二人の菜食主義者-賢治と悟堂- その5-悟堂の実践

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長沼花火

保阪嘉内に宛てた手紙で賢治が菜食主義に入ったのは1918年始めです。そして賢治が「ビヂタリアン大祭」を書いた動機はおそらく1924年(大正13)28歳のときです。藤原嘉藤治が「他を犯さずに生きうる世界というものはないのだろうか」と言った言葉に答える形で書かれたと言います。
一方,中西悟堂が厳しい菜食を始めたのは,大正15年(1926)7月,悟堂三十歳の時です。東京府北多摩郡千歳村に家を借り,「春から火食を絶った生活に踏み切り、そば粉と大根と松の芽を常食とする。」という修験者の穀絶ち修行そのものの生活を始めます。20代の悟堂は短歌集,詩集を刊行し,飯能,京都,松江などで僧職に就いて過ごします。そして30歳になると同時に僧職を辞して突然3年半にも及ぶそば粉と大根と松の芽を常食とする生活に入るのです。この時賢治と悟堂の間に何か関係があったのでしょうか。「春と修羅」が刊行された年ですが,菜食主義という同じ方向性は偶然だというしかないでしょう。しかし,悟堂が賢治の「春と修羅」の影響を受けたのではないかと思われる節が見付けられます。悟堂も何気なく自分を含めた業の深い人間達のことを「修羅」と呼んでいるのです。

今日は,悟堂が30歳にして3年半にも及ぶそば粉と大根と松の芽を常食とする生活について書いてみます。

主食は水でこねたそば粉です。茶碗も箸も使いません。火も使わず米も絶ちます。木の葉や野草は塩で揉んで食べます。風呂の代わりに川に入り,雑木林の中にござを敷いて寝たのです。幼いときに寺に預けられ,行を積むことで虚弱体質を治してきた悟堂にとってはこのような木食修行の生活にも少しの慣れや知識もあったのでしょう。よく穀断ち千日修行,二千日修行と言われる最も過酷な修行がありますが,悟堂はそれを行おうとしていたのだと思います。それも3年半ですから二千日修行を何かの気付きによって途中で切り上げたと考えられましょう。

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長沼花火

悟堂は「野鳥開眼」の中でこう書きます。「食うための会社づとめや売文書きの屈辱から離れ,時間と自然がわたしのためだけにある純粋の日々の中で,魂を誰にも渡さぬ安らぎの歳月を送れることは,むしろ限りない幸福であった。」つまり徹底的に自然に一致した生活を送る,自分が自然の一部になることが望みなのです。ソローの「森の生活」を座右の書として,ホイットマンやタゴールを読み,自分が生かされている自然を理解する生活。これが悟堂の一番望んだ生活だったのです。ある程度の歌や詩が認められている時ではありました。しかし,文学に現れる自分を,より研ぎ澄まされた言葉に結晶化させていきたいという思いが彼の心の底には脈々と流れていたと言えます。賢治が「春と修羅」で研ぎ澄まそうとしていた,現在の感覚の深さを更に超えようとする態度が,同時期に生きている悟堂にも現れていました。

悟堂はつくづく「欲望と欲求不満の塊りである人間が財欲や支配欲や情欲や権勢欲のエゴの中で,むさぼり,憎み合い,悩み,集団としては国と国とで戦争にまで訴えてきた人類史の修羅のすさまじさを改めて透視図として見返す思いであった。」と書きます。ここに賢治が使っていた「修羅」としいう言葉が悟堂も使っていたことに注目したいです。二人とも人間の業を見て自分を「修羅」と見ています。悟堂のこの文章が「春と修羅」を読んだ後に書かれているとしたらやはり悟堂は賢治の考え方のキーワードを既につかんでいたことになります。

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長沼花火 ナイヤガラ 今年は155mでした

さて,悟堂が行った穀断ちの二千日修行は,即身仏になるほどの厳しい修行のメニューです。この穀断ちを木食行と言います。そして水垢離がありますが,ただの水浴びではない厳冬期でも水の中に入り,傍らに置いたろうそくや線香が一本,一把燃え尽きるまで水の中に入り続けたと言います。水垢離が自分の外側から浄化を行う方法だとすると,自分の内側から身体を浄化していくのが穀断ちです。悟堂自身は厳冬期でも外で寝て余りに寒いときには走って身体を暖めたといいます。このような厳しいメニューを自分に課したことは仏教的な修羅からの脱出を模索して,複雑きわまりない自然の理法の欠片でも会得したいという思いからでしょう。悟堂のこうした人生への構えも賢治と似ているところがあるのは不思議です。

