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「風の又三郎」考-迷いの描写について-

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栗駒山

9月1日に「夏の終わり-風の又三郎-」を書いてから,改めて「風の又三郎」のことを考えてみたいと思うようになりました。
「風の又三郎」という作品fはどこに魅力があるのだろうか。それをもう少し確かめてみたいのです。
何回読んでも,嘉助が逃げた二頭の馬を追って山で迷うシーン(九月四日 日耀)はその白眉です。山で迷うと人はどうなるか,どんなことを考えるか,どんな幻聴が聞こえてくるかを言語に置き換えた場合のお手本がここにあると感じます。立ち込める霧,消えた踏み跡,散々歩いた後にまた同じ場所に戻ってしまうワンデリング,迫りつつある不安は天候の変化によって知らされます。
空はたいへん暗く重くなり、まわりがぼうっとかすんで来ました。冷たい風が、草を渡りはじめ、もう雲や霧が切れ切れになって目の前をぐんぐん通り過ぎて行きました。
 (ああ、こいつは悪くなって来た。みんな悪いことはこれから集たがってやって来るのだ。)と嘉助は思いました。全くそのとおり、にわかに馬の通った跡は草の中でなくなってしまいました。
 (ああ、悪くなった、悪くなった。)嘉助は胸をどきどきさせました。
ついに迷ってしまったのです。迷いきった不安が周囲と同調して立ち上がる瞬間が訪れます。

 風が来ると、すすきの穂は細いたくさんの手をいっぱいのばして、忙しく振って、
「あ、西さん、あ、東さん、あ、西さん、あ、南さん、あ、西さん。」なんて言っているようでした。

山の中に一人で居る不安,取り残され感,気付いたら道がなくなっていたという緊張感。
人はこれらを子どもの時に誰しもが経験する感覚と片付けてしまいます。だから「風の又三郎」は子どもが読む童話なのだと言います。しかし,実際に山で迷ったことのある人ならばこの嘉助の不安の凍り付いた心情が手に取るように分かると思います。これはもう童話ではなくなっているのです。「あ、西さん、あ、東さん、あ、西さん、あ、南さん、あ、西さん。」と繰り返すすすきの穂の揺れの言語化はもう身体言語の究極の表現だと言えます。

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散歩

例えば山で迷って帰れなくなっている嘉助に更なる絶望が重なっていきます。そうなんです。不安は畳みかけるように「悪い」結果を連れてやってきます。

嘉助はがっかりして、黒い道をまた戻りはじめました。知らない草穂が静かにゆらぎ、少し強い風が来る時は、どこかで何かが合図をしてでもいるように、一面の草が、それ来たっとみなからだを伏せて避けました。


ここで注目したいのは下線部の「どこかで何かが合図をしてでもいるように」という書き方です。世界は嘉助に絶望の雨に打たれよと言います。一体全体「何かが合図を送っている」とは何のことでしょう。自分の不安が外在化されて行き,自分を悩ませる「何かが」世界の奥から現われてきて合図を送り始める。悲劇のライトモティーフが鳴り始めます。
賢治が「風の又三郎」で描こうとしたのは童話でも何でもなく,生々しい感情体験を言語化する試みなのです。そしてこの感情体験は「遠野物語」で描かれる山での変わった出来事と不思議にもにシンクロしているのです。森の文化に生きる人々の共通感覚なのかも知れません。そして柳田國男は続けて「山の人生」を書きます。しかし賢治は詩人ですから詩にこだわります。感覚の究極の表現へと突き進みます。その詩的な試行がまとまった形で出たのが「風の又三郎」ではなかったかと気付かされます。人の希望などすぐ打ち壊されます。

それからすぐ目の前の霧の中に、家の形の大きな黒いものがあらわれました。嘉助はしばらく自分の目を疑って立ちどまっていましたが、やはりどうしても家らしかったので、こわごわもっと近寄って見ますと、それは冷たい大きな黒い岩でした。
 空がくるくるくるっと白く揺らぎ、草がバラッと一度にしずくを払いました。

