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白い鳥

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白い鳥(宮沢賢治による「白い鳥」)

   二疋の大きな白い鳥が
   鋭くかなしく啼きかはしながら
   しめつた朝の日光を飛んでゐる
   それはわたくしのいもうとだ
   死んだわたくしのいもうとだ
   兄が来たのであんなにかなしく啼いてゐる
     (それは一応はまちがひだけれども
      まつたくまちがひとは言はれない)
   あんなにかなしく啼きながら
   朝のひかりをとんでゐる
     (あさの日光ではなくて
      熟してつかれたひるすぎらしい)
   けれどもそれも夜どほしあるいてきたための
   vague(バーグ)な銀の錯覚なので
     (ちやんと今朝あのひしげて融けた金(キン)の液体が
      青い夢の北上山地からのぼつたのをわたくしは見た)
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   どうしてそれらの鳥は二羽
   そんなにかなしくきこえるか
   それはじぶんにすくふちからをうしなつたとき
   わたくしのいもうとをもうしなつた
   そのかなしみによるのだが

      (ゆふべは柏ばやしの月あかりのなか
       けさはすずらんの花のむらがりのなかで
       なんべんわたくしはその名を呼び
       またたれともわからない声が
       人のない野原のはてからこたへてきて
       わたくしを嘲笑したことか)

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   そのかなしみによるのだが
   またほんたうにあの声もかなしいのだ
   いま鳥は二羽、かゞやいて白くひるがへり
   むかふの湿地、青い芦のなかに降りる
   降りやうとしてまたのぼる
     (日本武尊の新らしい御陵の前に
      おきさきたちがうちふして嘆き
      そこからたまたま千鳥が飛べば
      それを尊のみたまとおもひ
      芦に足をも傷つけながら
      海べをしたつて行かれたのだ)
   清原がわらつて立つてゐる
    (日に灼けて光つてゐるほんたうの農村のこども
     その菩薩ふうのあたまの容(かたち)はガンダーラから来た)
   水が光る きれいな銀の水だ
   (さああすこに水があるよ
    口をすゝいでさつぱりして往かう
    こんなきれいな野はらだから)


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銀河鉄道の夜-届いていた通信2-

異途への出発-2s
異途への出発 八戸線

「この世で起きることはすべてが関連性もなくばらばらで仮の姿として見えてくる」と先回私は書きました。
電気が灯っては夢のような世界が一瞬見え,消えれば暗い何もない世界に沈む。なんと心許ない私たちの世界。過ぎれば忘れ去り,夢なのかと疑い,事が起きれば以前にも増して動揺する。つまり「つぎはぎ」だらけの統一したものも持てない自分。その「つぎはぎ」を実は賢治自身が一番嫌ってもいました。自分の詩がつぎはぎだらけと思われるのを嫌い,「春と修羅」も書きました。これを一つの新しい感覚認識論の構築の礎にしたいと思いました。「明滅すること」と「つぎはぎ」は同じことです。過去と断絶していますし,未来とも断絶しているという意味です。すべてはフラッシュバックのように,幻燈のようにぱっと見えてはまた消えていくものなのです。この世は幻のように,「おごれる人も久しからず,ただ春の夜の夢のごとし(平家物語)」という考えにいつか作品でくさびを打ち込みたいと思い続けていました。これは単なるロマンチックな文学的試みではありませんでした。ただの感傷的な「つぎはぎ」でできた旧来のような作品では駄目なのです。全てのものが統一され,調和している次元を目指さざるを得ないということです。それは死んだ妹のトシとも交信(通信)ができる次元であり,死を越えて互いに感情や思考が交通できる新しい世界でなくてはならなかったのです。確かに賢治は残した作品群ではたいした完成度を見せていたのに(私は賢治の作品は最良の仏教説話に分類されると思っています)結局最後にはまた「銀河鉄道の夜」という最も優れた作品でも臆病になったのでした。
この「臆病」さという概念は賢治理解にとって大切なキーワードだと思います。
学業でも,仕事でも,生活でも,作品でも賢治はこと細かに父親に手紙を書きます。まるで,いつか私のこの考えが正しいことを証明して見せますと言わんばかりに手紙を父親に出し続けるのです。どうしても自分が客観的な事実で証明してみせなければ父親や相手が納得してくれないという何か強迫観念のような思いを賢治は持ち続けているように感じます。それを私は「臆病」さと言いました。この臆病さという言葉は普通は悪い消極的な負のイメージで用いられますが,臆病さから来る慎重さや作品を何回も推敲する完成度への執着という正のイメージも持たせています。
例えば雑誌に掲載する詩を送る時に,幻聴や幻覚のないもの(作品)を選びましたとか,終始原稿を推敲している箇所の全体を見ると読む者への伝わりやすさや文末表現を非常に気にしていたりする(作品の完成には必要な作業ですが)ように感じてしまいます。絶対こうだと主張しきれない,賢治の誤解を恐れるあまりの逡巡にも見えてくるのです。性格が優しすぎる賢治の一面でしょう。一歩引いている東北人の気質そのものが賢治の所作にも見えてきます。自分にもそうした東北人の控えめな態度が確かにあります。そうした意味で「臆病」という言葉を使いたくなるのです。

