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「語り始めた大川小の子どもたち」

大川小3-6ラインs
大川小学校で

 先日21日のNHKテレビで,「語り始めた大川小の子どもたち」という番組を観た。
大川小学校は,2011年3月11日,74人の児童と10人の先生方が津波によって貴い命が失われた。あれから,13年。現在では映画監督となった大川小出身の佐藤そのみさんは,生まれも育ちも大川地区,震災時は中学2年だった。妹さんは大川小学校で亡くなった。子どもの頃から,いつか故郷の大川を題材にして映画を撮ることが夢だったという。2019年に念願の2本の映画をつくった。「春をかさねて」とドキュメンタリー「あなたの瞳に話せたら」である。
そのみさんは,当時のことを,ひと言ひと言かみしめるように訥々としゃべっていた。そんな彼女の言葉に,私は深く心動かされた。彼女の語り口は,どこか今まで心の奥底に押し込められ,固く封印されていた思いを,心に波を立てないように,そっとすくい上げて来るような慎重さがあった。逆にいえばそれ程大川小の生き残った子ども達は自分の思いを言葉にすること自体を奪い取られていたのだと改めて思い知らされたのである。故郷を愛するがゆえ,故郷の受けた大きく重い苦しみを一緒に背負うことになった子ども達。家族に対しては,頑張っている自分の姿を見せたり,希望を失わない励ましを与えたりすることが,今の自分のできることと健気にずっと努力していたのである。サトウソノミ
映画のポスター

 まず彼女の口にした最初の言葉に驚いた。
「地元の人間関係に亀裂が入ったことが本当に悲しかった」
失われた命の数々,津波という出来事。亡くなった妹のこともあるのに,彼女の視線は,自分の身近な親や友だちの親,地区の人達の変わり果てた顔に,第一に注がれていたのである。身近な人達の憂いている顔によって,彼女もまた悲しいのである。周囲の人達が感じている悲しみは,自分でも共有はできるという,子どもなりの大人を支えようとする必死な心情。

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長沼のハス

「妹さんが亡くなったことを知った時,どんな気持ちでしたか」
「今,妹さんに伝えるとしたら,どんなことを伝えたいですか」
二重の意味で大川小の子ども達を沈黙させたのは,このような無遠慮な報道側の質問の嵐でもあった。世界中にまたたく間にニュースとして拡散するのは,「かわいそうな子ども達」という「呪縛(そのみさんの言葉)」でもあった。
「本当にかわいそうな子として,(自分達が)扱われているのがいやだった」と,そのみさんは語る。
沈黙しても,答えても「いいように切り取られる」

そのみさんは長年の夢だった大川を題材にした映画を完成させた。それには自分なりにひとまず肩の荷を下ろしたという気持ちから来る安堵感もあるのではないだろうか。完成までは「大事なことから逃げてしまっているという罪悪感に涙を流した」と語る。そんな「呪縛」から解放される格闘を経て,彼女はある確信を得る。
「いいよ。もう。好きに生きよう。被災者になるために生まれて来たわけじゃない。なんでもやりたいと思ったことは,やっていいんだ」

「そんな(自分が納得する)生き方をすることが,死んだ妹も喜ぶと思う」
「(これからは)また違った大川になっていく」
ひと言ひと言が実に深い。

子どもだから分からない悲しみというものはない。
子どもは,どんな時でも大人が持つ悲しみを共有しようとする。
そんな大切なことを教えられた時間だった。

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映画「生きる」大川小学校津波裁判を闘った人たち

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「生きる」大川小学校津波裁判を闘った人たち チラシ

あの日以来,節目節目に大川小学校に行って祈った
しかし,肝心の自分が真相も分からず,様々な断片でしか理解していないことが歯がゆく
伝わりにくい自分の祈りに不甲斐なさを感じ続けてきた
今回,やっと「生きる」という映画を観た
映画は震災から一か月過ぎた4月の最初の説明会から始まった
「どうして大川小学校だけがこんなに犠牲者を出したのか」
「51分間何をしていたのか」
映画を観てからずーっと考えていた
そして163ページにわたる判決文も読んでみた

親の愛というものが,これほどに深く,強いものなのだと心の底から教えられた
子どもをなくした原告の皆さん(原告にはならなかった親の方々も)の,すべての疑問や怒り。
闘い続け,屈することのない親の姿

遺体が見つかったとき,きれいな水で洗うこともできなかった
毛穴という毛穴に泥が入り込み,子どもを抱いたお母さんは,子どもの目についた泥を自分の舌で舐めてきれいにしてやったこと
「母親として,そんなことしかできなかった」

