おらおらでひとりいぐも-栗駒山冬景-

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朝霞む 一関骨寺村

第158回芥川賞を受賞した若竹千佐子の「おらおらでひとりいぐも」を読みました。いろいろ話題には上がっていましたが,実は私は読み始めに苦労しました。休みのない独白に乗れないでいたのです。やがて74歳だという主人公桃子の圧倒的なモノローグのエネルギーに呆然としてきました。そしてそのモノローグの沸々としたエネルギーは,「口寄せ巫女」の言葉ではないかと思いついたのです。まるでおしら祭文を唱えるような語り口で終始機関銃のようにこの世の煩悩を神の言葉でなだめさせ,この世の霊を大地に沈めていくイメージなのです。

巫女なので憑依が同次元で繰り返されていきます。だから表現はポリフォニックに多声的に発展していきます。多人格が同時間に交錯しながら独特な言語空間をつくりあげていくのです。若竹氏はその多声法を「小腸の柔毛突起」と呼んでいます。ゆらゆらとそよいでは勝手に語り始めるイメージなのでしょう。この柔毛突起という言葉は,この無時間の物語のまるでライトモティーフの役割を担っているのです。
オラハオメダ。オメハオラダ。(おれはおまえだ。おまえはおれだ)と。

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冬の沢

このような叙述は若竹氏自身がほとばしる内的な脳内言語を「奉納する」意味を持っているからこそ生のままに語られていきます。物語なんかに頼る必要がないようです。だからこそ物語が欠如していることが欠点として批評家から指摘される畏れはあると思うけれど・・・。しかし,ただ陳腐な物語に退行して再話するという方法よりは,一貫性のない無人格へ向かう「柔毛突起」の動きに任せることで普遍性を獲得していく作品を私たちは忘れていると思う。つまり「語りという手法」をそのままひたすら祈りの言葉と「対他」というあの世から送り返される言葉によってこの若竹氏の「告白録」は成り立っているのだ。

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冬樹際立つ

しかしこの74歳の主人公桃子の力強さはなんだろうと思う。自由へ向かう,この指向性の強さはどこから来るのだろう。したたかすぎる生への同化性といってもいい。この現実的な考え方の例を私は明治時代の女性を描いた小泉八雲の「明治日本の面影」所収の「おばあさんの話」に見つけることができる。
他人の為だけに働き、他人の為だけを思い、他人の為だけに生きる人、限りない愛情と限りなく無私の心を持ち犠牲を厭わず返礼を求めないそんなひとだ。しかし、何世代に渡り幼い頃からあらゆる面で厳しく押さえ込む事によりついに、その有り得べからざる理想が現実の物となった。
蟻か蜂のようにエゴイズムを知らず、我がままとは一切無縁で、人を悪く思う事の出来ない人、生まれ育った社会を離れては生きて行けないほど善良な人、無論これほど出来た人は古来、稀有で女性一般の風となることは決して無かったが少なくとも昔の日本では、それがお手本に出来るくらい身近な存在であった。そして、女性というものが教育によりどれほど変わりえるかを見事に称していた。
こうした女子は声高に褒められる事もなく、静かに愛され皆に慕われた。(中略)でも、おばあさんは、とても辛い目に遭ってきた。沢山の武士の家が金貸しに騙されて潰れて行った時代にはおばあさんも随分とひどい仕打ちを受けた。その上多くの愛する者達と死に別れた。しかし、その苦しみも悲しみもおばあさんは決して人に漏らさない。怒りをあらわにした事は一度もない。世の悪行についておばあさんはお釈迦様と同じように考える。それは迷いであり無知であり、愚かなのだから、怒るよりも哀れんでやらなくてはいけないと。おばさんの心には憎しみの付入る隙もない



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ブナの紋様

若竹千佐子の「おらおらでひとりいぐも」は,もう歴史に埋もれてしまった「口寄せ巫女」の語りと明治時代まで残されてきた女性の考え方を再発見することとなった。彼女が遠野出身だと知ってなるほどと感じた。東北の「口寄せ巫女」の血筋を受け継ぐ人がまだいることに安心した。


