2018/08/15
髙橋清治郎氏についての覚書き

上り 極楽浄土行き 8月15日 東北本線 石越-新田
伊豆沼,長沼のハスも元気です。

只今開催している登米市歴史博物館企画展「もののけたちの夏」26日までです
只今登米市歴史博物館では企画展「もののけたちの夏」を26日まで開催中です。
この展示の優れた点は登米地方の歴史の発掘の手かがりを同時に行っている点です。今回の発掘は高橋清治郎という登米の南方の郷土史家の存在を明らかにしながら民俗学黎明期の民俗学ネットワークを浮き彫りにしている点でしょう。そして誰でも知っている「ザシキワラシ」を取り上げて,登米と民俗学との関わりにアプローチしていくところが面白いところです。
まずは登米市の南方に伝わるザシキワラシの話をしましょう。
明治の末頃,元南方の原の旧家佐々木林之助方には昔からザシキワラシがいると言われていた。当時この家で屋根の葺替えが終わった日の夕方,12,3歳くらいの少女が一人,軒に架渡した屋根修理用の足代板の上を走り回っていた。手伝いに来ていた村人が大勢これを見たという。この家ではザシキワラシは常にデイ(奥座敷)にいると信じ,床の間に茶碗に水を入れて供えておく。時々座敷を掃く音などがしても家人は怖がらずそっとしておく。これは同家主人の直話であったが,その後部落の人々の話では今は出ないのではないかということであった。
この話の中のザシキワラシは,12 3歳の女の子です。ザシキワラシというと誰もいない奥座敷辺りをざっざっと掃く音がしたり,小さな子供の影が見えたり,走っていたり,とにかくそのような家族ではない子供が出る家があって,出てくるその子供をザシキワラシと呼んでいたのです。この南方の話は,屋根葺き用に張り渡した細長い板の上を嬉々として12・3歳ぐらいの女の子が走り回っていて近くでは見かけない子供で,大勢が嬉々として走り回る子供を見たという話です。この話の出所を見ると,こう書いてあります。
■ 呼称(ヨミ) ザシキワラシ
■ 呼称(漢字) 座敷わらし
■ 執筆者 宮城縣
■ 論文名 妖怪変化・幽霊:事例篇
■ 書名・誌名 宮城縣史 民俗3
■ 巻・号/通巻・号 21巻
■ 発行所 財団法人宮城県史刊行会
■ 発行年月日 S31年10月20日
■ 発行年(西暦) 1956年
■ 開始頁 471
■ 終了頁 562
■ 掲載箇所・開始頁 499
■ 掲載箇所・終了頁 500
■ 話者(引用文献) (佐々木喜善『ザシキワラシの話』中高橋清次郎氏書翰)
■ 地域(都道府県名) 宮城県
■ 地域(市・郡名) 登米郡
■ 地域(区町村名) 南方町
国際日本文化研究センターのデータベースより
「佐々木喜善『ザシキワラシの話』中高橋清次郎氏書翰」とあることから佐々木喜善の本『ザシキワラシの話』の中に高橋清次郎氏の書翰としてこの話が載せられているという経緯がありました。もともとは高橋清治郎 から出た話なのです。
また,次のように出てきました。
(ゾクシン)ヒバシラ,サカサバシラ
■ 呼称(漢字) (俗信)火柱,逆さ柱
■ 執筆者 高橋 清治郎
■ 論文名 陸前登米郡南方村附近の俗信
■ 書名・誌名 郷土研究
■ 巻・号/通巻・号 3巻8号
■ 発行所 郷土研究社
■ 発行年月日 T4年10月1日
■ 発行年(西暦) 1915年
■ 開始頁 50
■ 終了頁 51
■ 地域(都道府県名) 宮城県
■ 地域(市・郡名) 登米郡
■ 要約 俗信。毎月12日は山の神の祭日なので山に入らない。火柱が倒れた方には必ず火事がある。逆さ柱は祟る。
これは大正4年に柳田国男の「郷土研究」に髙橋清治郎がすでに寄稿していたということです。
このことから南方に住んでいた高橋清治郎という人は昔話をよく採集したり,地域の資料をよく集めていたと思われます。そして登米市歴史博物館に展示してある「暦面裡書(れきめんうらがき)」のように極めて価値の高い資料も発掘し,模写し,保存していた人でした。「暦面裡書(れきめんうらがき)」のように柳田国男が是非本として出版したいという話を清治郎に持ちかけていた逸話も残っています。(以前の 記事 参照)
では郷土研究に寄稿したり(大正4年),佐々木喜善から情報収集の依頼を受けたり(大正8年),柳田国男の東北旅行の折に案内したり(大正9年)した高橋清治郎という人はどんな人だったのでしょう。
「高橋清治郎は明治2年(1869)登米郡南方村に生まれた。
教員となり,南方村本地東郷小学校,仙台市立東六番丁尋常高等小学校を経て,明治40年(1907)南方村本地尋常小学校校長,大正11年(1922)に退職,昭和19年(1944)に76歳で亡くなっている。」
「高橋紘「柳田國男と高橋清治郎~『来翰集と未完『登米郡年代記~』」から」
ちなみに確認できるところ,高橋清治郎の柳田國男との接点となる「郷土研究」への初出は大正4年(1915)の3巻2号4月発行の「沽却禿のこと」から始まり,大正5年の4巻9号12月発行まで5編が採用され掲載されている。ちなみに大正4年の3巻8号の執筆者は次のようになっていた。
3巻8号 1915年 南方熊楠 龍燈に就て(続) ○ 龍燈についての俗信を固めることに腐心する仏僧
3巻8号 1915年 土居暁風 種子島より ○ 死人が墓の中で泣く、犬神に関する迷信
3巻8号 1915年 平瀬夢雨 信州の天狗 ○ 天狗に関する俗信。ありそうにも思えない
3巻8号 1915年 高橋清次郎 陸前登米郡の俗信


