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髙橋清治郎氏についての覚書き

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上り 極楽浄土行き 8月15日 東北本線 石越-新田

伊豆沼,長沼のハスも元気です。

もののけたちの夏
只今開催している登米市歴史博物館企画展「もののけたちの夏」26日までです


只今登米市歴史博物館では企画展「もののけたちの夏」を26日まで開催中です。
この展示の優れた点は登米地方の歴史の発掘の手かがりを同時に行っている点です。今回の発掘は高橋清治郎という登米の南方の郷土史家の存在を明らかにしながら民俗学黎明期の民俗学ネットワークを浮き彫りにしている点でしょう。そして誰でも知っている「ザシキワラシ」を取り上げて,登米と民俗学との関わりにアプローチしていくところが面白いところです。

まずは登米市の南方に伝わるザシキワラシの話をしましょう。
明治の末頃,元南方の原の旧家佐々木林之助方には昔からザシキワラシがいると言われていた。当時この家で屋根の葺替えが終わった日の夕方,12,3歳くらいの少女が一人,軒に架渡した屋根修理用の足代板の上を走り回っていた。手伝いに来ていた村人が大勢これを見たという。この家ではザシキワラシは常にデイ(奥座敷)にいると信じ,床の間に茶碗に水を入れて供えておく。時々座敷を掃く音などがしても家人は怖がらずそっとしておく。これは同家主人の直話であったが,その後部落の人々の話では今は出ないのではないかということであった。
この話の中のザシキワラシは,12 3歳の女の子です。ザシキワラシというと誰もいない奥座敷辺りをざっざっと掃く音がしたり,小さな子供の影が見えたり,走っていたり,とにかくそのような家族ではない子供が出る家があって,出てくるその子供をザシキワラシと呼んでいたのです。この南方の話は,屋根葺き用に張り渡した細長い板の上を嬉々として12・3歳ぐらいの女の子が走り回っていて近くでは見かけない子供で,大勢が嬉々として走り回る子供を見たという話です。この話の出所を見ると,こう書いてあります。
■ 呼称(ヨミ) ザシキワラシ
■ 呼称(漢字) 座敷わらし
■ 執筆者 宮城縣
■ 論文名 妖怪変化・幽霊:事例篇
■ 書名・誌名 宮城縣史 民俗3
■ 巻・号/通巻・号 21巻
■ 発行所 財団法人宮城県史刊行会
■ 発行年月日 S31年10月20日
■ 発行年(西暦) 1956年
■ 開始頁 471
■ 終了頁 562
■ 掲載箇所・開始頁 499
■ 掲載箇所・終了頁 500
■ 話者(引用文献) (佐々木喜善『ザシキワラシの話』中高橋清次郎氏書翰)
■ 地域(都道府県名) 宮城県
■ 地域(市・郡名) 登米郡
■ 地域(区町村名) 南方町
国際日本文化研究センターのデータベースより
「佐々木喜善『ザシキワラシの話』中高橋清次郎氏書翰」とあることから佐々木喜善の本『ザシキワラシの話』の中に高橋清次郎氏の書翰としてこの話が載せられているという経緯がありました。もともとは高橋清治郎 から出た話なのです。

また,次のように出てきました。
(ゾクシン)ヒバシラ,サカサバシラ
■ 呼称(漢字) (俗信)火柱,逆さ柱
■ 執筆者 高橋 清治郎
■ 論文名 陸前登米郡南方村附近の俗信
■ 書名・誌名 郷土研究
■ 巻・号/通巻・号 3巻8号
■ 発行所 郷土研究社
■ 発行年月日 T4年10月1日
■ 発行年(西暦) 1915年
■ 開始頁 50
■ 終了頁 51
■ 地域(都道府県名) 宮城県
■ 地域(市・郡名) 登米郡
■ 要約 俗信。毎月12日は山の神の祭日なので山に入らない。火柱が倒れた方には必ず火事がある。逆さ柱は祟る。
これは大正4年に柳田国男の「郷土研究」に髙橋清治郎がすでに寄稿していたということです。

このことから南方に住んでいた高橋清治郎という人は昔話をよく採集したり,地域の資料をよく集めていたと思われます。そして登米市歴史博物館に展示してある「暦面裡書(れきめんうらがき)」のように極めて価値の高い資料も発掘し,模写し,保存していた人でした。「暦面裡書(れきめんうらがき)」のように柳田国男が是非本として出版したいという話を清治郎に持ちかけていた逸話も残っています。(以前の 記事 参照)

