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トポスの記憶-宮沢賢治「小岩井農場」解読③-

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場所の記憶

年が改まってお正月にもなると賢治は,今年は何に挑戦しようかと考え,行動に出ることが多かったように感じます。
ちょっと書き出しただけでも大きな転機とも言える出来事が1月に起きています。彼の一月の様子を抜き出してみます。

1921(大正10)25歳 1/23無断で上京
1922(大正11)26歳 1/ 6詩作開始。のちの『春と修羅』になる
1923(大正12)27歳 1/4 トランク一杯の原稿を持って上京
1924(大正13)28歳 1/1『春と修羅』の刊行を意図し,「序」を書く
1925(大正14)29歳 1/5~1/8 異途への出発 三陸海岸を旅する
1926(大正15)30歳 尾形亀ノ助の『月曜』に『オツベルと象』発表
1927(昭和2) 31歳 『春と修羅』第二集の「序」を書く



もちろんここでは1922(大正11)26歳。のちの『春と修羅』になる作品群の詩作開始は1月 6日だったことから始まります。『春と修羅』を飾る巻頭詩は『屈折率』次に『くらかけの雪』『日輪と太市』『丘の眩惑』と続いていきます。
早速ここで記念すべき巻頭詩「屈折率」を読んで見ましょう。
  七つ森のこつちのひとつが
   水の中よりもつと明るく
   そしてたいへん巨きいのに
   わたくしはでこぼこ凍つたみちをふみ
   このでこぼこの雪をふみ
   向ふの縮れた亜鉛(あえん)の雲へ
      ( アラツデイン 洋燈ランプとり )
   急がなければならないのか
解説は清六さんの素晴らしい解説にお願いしましょう。

大正十一年一月六日の小岩井農場には,三,四尺の雪が積もり,農場行きの橇は粉雪を吹き上げながら走ったろう。
そのときブリキ色の雲の切れ目から,棒のような光線が,七つ森の中の一番近くを黄金いろに照らした。
七つ森というのは,丁度同じ位の大きさの森が七つ並んでいるのだが,こんな風に明るい光線があたれば,その森だけが特別に巨きく見えてくる。もちろん此れは我々の眼の水晶体が短焦点レンズに切替えられる為であろう。
ところがこんどはそこらの景色が丁度水の底のように見えて来て,光線も変に屈折して輝いて来たようだ。
手帳を握って,彼は次々と不思議なことを考えながら七つ森を見ている。
(空気の屈折率は,真空に対してさえ殆ど絶体に近いと思うから,あんな風に光が屈折することはないはずだ。
 然し雲の裂け目を通過するとき,上層と下層の空気の密度があんまり違って来れば,あんな風に屈折することもあるのだろうか。
 それともおれの目だけにそう見えるのか。
 あるいは,雲が特別に不思議な状態で,例えばありブリキ色をした雲の中に,酵母のような細かな吹雪の粉がたくさん入っていて,雲自身がプリズムのように,光線に特別な変化を与えるということも一応は考えられる。)
そこまで書いたとき,その棒のような光線はいよいよ不思議にゆがんで屈折し,ギラギラ輝いて無数の色に分散し,その辺りがまるで躍り上がるように見えてきた。
ほんとうにその吹雪の入った雲を,七つ森の上に装置した巨大なダイヤモンドのプリズムであると考えなければならなくなったのである。
驚いて彼は見ていたが,このような景色をたしかにどこかで前に見たことがあったと思い,やがてはっきりと思い出したのであった。
それはあの「シンドバットの舟」や,「アリババと四十人の盗賊」の話,アラビアンナイトの国の中に違いなかった。

 ( アラツデイン 洋燈ランプとり )

と手帳へ大きな字で,そして今までの詩より少し下げて書く。

この景色が『春と修羅』の誕生を支えるほどの奇蹟の景色だったのです。
そしてこの奇蹟的な景色をまた見るために5月21日再び小岩井農場を訪れることになりました。『小岩井農場』の誕生です。