ここで悟堂が用いた水でこねたそば粉は最近とても見直されているダイエット食です。木食行,すなわち穀断ちには五穀断ち,十穀断ちがあるそうですがその種類には諸説あるそうです。湯殿山で最後の即身仏になった仏海上人は毎日「数粒の木の実かそば粉を練ったソバガキぐらい」だったそうです。悟堂はそうした修行の内容もよく心得ていたと思われます。
                                    (内藤正敏「鬼と修験のフォークロアⅡの飢餓の宗教・即身仏参照」)

実はこの記事を書いている私も若い頃興味があって水だけで一週間という断食を行いました。食べないことで感覚が研ぎ澄まされていく体験をしました。自然が実に瑞々しく見えてきます。自然の音や鳥の声なども「かぐわしいほどに」美しく聞こえて来るのです。ですからこれらの穀断ちを一定期間行うことで身体や感覚のリセットを行うことができます。
賢治も悟堂も菜食や穀断ちにおいて感覚の研ぎ澄まされ方を自覚していたのではないでしょうか。悟堂も賢治も身体のリセットを行い,感覚を一新させることにおいて限界を超え,その世界に見いだされた言霊を拾い集めようとしていたのです。W.ジェームズの「宗教的経験の諸相」を読むと,神を見るという恍惚とした瞬間がレポートされていますが,あのような超常的な領域に自らをもって実験的にもっていこうとしていたのだと思われます。それが賢治の言う「或る心理学的な仕事」であり,心象スケッチがまず第一段階の未完成なスケッチとしていた理由です。二人は文学領域から送られたれっきとした修験者です。悟堂がこの厳しい修行の中から,まず引き出すことができたのは様々ですが,とりわけ飛ぶ「鳥」の美しい歌であり,可愛らしさであり,人を超えた能力であったことでしょう。


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二人の菜食主義者-賢治と悟堂- その4-利他主義の行方

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秋を迎えた最近のさんぽ道

賢治も悟堂も自然が好きで,自然の中に自分の救いを求めるようになっていくスタンスは共通していますし,何も二人だけに限ったことではなく,人間が本来持っている「こころもち」に自然から受ける慰めがあるからでしょう。「トルストイブーム」は自制,節制を説き,欲望のままに生きる利己主義に警鐘を鳴らしました。自活,自立を基本として食べることについては「適切な断食」という表現ですが,健康のために菜食主義をすべきだと語ります。これらのライフスタイルはすべて善なる生き方に通じて,また肉食などの不必要な殺生から生まれるものを自分から遠ざけた方が良いと言います。当然,もともと賢治も悟堂も自然を好み,仏教に奉ずる身としては菜食に傾くことはそう難しくはなかったでしょう。

さて,動物や魚を殺して命をいただく人間の業に気付いた時に,菜食主義への気付きが生まれ,利他主義ともシンクロしていきます。賢治がよく語る「自分の命も惜しくない,あげます」という心持ちです。何か人のために尽くしたい,役に立ちたいという気持ちは慈悲の心と言われます。しかし他のために尽くすことは究極では,命そのものを差し出すという覚悟まで直結しています。自分のすべてのものを投げ出してもあなたのために自分を差し出す覚悟。宗教家で,出身も賢治の家の近くの山折哲雄氏は賢治のそうした性格を「捨身飼虎」の仏教譚になぞらえて語ります。「捨身飼虎」とはまさに自分の命を飢えている虎の親子に差し出し,自分は死んで虎を救うという話です。自分の命を投げ打ってでも善なる悟りに捧げる行いの厳しさを感じる逸話です。「マリヴロンと少女」を読んでみましょう。
マリヴロン(先生)はかすかにといきしたので、その胸の黄や菫の宝石は一つずつ声をあげるように輝きました。そして云う。
「うやまいを受けることは、あなたもおなじです。なぜそんなに陰気な顔をなさるのですか。」
「私はもう死んでもいいのでございます。」 「どうしてそんなことを、仰っしゃるのです。あなたはまだまだお若いではありませんか。」
「いいえ。私の命なんか、なんでもないのでございます。あなたが、もし、もっと立派におなりになる為なら、私なんか、百ぺんでも死にます。」 「あなたこそそんなにお立派ではありませんか。あなたは、立派なおしごとをあちらへ行ってなさるでしょう。それはわたくしなどよりははるかに高いしごとです。私などはそれはまことにたよりないのです。ほんの十分か十五分か声のひびきのあるうちのいのちです。」
「いいえ、ちがいます。ちがいます。先生はここの世界やみんなをもっときれいに立派になさるお方でございます。」
 マリヴロンは思わず微笑いました。
このような感じで賢治童話にはたくさん「私の命を差し上げます」という過激とも思える,必死な言葉が語られるのです。なぜこんなにも必死なのでしょうか。