助かった。家だ。すると道が見つかり迷いは一瞬で断ち切られる。助かった。しかし,その黒いものは家ではなく,大きな岩でした。そしてその絶望に呼応するように次のように情景が描かれます。「空がくるくるくるっと白く揺らぎ、草がバラッと一度にしずくを払いました。」この絶望を更に深めるための情景描写はクライマックスを語り,秀逸です。藤沢周平の叙述にもこのような感情に寄り添って描かれる情景描写が出てきますが,読む者には感情を突き放す効果として登場人物の心情が,世界の小さな一隅に座標化され一層孤独感や寂しさが際立つように感じるのです。


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秋雨

完成形「風の又三郎」は「初稿風野又三郎」「さいかち淵」「種山ヶ原」といったエピソードを吸収しながら,発酵し続けていきました。賢治自身もこの作品を集大成にしようと並々ならぬ意欲で取り組んでいました。推敲用原稿を作ったり(松田筆写稿),音楽を付けること(沢里武治への作曲依頼)や取材すること(書簡)を試みていました。断片からまとまりある作品の成立という賢治の遍歴の過程が手に取るように分かるのです。幸いそれらの過程は生原稿を見たり,天沢退二郎氏のセミナーや「謎解き・風の又三郎」等で残されて現在でも読むことができます。今回はそうした記録をなぞり直して「風の又三郎」の沈み往く輪郭に指をなぞらせてみたいと思います。

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万歳

こうして見ると,山に迷うシーンが妙にリアルなことは確かなようで,これは賢治の実体験から来ていると言ったらあまりに軽薄な言い方になるでしょう。リアルさは賢治の文章の何処から滲み出てくるものかと問いを立てた方が生産的です。
先程山で迷った嘉助はとうとう迷ったまま気を失ってしまいます。その箇所をなぞってみます。

「伊佐戸いさどの町の、電気工夫の童わらすあ、山男に手足いしばらえてたふだ。」といつかだれかの話した言葉が、はっきり耳に聞こえて来ます。
 そして、黒い道がにわかに消えてしまいました。あたりがほんのしばらくしいんとなりました。それから非常に強い風が吹いて来ました。
 空が旗のようにぱたぱた光って飜り、火花がパチパチパチッと燃えました。嘉助はとうとう草の中に倒れてねむってしまいました。


さっきは「どこかで何かが合図をしてでもいるように」と不安の実体が文章の中で外在化されていました。またです。今度は「いつかだれかの話した言葉が、はっきり耳に聞こえて来ます。」です。脈絡もなく,忘れ去られた記憶からあぶくのように湧き上がってくる呪文のような言葉。その言葉は意味も分からず,いつ,誰が発した言葉かも分からない。ただその言葉は嘉助を更に痛みつけるように突然に降ってくるのです。実に巧みな表現です。このように読んでいくと「風の又三郎」も「タネリ」なども敢えて当時流行った童話の「心温まる筋の展開の妙」というものから賢治の視点は少しずれていたように感じます。賢治のスタンスは映画で言うと,まるでタルコフスキーの「ストーカー」やビクトル・エリセの「ミツバチのささやき」に近いものだと感じます。主人公がこの世でどうした,ああしたのストーリー(筋立て)の世界にいるのではなく,もう冒頭から心情の世界がすぐ始まっている世界に前提なしに入り込むのです。やはり詩的なのです。この点で私はミステリーやホラー小説のように賢治の作品を読んでいったらおもしろいと思います。いたるところに「レッドヘリング」の新手(あらて)の使い手としての表現が隠されているように思います。