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さくらの部屋2021⑬賢治「小岩井農場」解読②

長沼桜ss
桜の森に満月昇る

さて宮沢賢治の大作「小岩井農場」解読の2回目です。
現在この大作はどのように原稿が整理されているのでしょうか。
天沢退二郎によれば以下のようになっているそうです。
(1)歩きながら手帳に書いたもの(現存せず)
(2)各パートを*印で区切ったもの(下書稿、一部現存)
(3)「第一綴」「第二綴」……と進行するもの(清書稿、一部現存)
(4)「ばーと一」「ばーと二」……(詩集印刷用原稿)
(5)「パート一」から「パート九」など(初版本)
「春と修羅」の総まとめと感じられるこの「小岩井農場」は行にして800行,文字にして全1万3000文字に迫る作品で,質や量ともに「春と修羅」の中心とも言えるものです。この大作を緊張を持続しながら読むことはなかなか難しいことです。今回は全体を見渡すために覚書をつくってみました。全体の構成を頭に入れておくためです。この覚書(構成表)はパート毎の行数,文字数,一行平均の文字数,そしてすぐ内容を思い出せるようにパートの始まりの一行を記しておきました。

小岩井農場構成表
詩「小岩井農場」の構成表

実際にこの作品を読んでいくと,パート五,パート六がなく,パート八もありません。構成表ではパート五を残されている第五綴,パート六を残されている第六綴として行数と文字数を入れてみました。どうやら抜かした処には同僚の堀籠文之進について書かれていて小岩井農場という場所から逸脱するという理由から抜いたと考えられています。

さて,賢治は歩きながら手帳に見たもの,感じたことを書き込んでいったのですが,実際にその時のメモは現存していません。しかし他の手帳のメモの取り方を見れば賢治のメモの書き方が予想できるのではないかと思いました。つまりキーワードだけ記しておいて後で原稿を作り上げたか,センテンス(文章そのもの)を記すようなメモの取り方だったのかは後に考察します。
ただパート一の冒頭「わたくしはずゐぶんすばやく汽車からおりた」は,最初の下原稿からあるものですが,わたしはこの「わたくしはずゐぶんすばやく汽車からおりた」の中の「ずゐぶん」という使い方について,現地でのメモではない清書をするときの机上での挿入のような気持ちがしています。賢治独特の言い回しであることも確かですが,「ずゐぶん」という副詞の使い方がまさに歩いている状態の活動中でのメモに入ってくるだろうかと思うのです。わたしが実際に散歩する場合のメモはキーワードだけだったり,特異なセンテンスの場合はそのまま文にしてメモしますが,この作品中の賢治の副詞の使い方について見てみますと
ずゐぶん 8回
やっぱり 11回
あんまり 10回
たしかに  8回(確かに 1回)
ひどく    7回
すっかり  4回
と,多いような気がします。これが賢治の語法のスタイルだと思えばそれはそれで納得しますが,状態の程度をより際立たせる用い方をしているようです。

次に,平均一行文字数を入れたのは,実際に歩いている場合のメモの取り方を予想するためのです。多分,その場で完成形で残すことは難しいので,ワンセンテンスやキーワードだけのメモの取り方で後に落ち着いたところで清書していただろうと思います。ですから自然と歩くリズムも手伝ってメモも言葉一語とかキーワードのみとなるはずです。構成表の平均一行文字数を見ると,殆どが一行平均13~15文字ですがパート6だけは一行につき30字になっています。実際に印刷稿ではパート6は省略されましたが,この章は明らかに現地でメモとして書かれたというより,あらかじめ用意しておいた原稿が差し込まれたり,追筆されて膨らんだものと考えられます。

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満開の花に降る雪

以上,今日は大作「小岩井農場」の全体の構成についてお話しました。
この話は続きます。

さくらの部屋2021⑫賢治「小岩井農場」解読①

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天の川昇る

今日の写真はフラットに撮れていてなかなか良いです
今年のも終わりました。8年ぶりに満開の時に雪が降り始めるシーンもありました。夜は夜でゆっくりと時間を忘れて撮影に没頭できました。