では郷土研究に寄稿したり(大正4年),佐々木喜善から情報収集の依頼を受けたり(大正8年),柳田国男の東北旅行の折に案内したり(大正9年)した高橋清治郎という人はどんな人だったのでしょう。

「高橋清治郎は明治2年(1869)登米郡南方村に生まれた。
教員となり,南方村本地東郷小学校,仙台市立東六番丁尋常高等小学校を経て,明治40年(1907)南方村本地尋常小学校校長,大正11年(1922)に退職,昭和19年(1944)に76歳で亡くなっている。」
                                 「高橋紘「柳田國男と高橋清治郎~『来翰集と未完『登米郡年代記~』」から」

ちなみに確認できるところ,高橋清治郎の柳田國男との接点となる「郷土研究」への初出は大正4年(1915)の3巻2号4月発行の「沽却禿のこと」から始まり,大正5年の4巻9号12月発行まで5編が採用され掲載されている。ちなみに大正4年の3巻8号の執筆者は次のようになっていた。
3巻8号 1915年 南方熊楠 龍燈に就て(続)   ○ 龍燈についての俗信を固めることに腐心する仏僧
3巻8号 1915年 土居暁風 種子島より ○   死人が墓の中で泣く、犬神に関する迷信
3巻8号 1915年 平瀬夢雨 信州の天狗   ○ 天狗に関する俗信。ありそうにも思えない
3巻8号 1915年 高橋清次郎 陸前登米郡の俗信


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柳田国男「浜の月夜」から「清光館哀史」へ

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BRT気仙沼線 BRT陸前戸倉-BRT陸前横山 8/9撮影

この写真を見るとBRTの様子がよく分かります。バス一台だけ通ることの出来る細い道路は元気仙沼線の線路です。この線路を舗装してバス専用道にして列車の代わりにバスを走らせているのがBRTということなのです。各駅はバスの停留所のように整備され,ロケーションシステムが導入されて各駅のモニターに今バスが何処を走っているのかがリアルタイムに表示される仕組みになっています。
現在気仙沼発の上りは31本,下り気仙沼行きは気仙沼線の始発駅前谷地から5本,電車の終着駅柳津駅から10本,沿岸に出て本吉駅からは12本出ています。おおよそ一時間に2本という運行です。当初から比べるとかなり充実してきてBRTとしての利便性の高さがはっきりと出てきたように感じます。もちろんバス専用の専用道ですから,信号もなく,一般道のように渋滞に巻き込まれることもありません。その専用道は今のところ全体の50~60パーセントということでしょうか。これは気仙沼が沿岸部を通るため橋梁が極めて多く,津波で流された橋梁を架け直す工事箇所が多いために専用道進捗率が滞っているわけです。しかしJR東日本が震災次年度に専用道供用をまず60パーセントで進めるという目標を8年懸かっても確実に進める意志があって工事は進んでいることは頼もしいことです。

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台風の雨に煙る BRT陸前横山-BRT柳津 8/9撮影

ところで8月8日は柳田国男の命日だったんですね。ちなみに1875年(明治8年)7月31日生まれ - 1962年(昭和37年)8月8日没ですから87歳まで生きたということになります。

さて,大正9年8~9月の柳田国男の東北三陸沿岸旅行を取り上げている続きです。先回「浜の月夜」という柳田の情緒あふれる短編を紹介しましたが,今読んでも素晴らしい掌編です。現在の八戸の南,洋野町種市のさらに南,鉄道の駅で言えば陸中八木駅の南に小子内という小さな漁村がありました。そこで「清光館」とい小さくて黒い宿に泊まったのがお盆の頃でした。柳田の東北の三陸沿岸を北上する旅もおわりに差しかかった頃です。波音が聞こえる共同井戸の場所に月が昇り,三々五々集まった村の女達の笛も太鼓もない歌ばかりの静かな盆踊りが始まった夜の光景の描写がまた素晴らしいものでした。私も好んで紀行文は読みますが,日本を表現して極めて優れていると思います。

