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1922.11.27 午後8時30分

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今朝 白い鳥

11月下旬になり,風が冷たくなり,雪がちらつく季節になると,いつも思う。
ああ,こんな寒い日に賢治の妹のトシは天国に行ったんだなあと。
表題の「1922.11.27 午後8時30分」は宮沢賢治の妹トシが亡くなった命日である。そしてこの日「永訣の朝」「無声慟哭」「松の針」を書き,1923.6.3「風林」6.4「白い鳥」まで全く詩を書いていない。いや,書けなかったのかもしれない。
1923年8月4日樺太栄浜にて23:15トシとの通信を試みるが,うまくいかなかった。

ところが,日付が遡る1923.8.1「青森挽歌の」最後にはこうある。
《みんなむかしからのきやうだいなのだから
けつしてひとりをいのつてはいけない》
ああ わたくしはけつしてさうしませんでした
あいつがなくなつてからあとのよるひる
わたくしはただの一どたりと
あいつだけがいいとこに行けばいいと
さういのりはしなかつたとおもひます
樺太までトシを探し求めてトシとの交信を試みるのに,もう三日前には「あいつだけがいいとこに行けばいいと/さういのりはしなかつたとおもひます」と言う。

更に1924.7.17「薤露青」では,

……あゝ いとしくおもふものが

       そのまゝどこへ行ってしまったかわからないことが

       なんといふいゝことだらう……
と「なんといいことだろう」と言い切るのです。

この心境の変化をどのように考えたらいいのだろうといつも思います。

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秋の色

悲嘆の苦しみにいる者にとっては,慰めや道理で納得できるものではありません。賢治はこの世の自分とあの世のトシに引き裂かれた中で,数限りない対話を繰り返しながら,視点が変化してきたような気がします。では,何が,どう変化してきたというのでしょうか。供養してあげることが,今の自分にできるすべてのことだと思うようになったのではないでしょうか。それが別れた妹を忘れない唯一のことであり,自分ができるすべてだと考えたのではないだろうか。供養することは,お勤めを通して別れた人に語り掛け続ける方法だと思うようになったのだと思います。

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刈り終わった田

別れという,悲嘆の苦しみは,混乱したループの中に取り込まれていることです。が,少しずつ時間が経てば混乱の澱は静まり,透明な水に戻るように自分へと戻っていきます。そして相手への執着から,相手に喜んでもらえる供養(相手を忘れない事への約束)へと進むような気がします。

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忘れないでいること
ずっと忘れないでいること
それが今の自分にできること


トシの没後101年になります。

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1923年8月4日栄浜23:15

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昨日(7/4)のNHKクローズアップ現代から「吉野ヶ里遺跡の石棺墓」調査結果

昨夜(7/4)のNHKテレビクローズアップ現代は,吉野ヶ里遺跡の神社発掘で出て来た石棺墓の調査結果発表でした。おもしろく観ました。石棺の蓋,石蓋(いしぶた)に刻まれていた細かい線刻の数々や×印が実は星図を表しており,天の川の伸びる様子が刻まれたものだったという。そして石棺全体が赤い顔料で塗られていたそうだ。祭式を預かったシャーマンの墓だったのだろう。吉野ヶ里遺跡の中央線が冬至の月の昇って来る方角と一致するという説もあるから,天文学が弥生時代後期には,シャーマンの占いの大きな部分を占めていたことは他の遺跡からも見て取れます。
ところで,この番組を観て,星関係ということで,すぐ思い出したことは,宮沢賢治が1923年8月4日夜に樺太栄浜で見たと思われる亡き妹トシとの「通信」を試みようとした天の川との対話である。私は,過去の記事で,賢治は,この樺太栄浜でトシとの交信をどのようにしようとしていたのかを考えてみた。
過去記事(7月6日リンクの不具合直しました。失礼しました)
トシは何処へ行ったか
チャネリングの試み-賢治とトシ-
賢治と鉄道2-樺太行-
賢治と鉄道3-樺太行その三-
賢治と鉄道4-樺太行その四-
なぜ通信が許されないのか
この記事などで不確かな部分を今改めて確かめてみたい。栄浜での時刻「(午後)11:15」の意味です。