今日は「迷うことの表現」を取り上げましたが,次は原稿の成立についてふれたいと思います。

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夏の終わり「風の又三郎」

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夏の終わり  栗駒山にて

9月に入りました。

9月というと,宮沢賢治の「風の又三郎」が始まるのが九月一日という設定でした。

どっどど どどうど どどうど どどう
青いくるみも吹きとばせ
すっぱいかりんも吹きとばせ
どっどど どどうど どどうど どどう

 谷川の岸に小さな学校がありました。
 教室はたった一つでしたが生徒は三年生がないだけで、あとは一年から六年までみんなありました。運動場もテニスコートのくらいでしたが、すぐうしろは栗くりの木のあるきれいな草のでしたし、運動場のすみにはごぼごぼつめたい水を噴ふく岩穴もあったのです。
 さわやかな九月一日の朝でした。青ぞらで風がどうと鳴り、日光は運動場いっぱいでした。黒い雪袴ゆきばかまをはいた二人の一年生の子がどてをまわって運動場にはいって来て、まだほかにだれも来ていないのを見て、「ほう、おら一等だぞ。一等だぞ。」とかわるがわる叫びながら大よろこびで門をはいって来たのでしたが、ちょっと教室の中を見ますと、二人ふたりともまるでびっくりして棒立ちになり、それから顔を見合わせてぶるぶるふるえましたが、ひとりはとうとう泣き出してしまいました。というわけは、そのしんとした朝の教室のなかにどこから来たのか、まるで顔も知らないおかしな赤い髪の子供がひとり、いちばん前の机にちゃんとすわっていたのです。そしてその机といったらまったくこの泣いた子の自分の机だったのです。 (引用ここまで)

「風の又三郎」は「二百十日」に当たる九月一日が台風の多い日や風の強く吹く特異日だというをもとに構成されているように感じます。九月一日水曜日は,秋に入り「二百十日」の日に当たり,谷川の岸の小さな学校の2学期の始まりの日です。そこに北海道からお父さんの仕事の事情で5年生に転校してきた赤い髪の高田三郎は奇妙な子どもでした。
変てこなねずみいろのだぶだぶの上着を着て、白い半ずぼんをはいて、それに赤い革の半靴をはいていたのです。
 それに顔といったらまるで熟したりんごのよう、ことに目はまん丸でまっくろなのでした。いっこう言葉が通じないようなので一郎も全く困ってしまいました。

高田三郎のお父さんは師で,どうやら「上の野原の入り口にモリブデンという鉱石ができるので、それをだんだん掘るようにするため」にこの土地へ来たようです。モリブデンという鉱石を掘り,「鉄とまぜたり、薬をつくったりする」と説明されています。
九月二日(木)
学校の勉強が始まる。
九月三日( )学校が終わって遊んでいた子ども達。逃げた馬を追いかけていた嘉助と三郎でしたがとうとう離ればなれになり,嘉助は迷った挙げ句疲れ果てて寝てしまい,三郎の夢をみます。
 そんなことはみんなどこかの遠いできごとのようでした。
 もう又三郎がすぐ目の前に足を投げだしてだまって空を見あげているのです。いつかいつものねずみいろの上着の上にガラスのマントを着ているのです。それから光るガラスの靴くつをはいているのです。
 又三郎の肩には栗くりの木の影が青く落ちています。又三郎の影は、また青く草に落ちています。そして風がどんどんどんどん吹いているのです。
 又三郎は笑いもしなければ物も言いません。ただ小さなくちびるを強そうにきっと結んだまま黙ってそらを見ています。いきなり又三郎はひらっとそらへ飛びあがりました。ガラスのマントがギラギラ光りました。