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白い鳥-賢治の妹トシの命日-

霧の日曜 779-2gs
白い鳥 11/26撮影 伊豆沼

「白い鳥」という今日のタイトルは,宮沢賢治の妹トシが1922年11月27日に24歳という若さで亡くなってから,27歳の賢治が6か月7日ぶりに長い沈黙を破って書いた詩の作品の題名です。
この作品の日付は,1923.6.4です。前の日6.3には「風林」という作品も書いています。
賢治は作品中,白い鳥は,「わたくしのいもうとだ。死んだわたくしのいもうとだ」と書いています。死んだ妹のことをどうしてもあきらめられない苦しい心境が綴られます。
トシが亡くなって明日で95年になります。トシの命日は明日ですから,今日は賢治の妹トシに対する気持ちを考えてみたいと思います。少し長いですがまず「白い鳥」の最終形を引用します。同時に推敲の様子が分かるように,削除は「めんどうだ」というように表記し,挿入は中字で文字を少し大きくして,「←入レ」と表記します。
白い鳥

    ( 《みんなサラーブレツトだ
     あゝいふ馬 誰行つても押へるにいがべが》  )
   (  《めんどうだよつぽどなれたひとでないと》 )( )だったのが《》に書き換えている   古風なくらかけやまのした
   おきなぐさの冠毛がそよぎ
   鮮かな青い樺の木のしたに
   何匹かあつまる茶いろの馬
   じつにすてきに光つてゐる

      (日本絵巻のそらの群青や
       天末の turquois(タコイス)はめづらしくないが
       あんな大きな心相の
       光の環(くわん)は風景の中にすくない)

   二疋の大きな白い鳥が
   鋭くかなしく啼きかはしながら
   しめつた朝の日光を飛んでゐる
   それはわたくしのいもうとだ
   死んだわたくしのいもうとだ
   兄が来たのであんなにかなしく啼いてゐる

     (それは一応はまちがひだけれども
      まつたくまちがひとは言はれない)

   あんなにかなしく啼きながら
   朝のひかりをとんでゐる
     (あさの日光ではなくて
      熟してつかれたひるすぎらしい)

   けれどもそれも←入レ夜どほしあるいてきたための
   vague(バーグ)な銀の錯覚なので
     (←入レ ちやんと今朝あのひしげて融けた金(キン)の液体が
      青い夢の北上山地からのぼつたのを わたくしは見た←入レ )←入レ

   なぜどうしてそれらの鳥は二羽
   そんなにかなしくきこえるか

   それはじぶんにすくふちからをうしなつたとき
   わたくしのいもうとをもうしなつた
   そのかなしみによるのだが
      (ゆふべは柏ばやしの月あかりのなか
       けさはすずらんの花のむらがりのなかで
       なんべんわたくしはその名を呼び
       またたれともわからない声が
       人のない野原のはてからこたへてきて
       わたくしを嘲笑したことか)

   そのかなしみによるのだが
   またほんたうにあの声もかなしいのだ
   いま鳥は二羽、かゞやいて白くひるがへり←入レこの1行が加えられている
   むかふの湿地、青い芦のなかに降りる
   降りやうとしてまたのぼる

     (日本武尊の新らしい御陵の前に
      おきさきたちがうちふして嘆き
      そこからたまたま千鳥が飛べば
      それをみこと尊のみたまとおもひ
      芦に足をも傷つけながら
      海べをしたつて行かれたのだ)

   清原がわらつて立つてゐる
    (日に灼けて光つてゐるほんたうの農村のこども
     その菩薩ふうのあたまの容(かたち)はガンダーラから来た)

   水が光る きれいな銀の水だ
   (さああすこに水があるよ
    口をすゝいでさつぱりして往かう
    こんなきれいな野はらだから)
この作品は題名も「白い鳥」のまま,加除訂正もあまりないので,イメージはすでに出来上がっていたと思います。