さて,いよいよ今日から宮沢賢治の「春と修羅」の核心「小岩井農場」のまとめに入ります。今日はその1回目です。

「春と修羅」の中でも最も長大で重厚な作品,行にして800行,文字にして全1万3000文字に迫る「小岩井農場」は質や量ともに
「春と修羅」の総まとめと言っていい作品です。あまりにも長大なこの作品は賢治の思考に乗らないと緊張が続かない分主軸から離れて行ってしまう程読み手の緊張の持続や読みの体力が試される危険な作品とも言えます。それでも「小岩井農場」が「春と修羅」の諸作品中最も大切な作品の一つであることは確かです。なぜかというと,この「小岩井農場」という作品がそれまでの自由口語詩の概念を遥かに超えていく斬新さとその凝縮された方法で誰も為すことができなかった地平をもたらしたからです。
端的に「春と修羅」作品群や「小岩井農場」という作品は,現代風に言えばTHE FIRST TAKE のようなものであり,極度の一回性にこだわった,限界までの緊張を伴う improvisationを詩に試みた点で類をみないと思います。このもう二度と現われることのない自然の光に,もう二度と表われることのない26歳の感官で一発取りの世界に挑んだ点がまず第一の特徴です。また第二の特徴として,科学的な記述と自負する正確さや客観性を指向すること自体が当時の詩の世界にはなかったのです。そしてまた第三に,身体という感官のまるごとで臨むという身を賭しての歩行動画としての詩の展開という着想もずば抜けていました。このように着想も,方法も,作り上げられた言語に於いても異色でした。すべてが独創的で,斬新で,ラディカルだったのです。この「春と修羅」群の価値を知っている人はわずかでしたし,およそ言語世界だけでねつ造されていた当時の詩の領域ではとても批評もできない異端と無視されたことも確かでした。読んだ当時の常識的な詩人でさえ,「どんなに正確でも,それは一体詩と関係のあることだろうか」(中村稔)などと言ったといいます。平凡な詩人は偏見をもって賢治の詩を堂々とこのように批評したりします。賢治の詩は当時の詩の文芸表現の全てのランクを超えていたのです。ただこの極度の緊張とエネルギーと詩人の中の急激な生成分裂の運動そのものが詩とそれを生み出す詩人との間隙を殆どゼロにする命がけの詩作である点でもランク超えを果たしていたのです。
ではなぜ賢治はそのようなあまりにもユニークで,すべてが世界初の試みを詩に求めたのでしょうか。
当時の賢治は「六七年前から歴史やその論料、われわれの感ずるそのほかの空間といふようなことについてどうもおかしな感じやうがしてたまりませんでした」と手紙に書き,「歴史や宗教の位置を全く変換しようと」試み,その準備段階として「或る心理学的な仕事の仕度」として「厳密に事実のとほりに記録したもの」を公表しました。それが心象スケッチ『春と修羅』でした。そして詩自体が断片的なもの,瞬間的なイメージから更に進化を遂げ,詩全体が全体的なもの,全宇宙的なものとの一体を図るためのTHE FIRST TAKEが必要でした。それが「小岩井農場」だったのです。

賢治26歳の1922(大正十一)年5月21日は日曜日だった。この壮大な「小岩井農場」に取り組むべく賢治は橋場線小岩井駅に着き「わたしはずゐぶんすばやく汽車からおりた」。詩の中で言っているが寝不足だったという。桶の幻想を見るようになった。
一昨夜からよく眠らないから
やっぱり疲れてゐるのだ。
疲れのために私は一つの桶を感ずる
この聯想は一体どうだ、
けれどもたしかにこの桶は
まだ松やにの匂もし
新しくてぼくぼくした小さな桶だ。
そうなのだ。昨夜は「蠕虫舞手」を書いた。その前には「真空溶媒 (Eine Phantasie im Morgen)」を書いた。その前日には「おきなぐさ」「かわばた」を書いた。賢治は次々と湧き上がるイメージを制御できずに詩作に励んでいた時期に,ここ小岩井農場にやってきたのだった。
(今日はここまで)

さくらの部屋2021⑨星をまとう2

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星をまとう3

今日はいろいろとお知らせなどを載せます。

現在わたしは写真展「いまここにいるわたし-震災からの10年とこれから-」を5月9日までの予定で開いていました。しかし会場の新田サンクチュアリセンターが「まん延防止等措置」で5月5日まで閉鎖になりました。なんということでしょう。残念なことです。まあ,仕方がないので5月6日から1ヶ月間を写真展に充てることにします。どうぞご了承ください。