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秋を迎えた最近のさんぽ道

私には無私に取り憑かれた姿に映ってしまうのです。自分に対する無力感や絶望感が暗い煩悶としてあり,そこから抜け出そうとして決死の飛躍を試みる。死ぬことで自分の存在が成り立つという決死の思いが見て取れます。青春期独特の悩み,人生に対する答えのなさ,自分は信頼されているのかという不安,そうしたものが 「私はもう死んでもいいのでございます。」という相手に認められたいとというショートカットをつくり,極端な言葉として表現されていくのではないでしょうか。愛すると言うことは命を捨ててでも愛することで初めて証明されるものだと思ってしまうのです。こうした自分のすべてを相手に投げ出すというスタンスが賢治の童話や詩に表現されるのでしょう。賢治が死ぬ間際に「慢」こそが自分を駄目にしてきたのだと言う気持ちに彼の人生の「許されなさのかなしみ」を感じるのです。

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秋を迎えた最近のさんぽ道

父に将来のことを相談し,妹のトシが亡くなり,様々な人生経験を積みながらも賢治の心の奥深くには何の役にも立てていない自分が写っていたのだと思います。よだかのかなしみはそんな悲しみです。利他主義の根本はこのような難しい命のやりとりに関係することです。菜食主義もまた命のやりとりに関係することです。妥協するという言葉は少なくても賢治には当てはまりません。樺太に行った賢治は帰りに花巻までの汽車賃もすべて不憫と思われた女の子あげたのはどうしてでしょう。彼は樺太の栄浜でトシに呼びかけながら自分ができることを改めて考えてみた結果として金銭のすべてを与えたのです。まさに自分を投げ打ってまで他の人に尽くすという利他主義の実践でした。彼の一本気に父政次郎も困り果てていた部分もあったでしょう。東北砕石工場での過酷なセールスもそうした賢治の東蔵さんを助けたいという利他主義の現れでした。

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秋を迎えた最近のさんぽ道

しかし賢治には救いの道があったのです。たゆみない書くことへの情熱です。それは救いを模索する情熱です。
わたしは賢治に聖の姿を見てしまいます。それも物語を語りながら説法する聖です。

以前私は明恵上人のことを書きました。少し引用してみます。
西行を読んでいたときに出会った明恵上人の歌を思い出します。
ヤウヤク中夜にイタリテ出観ノノチ,峰ノ房ヲイデテ下房ヘカヘル時,月雲マヨリイデテ光雪ニカガヤク。狼ノ谷ニホユルモ,月ヲトモトシテイトオソロシカラズ。下房ニ入リテノチ又タチイデタレバ,月又クモリニケリ。カクシツツ後夜ノカネノヲトキコユレバ,又峰の房ヘノボルニ,月モ又雲ヨリイデテ道ヲオクル。峰ニイタリテ禅堂ニ入ラムトスル時,月又雲ヲオヒキテ向カイノ峰ニカクレナムトスルヨソヲヒ,人シレズ月ノ我ニトモナフカト見ユレバ,二首
雲ヲイデテ我ニトモナフ冬ノ月風ヤ身ニシム雪ヤツメタキ