九月四日(金)
ブドウを取りに行ったりします。
九月五日(土)
沢に水遊びをしていると発破による漁をしています
九月六日(日)
沢で水遊びをします。魚の毒もみをします。雷が鳴り出しました。
九月七日(月)
一郎が三郎の夢をみます。朝起きると激しい嵐の朝でした。皆が学校へ行くと,高田三郎がまた北海道の学校に戻って行ったことを知ります。
以上が文章の期日に従って日記風にしたものですが,物語の時間や整合性を辿り直すと全集では九月一日は木曜日で,最後の日は九月十二日(月)になっているようです。実際賢治が死んだ翌年1934年(昭和9)に発表された,この「風の又三郎」は暦通りに九月十二日が月曜日になる年とは何年になるのでしょうか。暦を辿ると九月十二日が月曜日になる年は1932年(昭和7)となります。「雨ニモマケズ」が書かれたこの昭和7年という年の暦を日記風「風の又三郎」の時間軸にしつらえたのでしょうか。ここでその周辺のことを考えてみたいと思います。前年の年譜をみてみましょう。
1931年9月9日(水)(賢治35歳)、この日も盛岡に出て、9月11日から県主催で開かれる「肥料展覧会」の準備を行ったと推定される。
 また、9月初めに訪ねた上郷村の元教え子沢里武治あて(書簡386)および武治の父連八あて(書簡387)に、礼状を書いた。この訪問で賢治は沢里に、「風の又三郎」冒頭の「どっどど どどうと…」の詩を朗誦し、これに曲を付けることを依頼したが、結局沢里は作曲できなかったという。
とある通り,賢治は病床から起き上がると東の東北砕石工場技師として働きます。一方で風の又三郎を完成させるために音楽が堪能な教え子沢里武治に冒頭のどっとどどどうどの詩に曲を付けてもらうよう依頼をします。この年はしきりに音楽と作品を結びつけようと沢里武治との交遊を深めようとしています。また「童話文学」へ掲載する第三の作品,これこそ「風の又三郎」だと思われますが,取材を兼ねて「細越近辺乃至沓掛」当たりへ同行願えないかと沢里に手紙で打診しています。(書簡1931,8,13)そしてもらった返事に対し,8月18日(火)にすぐ手紙を書きます(書簡379)。
 「水沢からのお手紙拝誦しました。廿日に当地においでのことそれならば殊に好都合ですから切にお待ちいたして居ります。作曲の方はこれからもどしどしやられ亦低音部がゆるやかに作ってあればセロをも入れられるでせうし第一に歌詞ない譜曲だけスケッチして置かれれば歌詞は私が入れませう。仙人峠の方は今月末或は寧ろ学校が始まってからの方が好都合な点もあります。それはこの頃「童話文学」といふクォータリー版の雑誌から再三寄稿を乞ふて来たので既に二回出してあり、次は「風野又三郎」といふある谷川の岸の小学校を題材とした百枚ぐらゐのものを書いてゐますのでちやうど八月の末から九月上旬へかけての学校やこどもらの空気にもふれたいのです。とにかく二十日にはお待ちして居りますから駅前から電話をかけるか或は当日は朝顔会があるので午前中は町役場(館)の二階に居りますからそちらへ訪ねて下さるなら殊に好都合です。まづは。」しかし九月二十日はトランクを持って東京に出て,死を覚悟する「雨ニモマケズ」を書く重篤な病状が再発した日となりました。約束は果たされなかったのです。晩年沢里武治に手紙を書きますが,もうその文面には風の又三郎の冒頭の詩の作曲や取材の同行依頼の気持ちもなくなっています。

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それでは「風の又三郎」はいつ頃から形を成していたのでしょう。
宮澤清六著『兄のトランク』に、次のような一節があります(p.90)。

 ・・・・・・大正十二年の正月に、兄はその大トランクを持って、突然本郷辰岡町の私の下宿へ現われた。
 「此の原稿を何かの雑誌社へもって行き、掲載さして見ろじゃ。」と兄は言い、それから二人で上野広小路へ行って、一皿三円のみはからい料理を注文して財布をはたき、さっさと郷里へ引き上げた。
 当時学生の私は、そのトランクを「婦人画報」の東京堂へ持って行き、その応接室へドシッと下し、小野浩という人に「読んで見て下さい」と言って帰ったのだ。
 あの「風の又三郎」や、「ビヂテリアン大祭」や「楢ノ木大学士の野宿」などと言う、桁っ外れの作品が、どうして婦人画報の読者たる、淑女諸氏と関係ある筈があろう。
 そいつを思う度毎に、私はあまりの可笑しさに、全く困って了うのだ。
 「これは私の方には向きませんので」と数日後にその人は慇懃に言い、私は悄然とそれを下げて帰ったのだ。
 そしてそのトランクは、またうすぐらい蔵の二階にしまわれて、九年という長い年月を経たのである。・・・・・・(この部分引用。引用元は「宮沢賢治の詩の世界」)
とあるように賢治26歳。大正12年(1923)正月のトランクの中にもう「風の又三郎」の原型はあったようです。ひょっとして亡くなる前のトシに読み聞かせていたものかも知れません。