ところが少し不思議に思うことがあります。

霧の日曜 567-2s
二疋の大きな白い鳥 11/26撮影 伊豆沼

二疋の大きな白い鳥は,まずハクチョウと見立てていいと思います。サギだと「日本武尊のたましい」と意味的に結びつかない感じがします。ハクチョウだと考え,少し不思議に思うことは,ハクチョウが6月の朝に岩手を通過するのはかなり時期的に遅いと思うのです。全く可能性がないとは断言できませんが・・・。ということは以前に見たことを覚えていて6月4日に書いたのか,もしくは実際に6月4日朝にハクチョウが上空を通ったのか。そしてハクチョウが「湿地に、青い芦のなかに降りる」というのも少し違和感があります。ハクチョウはけっこう身体が大きいので着水にも,飛びたちにも助走が必要です。湿地だとするとかなり大きな池や水たまりがあると思われます。

次に作品の成立について考えてみます。

霧の日曜 757-2s
二疋の大きな白い鳥 11/26撮影 伊豆沼

トシの死後,半年ぶりに書いた賢治の「風林」と「白い鳥」はつながっているようです。というのもどうやら6月3日の夜に夜通し賢治は歩き続けて翌朝4日に白い鳥を見たようです。
 けれどもそれも夜どほしあるいてきたための
   vague(バーグ)な銀の錯覚なので
     ちやんと今朝あのひしげて融けた金(キン)の液体が
      青い夢の北上山地からのぼつたのをわたくしは見た

とあるからです。
「風林」の一節にこうあります。
とし子とし子
   野原へ来れば
   また風の中に立てば
   きつとおまへをおもひだす

   おまへはその巨きな木星のうへに居るのか
   鋼青壮麗のそらのむかふ

    (ああけれどもそのどこかも知れない空間で
     光の紐やオーケストラがほんたうにあるのか
     …………此処(こご)あ日あ永(な)あがくて
         一日(いちにぢ)のうちの何時(いづ)だがもわがらないで……
     ただひときれのおまへからの通信が
     いつか汽車のなかでわたくしにとどいただけだ)

   とし子 わたくしは高く呼んでみやうか
と書かれています。そして場所は「柳沢(やなぎざわ)の杉はなつかしくコロイドよりも/ぼうずの沼森(ぬまもり)のむかふには/騎兵聯隊の灯も澱んでゐる」とあります。岩手山の麓の「柳沢」「沼森」辺りの「かしわの林」を夜っぴて歩いていたのです。それもどうやら生徒や同僚も一緒のようです。「一列生徒らがやすんでいる」とも書いているからです。学校の行事のかち歩きがあったのでしょうか。

このかち歩きの夜。6月3日は晴れていたようです。「おまへはその巨きな木星のうへに居るのか」と,木星が出ています。この1923年6月3日の夜の空に木星は本当に出ていたのでしょうか。ステナビでその日の星空を見てみましょう。

192363の夜-2
1923年6月3日の21:00頃の夜空 確かに木星は出ています「おまへはその巨きな木星のうへに居るのか」

この1923年6月3日の夜空に確かに-2.4等の明るい木星が出ています。明るいので一際目立ったと思います。この木星は午前3時頃西の空に沈みます。月は月齢18.7の居待ち月で22:28に出ます。もし賢治が夜通し歩いていたとしたら月がお伴していたでしょう。太陽は6月ですから夜7時頃沈んですっかり暗くなるのは8時過ぎということになります。
さて目立つ木星は夜9時半頃に高度35°くらいで南中を迎え,あとは沈んで行きますから,賢治は明るく輝く木星の上にトシを置いて想像したことになります。木星の上となると天秤座か乙女座のことを言っているのでしょうか。
賢治はこうした星々を眺めながら夜通し歩き続けて,翌朝に「ひしげて融けた金の液体」の太陽を見て,白い鳥が二羽と飛んでいくのを見たのです。コォーッ コォーッとハクチョウは鳴き交わしながら飛びます。多分もう遅れに遅れたつがいなのでしょう。北帰を急がねばなりません。その鳴き声は「鋭くかなし」く,大切な家族を救うことができなかった自分の非力さを思うのです。