山ノハニカタブクヲ見オキテ,峰ノ禅堂ニイタル時
山ノハニワレモイリナム月モイレヨナヨナゴトニマタ友トセム
元仁元年(1224)十二月十二日ノヨルと始まるこの前詞書と歌は明恵上人52歳の時に詠まれています。
雪のある山道を登り下りする中で月が出たり隠れたりする様が鮮やかに描かれます。夜の雪の山道は足下に気を付けるのに明恵上人は山の雪道を照らす明るい月に目を上げています。自分の行く手を知らせる月をただ一人の友とします。この時代の夜はそれこそ電気もないですから漆黒の闇だったでしょう。月は闇を照らす希望という意味もありました。世を捨て,修行を積む身には自然に中に溶け込んでいる自分こそ心許なくも拠り所となっていたと思います。月ばかりが私を見ていてくれる。隠れると世の中は暗くなり,月が出ると世の中が明るくなる。自分もまたその通りの人生だ。歌そのものは稚拙です。しかし,何かその単純さに魅せられるものを感じます。
明恵上人の言葉には自然に絶対的な安心感でもたれかかっている温かさと明晰さがあります。
その自然との一体感を表す絵も残っています。
national1_r1_c4明恵樹上座禅図
明恵上人樹上座禅図

明恵上人を出したのは賢治の心の奥底に潜む「許されなさのかなしみ」から「捨身飼虎」への大きすぎる振れ幅がどのように解消されていったのかを山折哲雄氏が明恵上人をなぞることで読み解いていこうという試みにおもしろさを感じるからです。

明恵も若い頃「捨身飼虎」の話に感動し,利他主義の問題に悩みました。彼は13歳の時に「捨身」願望に取り憑かれ,自殺を試みていたといいます。死体置き場に行って野犬や狼が死体を貪っている脇に彼も身体を投げ出したといいます。このとき野犬は明恵の匂いを嗅いで立ち去ったといいます。まさに「捨身飼虎図」そのままではないですか。そして24歳の時には,自分の耳を切り取るという行為にも及んでいたといいます。これは先に述べた賢治の過激な「自分のすべてを相手に投げ出すというスタンス」に似ていませんか。賢治の一本気の素直に苦しんだ「許されなさのかなしみ」からの答えに似ている部分があります。また,明恵は同様な自分の身体を食べられる夢をみたともいいます。
ところが明恵32歳の初夢に人を喰う恐ろしい虎や狼や犬ではない全く違う犬どもが出てきたそうです。明恵は親の獅子の懐に子犬たちと一緒にふさふさした毛に包まれるという夢をみたのです。

彼の中に20年の煩悶を経て最後にもたらされた「捨身飼虎」という利他主義の極北のテーマに明恵は答えが出ました。その柔らかいお顔が紹介した絵「明恵上人樹上座禅図」には見られます。では何が明恵にそうした悟りの安らぎをもたらしたのか。

ずばり自然に見いだしたのです。「明恵上人樹上座禅図」には右上に鳥が飛び,左上の枝にはリスがいます。生き物が苦しみの彼の友だちとなったのです。獅子は明恵の母であり,その母は自然の万象そのものだったと思います。

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秋を迎えた最近のさんぽ道

賢治が自然の記録として「春と修羅」を書いたりする行為は,明恵の見いだした自然を通した観察と念仏という接近に似ています。明恵は「山ノハニワレモイリナム月モイレヨナヨナゴトニマタ友トセム」と歌を詠み,自分一人ではない,月を友として生きるという安らぎを感じるようになりました。賢治は自然の中に何を見いだそうとしたのでしょうか。「ある心理学的な仕事」が頭に浮かびます。

ここで最後に國木田独歩が「武蔵野」で引いたツルゲーネフの「あいびき」を載せます。1860年の作品です。この時代の自然に対する観察の仕方が分かるような気がします。自然の描写が美しいです。
自分は座して、四顧して、そして耳を傾けていた。木の葉が頭上でかすかに戦(そよ)いだが、その音を聞いたばかりでも季節は知られた。それは春先する、おもしろそうな、笑うようなさざめきでもなく、夏のゆるやかなそよぎでもなく、永たらしい話し声でもなく、また末の秋のおどおどした、うそさぶそうなお饒舌(しゃべ)りでもなかったが、ただようやく聞取れるか聞取れぬほどのしめやかな私語(ささやき)の声であった。そよ吹く風は忍ぶように木末(こずえ)を伝ッた、照ると曇るとで雨にじめつく林の中のようすが間断なく移り変わッた、あるいはそこにありとある物すべて一時に微笑したように、隈(くま)なくあかみわたッて、さのみ繁(しげ)くもない樺(かば)のほそぼそとした幹(みき)は思いがけずも白絹めく、やさしい光沢(こうたく)を帯(お)び、地上に散り布(し)いた、細かな落ち葉はにわかに日に映じてまばゆきまでに金色を放ち、頭をかきむしッたような『パアポロトニク』(蕨(わらび)の類(たぐ)い)のみごとな茎(くき)、しかも熟(つ)えすぎた葡萄(ぶどう)めく色を帯びたのが、際限もなくもつれからみつして目前に透かして見られた。