次に見て欲しい新田駅の動画があります。


また次に「Dylan Wallace若きピアニスト」のアップ動画です。みんなで応援しましょう。


詩人浅田志津子さん自身による詩の朗読「たたんだ千円札」の動画(7分)です。


以上お願いばかりですみません。

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星をまとう4

あわい天の川を浮かび上がらせてみました。

もう3年になろうとしている朝晩の犬の散歩で,撮った写真やメモを基にこのブログをアップしています。
そして最近カメラを持たずメモ帳だけを持って,天から降りてきた言葉を記してきました。これは実にいい方法です。どうやら自分には合っているようです。このようにしている方は少ないかと思われますが,自ずと内的言語と向かい合い,自然からインスピレーションを得ることになります。宮沢賢治がよく鉛筆とメモ帳を持って散歩に出掛けていた意味が分かりました。賢治はこの天から降りてきた言葉から「春と修羅」や沢山の童話を書きました。
29歳の賢治は「六七年前から歴史やその論料、われわれの感ずるそのほかの空間といふようなことについてどうもおかしな感じやうがしてたまりませんでした」と手紙に書き,「歴史や宗教の位置を全く変換しようと」試み,その準備段階として「或る心理学的な仕事の仕度」として「厳密に事実のとほりに記録したもの」を公表しました。それが心象スケッチ『春と修羅』でした。しかし賢治の意図のように『春と修羅』は伝わりませんでした。賢治はそのことが相当悔しかったようです。到底詩と言われるようなものではありませんと謙遜しますが,好意的に書いてくれる人はわずかでした。彼の自負は「科学的に」書いたのだ。普通の詩とは違うのだと考えていた処にあるようです。

ここで今野勉著「宮沢賢治の真実-修羅を生きた詩人-」(新潮社)から「春と修羅」の読みの視点を取り出してみます。彼の前述の本の第四章に「春と修羅」完全解説という章があり,雲が退学になった保阪への恋情を示すものと解釈されていました。今野は保阪宛の大正七年六月二十七日の書簡を引用して,「私は不思議な白雲を感じる。・・・白い雲が瞭瞭と私の脳を越えて沸き立ちました。この雲は空にある雲です。そしてこの雲は私のある悲しい願が目に見えたのでした。その願はけだものの願であります。」という文面から賢治にとっての雲は「けだものを象徴する」という意味を引きだそうとしています。しかし賢治が保阪への募る思いを雲に形容したからと言って賢治が「春と修羅」で表現した雲がすべて募る恋心という意味を表していると考えるのはどうかと思います。
今野勉は「春と修羅」の読みの試みとして「雲」というキーワードを出しました。作品群から「雲」という言葉を拾っていくと54番目の詩「樺太鉄道」まで確かに22回の「雲」が出て来るのです。賢治にとって「雲」は風景の中でなくてはならないものなのでしょう。だからと言って賢治のスケッチした雲は光を遮るもの,不定形で気まぐれなもの,遮られてもどかしさを感じさせるもの,広がっては心を塞(ふさ)ぎ,消えては心を明るくさせる・・・。光と共に雲は心情を決定的に変化させるものとして登場させているのでしょうか。雲はそもそも賢治の象徴として「けだもの」を意味させているのでしょうか。賢治は空の「雲」を見て,雲は「けだものを象徴する」という意味を込めていたのでしょうか。そのような読みによって賢治は「ある心理学的な新しい認識論の仕度」にしようとしていたのでしょうか。
わたしはそのような「雲=けだもの」という陳腐なメタファーの置換ではないと思うのです。確かに今までの文学の伝統的な作品論は語彙に込められた意味を探る中で当時の作者の置かれていた生活や心情とを結びつけてきました。その突破口として今野勉氏は作品の中の「雲」と書簡の中の「雲」を結びつけていたのでしょう。でも賢治はそうした雲の登場する自然現象を自分の現在の人生そのものと照応させる方法が新しい認識論の基礎と位置付けようとしていたと断定するのは違和感があります。そのような単純な構図ではなかったと思われます。
「雲」はスケッチでは「雲」です。心理的な「雲」ではないと思います。わたしは,むしろ賢治が自然現象の「雲」に注目することで引き起こされる感情や思考や視覚現象,明暗や影のつくられ方を「自働記述」することで人間の新たな動き有る「科学的な」心理学を引き出そうとしていたのではないかと考えています。自然現象の変化とそれを見た人間の感情や思考の変化がどうシンクロされていくのか。この点が賢治が狙っていた切り口だと思います。

