弟子であること

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11/4朝 東北本線 新田-石越

今日は「弟子であること」というタイトルでお話をします。
出てくる人は宮沢賢治,斉藤宗次郎,内村鑑三などです。

斉藤宗次郎は賢治の「雨ニモマケズ」のモデルではないかと目されている人ですね。その斉藤宗次郎が内村鑑三の愛弟子だと言われていることについてです。一方,内村鑑三は,弟子を取ることなどを嫌っていました。
 「人間の中に師として仰ぐべき人物を求めんとする者は必ず失望すべし、そは彼らの中に師として仰ぐべき理想的人物は一人も存在せざればなり、…」

 「近頃に至り「先生のお顔なりと拝見せんと欲して参上致しました」と言ひて余を訪問する者が折々ある、余は斯かる人らに告げて言ふ「余は他人に見せる為の顔を有たない、また君等は人の顔を見たとて何の益にもならない 神を信じキリストを仰げば、それで人の顔を見る必要は全然無くなるのである」と、日本国に未だ人物崇拝が絶えない、甚だ歎ずべき事である、…」内村鑑三「日々の生涯」から
もちろん内村鑑三にとっては師と言われるべきはキリストのみと考えてもいましたが,内心は人が勝手に内村の中に理想を見たり,ちやほやした後はぱったりと来なくなる人のことを悲しく思っていた節があります。
こんなことも書いています。
 「自分の弟子と称する人で自分に真似る人のあるを知りて嫌悪に耐へない。自分に真似るならば自分の独立独創を真似て貰ひたい。自分は誰にも真似なかつた、故に自分の弟子と称する人は誰にも、その師と仰ぐ人にも、真似て貰ひたくない。…願くば小内村の一人も出でざらん事を。…」
自分のことなど弟子だと言って真似をしてなんになると内村は言いたいのです。

ご存じのように内村鑑三は無教会主義を進めたキリスト教徒です。教会という派に属さず,自らの信仰を貫くという態度を取った人でした。内村は万延元年(1861)生まれ,斉藤は明治10年(1877)生まれでした。斉藤の方が16歳年下でした。内村は日露戦争に沸き返る当時,反戦を『万朝報』紙上で訴えていました。それを読んでいた斎藤も共感し,花巻で納税拒否、徴兵忌避も行うという意気込みを手紙にしたため,内村に送りました。どこまでも一本気の斎藤の手紙を読んだ内村は、すぐさま花巻に出向き,過激な出方を抑える説得にかかるのです。これは日露戦争が勃発する前の年,明治36年(1903)のことでした。
内村と斉藤は当時,どのように知り合ったのでしょうか。その経緯を引用してみます。
斎藤が内村を知ったのは、内村の文章を通してのことであった。斎藤が内村へ送った最初の手紙は「日本国内に義人などいない」と嘆く内村に対して激しく反発する内容であった(5)が、斎藤は内村の著作を読み進める内に、次第に内村に傾倒するようになっていった。その交流の初期は手紙でのやりとりが中心であるが、札幌伝道の帰途盛岡に滞在していた内村を斎藤が尋ねた際に両者ははじめて対面した。1901 年のことである。以後は斎藤が折りを見て上京することもあれば、内村が伝道旅行の際に斎藤のもとに立ち寄ることもあり、両者は親密な交流をするようになった。そして1926 年、斎藤は内村に近侍するために東京に移住し、以後は講演会や「聖書之研究」誌の運営等、内村の伝道活動を手伝った。さらに内村の死後には、岩波書店版『内村鑑三全集』(1932-33 年刊行)の編集実務委員を鈴木俊郎とともに努めている。
岩野祐介「内村鑑三における師弟関係 : 斎藤宗次郎『二荊自叙伝』を手掛かりに」(2006)から