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長沼 霧の朝

さて,なぜ「黒い大きな帽子をかぶった青白い顔の瘠せた大きな一冊の本を持った大人」とブロニカ博士は最終的に「銀河鉄道の夜」の中から削除されることになったのか。これも読者が予定調和的だと読まれることを恐れた賢治の臆病さが伺える箇所です。この二人は確かにただの文学としての読み物を越える世界に誘う登場人物となります。それを敢えて削ることで賢治は作品の親しみやすさや平易さが担保されると感じたのではないでしょうか。賢治は読み手が「この作品は難解だな,そうか,テレパシーか」と誤解されて読まれることを恐れて削ったとも思われます。
・・・おまえの実験はこのきれぎれの考えのはじめから終わりすべてにわたるようでなければいけない。それがむずかしいことなのだ。けれどももちろんそのときだけのでもいいのだ。おおごらんあそこにプレシオスが見える。おまえはあのプレシオスの鎖を解かなければならない。」
そして夢から目覚めたジョバンニにブルカニロ(ブロニカ)博士がやってきます。そして博士はとんでもないことを言います。
「ありがとう。私は大へんいい実験をした。私はこんなしずかな場所で,遠くから私の考えを人に伝える実験をしたいとさっき考えていた。お前の云った言葉はみんな私の手帖にとってある。さあ帰っておやすみ。お前は夢の中で決心したとおりまっすぐに進んでいくがいい。」と言って,いつの間にか博士の手に入っていた緑色の,あのどこへでも行けるという切符をジョバンニに返すのです。
結局この削除された箇所は,遠くの人に自分の考えを伝えるという,ブルカニロ博士のテレパシーの実験であったことが明かされます。
これは賢治が樺太栄浜で行ったトシとの通信実験をあきらめてはいないということを意味しています。それをわざわざ削除したのはトシとの通信実験の必要性が死の床にいる賢治の中で変化していった(つまり通信自体をあきらめること,通信以外の方法の確立へ向かうこと)証と見ることができるのではないでしょうか。

以上が10/20にあった{朗誦伴奏「銀河鉄道の夜」第二夜}に参加して言えなかったことの大要です。


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銀河鉄道の夜-届いていた通信-

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10/20「銀河鉄道の夜」朗読

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「銀河鉄道の夜」朗読

10/20 16:30~20:30宮沢賢治「銀河鉄道の夜」を読む会が行われ,行ってきました。この頃注目の『宮澤賢治 愛のうた』の著者澤口たまみさんの話が聞けるということで楽しみにしていました。『宮澤賢治 愛のうた』で澤口さんは大正11~13年の賢治には相思相愛の恋人がいたこと,そしてその恋愛が「春と修羅」や当時の作品に密かに,しかし確かに表現されていることに着目します。その新しい切り口は凝り固まった賢治解釈の中に五月の春の風を思わせるような新鮮な息吹を吹き込んだように思います。

さて「銀河鉄道の夜」はさすがに朗読すると長く,休憩以外の時間は予想通りすべて朗読にあてられることになりました。もう少し澤口さんの「銀河鉄道の夜」の中に見られる賢治の恋愛についての読み解きを聞いてみたいと思いました。今後の澤口さんの読み解きに期待したいと思います。当然のことですが会場の皆さんとの意見交流の場も殆どなくなり,互いに今後の宿題として次回の第3回に期待することとなりました。