私はハクチョウになったトシを追いかけて,およそ2か月後,北の樺太に向かった賢治に鳥になったトシというイメージのこだわりを感じます。大和武尊のみたまをハクチョウに見たように,トシをハクチョウに見立てることは日本人にとっては自然なのかもしれません。何よりも渡り鳥が神の使いと考えた歴史は古く,マガンやハクチョウなどの渡り鳥が新しい年を連れて神と一緒に降りてくるというイメージがあるからです。

霧の日曜 153-2s
大きな白い鳥 11/26撮影 伊豆沼

トシは大きな白い鳥となって毎年自分のところに帰ってきてくれると賢治は考えました。
また帰ってくる。しばしの別れだ。また帰ってきて家族に元気な姿と声を聞かせてくれる。「元気で帰ってこいよ」賢治はトシにそう言い聞かせて白い鳥,ハクチョウを見送ったのでしょう。
                                                                       合掌


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弟子であること

4日 043-2gs
11/4朝 東北本線 新田-石越

今日は「弟子であること」というタイトルでお話をします。
出てくる人は宮沢賢治,斉藤宗次郎,内村鑑三などです。

斉藤宗次郎は賢治の「雨ニモマケズ」のモデルではないかと目されている人ですね。その斉藤宗次郎が内村鑑三の愛弟子だと言われていることについてです。一方,内村鑑三は,弟子を取ることなどを嫌っていました。
 「人間の中に師として仰ぐべき人物を求めんとする者は必ず失望すべし、そは彼らの中に師として仰ぐべき理想的人物は一人も存在せざればなり、…」

 「近頃に至り「先生のお顔なりと拝見せんと欲して参上致しました」と言ひて余を訪問する者が折々ある、余は斯かる人らに告げて言ふ「余は他人に見せる為の顔を有たない、また君等は人の顔を見たとて何の益にもならない 神を信じキリストを仰げば、それで人の顔を見る必要は全然無くなるのである」と、日本国に未だ人物崇拝が絶えない、甚だ歎ずべき事である、…」内村鑑三「日々の生涯」から
もちろん内村鑑三にとっては師と言われるべきはキリストのみと考えてもいましたが,内心は人が勝手に内村の中に理想を見たり,ちやほやした後はぱったりと来なくなる人のことを悲しく思っていた節があります。
こんなことも書いています。
 「自分の弟子と称する人で自分に真似る人のあるを知りて嫌悪に耐へない。自分に真似るならば自分の独立独創を真似て貰ひたい。自分は誰にも真似なかつた、故に自分の弟子と称する人は誰にも、その師と仰ぐ人にも、真似て貰ひたくない。…願くば小内村の一人も出でざらん事を。…」
自分のことなど弟子だと言って真似をしてなんになると内村は言いたいのです。

ご存じのように内村鑑三は無教会主義を進めたキリスト教徒です。教会という派に属さず,自らの信仰を貫くという態度を取った人でした。内村は万延元年(1861)生まれ,斉藤は明治10年(1877)生まれでした。斉藤の方が16歳年下でした。内村は日露戦争に沸き返る当時,反戦を『万朝報』紙上で訴えていました。それを読んでいた斎藤も共感し,花巻で納税拒否、徴兵忌避も行うという意気込みを手紙にしたため,内村に送りました。どこまでも一本気の斎藤の手紙を読んだ内村は、すぐさま花巻に出向き,過激な出方を抑える説得にかかるのです。これは日露戦争が勃発する前の年,明治36年(1903)のことでした。
内村と斉藤は当時,どのように知り合ったのでしょうか。その経緯を引用してみます。
斎藤が内村を知ったのは、内村の文章を通してのことであった。斎藤が内村へ送った最初の手紙は「日本国内に義人などいない」と嘆く内村に対して激しく反発する内容であった(5)が、斎藤は内村の著作を読み進める内に、次第に内村に傾倒するようになっていった。その交流の初期は手紙でのやりとりが中心であるが、札幌伝道の帰途盛岡に滞在していた内村を斎藤が尋ねた際に両者ははじめて対面した。1901 年のことである。以後は斎藤が折りを見て上京することもあれば、内村が伝道旅行の際に斎藤のもとに立ち寄ることもあり、両者は親密な交流をするようになった。そして1926 年、斎藤は内村に近侍するために東京に移住し、以後は講演会や「聖書之研究」誌の運営等、内村の伝道活動を手伝った。さらに内村の死後には、岩波書店版『内村鑑三全集』(1932-33 年刊行)の編集実務委員を鈴木俊郎とともに努めている。
岩野祐介「内村鑑三における師弟関係 : 斎藤宗次郎『二荊自叙伝』を手掛かりに」(2006)から