「風の又三郎」は幻想味,異界感,自然や季節の細かい描写,嘉吉が迷ったの孤独感等,風というモチーフを中心とした一流の作品と言えるでしょう。

陰翳ある緑

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緑の中の「雨ニモマケズ」

つい先日のことでした。
テレビで「四次元の賢治-完結編-」というオペラを放映していました。中沢新一が脚本を書いたと憶えていたので観てみました。中沢新一がつくろうとしている「レンマ思考」という世界解釈の枠に賢治の考えはどのように溶け込んでいくのだろうという興味もありました。とても素晴らしい完成度の作品でした。
今日はまたつらつらと作品を観た感想と賢治について書いてみます。

賢治はすべてが幸せによって統一される世界を望んでいました。その秩序付けられた世界は宇宙原理とも言っていい自然の法則と同じ方向を向いていることで成り立っていました。すくなくてもそう望むことは賢治でなくても万民みなそういうおもいでしょう。
たゞひとつどうしても棄てられない問題はたとへば宇宙意志といふやうなものがあってあらゆる生物をほんたうの幸福に齎したいと考へてゐるものかそれとも世界が偶然盲目的なものかといふ所謂信仰と科学のいづれによって行くべきかといふ場合私はどうしても前者だといふのです。すなわち宇宙には実に多くの意識の段階がありその最終のものはあらゆる迷悟をはなれてあらゆる生物を究竟の幸福にいたらしめやうとしてゐるといふまあ中学生の考へるやうな点です。(書簡252c下書(四))
ここには宇宙原理は善である。自然は善である。自然は悪を行わないという基本的な大枠があります。ここに賢治の汎神論的一元論というスタンスがあります。野も山も草花も虫も人も自然の成果ですからみな平等であり,かけがえのないものです。つまり自然に対する絶対的な信頼に基づいています。太陽を中心としたこの銀河系の法則〈宇宙原理〉に逆らうことはできないということです。これらの考えは世界に存在するものに差別化を好まない幼少期に仏教によって育まれた賢治の性格と一致するでしょう。
「四次元の賢治-完結編-」のラストで「私はわたしであって私ではない」と何回か繰り返されます。
このようなセリフを聞くと私は「インドラの網」という賢治の作品を思い出します。ちょっと最後の方を引用してみます。
百千のその天の太鼓は鳴っていながらそれで少しも鳴っていなかったのです。私はそれをあんまり永く見て眼も眩くなりよろよろしました。
「ごらん、蒼孔雀を。」さっきの右はじの子供が私と行きすぎるときしずかに斯う云いました。まことに空のインドラの網のむこう、数しらず鳴りわたる天鼓のかなたに空一ぱいの不思議な大きな蒼い孔雀が宝石製の尾ばねをひろげかすかにクウクウ鳴きました。その孔雀はたしかに空には居りました。けれども少しも見えなかったのです。たしかに鳴いておりました。けれども少しも聞えなかったのです。  そして私は(三人の天の子供に会いながら)本統にもうその三人の天の子供らを見ませんでした。
 却って私は草穂と風の中に白く倒れている私のかたちをぼんやり思い出しました。
どうして賢治はこのような現実ではないような夢うつつのような書き方をするのでしょう。見たものは本当は見なかった,聞いたがあれは幻聴だったと打ち消していく。話自体が確かに眠っていての夢の話であることは確かなのですが・・・。
私はここに賢治の実際に見えているものへの心細さ,つまり今見えている現象自体が幻であるとしてしまう虚ろさや空しさを感じ取ってしまいます。つまり仏教の空論を賢治はどう考えていたのだろうと思わされるのです。そこで私が「銀河鉄道の夜」で理解しがたい箇所としたあの文章に行き着きます。
そのひとは指を一本あげてしづかにそれをおろしました。するとジョバンニは自分といふものがじぶんの考といへものが、汽車やその学者や天の川やみんないっしょにぽかっと光ってしぃんとなくなってぽかっとともってまたなくなってそしてその一つがぽかっとともるとあらゆる広い世界ががらんとひらけあらゆる歴史がそなわりすっと消えるともうがらんとしたたゞもうそれっきりになってしまふのを見ました。だんだんそれが早くなってまもなくすっかりもとのとほりになりました。
ぽかっと光っては見え,また消えるという明滅は「春と修羅」を思い出させます。「わたくしといふ現象は/仮定された有機交流電燈の/ひとつの青い照明です/ (あらゆる透明な幽霊の複合体)/ 風景やみんなといつしよに/ せはしくせはしく明滅しながら/いかにもたしかにともりつづける/因果交流電燈の/ひとつの青い照明です/ (ひかりはたもち、その電燈は失はれ) 」
賢治は今自分に見えているものが限定的で,真実を見ているとは限らないと思っていたのではないでしょうか。その普遍性のない特殊な自分にしか見えていない映像を「心象」つまり「メンタルスケッチ」と言うしかなかった。実に徹底しています。