1926年9月斉藤は内村のいる東京に出て,身の回りの世話をし,内村が死ぬまで付き添った。これが斉藤が内村の弟子と言われる経緯です。

伊豆沼 644-2gs
11/3 秋の光 東北本線 新田-梅ヶ沢

内村の周りには聖書研究会を開いてはたくさんの人々が現れては,消えていきました。その中で弟子と目されていた有島武郎も情死し,内村の中には自分の信仰に打ち込むことや誤解されること,いろいろに噂されることなどに対する苛立ちもあったと思われます。そんな思いが自分に対する人物崇拝のようなことはやめてほしい,一人一人の信仰の妨げとなる畏れもあると思い,弟子はとらないし,取るつもりもないという言葉になっていったと思われます。同期の新渡戸稲造や花巻の斉藤宗次郎と匆々たる面々が内村の近くにはいました。

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11/4 朝の光 東北本線 石越-新田

弟子であるということはどんなことなのでしょうか。
また弟子など取るつもりはないという内村の無教会主義は何を私たちに教えているのでしょうか。
ここに私は親鸞が自分の子ども善鸞を信仰の流れから義絶したことを思い起こします。親鸞が自分の息子さえ突き放していく厳しい態度は教義のずれを直そうとする行為でもありました。弟子達が教義を曲解し伝えることは致命的なことでもありました。また弟子達によって諍いが生ずることもあってはいけないことでした。日本の中で祖たちがその教えを正しく伝えるために,弟子に注ぐエネルギーはそれを受け継ぐ弟子たちの才能や優秀さだけではない資質も見抜いておかないとできないことであったでしょう。

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11/3 おんぶいなごの向こうの電車

斉藤宗次郎が内村鑑三に終生連れ添ったという事実は彼の信仰の一徹さを物語り,また信仰する態度も教えてくれます。
でも内村は弟子をどのように考えていたのでしょうか。先ほど引用した岩野祐介氏の論文のまとめには次のように出てきます。
内村の死後、斎藤は自らの集団を率いていくようなことはしなかった。内村は生前から弟子たちを独立させたがっていたのであり、その点では斎藤が内村の事業を引き継いだとは言い難い。しかし、医療施設の慰問を積極的に行う等、斎藤が地道な伝道活動を続けたのも確かである。そして本書を含む著述や内村の著作をまとめる作業を通した間接的な伝道活動により、現在にまで影響を与えているとも言えるだろう。その点ではやはり斎藤は自分なりのやり方で内村から学んだキリスト教精神を広めた、と言うことができる。さらにそれらは詳細な歴史の記述でもあり、キリスト教研究だけにとどまらない資料的な価値を有している。


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消して生まれるという意味-賢治「薤露青(かいろせい)」-

振替月曜 071-2-2s
桜の精現れる

今は懐かしい桜の季節の写真を見つけた。
しかしこの写真は変な物が写っていたのでアップはしていなかった。この日は何枚写してもこのような物が写ったのでした。
これは「桜の精」ではないかと確信したのです。大変なものを写してしまったと思いました。やっと桜の真の姿に出会えたのかと驚き,背筋が寒くもなりました。

ところが・・・。
気付いたのです。

いろいろ撮ってみますと,写り込んだ,この桜の精は,ほんとうは自分の荒い鼻息だったのです。

夕方 102-2s
霧の中

さて宮沢賢治の「薤露青(かいろせい)」という作品は詩の成立時期により「春と修羅」第二集に収められた形になっています。
1924.7.17の日付の「薤露青 」は,類を見ない透明性と作品の質の高さにより私も大変好きな作品です。ところがこの「薤露青(かいろせい)」という作品はもともと賢治自身によって一度は書かれ,そして最後には抹消された作品だったのです。
薤露青(かいろせい)」もともとは音楽用五線ノートの裏面に書かれていて,かつ全体が消しゴムで消されてあったものなのです。それが1972年の「ユリイカ」8月号に天沢退二郎校注・解説でその消し跡から文字が復原され発表されたのでした。
といういわく付きの作品だったのです。

一旦「薤露青(かいろせい)」という作品は,消しゴムですべて消され,消し痕から甦ってきた作品なのです。
これは実に興味深い事実です。「未完成の完成」を追い続けた賢治にとって,「消す」という行為が「全て無に帰す」ということでは決してなく,再び姿を変えてメタモルフォーゼ(変態)を繰り返す作業を,自らの作品の生成と成熟の過程そのもので行っているのです。この変容され続ける作品群は,作品の作り手である賢治が心の底の闇から立ち昇ってくる形態も知らない感覚をたよりに手探りで形象化させて文字に変身させていく作業そのものでした。「せはしくせはしく明滅しながら」ともりつづけているとは,その形象もない感覚群で,文字として生まれていく世界の誕生の場面に立ち合っているということになるのです。
声のいゝ製糸場の工女たちが