柳田は6年経った1926年の全く同じお盆の十五日にまた清光館を訪れています。「浜の月夜」の一晩が忘れられなかったのでしょう。その再訪の様子が「清光館哀史」となって残っています。東北旅行から戻ると柳田は翌年から渡欧し,ジュネーヴの国際連盟委任統治委員に就任します。日本語が全く通じない遠い外国での勤務は難しく,彼は日本の存在をを知ってもらうための語学教育の重要性を痛感し,帰国してから新渡戸稲造とともにエスペラント語の公用語の必要性を説くことになります。そうして3年して日本に帰ってきます。そして懐かしく忘れられない小さな漁村の小さな宿屋「清光館」を訪ねるのです。

この時には八戸線も開通していました。柳田は八戸経由で南下し,出来たばかりの陸中八木駅に降り立ちました。小子内の清光館にさほど苦労することなく辿り着くことが出来ました。ところが・・・。

柳田国男が再訪した陸中八木駅-1
6年後に再訪した清光館から見た盆の十五日の満月の夜

懐かしく降り立った清光館への道を思い出と共に急ぐ柳田はこう書きます。
あの共同井があってその脇の曲がり角に,夜どおし踊り抜いた小判なりの足跡の輪が,はっきりと残っていたのもここであった。来てごらん,あの家がそうだよと言って,指を差して見せようと思うと,もう清光館はそこにはなかった。
まちがえたくても間違えようもない,五戸か六戸の家のかたまりである。この板橋からは三四十間,通りを隔てた向かいは小売店のこの茅葺きで,あの朝は未明に若い女房が起き出して踊りましたという顔もせずに,畑の隠元豆か何かを摘んでいた。東はやや高みに草屋があって海を遮り,南も小さな砂山で,月などとはまるで縁もないのに,なんでまた清光館というような,気楽な名前を付けてもらったのかと,松本・佐々木の二人の同行者と,笑って顔を見合わせたことも覚えている。

あの宿,清光館はなくなっていたのです。「その家(清光館)がもう影も形もなく石垣ばかりになってるのである。」

「月日不詳の大暴風雨の日に村から沖に出て帰らなかった船がある。それにこの宿の小造りな亭主も乗っていたのである。女房は今久慈の町に往って,何とかという家に奉公をしている。二人とかある子供傍に置いて育てることもできないのは可哀想なものだという。
その子供は少しの因縁から引き取ってくれた人があって,この近くにおりそうなことをいう・・・」


哀しいことである。たった6年だけの歳月が清光館の亭主を海に片付け,残された妻は子供も引き取れないままに奉公に行き,二人の子供は引き取られて所在もはっきりとはしない。海辺の寒村のこの出来事に柳田はただ呆然とするばかりだった。その哀しい運命を確かめるためにここにまた自分は来たのだろうかと彼は自分に問いかけて言った。
「一つにはあの時は月夜の力であったかも知れぬ。あるいは女ばかりで踊るこの辺の盆踊りが,特に昔からああいう感じを抱かしめるように,仕組まれてあったのかも知れない。」あの美しすぎる月夜の,夢のような静かな盆踊りはこの哀しい清光館の運命をすでに物語っていたのかと思わなければ言葉にもならなかった。

やがて6年前に聞き取れなかった,あの盆踊りの歌の歌詞はなんだったであろう。

なにヤとやーれ
なにヤとなされのう

何なりとしてもいいよ
どうなりともされるがよい

女が男にこう呟くのです。

わたしのことをどうしてもよいのよ。
あなたの好きにしていいの

お盆の送りに,精霊達に語られるこの「しょんがえ」の言葉は今日の今夜の満月の夜に繰り返す波のように聞こえてきただろう。そして何年も何十年も何百年もこの村に女達によって歌い継がれてきただろう。柳田は6年前と同じ月夜に,石垣だけとなった清光館跡に佇み,こう締めくくった。
「この短すぎる歌詞は羞や批判の煩わしい世間から,ただ遁れて快楽すべしというだけの,浅はかな歓喜ばかりでもなかった。忘れても忘れきれない常の日のさまざまな実験(労働や人の営み),遣瀬(やるせ)ない生存の痛苦,どんなに働いてもなお追ってくる災厄,いかに愛してもたちまち催す別離」