では散歩するわたしは天から降りてきた言葉を賢治のように記述することはとてもできません。ただ「思考が歩行する」妙味を知ることができたばかりです。更に続けてみます。

「風の又三郎」考-迷いの描写について-

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栗駒山

9月1日に「夏の終わり-風の又三郎-」を書いてから,改めて「風の又三郎」のことを考えてみたいと思うようになりました。
「風の又三郎」という作品fはどこに魅力があるのだろうか。それをもう少し確かめてみたいのです。
何回読んでも,嘉助が逃げた二頭の馬を追って山で迷うシーン(九月四日 日耀)はその白眉です。山で迷うと人はどうなるか,どんなことを考えるか,どんな幻聴が聞こえてくるかを言語に置き換えた場合のお手本がここにあると感じます。立ち込める霧,消えた踏み跡,散々歩いた後にまた同じ場所に戻ってしまうワンデリング,迫りつつある不安は天候の変化によって知らされます。
空はたいへん暗く重くなり、まわりがぼうっとかすんで来ました。冷たい風が、草を渡りはじめ、もう雲や霧が切れ切れになって目の前をぐんぐん通り過ぎて行きました。
 (ああ、こいつは悪くなって来た。みんな悪いことはこれから集たがってやって来るのだ。)と嘉助は思いました。全くそのとおり、にわかに馬の通った跡は草の中でなくなってしまいました。
 (ああ、悪くなった、悪くなった。)嘉助は胸をどきどきさせました。
ついに迷ってしまったのです。迷いきった不安が周囲と同調して立ち上がる瞬間が訪れます。

 風が来ると、すすきの穂は細いたくさんの手をいっぱいのばして、忙しく振って、
「あ、西さん、あ、東さん、あ、西さん、あ、南さん、あ、西さん。」なんて言っているようでした。

山の中に一人で居る不安,取り残され感,気付いたら道がなくなっていたという緊張感。
人はこれらを子どもの時に誰しもが経験する感覚と片付けてしまいます。だから「風の又三郎」は子どもが読む童話なのだと言います。しかし,実際に山で迷ったことのある人ならばこの嘉助の不安の凍り付いた心情が手に取るように分かると思います。これはもう童話ではなくなっているのです。「あ、西さん、あ、東さん、あ、西さん、あ、南さん、あ、西さん。」と繰り返すすすきの穂の揺れの言語化はもう身体言語の究極の表現だと言えます。

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散歩

例えば山で迷って帰れなくなっている嘉助に更なる絶望が重なっていきます。そうなんです。不安は畳みかけるように「悪い」結果を連れてやってきます。

嘉助はがっかりして、黒い道をまた戻りはじめました。知らない草穂が静かにゆらぎ、少し強い風が来る時は、どこかで何かが合図をしてでもいるように、一面の草が、それ来たっとみなからだを伏せて避けました。


ここで注目したいのは下線部の「どこかで何かが合図をしてでもいるように」という書き方です。世界は嘉助に絶望の雨に打たれよと言います。一体全体「何かが合図を送っている」とは何のことでしょう。自分の不安が外在化されて行き,自分を悩ませる「何かが」世界の奥から現われてきて合図を送り始める。悲劇のライトモティーフが鳴り始めます。
賢治が「風の又三郎」で描こうとしたのは童話でも何でもなく,生々しい感情体験を言語化する試みなのです。そしてこの感情体験は「遠野物語」で描かれる山での変わった出来事と不思議にもにシンクロしているのです。森の文化に生きる人々の共通感覚なのかも知れません。そして柳田國男は続けて「山の人生」を書きます。しかし賢治は詩人ですから詩にこだわります。感覚の究極の表現へと突き進みます。その詩的な試行がまとまった形で出たのが「風の又三郎」ではなかったかと気付かされます。人の希望などすぐ打ち壊されます。