   わたくしをあざけるやうに歌って行けば

   そのなかにはわたくしの亡くなった妹の声が

   たしかに二つも入ってゐる

     ……あの力いっぱいに

       細い弱いのどからうたふ女の声だ……
妹のトシの声は明滅し,生まれては消えていきます。そのようなはかない歌のような声がか細く,それでも確かに,この世に一瞬響いて消える。沈黙にその風にゆらぐ糸のような声の残響がたなびく。この「薤露青(かいろせい)」という作品がもともと音楽用五線ノートに書かれ,消されていたとは,なんと象徴的なことなのでしょうか。文字としてこの世に生まれても,歌曲として生まれても,賢治にとってはこの世に生まれた命を大切に育て,メタモルフォーゼさせ,完成形を目指す「作り手」としての義務を一生背負っていたのです。それは稲を育てることと同価ですし,花を育てると言うこととも同価なのです。

夜 010-2-2s
流れる雲

それでは「薤露青(かいろせい)」最後のあの語りかけは何を意味しているのでしょうか。これは浜垣誠司氏が何度も読者に語り掛けては深化を続けているテーマです。壮大なる賢治交響曲のテーマ部分でしょう。
  ……あゝ いとしくおもふものが

       そのまゝどこへ行ってしまったかわからないことが

       なんといふいゝことだらう……
どうしてトシの死をこのように言えるのか。どんな心境の変化があったのか。どんな思想の転換があったのか。誰もが信じられない言葉です。

私は賢治自身がこの部分を書きながら消していった意味がこの言葉にあると感じます。決して「なんといいことだろう」などとは露ほどにも思っていなかったのです。どうしてもそう考えなくてはいられない程の悲しみを消化することなどできないでいるのです。だから彼はこの葬送曲全体を消し去ったのではないでしょうか。「薤露青(かいろせい)」全体を消し去ることで彼はこの言葉そのものを鎮魂の儀式としたのだと思います。

最後に賢治はあれほどモダンな言葉を使いながら,彼が作品を紡ぎ出す過程は実に日本人の魂のとらえ方に同調しているのです。折口信夫の魂の生成論を思い出しましょう。
天中を行き経る遊離した魂,神が降らせた魂が人体の中府に降りて触れた魂を殖やし整えるということである。
こうして殖え整えられた魂が活動する力をもち、その余韻が威勢をもって外に放たれるのであり,「触(フル)」「威(フユ)」「振」は神を識り、聡く明るく身体剛健、寿命長遠の神術であると説いている。

                                       「折口信夫の霊魂論覚書」小川直之 から
この魂のとらえ方は賢治が感じた明滅する光を「人体の中府に降りて触れた魂」と置き換えて,変態を続ける作品群を「殖やし整える」と置き換えて,作品が成立することを「こうして殖え整えられた魂が活動する力をもち、その余韻が威勢をもって外に放たれるのであり」 に置き換えると,魂の運動と賢治の作品の校正過程と一致していることが分かります。彼の永遠に続く作品のメタモルフォーゼは,書かれたもの(エクリチュール)を「魂」として成長させ,育み,運動させる行為だったと理解されます。