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秋を迎えた最近のさんぽ道


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二人の菜食主義者-賢治と悟堂- その3

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童話村で行われているライトアップ2017

今日は中西悟堂についてです。
中西悟堂という人も自然が好きで,詩が好きで,文学が好きな文人でした。確かに「日本野鳥の会」を設立し,自然保護の先駆者としての活躍は素晴らしいものがありました。しかし,悟堂の底にはいつも文学への瑞々しい情熱があったと思います。彼の文学や自然回帰の視点には彼が9歳の時に山の中の寺に籠って行った修行によって健康児になった,その自然へ感謝があったのではないかと思われます。もともと小泉八雲が過ごしていた島根の名刹普門院の住職までした悟堂ですから,仏教に仕える者として菜食は当たり前ではないかとも思われます。確かにそうです。しかし,それ以上にどうも宮沢賢治,中西悟堂,保阪嘉内,武者小路実篤などの時代に彼らの思想のキーワードになるものがあったと感じます。それが「トルストイブーム」であり,そこから出てくる「菜食主義というライフスタイル」だったと思われます。

まず宮沢賢治の場合は,1916年(大正5)保阪嘉内が高農の入学してきた自己紹介でトルストイのようになると言った時から賢治の中で,トルストイの存在が極めて大きくなったでしょう。よく賢治の菜食主義で引き合いに出されるトルストイの「第一階段」は賢治の手紙や大作「ビヂタリアン大祭」や命あるものを食べなくては生きていけない「かなしみ」として作品の中に頻出してきます。高農の図書館にはトルストイの作品もあつたそうです。

トルストイ
トルストイの「菜食論と禁酒論」1892年に書かれていて,日本では1923年(大正12)年に春秋社から出ています。

この中でトルストイは人生の「第一階段」を上がる者として,自制,節制を心掛けることで精神的にも肉体的にも安定した状態に保つことで善なる生き方ができると説きます。そして食生活においてはまず「断食」を掲げ,飽食や偏食,だらしない自己中心的な生活,飲酒等の弊害を改善する必要性が説かれます。徹底的に善なる望ましい考えを推し進めると,そこには他のどんな命を傷つけない自分以外の他の為に努力する利他主義が出てきます。無駄な殺生をさけること,つまり「菜食主義」が出てくるわけです。更にこの話の展開として興味深いのは屠殺場での動物が殺される残酷な描写がかなりの量で出てきます。この動物が屠殺される話が賢治と保阪嘉内が一緒に見たであろう豚の屠殺のシーンと重なるのです。これが微妙に大正7年(1918)5月19日付,保阪嘉内に宛てた手紙の「私は春から生物のからだを食うのをやめました。」に繋がってくるようです。
何よりもこうしたトルストイの考え方が,日本に入るやいなやたちまち話題にのぼって来ます。トルストイブームです。

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童話村で行われているライトアップ2017

中西悟堂の年譜などを読んでいると,彼が「トルストイ」に心酔する様子が出て来ます。
明治四十年(一九〇七) 十一歳
三月、高等科卒業。京橋区数寄屋橋の紙問屋に奉公に出される。
政治活動の巻き添えで養父悟玄が東叡山を騒がせた責任をとり、東京府北多摩郡神代村字佐須の祇園寺(深大寺の末寺)に移り、悟堂を深大寺に預ける。悟玄は後に祇園寺の住職となる。
この頃、深大寺小学校の教師を通じてトルストイを知る。また、多摩川でチドリの擬傷習性を初めて見る。(武者小路実篤記念館の年譜から)
もう悟堂は11歳の時にトルストイを知っていたということです。