深山牧場 053s
純粋な心。ひたむきさ。願いの美しさ。透明さへの希求。

私自身「銀河鉄道の夜」を読んでいて,理解できなくて何回もひっかかる箇所が特に第一次原稿の中にあります。まず一つ目は黒い大きな帽子をかぶった大人の人の存在です。二つ目はブロニカ博士とのやりとりの削除です。
まず,カンパネルラが汽車から突然いなくなった後の文章です。最終稿では削除されていますが大変気になります。

そしてそこには「黒い大きな帽子をかぶった青白い顔の瘠せた大人がやさしくわらって大きな一冊の本を持ってい」た場面です。この部分は初期形から残っていましたが最終形では削除されています。不思議なのはこの黒い大きな帽子をかぶった青白い顔の瘠せた大人が語り聞かせる内容です。その部分を引用してみます。
けれども、ね、ちょっとこの本をごらん、いいかい、これは地理と歴史の辞典だよ。この本のこの頁はね、紀元前二千二百年の地理と歴史が書いてある。よくごらん紀元前二千二百年のことでないよ、紀元前二千二百年のころにみんなが考へてゐた地理と歴史といふものが書いてある。だからこの頁一つが一冊の地歴の本にあたるんだ。いゝかい、そしてこの中に書いてあることは紀元前二千二百年ころにはたいてい本統だ。さがすと証拠もぞくぞく出てゐる。けれどもそれが少しどうかなと斯う考へだしてごらん、そら、それは次の頁だよ。紀元前一千年だいぶ、地理も歴史も変ってるだらう。このときは斯うなのだ。変な顔をしてはいけない。ぼくたちはぼくたちのからだだって考だって天の川だって汽車だってたゝさう感じてゐるのなんだから
この文章は何を言っているのでしょう。分けて考えてみます。
①この頁はね、紀元前二千二百年の地理と歴史が書いてある。
②よくごらん紀元前二千二百年のことでないよ、
③紀元前二千二百年のころにみんなが考へてゐた地理と歴史といふものが書いてある。
これはひと頃よく言われたトマス・クーンのパラダイムのことを言っているようです。普通に歴史や地理の理論はその時代その時代の考え方を土台として書かれている。一つの概念が真理として何千年も続くことはない,考え方は時代時代の枠(パラダイム)で変わるものだ。だから永遠の理論はない。歴史はある法則で繰り返すように見えたりするが,実は一回性のものであってその時その時で断絶している。つまりこの世で繰り広げられる出来事は脈絡のない夢のように明かりが点いては見えて,明かりが消えてはなくなっていく。それぞれが独立していて互いに関連性はないということです。このように考えると次の文章が分かりやすくなります。
そのひとは指を一本あげてしづかにそれをおろしました。するとジョバンニは自分といふものがじぶんの考といへものが、汽車やその学者や天の川やみんないっしょにぽかっと光ってしぃんとなくなってぽかっとともってまたなくなってそしてその一つがぽかっとともるとあらゆる広い世界ががらんとひらけあらゆる歴史がそなわりすっと消えるともうがらんとしたたゞもうそれっきりになってしまふのを見ました。だんだんそれが早くなってまもなくすっかりもとのとほりになりました。
まとめると次のように言えるでしょう。
この世で起きることはすべてが関連性もなくばらばらで仮の姿として見えてくる。これが生々流転の意味ではないでしょうか。この世の現実にあまりに固執しすぎては迷いを生じ,三毒の泉に溺れることになる。三毒とは貪=むさぼり(欲深く物をほしがる、際限なくほしがる)、 瞋=怒り(自己中心的な心で、怒ること、腹を立てること)、癡=迷妄(物事の道理に暗く実体のないものを真実のように思いこむこと)です。賢治はこうした考え方で辛い現実をなんとか収めようと格闘していたのだと思います。