なにヤとやーれ
なにヤとなされのう


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柳田国男が清光館で見た「浜の月夜」

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北三陸のヤマセに煙る星空 北山崎で

柳田国男の東北旅行は大正9年の8月4日に仙台から始まり,三陸沿岸を北上して9月12日に秋田県で一区切りを迎えました。
8月10日には一関,そして気仙沼へ足を伸ばし,8月13日には遠野にも立ち寄り,先に来ていた慶應の教員松本信広と合流し,遠野を15日に出発しています。そして20日に釜石で追いかけてきた佐々木喜善と合流して,三人旅が始まりました。佐々木喜善の日記には「八月二十日 雨 旅行ニ出ル、柳田先生ニ出合フベク釜石ヘ。」とあります。そして「八月三十一日 晴れ 八戸ヲ立チ、夕方遠野に着、夜家にカヘル。トコロガ町ニネフスキー君ガ来リイルト云フ。明日マタ迎ヘニヤルコトトスル。」とあることから三人は八戸まで十日かけて北上しています。途中,久慈を越えて北上の旅は見晴らしのきくなだらかな道となります。長い旅も終わりになり三人は和気藹々と進んで行ったでしょう。

この旅の様子は「豆手帖から」と題して東京朝日新聞に19回にわたって連載されていました。貴族院書記官長を46歳で辞した柳田は東京朝日新聞の客員となっていて,彼が長年温め続けていた民俗学の採集の旅が始まったのです。そして佐々木喜善の居る東北にやってきたのでした。

今回柳田国男の東北の旅をおさらいしてみると,まさに古来からの歩きの旅の最後の時代に来ていることが分かります。東北本線は開通していましたが,本線から離れると旅は大変だったでしょう。ちょうど大正10年あたりから所謂東北本線に接続する支線が続々と開通していく軽便鉄道のの時期にあたります。それ以前ですから移動は馬車か歩きか自動車に限られていたでしょう。また三陸沿岸では船での移動が楽だったでしょう。

今日の記事のタイトルは「柳田国男が清光館で見た「浜の月夜」」としました。東北沿岸の旅も終わりに近づいたお盆の夜のことでした。三人は久慈を後にして駅で言えば侍浜,陸中中野,有家,陸中八木と進んで行きました。その陸中八木駅の手前が小来内という小さな部落で,その部落にたった一軒だけの「清光館」という宿屋があったのです。彼らはそこに泊まりました。その夜が柳田にとっては忘れられない夜となったようです。なぜならちょうど6年後の1926年月遅れのお盆に柳田はわざわざこの清光館を訪れているからです。
忘れられない夜となった小来内の清光館での一夜とはどんなものだったのでしょうか。「浜の月夜」にその夜の様子が書いたあります。「浜の月夜」ですから再訪した時の星空を再現してみました。

柳田国男が再訪した陸中八木駅-1
6年後1926年再び小来内(今の陸中八木駅から南の地区)を9月21日に訪れた時の星空。旧盆の頃で満月前夜の明るい夜だった。

もう「あんまり草臥(くたび)れた」と始まる「浜の月夜」は,三陸の長い旅もそろそろ終わりに近づいた見通しもついたのでしょう。いつになく情緒豊かに綴られていきます。この日は小来内(現在今の陸中八木駅から南の地区)というさびれた漁村にあるたった一軒の宿「清光館」に泊まることにしました。この清光館は岡の影に西を向いて建っていて小さくて黒い宿でした。2階に上がると障子が4枚ばかり立てられた部屋でした。ところが宿の若い夫婦はそれ客だと一生懸命板敷きを拭いたり,夕食の魚は何を出そうかとしきりに一生懸命で盆の帰る仏様もあろうというのに申し訳なくも思ってしまう。
外はもう蝙蝠もとばない黄昏で黒々とした岡の遠くに波が崩れる音だけがしている。長かった三陸の旅だったがもう九戸に入っている。明日は種市に行けば八戸はもうすぐだ。この北三陸まで来ると何故か北の海が少し寂しさも連れてくる。おだやかな海ながら北の果てにはるばる来たという気持ちになる。
 見れば,五十戸あまりの村と言うが,薄く月が昇って光に照らされた屋根は十二三戸ぐらいしか見えない。
「今夜は踊るのかね」と主人に聞くと,「もう踊る頃です」と言う。ふと波音の上に歌の声が始まる。岡の向こうの街道の共同井戸あたりが踊りの場所となるらしい。切れ切れに歌声が聞こえ,いつの間にかするすると昇った月が辺りを広く照らしている。少し雲も出て来た。踊りは笛も太鼓もない。寂しい踊りだと思う。後から来る者が踊りの輪から出た手によって輪の中に引っ張られていく。踊るのは女ばかりで男衆は輪を取り囲んでいる。踊っている女衆はみな白い手ぬぐいをかぶり顔は見えない。帯も足袋も揃いの白で真新しい下駄を履いている。前掛けは紺無地だが今年初めてその前掛けに金紙で家紋やら船印を貼り付けて工夫を凝らしているらしい。時折月の光が踊りに会わせてその飾りに反射している。踊りの動きに合わせてちらちらと光る様もまたいいものだ。歌を歌う女はまたなんとよく透る声だろう。太鼓も笛もなく歌だけが波の音を圧して月の光に色を添えているようだ。
 「なんと歌っているのか」とそこら中にいた村人に聞いたが,にやりとして首をかしげた。何でもごく短い発句を三通りくらい高く低く繰り返しながら歌うらしかった。
翌朝出立の際に共同井戸の所を通ると,掃いたよりもきれいに楕円の輪が残っていた。昨晩の踊りの輪の跡である。村人は昨日の満月一つ前の月の光で踊ったことなど忘れたように動いている。今夜は満月だ。また一生懸命黙々と月の下で踊ることだろう。