また当時の寵児と言われた白樺派を立ち上げる武者小路実篤は学習院高等科当時,1903年(明治36)18歳の時に「トルストイに強くひかれ」 と出てきます。この考え方の実践が「新しい村」運動です。武者小路実篤のことは後に機会があれば書きたいと思います。
ただ中西悟堂が行った菜食主義はこのように出てきます。
昭和二年(一九二七) 三十一歳
ホイットマンの「草の葉」の翻訳に没頭する。
三月、報知新聞より昆虫と野鳥の観察記の連載を依頼される。
九月、春から火食を絶った生活に踏み切り、そば粉と大根と松の芽を常食とする。それを研究材料にしたいと、近くの精神病院から定期的な健康診断の依頼を受ける。貼り付け元
この菜食主義はどちらかと言うと,仏教の修験道のレシピです。この時,悟堂は住職という役職から離れているのにもかかわらず,このような生活をしていきます。まあ3年半も自然の中で暮らす生活をしていたのですから,悟堂らしいと言えば悟堂らしいです。

その悟堂が文学の世界,ことに詩の世界にはいつも注目していました。そして,悟堂は宮沢賢治を知るのです。悟堂が継続して寄稿していた「日本詩人」に「新彗星諸君」の一人として「宮沢賢治」の名を挙げます。サイト「宮沢賢治の詩の世界」の「賢治日めくり2月1日」にこう出てきます。
1926年2月1日(月)(賢治29歳)、本日付発行の雑誌「月曜」二号に、「ざしき童子のはなし」が掲載された。 本日付発行の雑誌「虚無思想研究」二巻二号に、「心象スケッチ 朝餐」が掲載された。 本日付発行の雑誌「日本詩人」おいて、詩人(後に野鳥研究家)中西悟堂が、「新彗星諸君」の一人として賢治を挙げた。 1928年2月1日(水)(賢治31歳)、本日付発行の雑誌「銅鑼」十三号に、「氷質のジヨウ談」が掲載された。 貼り付け元
「春と修羅」が刊行されたのが1926年(大正13)ですから刊行されてから約2年が経っています。また翌年悟堂は,雑誌「詩神」三巻三号に、佐藤惣之助が回想「詩戯と懐旧―大正詩壇回顧―」を執筆し、「寄贈されたしみじみ澄んだ記憶にあるもの」の中に『春と修羅』を挙げた。また、同号で中西悟堂も「大正詩壇の回想」で記憶にある詩集に『春と修羅』を挙げた。 とあります。
悟堂は賢治の「春と修羅」をよく読んでいたのです。そういう紙面での交流もあって悟堂は賢治に自分の詩誌「闊葉樹」を欠かさず送っていたのだと思います。賢治は「「闊葉樹」毎々お送りくださいましまことに・・・」とお礼の手紙を書きます。このお礼の手紙の下書きは日付不明になっていますが,
「闊葉樹」は中西悟堂が,昭和3年9月1日に創刊発行した詩誌です。この詩誌は創刊した昭和3年中に3号,翌昭和4年中に10号,終刊となる昭和5年3月までに2号と計15号発行されています。
と書簡解説に出ていますから昭和3年~昭和5年前半に書かれたと予想できます。


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童話村で行われているライトアップ2017

賢治が菜食主義に入ったのは1918年始め辺りでしょう。そして「ビヂタリアン大祭」を書いたのは解説ではおそらく1924年(大正13)28歳のとき,藤原嘉藤治の「他を犯さずに生きうる世界というものはないのだろうか」という言葉に答える形で書かれたと言います。
中西悟堂が厳しい菜食を始めたのは,昭和二年(一九二七)九月,三十一歳の時です。「春から火食を絶った生活に踏み切り、そば粉と大根と松の芽を常食とする。」という修験者の穀絶ち修行に似ています。

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童話村で行われているライトアップ2017


今日の記事で紹介したトルストイ「菜食論と禁酒論」では個人的な生活の改善だけでなく,産業の基盤を支える「分業」も嫌っています。最終目的は自立,自力です。他の人,物に依存しない生活です。自給自足の生活こそが偽りないライフスタイルであると言うのは一見利他主義とは関係ないように思えますが,惜しみなく他の人へ与えるという基盤が自分は手を下さないとは言え,自分の命の維持が他の人(職業としての屠殺人)による殺生から成り立っているのではいけないのです。自分自身が最善を尽くした生活(菜食)を行うことで利他主義の基盤が出来上がるという考えです。