賢治のこうした視覚や思考のどこか科学的でない「心象」の成果をどうにかして「虚無」ではないようにしていきたいという意志がありました。私は賢治のそうした科学的な姿勢で文学を昇華させていこうという態度を,良識的な文化人が持つ「謙虚なる最高の自由への旅人」と呼びたくなります。


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新・遠野物語-一人一文字「雨ニモマケズ」4-

風ニモマケズ
風ニモマケズ

写真の「雨ニモマケズ」の作品は子どもが一人一文字ずつ書いたものです。
宮沢賢治の「雨ニモマケズ」は298文字全55行からできています。子ども一人が一文字ずつ好きな色で書いていくと総勢298名の子どもの手によって完成した作品になります。文字も行替えもすべて:賢治が「雨ニモマケズ」を残した手帳通りにしました。子どもたちは時に真剣に,時に楽しく,時に笑いながらこの作品を書いてくれました。思い出多いこの作品を写真として残したいと思い,新遠野物語シリーズとして「一人一文字雨ニモマケズ」を始めることにしました。

今日は朝の光の中で撮った「雨ニモマケズ」です。

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桜散って「雨ニモマケズ」

小学生に上がる前の子どもの「雨ニモマケズ」の暗唱を聞いたことがありました。幼いながらもしっかりとした暗唱に驚いたことがありました。
今日は「雨ニモマケズ」の途中部分についてお話ししたいです。次の箇所です。
・・・
アラユルコトヲ

   ジブンヲカンジョウニ入レズニ

   ヨクミキキシワカリ

   ソシテワスレズ・・・
この箇所の「カンジョウ」ですが,「感情」なのか「勘定」なのか。

もうお分かりですね。
正解は「勘定」です。
つまり「自分のことは勘定に入れずに,まず最初に他の人のことを考えてあげること」という意味です。利他主義に徹することという意味ですね。従って音読する場合には「カンジョウ」を「勘定」と読むイントネーションが必要になりますね。「感情」の場合には平滑なイントネーションになりますが,「勘定」の場合には幾分「ジョウ」に力が入ります。「カンジョウ」 となりますかね。いずれも声に出してみると納得できるでしょう。


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八重桜もそろそろ終わり

暗記するときに私が迷うのは「 ヒデリノトキハナミダヲナガシ

   サムサノナツハオロオロアルキ 」の箇所です。「ヒデリ」と「サムサ」を入れ替えて思い込んでしまうのです。ですから「サムサノトキハナミダヲナガシ/ヒデリノナツハオロオロアルキ」と誤って読んでしまうのです。以後,ヒデリだから水がほしい,その水こそ自分の涙で潤すのだと連想できてからは間違えることが少なくなりました。