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賢治の詩「丁 丁 丁 丁 丁」

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「巨きな花の蕾がある」ずいぶん昔の写真

宮沢賢治の詩に「丁 丁 丁 丁 丁」という「疾中」に入れられた一編があります。
読むほどに,呆然と立ち止まらされる一編で,いつかはこの詩に真剣に向き合いたいと思い続けてきました。
「疾中」という詩群は,文字通り賢治が病に伏せていた当時に作られ,自らが分類した作品群で,30編ほどの作品群です。どうやら賢治は「疾中」というカテゴリーをつくり,そこに病臥の折につくった詩を集め,第三の心象スケッチをつくろうとしていたようです。詩法メモ7には「第二、自然」,「第三、心象スケッチ-田圃,社会,病気,信仰,生活」,「第四、文語」とカテゴライズされた表が鉛筆で書かれています。「疾中」の詩群は「第三、心象スケッチ-田圃,社会,病気,信仰,生活」の「病気」に当たる領域のために集められたのでしょう。
そして「丁 丁 丁 丁 丁」という詩は,30編中の20番目に出て来ます。私がこの詩を読むと,いつも熱にうなされる時の意識が混濁していく様子や意識が肉体の片鱗部に追いやられて,自分が何かに乗っ取られてしまう時の不安や,筋の通らないものにばらばらにされてしまうのではないかという恐怖を感じるのです。この一編は,詩として表現される対象を越えています。叫びや嗚咽,烈しい呼吸と文字が一体化しています。その点で賢治の詩の表現の新たな局面を見せつけています。私は生々しいその中に,いつも呆然と立ち止まらされるのです。
早速読んでみましょう。

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トポスの記憶-宮沢賢治「小岩井農場」解読③-

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場所の記憶

年が改まってお正月にもなると賢治は,今年は何に挑戦しようかと考え,行動に出ることが多かったように感じます。
ちょっと書き出しただけでも大きな転機とも言える出来事が1月に起きています。彼の一月の様子を抜き出してみます。

1921(大正10)25歳 1/23無断で上京
1922(大正11)26歳 1/ 6詩作開始。のちの『春と修羅』になる
1923(大正12)27歳 1/4 トランク一杯の原稿を持って上京
1924(大正13)28歳 1/1『春と修羅』の刊行を意図し,「序」を書く
1925(大正14)29歳 1/5~1/8 異途への出発 三陸海岸を旅する
1926(大正15)30歳 尾形亀ノ助の『月曜』に『オツベルと象』発表
1927(昭和2) 31歳 『春と修羅』第二集の「序」を書く



もちろんここでは1922(大正11)26歳。のちの『春と修羅』になる作品群の詩作開始は1月 6日だったことから始まります。『春と修羅』を飾る巻頭詩は『屈折率』次に『くらかけの雪』『日輪と太市』『丘の眩惑』と続いていきます。
早速ここで記念すべき巻頭詩「屈折率」を読んで見ましょう。
  七つ森のこつちのひとつが
   水の中よりもつと明るく
   そしてたいへん巨きいのに
   わたくしはでこぼこ凍つたみちをふみ
   このでこぼこの雪をふみ
   向ふの縮れた亜鉛(あえん)の雲へ
      ( アラツデイン 洋燈ランプとり )
   急がなければならないのか
解説は清六さんの素晴らしい解説にお願いしましょう。

大正十一年一月六日の小岩井農場には,三,四尺の雪が積もり,農場行きの橇は粉雪を吹き上げながら走ったろう。
そのときブリキ色の雲の切れ目から,棒のような光線が,七つ森の中の一番近くを黄金いろに照らした。
七つ森というのは,丁度同じ位の大きさの森が七つ並んでいるのだが,こんな風に明るい光線があたれば,その森だけが特別に巨きく見えてくる。もちろん此れは我々の眼の水晶体が短焦点レンズに切替えられる為であろう。
ところがこんどはそこらの景色が丁度水の底のように見えて来て,光線も変に屈折して輝いて来たようだ。
手帳を握って,彼は次々と不思議なことを考えながら七つ森を見ている。
(空気の屈折率は,真空に対してさえ殆ど絶体に近いと思うから,あんな風に光が屈折することはないはずだ。
 然し雲の裂け目を通過するとき,上層と下層の空気の密度があんまり違って来れば,あんな風に屈折することもあるのだろうか。
 それともおれの目だけにそう見えるのか。
 あるいは,雲が特別に不思議な状態で,例えばありブリキ色をした雲の中に,酵母のような細かな吹雪の粉がたくさん入っていて,雲自身がプリズムのように,光線に特別な変化を与えるということも一応は考えられる。)
そこまで書いたとき,その棒のような光線はいよいよ不思議にゆがんで屈折し,ギラギラ輝いて無数の色に分散し,その辺りがまるで躍り上がるように見えてきた。
ほんとうにその吹雪の入った雲を,七つ森の上に装置した巨大なダイヤモンドのプリズムであると考えなければならなくなったのである。
驚いて彼は見ていたが,このような景色をたしかにどこかで前に見たことがあったと思い,やがてはっきりと思い出したのであった。
それはあの「シンドバットの舟」や,「アリババと四十人の盗賊」の話,アラビアンナイトの国の中に違いなかった。