1926年9月斉藤は内村のいる東京に出て,身の回りの世話をし,内村が死ぬまで付き添った。これが斉藤が内村の弟子と言われる経緯です。

伊豆沼 644-2gs
11/3 秋の光 東北本線 新田-梅ヶ沢

内村の周りには聖書研究会を開いてはたくさんの人々が現れては,消えていきました。その中で弟子と目されていた有島武郎も情死し,内村の中には自分の信仰に打ち込むことや誤解されること,いろいろに噂されることなどに対する苛立ちもあったと思われます。そんな思いが自分に対する人物崇拝のようなことはやめてほしい,一人一人の信仰の妨げとなる畏れもあると思い,弟子はとらないし,取るつもりもないという言葉になっていったと思われます。同期の新渡戸稲造や花巻の斉藤宗次郎と匆々たる面々が内村の近くにはいました。

4日 091-2gs
11/4 朝の光 東北本線 石越-新田

弟子であるということはどんなことなのでしょうか。
また弟子など取るつもりはないという内村の無教会主義は何を私たちに教えているのでしょうか。
ここに私は親鸞が自分の子ども善鸞を信仰の流れから義絶したことを思い起こします。親鸞が自分の息子さえ突き放していく厳しい態度は教義のずれを直そうとする行為でもありました。弟子達が教義を曲解し伝えることは致命的なことでもありました。また弟子達によって諍いが生ずることもあってはいけないことでした。日本の中で祖たちがその教えを正しく伝えるために,弟子に注ぐエネルギーはそれを受け継ぐ弟子たちの才能や優秀さだけではない資質も見抜いておかないとできないことであったでしょう。

伊豆沼 655-2s
11/3 おんぶいなごの向こうの電車

斉藤宗次郎が内村鑑三に終生連れ添ったという事実は彼の信仰の一徹さを物語り,また信仰する態度も教えてくれます。
でも内村は弟子をどのように考えていたのでしょうか。先ほど引用した岩野祐介氏の論文のまとめには次のように出てきます。
内村の死後、斎藤は自らの集団を率いていくようなことはしなかった。内村は生前から弟子たちを独立させたがっていたのであり、その点では斎藤が内村の事業を引き継いだとは言い難い。しかし、医療施設の慰問を積極的に行う等、斎藤が地道な伝道活動を続けたのも確かである。そして本書を含む著述や内村の著作をまとめる作業を通した間接的な伝道活動により、現在にまで影響を与えているとも言えるだろう。その点ではやはり斎藤は自分なりのやり方で内村から学んだキリスト教精神を広めた、と言うことができる。さらにそれらは詳細な歴史の記述でもあり、キリスト教研究だけにとどまらない資料的な価値を有している。


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消して生まれるという意味-賢治「薤露青(かいろせい)」-

振替月曜 071-2-2s
桜の精現れる

今は懐かしい桜の季節の写真を見つけた。
しかしこの写真は変な物が写っていたのでアップはしていなかった。この日は何枚写してもこのような物が写ったのでした。
これは「桜の精」ではないかと確信したのです。大変なものを写してしまったと思いました。やっと桜の真の姿に出会えたのかと驚き,背筋が寒くもなりました。