一体このような菜食主義にシンクロして現れ出てくる利他主義とはなんなのでしょうか。これこそ宗教を超えるものでもあるように感じます。賢治が「自分の命も惜しくない,あげます」という心持ちで言っている過激さはこの徹底的な利他主義から出てくる文脈から読み取ることができるとしたら・・・。すべてのものを差し出す覚悟,自己財産も何も持たないというライフスタイル,自分のすべてを投げ出すという賢治の作品はどこに辿り着こうとしていたのでしょうか。

吉田司と山折哲雄の対談「デクノボー宮沢賢治の叫び 」(朝日新聞出版)は,賢治にとって「利他主義の実践とは何か」にまで及んでいて興味深い視点を掲げています。


この話は続きます


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二人の菜食主義者-賢治と悟堂- その2

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雨の白山権現境内にて

賢治は大正7年(1918)5月19日付,保阪嘉内に宛てた手紙に書きました。
私は春から生物のからだを食うのをやめました。
賢治は春に高等農林を卒業し,関教授のもと稗貫郡土性調査に出かけ,徴兵検査で第二乙種になったのでした。高等農林に残り,実験指導補助嘱託という身分でした。
もともと卒業前から菜食に転じていたのでしょう。土性調査で泊まった旅館で出される刺身や茶碗蒸しを「社会」通念上いやいや食べざるを得なくなって食べたことも書いてあります。肉や魚を食う同僚は,「まずい」だの,「違うのを食べさせろ」「鶏を出せ」だのと文句や不平を言ってばかりいる。最後には誰かが宿屋に偉そうに「こんなもてなしでは金を払わんぞ」と息巻いたりするわけですから賢治もいやになったりしています。そんな態度に嫌気が差しています。
賢治にとってはどんな生き物でも命は命。大きい小さいに変わりなく,平等で食う食われるという関係ではあり得ない。人だからと言って無闇に生き物の命を文句を言いながら食べる権利はどこにあるかと怒ってもいるわけです。自ずとこうした心持ちで生活していますから,主義として菜食主義になるべくしてなったということなのでしょう。おまけに手紙では嘉内と一緒に見た豚の屠殺場の現場がまざまざと眼に浮かんできたのでした。悲しくて仕方がない。でも泣くなと自分に言い聞かせます。
そして全てのかなしい生き物の成仏のために,自分は山々を,そして自然の一切を書くのだと言います。

この考えは「ビヂタリアン大祭」にそのままに現れています。
総ての生物はみな無量の劫の昔から流転に流転を重ねて来た。流転の階段は大きく分けて九つある。われらはまのあたりその二つを見る。一つのたましいはある時は人を感ずる。ある時は畜生、則ち我等が呼ぶ所の動物中に生れる。ある時は天上にも生れる。その間にはいろいろの他のたましいと近づいたり離れたりする。則ち友人や恋人や兄弟や親子やである。それらが互にはなれ又生を隔ててはもうお互に見知らない。無限の間には無限の組合せが可能である。だから我々のまわりの生物はみな永い間の親子兄弟である。
賢治は自己対話のようにしてこの作品を書いています。結局,宗教でも,神にとっての善でも,マルサスの人口論でもなく解決せず,果てしもない生命の歴史の中では様々に現在現れ出ている現象は事実で,真理である。あるのは,魚や豚や人間という現象の違いだけで,生き物としての関係性は絶体だと言います。今ここにある命は存在している自体で絶体であって,例えばクロアゲハの成虫だけでなく,毛虫としての幼虫であっても絶体的な存在としてあると賢治は考えているようです。これらの山川草木禽獣鳥魚すべてが苦界から抜け出ようとしている。この絶体平等性に基盤を置いて,「かなしき生き物」すべての成仏を祈ることが正しき道なのです。