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賢治の遺志を継ぐ人たち

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水面から生まれる星たち-伊豆沼-

一日続いた雨音を聞きながら休み,今朝は夜明け前にふと起きると美しい星空でした。
あまりの美しさに星空を見に出かけました。

さて今日は9月も終わりですから,夏辺りから考えていたことを書いてみます。また,脈絡もなく話すので適当にお読み下さい。

先週,新庄で行われた劇「土に叫ぶ人 松田松田甚次郎-宮沢賢治を生きる-」を観に行きました。つくづく宮沢賢治の訓(おし)えを貫いて,一生小作人として働き続けた松田甚次郎のひたむきな生き方に感動を覚えました。素晴らしい人物がいたものです。一体どんなきっかけで教師をやめて羅須地人協会にいた賢治と松田は知り合ったのでしょうか。
1927(昭和二)年2月1日の岩手日報の夕刊に,写真入りで宮沢賢治の羅須地人協会の活動の紹介が掲載されました。盛岡高農の卒業を前にして松田と須田仲次郎の二人は旱魃で苦しんでいた赤石村を慰問に訪れました。その折,新聞を読んでいた二人は先輩の31歳になった宮沢賢治を思い切って訪ねたのです。甚次郎18歳になったばかりでした。昭和二年の三月八日午前11時半と記録にあります(堀尾青史「年譜宮沢賢治伝」)
その時,賢治は「小作人になれ」「農民劇をやれ」と教えたといいます。甚次郎は,代々地主の家でありながら賢治の教えの通り,父から田んぼを借りて掘っ立て小屋を建てて小作人になって働き,農民劇をつくり次々と賢治の教えを実行していきました。

このような甚次郎を見ていると,私は賢治の親友藤原嘉藤治を思い出すのです。音楽の教師で一流でありながら賢治の死後,彼は職を辞し,賢治全集に力を入れ,終戦の年,49歳で岩手に帰り,生まれ故郷の紫波郡水分村の東根山麓に開拓で入植しました。爾来81歳で死ぬまで土にまみれた人生をおくったのです。あのハンサムで音楽の教師として秀でた藤原嘉藤治がですよ。これもまた賢治の遺志を継いだのだと思います。

雨晴れて 083-2gs
霧に滲む

ところがこの昭和初期という時代は社会に対しこのような戦いを挑んでいった農民たちのエネルギーに満ちた時代だったのです。私は宮城県に住んでいますが,この頃の農民運動記録がすごいのです。以前私は日本一の地主,前谷地の齋藤善右衛門に挑んだ「矢後利明」の記事を書きました。彼は死んだら齋藤善右衛門に睨みを利かせるために山の頂上に埋めてほしいと言って死にました。彼の墓はまだのの岳山頂にあります。(その矢後利明の記事は こちら )

そして最後に賢治に戻り,「雨ニモマケズ」のモデルと噂される花巻出身の斉藤宗次郎がいます。彼の行動力と一途さにはあの内村鑑三でさえ花巻まで来て,必死になだめた程の逸材です。花巻の教会で賢治と宗次郎は知り合ったのかもしれません。

夏頃からずっと賢治の遺志を継ぐ人に目を向けたいと調べていますが,次から次へと繋がっていきます。
例えば,松田甚次郎と吉田コト,住井すえ,増子あさの関係などを辿ると,その人間性の素晴らしさと相まって時代が要請した全国規模まで広がる組合運動はもう抑えられるものではありませんでした。賢治の人柄もまた魅力ですが,賢治に負けない程の情熱をもった人々がたくさんいました。私たちはできるならそんな無名の偉人を探し続けたいものです。



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二人の菜食主義者-賢治と悟堂- その5-悟堂の実践

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長沼花火

保阪嘉内に宛てた手紙で賢治が菜食主義に入ったのは1918年始めです。そして賢治が「ビヂタリアン大祭」を書いた動機はおそらく1924年(大正13)28歳のときです。藤原嘉藤治が「他を犯さずに生きうる世界というものはないのだろうか」と言った言葉に答える形で書かれたと言います。
一方,中西悟堂が厳しい菜食を始めたのは,大正15年(1926)7月,悟堂三十歳の時です。東京府北多摩郡千歳村に家を借り,「春から火食を絶った生活に踏み切り、そば粉と大根と松の芽を常食とする。」という修験者の穀絶ち修行そのものの生活を始めます。20代の悟堂は短歌集,詩集を刊行し,飯能,京都,松江などで僧職に就いて過ごします。そして30歳になると同時に僧職を辞して突然3年半にも及ぶそば粉と大根と松の芽を常食とする生活に入るのです。この時賢治と悟堂の間に何か関係があったのでしょうか。「春と修羅」が刊行された年ですが,菜食主義という同じ方向性は偶然だというしかないでしょう。しかし,悟堂が賢治の「春と修羅」の影響を受けたのではないかと思われる節が見付けられます。悟堂も何気なく自分を含めた業の深い人間達のことを「修羅」と呼んでいるのです。