随分長くなりました。今日はまずこの辺で終わりにします。続きはまた書きます。

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朗誦伴奏「銀河鉄道の夜」第二夜のお知らせ

10月国際宇宙ステーション-2gs
国際宇宙ステーション

10月20日(土)午後4時半~
 栗原市 Cafeかいめんこや
 栗駒発 宮澤賢治の世界へ
 朗誦伴奏「銀河鉄道の夜」第二夜

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このポスターの絵,なかなかいいですね。

宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」は未完ながらまぎれもない傑作と言えるでしょう。

さて私が「銀河鉄道の夜」の論考で印象に残ったのは萩原昌好氏の「宮沢賢治「銀河鉄道」への旅」です。
萩原昌好

 死んだ妹トシと密かに交信する樺太への旅を萩原氏は鉄道と天体の運行から読み解こうとします。なんと言っても圧巻は同経度での花巻と樺太の栄浜に横たわる天の川が北上川の水面に鏡のように写り込む一瞬を描き出します。つまり天上から死んだ妹トシが降りて来るという劇的な瞬間を探し出していきます。これは天体の運行が地上にそのまま写しだされるということです。天上の理が地上に移されるということ,中国の天文思想が日本でも陰陽五行説として組み込まれた時に表れた新しい基準なのです。

 昔,日本には横の広がりとしての距離を基準として同一平面上にこの世あの世を置いていました。しかし陰陽五行説が天武朝に基準に組み込まれたことで方位,時間等の新しい座標軸が生まれたのです。遷都や祭礼はこの新しい思想によって組み立てられていきました。「隠された神々」を書いた吉野裕子氏に依れば現在でも日本の「祭礼の期日や時刻の設定や動きは北極とそれを巡る北天の座を地上に再現したものになる」と言います。

さすれば「銀河鉄道の夜」は天上がそのまま地上に移され,祝福された世界に他ならないと言えるでしょう。あの世が,ここでこの世で再現される。これ以上の賢治の完成形はないと思われます。


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宮沢賢治「おきなぐさ」を聞く

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新・遠野物語「お薬師さんのある部落」

16日の敬老の日にお月見をしようと朗読会と座談会「賢治をめぐって」というイベントに出掛けた。
賢治をめぐって
ポスターがまた凝ってますね。ナイスです。

朗読者は仙台放送のスポーツ番組「スポルタン」で有名な松浦貴広さんでした。
松浦さんが朗読に選んだ賢治の作品が「雨ニモマケズ」「おきなぐさ」「よだかの星」の三編でした。声がよく通り滑舌の利いたうまい朗読でした。
で,第二部は参加者それぞれが「自分の賢治との出会い」を話しました。みんなの話を聞いているうちに月齢17の月の立待月がするすると昇ってきました。あとは外でだんごを食べて終わりました。
お互いに賢治への思いがよく分かり,みんな友だちになったような気持ちになりました。こういう時間が取れたことは貴重でした。企画された石越郷土史研究会と千田さんに感謝します。

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MOTHER TREEに光差す

さて「おきなぐさ」を朗読会で聞くことは珍しいし,また聞いてみれば結構印象に残る作品でした。そこで「おきなぐさ」という作品を家に帰り,また読み直してみました。賢治の作品を聞いているといつの間にか迷路にはまり込んだように,言葉が飛び散って一しきりの物語を見失うことが自分にはよくあります。イメージが残像としてあるのに意味の遠近感がなくなる独特の浮遊感と閉塞感に捕らわれるのです。これは字面を読んでいる時にも確かにあるのですが,聞く中ではとても顕著に表れるものだと感じました。意味を追う回路が途切れて一言一言の言葉だけが隣同士かろうじてつながっている音だけの世界にはまり込む感じを「浮遊感と閉塞感」という言葉に当てはめてみました。