「死んでもいいと思ってた。子ども達が向こう(天国)で迷っているんじゃないかと思ってさ」
この言葉は,子どもに対する父親の思いが心の底から湧き出たものだった

この言葉を聞いて,私はもう泣くことさえできなかった
そうお父さんが話した時,お母さんがすかさずお父さんに言い返した
「あんたが,あっちさ(天国)行っても,子ども達もかえって困るべよ」


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「生きる」大川小学校津波裁判を闘った人たち チラシ裏

しばらくは立てなかった


雨ニモマケズ

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大川小で雨ニモマケズ

今朝も南からハクチョウ達が北へ向かっていった
夕暮れの雁の声も聞こえている


今日の幸せは今日つくられる
天から降り注ぐものを全て受け止める勇気ある者よ
いままでに
一日だって同じ色の朝はなかった
今日の,この時の一瞬の光
たった一度のこの光景を受け止める勇気ある者よ
一期一会のこの光を受け止めて
自分の呪縛から解放されよ

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伊豆沼で雨ニモマケズ

一字一石塔
たった一文字の筆の運びに自らの祈りのすべてを込める
今日の幸せは今日つくられる



大川小に行く

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沈む満月 今朝 新北上大橋から

満月の夜
午前3時過ぎ
大川小学校に着いた
誰もいない
鹿の群れが私に気付いて
蹄の音をそろえて駆けていった
10頭ほどの群れだった
大川小で花を供えて拝んだ時
山から鹿の警戒して鳴く声が鋭く聞こえた
町もなくなり
学校もなくなったここに
戻って来たのは野生の鹿たちなのか

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満月の夜の大川小

3月になると胸が苦しくなる
何もしてあげることができなくてごめん
自分の無力感にさいなまれる
遅すぎることだが,私ができることだったら何でもしたいという気持ちになる
しかしこう思っても今ここで返事を返してくれるのは鹿たちだ
夜の奥に
かつかつと蹄の音を響かせて
彼等の後ろ姿の白い毛が浮き立って見える

西に傾きかけた満月のオレンジ色に惹かれて
大川小から大橋まで行く
どうしてこのように世界を美しく照らそうとするのか
北上川の水面は鏡のように月を写す
12年前に起きたことをどう考えればいいのか
月よ,答えてくれ
鹿たちよ,教えてくれ

午前5時19分
大川小学校の真上の空を
国際宇宙ステーションが明るく虹のように
弧を描いていった
「ほら,見て。国際宇宙ステーションが見えるよ」
近くに子ども達がいるような気になって
私は声に出して言った

昨年震災の記事を書いたとき
お叱りのコメントをいただいた
私の言葉にひっかかる点があるとその人は言う
自分のことばが人を傷つけることに・・・
私はそれ以来ことばに起こすことが怖くなった
でも言わずにいたら,それはあまりに世界を見捨てたことにならないか
何かを起こさなければ始まらない
言わなければ始まらない
行動しなければ始まらない
話し合わなければ進めない

わたしにできることだったら喜んでしていきたい
中途半端な沈黙はしたくない
そんなことを考えているうちに

夜は明けた

3.11に寄せて2-祈り-

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3月10日午前4時。漁の船が岬をかすめるように進み始めた

静かにシャッターを下ろし
しばらく海に昇る天の川をみつめる
この時,自分が動いて,大切な祈りの静寂を壊してしまうことを恐れる
人がひたすらに祈る姿は美しい
今朝12日朝の河北新報の第一面の写真はそんな祈りの美しい姿を捉えて素晴らしいと感じた(その写真は こちら )
祈っている時に,人は世界にすべての身をゆだねた状態にある
言わばこの世界にしっくりとはまり込んで開かれ,石のように存在している
祈りのゆるぎのないひたむきさは石となって動かないその姿勢に現れ出てくる
祈りとは世界へ自分の投げ出しであり,すっかり世界に自分をゆだね切った所に生まれる対話であり,産声のようでもある。だから美しい。

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祈り 大谷海岸駅 2017年撮影

皆幼い頃に祈りを教えられて育つ
私もそうだった
何かある毎に祈るように教えられた
そして祖母が病気で入院した折,小学生の私は初めて自分から祈った
「祖母の病気を治してあげてください」と
人生の事ある毎に人は祈る
いつも自分のすべてを投げ出して
祈る

燈台iss-7s
燈台をめぐるISS 3月10日