 ( アラツデイン 洋燈ランプとり )

と手帳へ大きな字で,そして今までの詩より少し下げて書く。

この景色が『春と修羅』の誕生を支えるほどの奇蹟の景色だったのです。
そしてこの奇蹟的な景色をまた見るために5月21日再び小岩井農場を訪れることになりました。『小岩井農場』の誕生です。

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さくらの部屋2021⑬賢治「小岩井農場」解読②

長沼桜ss
桜の森に満月昇る

さて宮沢賢治の大作「小岩井農場」解読の2回目です。
現在この大作はどのように原稿が整理されているのでしょうか。
天沢退二郎によれば以下のようになっているそうです。
(1)歩きながら手帳に書いたもの(現存せず)
(2)各パートを*印で区切ったもの(下書稿、一部現存)
(3)「第一綴」「第二綴」……と進行するもの(清書稿、一部現存)
(4)「ばーと一」「ばーと二」……(詩集印刷用原稿)
(5)「パート一」から「パート九」など(初版本)
「春と修羅」の総まとめと感じられるこの「小岩井農場」は行にして800行,文字にして全1万3000文字に迫る作品で,質や量ともに「春と修羅」の中心とも言えるものです。この大作を緊張を持続しながら読むことはなかなか難しいことです。今回は全体を見渡すために覚書をつくってみました。全体の構成を頭に入れておくためです。この覚書(構成表)はパート毎の行数,文字数,一行平均の文字数,そしてすぐ内容を思い出せるようにパートの始まりの一行を記しておきました。

小岩井農場構成表
詩「小岩井農場」の構成表

実際にこの作品を読んでいくと,パート五,パート六がなく,パート八もありません。構成表ではパート五を残されている第五綴,パート六を残されている第六綴として行数と文字数を入れてみました。どうやら抜かした処には同僚の堀籠文之進について書かれていて小岩井農場という場所から逸脱するという理由から抜いたと考えられています。

さて,賢治は歩きながら手帳に見たもの,感じたことを書き込んでいったのですが,実際にその時のメモは現存していません。しかし他の手帳のメモの取り方を見れば賢治のメモの書き方が予想できるのではないかと思いました。つまりキーワードだけ記しておいて後で原稿を作り上げたか,センテンス(文章そのもの)を記すようなメモの取り方だったのかは後に考察します。
ただパート一の冒頭「わたくしはずゐぶんすばやく汽車からおりた」は,最初の下原稿からあるものですが,わたしはこの「わたくしはずゐぶんすばやく汽車からおりた」の中の「ずゐぶん」という使い方について,現地でのメモではない清書をするときの机上での挿入のような気持ちがしています。賢治独特の言い回しであることも確かですが,「ずゐぶん」という副詞の使い方がまさに歩いている状態の活動中でのメモに入ってくるだろうかと思うのです。わたしが実際に散歩する場合のメモはキーワードだけだったり,特異なセンテンスの場合はそのまま文にしてメモしますが,この作品中の賢治の副詞の使い方について見てみますと
ずゐぶん 8回
やっぱり 11回
あんまり 10回
たしかに  8回(確かに 1回)
ひどく    7回
すっかり  4回
と,多いような気がします。これが賢治の語法のスタイルだと思えばそれはそれで納得しますが,状態の程度をより際立たせる用い方をしているようです。

次に,平均一行文字数を入れたのは,実際に歩いている場合のメモの取り方を予想するためのです。多分,その場で完成形で残すことは難しいので,ワンセンテンスやキーワードだけのメモの取り方で後に落ち着いたところで清書していただろうと思います。ですから自然と歩くリズムも手伝ってメモも言葉一語とかキーワードのみとなるはずです。構成表の平均一行文字数を見ると,殆どが一行平均13~15文字ですがパート6だけは一行につき30字になっています。実際に印刷稿ではパート6は省略されましたが,この章は明らかに現地でメモとして書かれたというより,あらかじめ用意しておいた原稿が差し込まれたり,追筆されて膨らんだものと考えられます。

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満開の花に降る雪

以上,今日は大作「小岩井農場」の全体の構成についてお話しました。
この話は続きます。