それからすぐ目の前の霧の中に、家の形の大きな黒いものがあらわれました。嘉助はしばらく自分の目を疑って立ちどまっていましたが、やはりどうしても家らしかったので、こわごわもっと近寄って見ますと、それは冷たい大きな黒い岩でした。
 空がくるくるくるっと白く揺らぎ、草がバラッと一度にしずくを払いました。

助かった。家だ。すると道が見つかり迷いは一瞬で断ち切られる。助かった。しかし,その黒いものは家ではなく,大きな岩でした。そしてその絶望に呼応するように次のように情景が描かれます。「空がくるくるくるっと白く揺らぎ、草がバラッと一度にしずくを払いました。」この絶望を更に深めるための情景描写はクライマックスを語り,秀逸です。藤沢周平の叙述にもこのような感情に寄り添って描かれる情景描写が出てきますが,読む者には感情を突き放す効果として登場人物の心情が,世界の小さな一隅に座標化され一層孤独感や寂しさが際立つように感じるのです。


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秋雨

完成形「風の又三郎」は「初稿風野又三郎」「さいかち淵」「種山ヶ原」といったエピソードを吸収しながら,発酵し続けていきました。賢治自身もこの作品を集大成にしようと並々ならぬ意欲で取り組んでいました。推敲用原稿を作ったり(松田筆写稿),音楽を付けること(沢里武治への作曲依頼)や取材すること(書簡)を試みていました。断片からまとまりある作品の成立という賢治の遍歴の過程が手に取るように分かるのです。幸いそれらの過程は生原稿を見たり,天沢退二郎氏のセミナーや「謎解き・風の又三郎」等で残されて現在でも読むことができます。今回はそうした記録をなぞり直して「風の又三郎」の沈み往く輪郭に指をなぞらせてみたいと思います。

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万歳

こうして見ると,山に迷うシーンが妙にリアルなことは確かなようで,これは賢治の実体験から来ていると言ったらあまりに軽薄な言い方になるでしょう。リアルさは賢治の文章の何処から滲み出てくるものかと問いを立てた方が生産的です。
先程山で迷った嘉助はとうとう迷ったまま気を失ってしまいます。その箇所をなぞってみます。

「伊佐戸いさどの町の、電気工夫の童わらすあ、山男に手足いしばらえてたふだ。」といつかだれかの話した言葉が、はっきり耳に聞こえて来ます。
 そして、黒い道がにわかに消えてしまいました。あたりがほんのしばらくしいんとなりました。それから非常に強い風が吹いて来ました。
 空が旗のようにぱたぱた光って飜り、火花がパチパチパチッと燃えました。嘉助はとうとう草の中に倒れてねむってしまいました。


さっきは「どこかで何かが合図をしてでもいるように」と不安の実体が文章の中で外在化されていました。またです。今度は「いつかだれかの話した言葉が、はっきり耳に聞こえて来ます。」です。脈絡もなく,忘れ去られた記憶からあぶくのように湧き上がってくる呪文のような言葉。その言葉は意味も分からず,いつ,誰が発した言葉かも分からない。ただその言葉は嘉助を更に痛みつけるように突然に降ってくるのです。実に巧みな表現です。このように読んでいくと「風の又三郎」も「タネリ」なども敢えて当時流行った童話の「心温まる筋の展開の妙」というものから賢治の視点は少しずれていたように感じます。賢治のスタンスは映画で言うと,まるでタルコフスキーの「ストーカー」やビクトル・エリセの「ミツバチのささやき」に近いものだと感じます。主人公がこの世でどうした,ああしたのストーリー(筋立て)の世界にいるのではなく,もう冒頭から心情の世界がすぐ始まっている世界に前提なしに入り込むのです。やはり詩的なのです。この点で私はミステリーやホラー小説のように賢治の作品を読んでいったらおもしろいと思います。いたるところに「レッドヘリング」の新手(あらて)の使い手としての表現が隠されているように思います。

今日は「迷うことの表現」を取り上げましたが,次は原稿の成立についてふれたいと思います。