今日は,悟堂が30歳にして3年半にも及ぶそば粉と大根と松の芽を常食とする生活について書いてみます。

主食は水でこねたそば粉です。茶碗も箸も使いません。火も使わず米も絶ちます。木の葉や野草は塩で揉んで食べます。風呂の代わりに川に入り,雑木林の中にござを敷いて寝たのです。幼いときに寺に預けられ,行を積むことで虚弱体質を治してきた悟堂にとってはこのような木食修行の生活にも少しの慣れや知識もあったのでしょう。よく穀断ち千日修行,二千日修行と言われる最も過酷な修行がありますが,悟堂はそれを行おうとしていたのだと思います。それも3年半ですから二千日修行を何かの気付きによって途中で切り上げたと考えられましょう。

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長沼花火

悟堂は「野鳥開眼」の中でこう書きます。「食うための会社づとめや売文書きの屈辱から離れ,時間と自然がわたしのためだけにある純粋の日々の中で,魂を誰にも渡さぬ安らぎの歳月を送れることは,むしろ限りない幸福であった。」つまり徹底的に自然に一致した生活を送る,自分が自然の一部になることが望みなのです。ソローの「森の生活」を座右の書として,ホイットマンやタゴールを読み,自分が生かされている自然を理解する生活。これが悟堂の一番望んだ生活だったのです。ある程度の歌や詩が認められている時ではありました。しかし,文学に現れる自分を,より研ぎ澄まされた言葉に結晶化させていきたいという思いが彼の心の底には脈々と流れていたと言えます。賢治が「春と修羅」で研ぎ澄まそうとしていた,現在の感覚の深さを更に超えようとする態度が,同時期に生きている悟堂にも現れていました。

悟堂はつくづく「欲望と欲求不満の塊りである人間が財欲や支配欲や情欲や権勢欲のエゴの中で,むさぼり,憎み合い,悩み,集団としては国と国とで戦争にまで訴えてきた人類史の修羅のすさまじさを改めて透視図として見返す思いであった。」と書きます。ここに賢治が使っていた「修羅」としいう言葉が悟堂も使っていたことに注目したいです。二人とも人間の業を見て自分を「修羅」と見ています。悟堂のこの文章が「春と修羅」を読んだ後に書かれているとしたらやはり悟堂は賢治の考え方のキーワードを既につかんでいたことになります。

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長沼花火 ナイヤガラ 今年は155mでした

さて,悟堂が行った穀断ちの二千日修行は,即身仏になるほどの厳しい修行のメニューです。この穀断ちを木食行と言います。そして水垢離がありますが,ただの水浴びではない厳冬期でも水の中に入り,傍らに置いたろうそくや線香が一本,一把燃え尽きるまで水の中に入り続けたと言います。水垢離が自分の外側から浄化を行う方法だとすると,自分の内側から身体を浄化していくのが穀断ちです。悟堂自身は厳冬期でも外で寝て余りに寒いときには走って身体を暖めたといいます。このような厳しいメニューを自分に課したことは仏教的な修羅からの脱出を模索して,複雑きわまりない自然の理法の欠片でも会得したいという思いからでしょう。悟堂のこうした人生への構えも賢治と似ているところがあるのは不思議です。

ここで悟堂が用いた水でこねたそば粉は最近とても見直されているダイエット食です。木食行,すなわち穀断ちには五穀断ち,十穀断ちがあるそうですがその種類には諸説あるそうです。湯殿山で最後の即身仏になった仏海上人は毎日「数粒の木の実かそば粉を練ったソバガキぐらい」だったそうです。悟堂はそうした修行の内容もよく心得ていたと思われます。
                                    (内藤正敏「鬼と修験のフォークロアⅡの飢餓の宗教・即身仏参照」)