ところが・・・。
気付いたのです。

いろいろ撮ってみますと,写り込んだ,この桜の精は,ほんとうは自分の荒い鼻息だったのです。

夕方 102-2s
霧の中

さて宮沢賢治の「薤露青(かいろせい)」という作品は詩の成立時期により「春と修羅」第二集に収められた形になっています。
1924.7.17の日付の「薤露青 」は,類を見ない透明性と作品の質の高さにより私も大変好きな作品です。ところがこの「薤露青(かいろせい)」という作品はもともと賢治自身によって一度は書かれ,そして最後には抹消された作品だったのです。
薤露青(かいろせい)」もともとは音楽用五線ノートの裏面に書かれていて,かつ全体が消しゴムで消されてあったものなのです。それが1972年の「ユリイカ」8月号に天沢退二郎校注・解説でその消し跡から文字が復原され発表されたのでした。
といういわく付きの作品だったのです。

一旦「薤露青(かいろせい)」という作品は,消しゴムですべて消され,消し痕から甦ってきた作品なのです。
これは実に興味深い事実です。「未完成の完成」を追い続けた賢治にとって,「消す」という行為が「全て無に帰す」ということでは決してなく,再び姿を変えてメタモルフォーゼ(変態)を繰り返す作業を,自らの作品の生成と成熟の過程そのもので行っているのです。この変容され続ける作品群は,作品の作り手である賢治が心の底の闇から立ち昇ってくる形態も知らない感覚をたよりに手探りで形象化させて文字に変身させていく作業そのものでした。「せはしくせはしく明滅しながら」ともりつづけているとは,その形象もない感覚群で,文字として生まれていく世界の誕生の場面に立ち合っているということになるのです。
声のいゝ製糸場の工女たちが

   わたくしをあざけるやうに歌って行けば

   そのなかにはわたくしの亡くなった妹の声が

   たしかに二つも入ってゐる

     ……あの力いっぱいに

       細い弱いのどからうたふ女の声だ……
妹のトシの声は明滅し,生まれては消えていきます。そのようなはかない歌のような声がか細く,それでも確かに,この世に一瞬響いて消える。沈黙にその風にゆらぐ糸のような声の残響がたなびく。この「薤露青(かいろせい)」という作品がもともと音楽用五線ノートに書かれ,消されていたとは,なんと象徴的なことなのでしょうか。文字としてこの世に生まれても,歌曲として生まれても,賢治にとってはこの世に生まれた命を大切に育て,メタモルフォーゼさせ,完成形を目指す「作り手」としての義務を一生背負っていたのです。それは稲を育てることと同価ですし,花を育てると言うこととも同価なのです。

夜 010-2-2s
流れる雲

それでは「薤露青(かいろせい)」最後のあの語りかけは何を意味しているのでしょうか。これは浜垣誠司氏が何度も読者に語り掛けては深化を続けているテーマです。壮大なる賢治交響曲のテーマ部分でしょう。
  ……あゝ いとしくおもふものが

       そのまゝどこへ行ってしまったかわからないことが

       なんといふいゝことだらう……
どうしてトシの死をこのように言えるのか。どんな心境の変化があったのか。どんな思想の転換があったのか。誰もが信じられない言葉です。

私は賢治自身がこの部分を書きながら消していった意味がこの言葉にあると感じます。決して「なんといいことだろう」などとは露ほどにも思っていなかったのです。どうしてもそう考えなくてはいられない程の悲しみを消化することなどできないでいるのです。だから彼はこの葬送曲全体を消し去ったのではないでしょうか。「薤露青(かいろせい)」全体を消し去ることで彼はこの言葉そのものを鎮魂の儀式としたのだと思います。

最後に賢治はあれほどモダンな言葉を使いながら,彼が作品を紡ぎ出す過程は実に日本人の魂のとらえ方に同調しているのです。折口信夫の魂の生成論を思い出しましょう。
天中を行き経る遊離した魂,神が降らせた魂が人体の中府に降りて触れた魂を殖やし整えるということである。
こうして殖え整えられた魂が活動する力をもち、その余韻が威勢をもって外に放たれるのであり,「触(フル)」「威(フユ)」「振」は神を識り、聡く明るく身体剛健、寿命長遠の神術であると説いている。

