに気付き,はんのきの所に戻ります。すると鹿がさっそく六頭,はんのきの下でぐるぐる回っていたのでした。こんな話でした。

6年生を送る会 666-2s
一関市東山町の行山流大木鹿踊「くるい踊り」

鹿踊りのぐるぐる回って踊っていた様子がそのまま鹿の動きになって描写しているのでは?と,見て思うのです。
とにかく賢治の描写は鹿踊りの様子をそのまま鹿の物語に置き換えていったのではないだろうかと感じます。賢治はこの物語の始まりをこう書いています。
そのとき西のぎらぎらのちぢれた雲のあいだから、夕陽は赤くななめに苔の野原に注ぎ、すすきはみんな白い火のようにゆれて光りました。わたくしが疲れてそこに睡りますと、ざあざあ吹いていた風が、だんだん人のことばにきこえ、やがてそれは、いま北上の山の方や、野原に行われていた鹿踊りの、ほんとうの精神を語りました。

一人狂い,三人狂い,入羽,大入羽はそんな嘉十の見ていた鹿踊りの踊り手の交代を思わせます。

6年生を送る会 655-2s
一関市東山町の行山流大木鹿踊「くるい踊り」九曜の紋が見えますね。

しかし,賢治の「鹿踊りの始まり」の名作たる由縁は何と言っても踊りが最高潮に達する部分で,人間たる嘉十も踊りたくて我慢できなくなる。そして鹿達の中に踊りながら入っていく。その感情の高ぶりがいいんです。鹿も,人間も劇的な夕陽の中で,ススキの原が黄金に輝く。はんのきの巨木の下で踊ろうとする躍動感。血湧き,肉躍る舞踏への興奮。喜びや楽しさを身体全体で表現するという生の感情。やっぱり賢治の「鹿踊りの始まり」は,押さえきれないその感情を溢れさせたことで名作なのです。

実は今日鹿踊りを見ていて,私も興奮してきました。狂い踊りで回転する,繰り返す。アクロバティックに跳ぶ。なんだか踊りは知らないけれど,踊りの興奮の中に自分も嘉十のように踊りたいと思ったのです。
神楽を見て,涙する年寄り達を不思議に思った子どもの私でしたが,いい年になり,民俗芸能の良さも感じられるようになったのでしょうか。

民俗芸能が復興の一つとしてまた復活させる地区が増えています。伝統を重んじるその心は何百年も続いてきたものです。何かあったからって,すぐやめてしまうものではありませんね。今日の鹿踊りを見て,そう思いました。


にほんブログ村 写真ブログ ネイチャーフォトへにほんブログ村 写真ブログ 鉄道風景写真へにほんブログ村 鉄道ブログ 東北の鉄道へ

雨の匂い

豊里日曜 069-2s
今朝の蕪栗沼

今日は久しぶりに写真を撮りましたが,雨の匂いがしました。
どこか重くしめった空気が体にまとわりついていたからでした。こんな日は音もくぐもって聞こえます。


昨日の記事で私は川端康成の「抒情歌」を引いた後で
「林へ行きたい」というトシは,「禽獣草木のうちに「あなた」や「私」を見つけ、次第に天地万物をおおらかに愛する心を取戻していく」ことを心から願っていたのかもしれません。
と柄にもなくしめくくったのですが,どうもすっきりしない気持ちでいました。
そして今日改めて川端康成の「抒情歌」を読み直してみたのです。そしてもう一度昨日のしめくくり部分を話したいと思ったのでした。

川端康成の「抒情歌」は輪廻転生の話が古代から世界各地に見られる最も美しい「抒情歌」と考えて話を始めています。そして予知能力や霊感を持った女の独白という形で話が展開していきます。当時心霊主義が日本に入ってきて,川端もまた不思議な世界に入れ込んでいった時期の1932(昭和7)年の作品です。この時期は賢治が死ぬ前の年に当たります。

トシが日本女子大学で成瀬仁蔵の倫理講義を受けていた折,メーテルリンクが紹介され,心霊主義の思潮が満ちていった時期でもあったわけです。トシはクリスチャンとしての成瀬の生き方や取り上げられたメーテルリンクの著作や思想に大きな関心を寄せていました。トシから賢治に紹介されたこともあるでしょう。例えば,トシ経由で『青い鳥』はもちろん『万有の神秘』1916,『タンタジールの死』1914 が紹介され,賢治も読んでいて「宗谷挽歌」の詩の中にも「 ( おまへがこゝへ来ないのは/タンタジールの扉のためか、/それは私とおまへを嘲笑するだらう。)」と書くまでになっていったとも考えられます。こうした心霊主義の流れが日本でも文学や文化面に広がって行った時期でした。新感覚派と言われた川端も同人と「文藝時代」を出す時期と一致しています。

豊里日曜 164-2gs
まっすぐにやってくる

さて「輪廻転生」や生まれ変わりの話,前世の話はギリシャ神話から始まり,仏教まで世界に広く行き渡っています。遠藤周作も死んだ妻が生まれ変わるというインドでの話「深い川」を書いたし,江戸期には平田篤胤の「勝五郎再生記聞」まで数多くの話があります。このような「輪廻転生」の話は川端にとっては今までの歴史が生み出した最も美しい抒情歌のような気がすると言うのです。前世は花であった者が現世では人となり,来世では蝶と生まれ変わる。それは美しい夢のようなおとぎ話のようだと言います。普通汎神論とも言われるこの考え方は「禽獣草木のうちにあなたや私を見つけ、次第に天地万物をおおらかに愛する心」と表現されたりしてきました。現代では汎神論は未開の文明の考え方とも言われています。しかし自然の万物に階層なく,平等で,同質という汎神論的な考え方は未だに魅力を持ち続けていることも確かです。
いったい人間は何千年もかけて人間と自然界の万物とを区別することに長い歴史的な努力を続けてきました。人間だけがという考え方で自然の万物を見て,それらをひたすら利用しようとしてきました。この人間至上主義という考え方は・・・。と品悪く言わず,川端は「抒情歌」の中でこう言っています。
なにも目の前の名の知れた花でなくてもよろしいのです。フランスのような遠い国の,名知らぬ山の,名知らぬ花に,あなたが生まれ変わっていらっしゃると思って,その花にものいいかけるのです。