実はこの記事を書いている私も若い頃興味があって水だけで一週間という断食を行いました。食べないことで感覚が研ぎ澄まされていく体験をしました。自然が実に瑞々しく見えてきます。自然の音や鳥の声なども「かぐわしいほどに」美しく聞こえて来るのです。ですからこれらの穀断ちを一定期間行うことで身体や感覚のリセットを行うことができます。
賢治も悟堂も菜食や穀断ちにおいて感覚の研ぎ澄まされ方を自覚していたのではないでしょうか。悟堂も賢治も身体のリセットを行い,感覚を一新させることにおいて限界を超え,その世界に見いだされた言霊を拾い集めようとしていたのです。W.ジェームズの「宗教的経験の諸相」を読むと,神を見るという恍惚とした瞬間がレポートされていますが,あのような超常的な領域に自らをもって実験的にもっていこうとしていたのだと思われます。それが賢治の言う「或る心理学的な仕事」であり,心象スケッチがまず第一段階の未完成なスケッチとしていた理由です。二人は文学領域から送られたれっきとした修験者です。悟堂がこの厳しい修行の中から,まず引き出すことができたのは様々ですが,とりわけ飛ぶ「鳥」の美しい歌であり,可愛らしさであり,人を超えた能力であったことでしょう。


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二人の菜食主義者-賢治と悟堂- その4-利他主義の行方

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秋を迎えた最近のさんぽ道

賢治も悟堂も自然が好きで,自然の中に自分の救いを求めるようになっていくスタンスは共通していますし,何も二人だけに限ったことではなく,人間が本来持っている「こころもち」に自然から受ける慰めがあるからでしょう。「トルストイブーム」は自制,節制を説き,欲望のままに生きる利己主義に警鐘を鳴らしました。自活,自立を基本として食べることについては「適切な断食」という表現ですが,健康のために菜食主義をすべきだと語ります。これらのライフスタイルはすべて善なる生き方に通じて,また肉食などの不必要な殺生から生まれるものを自分から遠ざけた方が良いと言います。当然,もともと賢治も悟堂も自然を好み,仏教に奉ずる身としては菜食に傾くことはそう難しくはなかったでしょう。

さて,動物や魚を殺して命をいただく人間の業に気付いた時に,菜食主義への気付きが生まれ,利他主義ともシンクロしていきます。賢治がよく語る「自分の命も惜しくない,あげます」という心持ちです。何か人のために尽くしたい,役に立ちたいという気持ちは慈悲の心と言われます。しかし他のために尽くすことは究極では,命そのものを差し出すという覚悟まで直結しています。自分のすべてのものを投げ出してもあなたのために自分を差し出す覚悟。宗教家で,出身も賢治の家の近くの山折哲雄氏は賢治のそうした性格を「捨身飼虎」の仏教譚になぞらえて語ります。「捨身飼虎」とはまさに自分の命を飢えている虎の親子に差し出し,自分は死んで虎を救うという話です。自分の命を投げ打ってでも善なる悟りに捧げる行いの厳しさを感じる逸話です。「マリヴロンと少女」を読んでみましょう。
マリヴロン(先生)はかすかにといきしたので、その胸の黄や菫の宝石は一つずつ声をあげるように輝きました。そして云う。
「うやまいを受けることは、あなたもおなじです。なぜそんなに陰気な顔をなさるのですか。」
「私はもう死んでもいいのでございます。」 「どうしてそんなことを、仰っしゃるのです。あなたはまだまだお若いではありませんか。」
「いいえ。私の命なんか、なんでもないのでございます。あなたが、もし、もっと立派におなりになる為なら、私なんか、百ぺんでも死にます。」 「あなたこそそんなにお立派ではありませんか。あなたは、立派なおしごとをあちらへ行ってなさるでしょう。それはわたくしなどよりははるかに高いしごとです。私などはそれはまことにたよりないのです。ほんの十分か十五分か声のひびきのあるうちのいのちです。」
「いいえ、ちがいます。ちがいます。先生はここの世界やみんなをもっときれいに立派になさるお方でございます。」
 マリヴロンは思わず微笑いました。
このような感じで賢治童話にはたくさん「私の命を差し上げます」という過激とも思える,必死な言葉が語られるのです。なぜこんなにも必死なのでしょうか。