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新・遠野物語-一人一文字「雨ニモマケズ」3-

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ロゴ入り「雨ニモマケズ」

写真の「雨ニモマケズ」の作品は子どもが一人一文字ずつ書いたものです。
宮沢賢治の「雨ニモマケズ」は298文字全55行からできています。子ども一人が一文字ずつ好きな色で書いていくと総勢298名の子どもの手によって完成した作品になります。文字も行替えもすべて:賢治が「雨ニモマケズ」を残した手帳通りにしました。子どもたちは時に真剣に,時に楽しく,時に笑いながらこの作品を書いてくれました。思い出多いこの作品を写真として残したいと思い,新遠野物語シリーズとして「一人一文字雨ニモマケズ」を始めることにしました。

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大川小学校の教室で「雨ニモマケズ」

宮沢賢治の「雨ニモマケズ」は戦前に教科書に載ったことで全国に知られるようになりました。谷川徹三は「雨ニモマケズ」を二十世紀で最高の詩と高く評価しました。私自身も「雨ニモマケズ」は大好きですが,世間的な評価としては賛否が分かれている所でもあるようです。
「雨ニモマケズ」はまるで東北の,どこか日本人の精神の骨格をそのまま表現したような孤高さを漂わせています。この骨太さ。そして清貧なる孤高さはむしろはっきりと人間的な弱さから滲み出ているようです。まるで星を仰ぎ見て感じる切々とした細い希望を諦めない図太さまで貫通しています。開墾や開拓に明け暮れた先人の姿まで見えてきます。この「雨ニモマケズ」の精神性は私には日本文学の持っている仏教説話領域の高い完成度を示す証拠と見ています。古来から日本の説話文学は仏教の教えを民衆に平易な形で伝えるという意義を負っていました。今昔物語も,宇治拾遺物語等もどこか教導的で,仏教の教えと結びついて成熟していった所があったのです。説法や説話はどう教えを的確に分かりやすく人々に伝えられるかに収斂していきました。文学でのそういった領域を教導文学とも言ってきました。僧,山伏,廻国僧達は多分渡り歩いた日本各地で言葉で,絵で紙芝居にして,的確なエピソードを入れ「絵解き」や説法を行ったはずです。文学の歴史は少なからず「語り」そのものの完成度を高める歴史だったとも言えると思います。

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大川小学校の壁画と「雨ニモマケズ」

こうした長い日本の説話文学の現代的な大成の一つを宮沢賢治の「雨ニモマケズ」が成し遂げたと言えるのではないでしょうか。
小難しげな言葉を並べ立てましたが何のことはない賢治の活動を振り返って見ればすぐ分かります。賢治の書いた童話とは何でしょう。実にオーソドックスな説話文学の流れのまっただ中にあると思いませんか。そうなのです。賢治は現代的な伝道者の一人に数えられるでしょう。89年前の不作に揺れた昭和六年の寒くなった時分に書かれた「雨ニモマケズ」をコロナに苦しむ現代にもう一度読み返してみましょう。


 11.3.

     〔雨ニモマケズ〕   

   雨ニモマケズ

   風ニモマケズ

   雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ

   丈夫ナカラダヲモチ

   慾ハナク

   決シテ瞋ラズ

   イツモシヅカニワラッテヰル

   一日ニ玄米四合ト

   味噌ト少シノ野菜ヲタベ

   アラユルコトヲ

   ジブンヲカンジョウニ入レズニ

   ヨクミキキシワカリ

   ソシテワスレズ

   野原ノ松ノ林ノ蔭ノ

   小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ

   東ニ病気ノコドモアレバ

   行ッテ看病シテヤリ

   西ニツカレタ母アレバ

   行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ

   南ニ死ニサウナ人アレバ

   行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ

   北ニケンクヮヤソショウガアレバ

   ツマラナイカラヤメロトイヒ

   ヒデリノトキハナミダヲナガシ

   サムサノナツハオロオロアルキ

   ミンナニデクノボートヨバレ

   ホメラレモセズ

   クニモサレズ

   サウイフモノニ

   ワタシハナリタイ


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