幼く死んだ子どもは霊の世界に行ってから生い育ちます。地上のことをあまり知らないで育ったその汚れない子ども達はことに光で織った衣装をきて手には花を持っています。

私が死んだら一羽の白鳩か一茎のアネモネの花になりたいのであります。そう思う方が生きているときの心の愛がどんなに広々とのびやかなことでありましょう。

月だって星だって,それから動物や植物までが,みんな神さまと考えられて,その神さまというのがまたちっとも人間と変わりない感情で泣いたり笑ったりするギリシャ神話は裸で晴天の青草の上を踊るようにすこやかであります。

あなたもわたしもが夾竹桃の花となりまして,花粉を運ぶ胡蝶に結婚させてもらうことが遥かに美しいと思われます。
どうでしょう。賢治の童話を読んでいるような気になりませんか。このような心持ちは何も賢治の作品だけでなく,賢治自身の倫理観とも一致するような気もします。そしてそのような心持ちは実は私たちみんなが持っている心持ちであると言えませんかね。樺太の海岸で死んだ妹のトシと交信するという行為は,手を合わせて祈ることとなんら違うことはありません。トシが夢枕に立つことや賢治がトシの夢を見ることは自然で,実にリアルなことなのです。それをただ非科学的だと一蹴できるでしょうか。

今日は賢治の妹トシの命日です。


にほんブログ村 写真ブログ 鉄道風景写真へ
にほんブログ村 写真ブログ ネイチャーフォトへ
にほんブログ村 鉄道ブログ 東北の鉄道へ

妹トシの死から七ヶ月間の空白に

朝のの岳 040-2s
朝の一番列車

稲刈りがこの週末と来週で一気に進むと思われます。
暖かい陽差しが出るとほっとします。
そして山は紅葉の季節を迎えて秋の彩りが華やかになっていく今の時期がとても気持ちよく感じられます。

さて,宮澤賢治のことですが,また思いつくままに書いてみます。
妹トシが亡くなったのが,1922(大正11)年の11月27日ですが,この後作品は一切書かれず,翌1923(大正12)年の6月3日に「風林」4日に「白い鳥」が書かれて,実に七ヶ月ぶりに賢治は筆を取ったと年譜には書いてあります。堀尾青史「年譜宮澤賢治伝」にも「6月3日「風林」「無声慟哭」後,七ヶ月ぶりの詩。」と書かれています。
わたしは妹の死でショックがあまりにも大きく,賢治は筆を取る気にもなれなかったのだ。失意のどん底にいたと解釈していました。確かに妹の死から後の半年分の書簡もすっぽりと抜け落ちています。作品もなく,書簡もないという全く空白の期間が妹の死からの七ヶ月間なのです。


気仙沼線924 196-2gs
トンネルを過ぎて

賢治は失意の中で苦しんでいた。その七ヶ月間。それは非情な時間でもあった。好きな詩作も出来ないほどに憔悴していた。
そして彼は夏休みを使い,樺太までトシを追っていった。
こう思っていました。

しかし,どうも悲嘆に暮れてばかりではないように思ったのが,「シグナルとシグナレス」を読んでいたときでした。この「シグナルとシグナレス」は東北本線の進んだシグナルと軽便鉄道の遅れた手動のシグナルであるシグナレスの交流の話です。妹トシが死んで五ヶ月で岩手毎日新聞に5月11日から全11回連載で載ります。これは結構シビアなやりとりの物語です。つまり悲しみに暮れた弱気になっている賢治が書いた感じはせず,むしろ元気な頃にシニカルな饒舌パターンで書いた作品に思えます。すでに脱稿していたものを依頼に応じて送ったのでしょうか。前の月,四月には岩手毎日新聞に詩「東岩手山」と童話「やまなし」そして同月童話「氷河鼠の毛皮」も掲載しています。求めに応じていたとは言え,水面下では活動していたのです。むしろ筆を折っていた七ヶ月という期間は憔悴していたというよりは,喪に服していたと捉えた方がよいと感じてきました。

雨の大船渡線 005-2gs
雨の大船渡線

何よりも妹が亡くなって一ヶ月経った1923(大正12)年の正月四日,いきなり原稿をいっぱい詰めたトランクを持って上京したのです。正月にことを起こす賢治の性格はいよいよ精力的に全国デビューを目論見,動き始めていたと言うことが出来ると思います。
仕事上も農学校が新築完成で引っ越しやらでいそがしい時期で,県立花巻農学校の開校式の日に賢治自作の劇「植物医師」と「飢餓陣営」を上演しています。

こうして見ると,妹トシの死を悼む喪に服する気持ちを持ちながら,更に精力的な活動へと進む時期が空白の七ヶ月間だったと感じられます。悲しみに暮れているだけではだめだ。妹の死を大事に心の中に抱きながら,賢治はさらに活発な活動の時期に入っていったのでした。




にほんブログ村

にほんブログ村

にほんブログ村