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北三陸の日の出

八木から一里余りで鹿糠(かぬか)という宿場に入る。ここでも浜へ下りる辻の処に小判なりの踊りの跡の大遺跡があった。夜明け近くまで踊ったはずなのに疲れも見せぬ女衆にはきついだろうに。



今日の文章は「浜の月夜」で感じた景色を私が再話するような形で書きました。柳田が優れた書き手であったことを感じさせる短編です。尚,この夜から六年後の丁度お盆に柳田は再度小来内の清光館を訪れています。この夜が三陸の旅で忘れられない夜だったと思っているからでしょう。その様子は後の「清光館哀史」に綴られます。
その話はまたします。

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柳田国男「東北旅行」覚書3

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「晴れ間をぬって」気仙沼線 陸前豊里-御岳堂 7/27

7月28日午前3時 いよいよという時に満月が雲に隠れ始めました。皆既月食ですが日本では月入帯食となりました。食の始まりから雲に隠れてがっかりでした。

さて,3回目になった柳田国男の宮城県旅行の足取りを探る旅は資料と見比べながらやっと近づいてきたようです。汽車が三日間不通になる程の大雨の中,柳田は一人で旅を続けたのでした。その日程を予想しながら順に追っていきます。

柳田国男の東北旅行日程
8月2日(月)東京出発
8月4日(水)仙台出発,野蒜,小野,石巻(泊?)
8月5日(木)石巻から自動車で渡波,女川浦,そして稲井の沼津貝塚,(遠藤源八,毛利総七郎に会ったか?)
         その後船越まで行ったか(泊) 「子供の眼」に出てくる
8月6日(金)船越から船に乗って十五浜(泊?)
8月7日(土)十五浜経由で追波川を上る。そして飯野川(泊)
        同じく「子供の眼」に出てくる。「甲板に立って釜谷地区を見る」とある。


8月8日(日)飯野川から,柳津,登米,佐沼,南方-佐沼で高橋清治郎と会うか?
        どこに泊まったのだろうか。不明

8月9日(月)遅くに一関に着いていたのかもしれない。
8月10日(火)一関で朝,水害の状況を見ている。「町の大水」

8/10~8/12まで鉄道は不通だった。(佐々木喜善日記より)

(大正9年8月の水害)盛岡の水害の様子 大正9年8月11日毎日新聞より被害の様子
9年8月4日以来,10日まで降りつゞいた雨は,各河川の増水を見,北上川の1丈2尺(約3.6m),中津川の9尺(約 2.7m)より,雫石川・簗川等の増水あり,各方面の被害が少くなかった。
どうやら南に台風が来ていたようです。その影響でしょう。

8月12日(木)一関出発,岩谷堂,人首
8月13日(金)遠野着夕方か 高善旅館から佐々木喜善に到着したと知らせる使いが出される「佐々木喜善 日記から」 
8月15日(日)遠野出発

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緑陰の候 

今日は登米歴史博物館の企画展関連講座でした。「登米地方のザシキワラシ」と題して,高橋学芸員が柳田国男,佐々木喜善,地元の高橋清治郎,地元出身ながら八戸に移った中道等,ニコライ・ネフスキー達の交流から生まれてくる登米地方のザシキワラシ三話を解説しました。ここに宮沢賢治も入ります。なんとも心がわくわくする大正時代の出来事なのでした。ここに目を付けたことは素晴らしいと思います。