「うずのしゅげを知っていますか。」で始まる「おきなぐさ」ですが,おきなぐさがそのまま「うずのしゅげ」と言われています。賢治が語り掛けるようにおきなぐさの魅力が訥々と語られていきます。
毛茛科(もうこんか)のおきなぐさの黒朱子(くろじゅす)の花びら、青じろいやはり銀びろうどの刻みのある葉は、それから六月のつやつや光る冠毛(かんもう)がみなはっきりと眼にうかびます。
 まっ赤なアネモネの花の従兄いとこ、きみかげそうやかたくりの花のともだち、このうずのしゅげの花をきらいなものはありません。
これを聞いて具体的にイメージすることはとても難しいですね。読んで初めて理解できます。
そこで難しいと賢治も思ったのか物語は掛け合いに移りました。場所は「小岩井農場の南、あのゆるやかな七つ森のいちばん西のはずれの西がわ」です。そして「かれ草の中に二本のうずのしゅげが、もうその黒いやわらかな花をつけている」花のモノローグで進みます。そのモノローグは日の光が雲で翳ったり,また景色が輝き出すこの世界のおもしろさを語り続けます。
「ねえ、雲がまたお日さんにかかるよ。そら向むこうの畑はたけがもう陰かげになった」
「走って来る、早いねえ、もうから松も暗くなった。もう越こえた」
「来た、来た。おおくらい。急きゅうにあたりが青くしんとなった」
「うん、だけどもう雲が半分お日さんの下をくぐってしまったよ。すぐ明るくなるんだよ」
「もう出る。そら、ああ明るくなった」
なぜ賢治はこの光と影の描写を様々な作品で繰り返すのでしょうか。執着とも言える程です。例えば「チューリップの幻術」でも絶え間なく続きます。どうやらこれらの光と影への描写のしつこさは賢治が「風景を見ているときに何に反応しながら見ているのか,観察によって風景(対象)を的確に描写する技術がどう関わり合っているのか」を主題にしている節があるからでしょう。賢治は,風景を知識ではなく「生のそれ自体」として描こうとする構えがあります。これを直接的な純粋経験という形容もあるでしょうが・・・。
「花の盃の中からぎらぎら光ってすきとおる蒸気が丁度水へ砂糖を溶したときのようにユラユラユラユラ空へ昇って行く」のです。この白いチュウリップの花の杯から光が湧いて,どんどん湧きあがって,ひろがり,青空も光の波でいっぱいになるのです。            「チューリップの幻術」から
これは陽炎の蒸発する大気現象を描写したものです。それを「水へ砂糖を溶したときのようにユラユラユラユラ空へ昇って行く」と形容しています。見えている現象を科学的な現象に近づけて表現しようとします。また表現したことを保証するために科学的現象に言い換えていきます。以前に板谷英城氏が指摘しましたが「小岩井農場」パート3の中で鳥が頭上を通過するときにドップラー効果を使ったりします。

のぼせるくらゐだこの鳥の声
(その音がぼつとひくくなる
うしろになつてしまつたのだ
あるひはちゆういのりずむのため
両方ともだ とりのこゑ)

この中の「(その音がぼつとひくくなる/うしろになつてしまつたのだ」という箇所は鳥が前から鳴きながら飛んできて頭上を過ぎて後ろに遠ざかるにつれて鳥の鳴き声が「ぼつと低くなる」 というドップラー効果を示していると解説しています。近づいて来る音は高音になり,逆に遠ざかっていく音は低音になるというドップラー効果です。描写した後その描写を保証するための科学性への接近。これが賢治のユニークな表現を特徴付けている点と言えるのではないでしょうか。この賢治の基本姿勢で「春と修羅」を表現したとすると,ものの形状や色はより正確で科学的な用語を使うことになると思います。

   心象のはいいろはがねから
   あけびのつるはくもにからまり
   のばらのやぶや腐植の湿地
   いちめんのいちめんの諂曲(てんごく)模様
   (正午の管楽(くわんがく)よりもしげく
    琥珀のかけらがそそぐとき)
   いかりのにがさまた青さ
   四月の気層のひかりの底を
   唾(つばき)し はぎしりゆききする
   おれはひとりの修羅なのだ

私がつけた下線部はどちらかと言うと,より科学的な保証を背景として取り上げられた「ことば」と思えてしまいます。賢治独特の言葉の取り上げ方でしょう。この賢治独特の言葉の取り上げ方から生まれる詩がある面で新しく,ある面では難解で,またディレッタンティスムに見えたりするのではないでしょうか。

こんなことを考えながら賢治作品を読み聞かせする難しさをしみじみ感じた時間となりました。やっぱり賢治作品は読む人が自分のペースで字面を丹念に辿りながら味読するのがいいですね。


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