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秋を迎えた最近のさんぽ道

私には無私に取り憑かれた姿に映ってしまうのです。自分に対する無力感や絶望感が暗い煩悶としてあり,そこから抜け出そうとして決死の飛躍を試みる。死ぬことで自分の存在が成り立つという決死の思いが見て取れます。青春期独特の悩み,人生に対する答えのなさ,自分は信頼されているのかという不安,そうしたものが 「私はもう死んでもいいのでございます。」という相手に認められたいとというショートカットをつくり,極端な言葉として表現されていくのではないでしょうか。愛すると言うことは命を捨ててでも愛することで初めて証明されるものだと思ってしまうのです。こうした自分のすべてを相手に投げ出すというスタンスが賢治の童話や詩に表現されるのでしょう。賢治が死ぬ間際に「慢」こそが自分を駄目にしてきたのだと言う気持ちに彼の人生の「許されなさのかなしみ」を感じるのです。

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秋を迎えた最近のさんぽ道

父に将来のことを相談し,妹のトシが亡くなり,様々な人生経験を積みながらも賢治の心の奥深くには何の役にも立てていない自分が写っていたのだと思います。よだかのかなしみはそんな悲しみです。利他主義の根本はこのような難しい命のやりとりに関係することです。菜食主義もまた命のやりとりに関係することです。妥協するという言葉は少なくても賢治には当てはまりません。樺太に行った賢治は帰りに花巻までの汽車賃もすべて不憫と思われた女の子あげたのはどうしてでしょう。彼は樺太の栄浜でトシに呼びかけながら自分ができることを改めて考えてみた結果として金銭のすべてを与えたのです。まさに自分を投げ打ってまで他の人に尽くすという利他主義の実践でした。彼の一本気に父政次郎も困り果てていた部分もあったでしょう。東北砕石工場での過酷なセールスもそうした賢治の東蔵さんを助けたいという利他主義の現れでした。

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秋を迎えた最近のさんぽ道

しかし賢治には救いの道があったのです。たゆみない書くことへの情熱です。それは救いを模索する情熱です。
わたしは賢治に聖の姿を見てしまいます。それも物語を語りながら説法する聖です。

以前私は明恵上人のことを書きました。少し引用してみます。
西行を読んでいたときに出会った明恵上人の歌を思い出します。
ヤウヤク中夜にイタリテ出観ノノチ,峰ノ房ヲイデテ下房ヘカヘル時,月雲マヨリイデテ光雪ニカガヤク。狼ノ谷ニホユルモ,月ヲトモトシテイトオソロシカラズ。下房ニ入リテノチ又タチイデタレバ,月又クモリニケリ。カクシツツ後夜ノカネノヲトキコユレバ,又峰の房ヘノボルニ,月モ又雲ヨリイデテ道ヲオクル。峰ニイタリテ禅堂ニ入ラムトスル時,月又雲ヲオヒキテ向カイノ峰ニカクレナムトスルヨソヲヒ,人シレズ月ノ我ニトモナフカト見ユレバ,二首
雲ヲイデテ我ニトモナフ冬ノ月風ヤ身ニシム雪ヤツメタキ

山ノハニカタブクヲ見オキテ,峰ノ禅堂ニイタル時
山ノハニワレモイリナム月モイレヨナヨナゴトニマタ友トセム
元仁元年(1224)十二月十二日ノヨルと始まるこの前詞書と歌は明恵上人52歳の時に詠まれています。
雪のある山道を登り下りする中で月が出たり隠れたりする様が鮮やかに描かれます。夜の雪の山道は足下に気を付けるのに明恵上人は山の雪道を照らす明るい月に目を上げています。自分の行く手を知らせる月をただ一人の友とします。この時代の夜はそれこそ電気もないですから漆黒の闇だったでしょう。月は闇を照らす希望という意味もありました。世を捨て,修行を積む身には自然に中に溶け込んでいる自分こそ心許なくも拠り所となっていたと思います。月ばかりが私を見ていてくれる。隠れると世の中は暗くなり,月が出ると世の中が明るくなる。自分もまたその通りの人生だ。歌そのものは稚拙です。しかし,何かその単純さに魅せられるものを感じます。
明恵上人の言葉には自然に絶対的な安心感でもたれかかっている温かさと明晰さがあります。
その自然との一体感を表す絵も残っています。
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明恵上人樹上座禅図