台風一過9日 100-2gs
夏の花

保阪嘉内は高農に入学した折に,トルストイの思想に感銘を受けて農家の生活を営みたいと自己紹介し,賢治はそのように考えて入学するとは珍しくも,素晴らしいことだと言いました。
実はこんな賢治のベジタリアンの考えが「トルストイ-武者小路実篤-「新しい村」運動」と時代とシンクロして,「トルストイ-保阪嘉内-賢治」というトレンドとなることと一致しています。またこの流れが「新仏教運動-トルストイ-賢治」とポリフォニーのように協奏し合って菜食主義がライフスタイルになっていたことも確かでしょう。古代ギリシャのヘシオドス,ピタゴラス,プラトン,レオナルド・ダ・ヴィンチ,ルソー,シェリー,バイロン,フランクリン,ソロー,ワグナー,トルストイ,バーナード・ショー。すべて菜食主義に傾倒していたと言います。何もこうした西洋思想の影響だけでなく,仏教国日本では古くから菜食主義の伝統がありました。そこにのっかっているだけじゃんと思うかもしれませんね。


この話はさらにつづきます


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二人の菜食主義者-賢治と悟堂-

雨の月曜 064-2gs
雨の東北本線 新田-梅ヶ沢

先日中西悟堂の伝記を読んでなかなか面白い人だなあと思った。鳥好きの人は「中西悟堂」という名前はどこかで聞いたことがあると思います。悟堂は,日本野鳥の会を立ち上げた人で日本のナチュラリストの草分け的存在ですね。その中西悟堂が菜食主義になるという話が出てきて,「あれっ!賢治と似ているなあ」と思っていました。

そうこうしているうちに,賢治の手紙をパラパラとめくっていたら,何と賢治が中西悟堂に宛てた手紙があることに気付いたのでした。その手紙は日付は不明なのですが,使っている用紙は600字詰原稿用紙に鉛筆で書いてあります。賢治は,よく手紙の下書きを鉛筆で書いて清書はインクを使っていました。600字詰原稿用紙に鉛筆の下書きは昭和3年末から昭和5年4月に見られますが多くはありません。昭和5年8月には黄罫詩稿用紙を手紙に使うことが多くなるので,中西悟堂に宛てた手紙の下書きは昭和3年~昭和5年前半頃の手紙と考えられます。手紙の下書きの内容はたった一言です。
「闊葉樹」毎々お送りくださいましまことに
「闊葉樹」は中西悟堂が,昭和3年9月1日に創刊発行した詩誌です。この詩誌は創刊した昭和3年中に3号,翌昭和4年中に10号,終刊となる昭和5年3月までに2号と計15号発行されています。
賢治は毎回送られてくる「闊葉樹」のお礼を悟堂に出したのでした。

そこで宮沢賢治と中西悟堂との間にどんな接点があって,どれくらいの仲だったのかと思います。
調べてみました。

くりでん 026-2gs
くりでん走る

「宮沢賢治の詩の世界」というサイトで中西悟堂を検索してみますと,次のように載っていました。引用してみます。
1927年3月1日(火)(賢治30歳)、この日付で発行の雑誌「詩神」三巻三号に、佐藤惣之助が回想「詩戯と懐旧―大正詩壇回顧―」を執筆し、「寄贈されたしみじみ澄んだ記憶にあるもの」の中に『春と修羅』を挙げた。また、同号で中西悟堂も「大正詩壇の回想」で記憶にある詩集に『春と修羅』を挙げた。 また、本日付発行の雑誌「太平洋詩人」二巻三号に、草野心平が「二月六日」を発表し、その中で「宮沢賢治は銅鑼に於ける不可思議な鉱脈である」と記して、『春と修羅』の取り次ぎを表明した。

1926年2月1日(月)(賢治29歳)、本日付発行の雑誌「月曜」二号に、「ざしき童子のはなし」が掲載された。 本日付発行の雑誌「虚無思想研究」二巻二号に、「心象スケッチ 朝餐」が掲載された。 本日付発行の雑誌「日本詩人」おいて、詩人(後に野鳥研究家)中西悟堂が、「新彗星諸君」の一人として賢治を挙げた。
中西悟堂は賢治にかなり注目していたのです。

それじゃあと最初の疑問に戻ります。
2人とも菜食主義者ですが,この菜食主義そのものも2人の結びつきの中で生まれたのか,それともそのような時代の流れとして2人は各々に菜食主義になっていったのかという疑問が湧きます。


これは続きます。


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