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柳田国男「東北旅行」覚書2

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夜のとばり 石巻線 7/21 鹿又-佳景山

柳田国男の大正9年8月の東北旅行についてまとめています。
そこに浮かび上がって来たのが.柳田は遠野からは合流して二人となり.釜石で佐々木喜善と合流して更に八戸まで行くことになります。そこで遠野までは案内する人が地元にいたのかどうかという疑問に突き当たったのです。というのも,一関に10日の午前中に着いていたことは確実らしいのですが,4日~9日までの行程がよく分かっていないのです。宮城県に住む者としては,柳田国男の宮城県滞在が空白ではしっくりしない気持ちです。
そこで空白の宮城旅行を少しでも明らかにしたいと,この覚書きを付けることにしました。今日はその2回目です。
8月4日(水)に仙台を出発した柳田は,野蒜,小野,石巻,女川浦まで行って,飯野川,登米,佐沼のルートを取ったことは明らかなようですからそのルートをなぞりながら確かめていきたいと思います。ここでもう一度先回の旅行日程を載せます。
柳田国男の東北旅行日程
8月2日(月)東京出発
8月4日(水)仙台出発,野蒜,小野,石巻,女川浦,飯野川,登米,佐沼-石巻辺りは遠藤源八,毛利総七郎案内か
8月7日(土)船越泊(石巻市雄勝)

8月8日(日)~9日(月)石巻,飯野川,柳津,登米,佐沼,南方-この辺りは高橋清治郎案内か

8月10日(火)一関
8月12日(木)一関出発,岩谷堂,人首
8月13日(金)遠野
8月15日(日)遠野出発
ここで2か所の太字の部分「石巻辺りは遠藤源八,毛利総七郎案内か」「(登米,佐沼,南方周辺は)高橋清治郎案内か」がただの予想なのではっきりさせたいと思っています。

それでいったい実際本当のところはどうだったのか。旅程に関係あるところを拾い出してみます。

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夕暮れに帰る 石巻線 鹿又-佳景山


石巻から乗った自動車が,岡の麓の路を曲がって渡波の松林に走り附こうとする時,遠くに人と馬と荷車の一団が,斜めに横たわって休んでいるとみた瞬間に,その馬が首を回して車を牽いたまま横路に飛び込んだ。小学校を出たばかりかと思う小さな馬方が,綱を手にしたまま転んだと見た時には,もうその車の後ろの輪が一つ,腹の上を軋(きし)って過ぎた。「子供の眼」
と,驚くようなシーンに出合っていた。多分この日が4日か5日のことだろう。この続きは次のようにある。
中一日置いて次の日には,自分は十五浜からの帰りに,追波川から上ってくる発動機船の上にいた。大雨の小やみの間に,釜谷の部落を見ようとして甲板に立つと・・・(略)
4日か5日から中一日置くのだから6日か7日になる。そこで船越で一泊と合う。
しかし,三陸の旅の始まりをなぜ船越まで出るところから始めたのだろうか。
とにかくも柳田は自動車で石巻-渡波-十五浜(船越)へ泊まり,発動機船で北上川を遡り,釜谷(今の大川小学校地区)を船の甲板から見ながら飯野川に着いたのである。
これらの地名が出てきた「子供の眼」の次に「田地売立」が出てくる。
・・・迫川の岸に接した一農場は細田氏という人が実際の管理をしている。細田氏は遠田の農学校出身で・・・(略)
と地主と小作人との中での田の競り売りの現状が語られている。そして飯野川辺りで聞いた話の「狐のわな」。さらに辿り着いた宿屋での大水に見舞われる「町の大水」では「この出水は一日だけで,夜の中に宮城県の方に引いて往ってしまった。」とわざわざ「宮城県」と出れば,どうにももう岩手に来ていたと見るしかない。登米や佐沼辺りがすっぽりと抜け落ちている。しばらくして「おかみんの話」に地名が出てくる。「飯野川で私が頼んだ老按摩は」「昨日月浜まで同船したおかみんは」と地名が特定できる。
どうも按摩を頼むのは宿に着いた時だろうから飯野川に泊まったようだ。
                                                              (続く)


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