明恵上人を出したのは賢治の心の奥底に潜む「許されなさのかなしみ」から「捨身飼虎」への大きすぎる振れ幅がどのように解消されていったのかを山折哲雄氏が明恵上人をなぞることで読み解いていこうという試みにおもしろさを感じるからです。

明恵も若い頃「捨身飼虎」の話に感動し,利他主義の問題に悩みました。彼は13歳の時に「捨身」願望に取り憑かれ,自殺を試みていたといいます。死体置き場に行って野犬や狼が死体を貪っている脇に彼も身体を投げ出したといいます。このとき野犬は明恵の匂いを嗅いで立ち去ったといいます。まさに「捨身飼虎図」そのままではないですか。そして24歳の時には,自分の耳を切り取るという行為にも及んでいたといいます。これは先に述べた賢治の過激な「自分のすべてを相手に投げ出すというスタンス」に似ていませんか。賢治の一本気の素直に苦しんだ「許されなさのかなしみ」からの答えに似ている部分があります。また,明恵は同様な自分の身体を食べられる夢をみたともいいます。
ところが明恵32歳の初夢に人を喰う恐ろしい虎や狼や犬ではない全く違う犬どもが出てきたそうです。明恵は親の獅子の懐に子犬たちと一緒にふさふさした毛に包まれるという夢をみたのです。

彼の中に20年の煩悶を経て最後にもたらされた「捨身飼虎」という利他主義の極北のテーマに明恵は答えが出ました。その柔らかいお顔が紹介した絵「明恵上人樹上座禅図」には見られます。では何が明恵にそうした悟りの安らぎをもたらしたのか。

ずばり自然に見いだしたのです。「明恵上人樹上座禅図」には右上に鳥が飛び,左上の枝にはリスがいます。生き物が苦しみの彼の友だちとなったのです。獅子は明恵の母であり,その母は自然の万象そのものだったと思います。

さんぽ道 068-s
秋を迎えた最近のさんぽ道

賢治が自然の記録として「春と修羅」を書いたりする行為は,明恵の見いだした自然を通した観察と念仏という接近に似ています。明恵は「山ノハニワレモイリナム月モイレヨナヨナゴトニマタ友トセム」と歌を詠み,自分一人ではない,月を友として生きるという安らぎを感じるようになりました。賢治は自然の中に何を見いだそうとしたのでしょうか。「ある心理学的な仕事」が頭に浮かびます。

ここで最後に國木田独歩が「武蔵野」で引いたツルゲーネフの「あいびき」を載せます。1860年の作品です。この時代の自然に対する観察の仕方が分かるような気がします。自然の描写が美しいです。
自分は座して、四顧して、そして耳を傾けていた。木の葉が頭上でかすかに戦(そよ)いだが、その音を聞いたばかりでも季節は知られた。それは春先する、おもしろそうな、笑うようなさざめきでもなく、夏のゆるやかなそよぎでもなく、永たらしい話し声でもなく、また末の秋のおどおどした、うそさぶそうなお饒舌(しゃべ)りでもなかったが、ただようやく聞取れるか聞取れぬほどのしめやかな私語(ささやき)の声であった。そよ吹く風は忍ぶように木末(こずえ)を伝ッた、照ると曇るとで雨にじめつく林の中のようすが間断なく移り変わッた、あるいはそこにありとある物すべて一時に微笑したように、隈(くま)なくあかみわたッて、さのみ繁(しげ)くもない樺(かば)のほそぼそとした幹(みき)は思いがけずも白絹めく、やさしい光沢(こうたく)を帯(お)び、地上に散り布(し)いた、細かな落ち葉はにわかに日に映じてまばゆきまでに金色を放ち、頭をかきむしッたような『パアポロトニク』(蕨(わらび)の類(たぐ)い)のみごとな茎(くき)、しかも熟(つ)えすぎた葡萄(ぶどう)めく色を帯びたのが、際限もなくもつれからみつして目前に透かして見られた。


さんぽ道 069-s
秋を迎えた最近のさんぽ道


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