                                       「折口信夫の霊魂論覚書」小川直之 から
この魂のとらえ方は賢治が感じた明滅する光を「人体の中府に降りて触れた魂」と置き換えて,変態を続ける作品群を「殖やし整える」と置き換えて,作品が成立することを「こうして殖え整えられた魂が活動する力をもち、その余韻が威勢をもって外に放たれるのであり」 に置き換えると,魂の運動と賢治の作品の校正過程と一致していることが分かります。彼の永遠に続く作品のメタモルフォーゼは,書かれたもの(エクリチュール)を「魂」として成長させ,育み,運動させる行為だったと理解されます。


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賢治の遺志を継ぐ人たち

雨晴れて 092-2gs
水面から生まれる星たち-伊豆沼-

一日続いた雨音を聞きながら休み,今朝は夜明け前にふと起きると美しい星空でした。
あまりの美しさに星空を見に出かけました。

さて今日は9月も終わりですから,夏辺りから考えていたことを書いてみます。また,脈絡もなく話すので適当にお読み下さい。

先週,新庄で行われた劇「土に叫ぶ人 松田松田甚次郎-宮沢賢治を生きる-」を観に行きました。つくづく宮沢賢治の訓(おし)えを貫いて,一生小作人として働き続けた松田甚次郎のひたむきな生き方に感動を覚えました。素晴らしい人物がいたものです。一体どんなきっかけで教師をやめて羅須地人協会にいた賢治と松田は知り合ったのでしょうか。
1927(昭和二)年2月1日の岩手日報の夕刊に,写真入りで宮沢賢治の羅須地人協会の活動の紹介が掲載されました。盛岡高農の卒業を前にして松田と須田仲次郎の二人は旱魃で苦しんでいた赤石村を慰問に訪れました。その折,新聞を読んでいた二人は先輩の31歳になった宮沢賢治を思い切って訪ねたのです。甚次郎18歳になったばかりでした。昭和二年の三月八日午前11時半と記録にあります(堀尾青史「年譜宮沢賢治伝」)
その時,賢治は「小作人になれ」「農民劇をやれ」と教えたといいます。甚次郎は,代々地主の家でありながら賢治の教えの通り,父から田んぼを借りて掘っ立て小屋を建てて小作人になって働き,農民劇をつくり次々と賢治の教えを実行していきました。

このような甚次郎を見ていると,私は賢治の親友藤原嘉藤治を思い出すのです。音楽の教師で一流でありながら賢治の死後,彼は職を辞し,賢治全集に力を入れ,終戦の年,49歳で岩手に帰り,生まれ故郷の紫波郡水分村の東根山麓に開拓で入植しました。爾来81歳で死ぬまで土にまみれた人生をおくったのです。あのハンサムで音楽の教師として秀でた藤原嘉藤治がですよ。これもまた賢治の遺志を継いだのだと思います。

雨晴れて 083-2gs
霧に滲む

ところがこの昭和初期という時代は社会に対しこのような戦いを挑んでいった農民たちのエネルギーに満ちた時代だったのです。私は宮城県に住んでいますが,この頃の農民運動記録がすごいのです。以前私は日本一の地主,前谷地の齋藤善右衛門に挑んだ「矢後利明」の記事を書きました。彼は死んだら齋藤善右衛門に睨みを利かせるために山の頂上に埋めてほしいと言って死にました。彼の墓はまだのの岳山頂にあります。(その矢後利明の記事は こちら )

そして最後に賢治に戻り,「雨ニモマケズ」のモデルと噂される花巻出身の斉藤宗次郎がいます。彼の行動力と一途さにはあの内村鑑三でさえ花巻まで来て,必死になだめた程の逸材です。花巻の教会で賢治と宗次郎は知り合ったのかもしれません。

夏頃からずっと賢治の遺志を継ぐ人に目を向けたいと調べていますが,次から次へと繋がっていきます。
例えば,松田甚次郎と吉田コト,住井すえ,増子あさの関係などを辿ると,その人間性の素晴らしさと相まって時代が要請した全国規模まで広がる組合運動はもう抑えられるものではありませんでした。賢治の人柄もまた魅力ですが,賢治に負けない程の情熱をもった人々がたくさんいました。私たちはできるならそんな無名の偉人を探し続けたいものです。



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