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光を抑える

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風立つ 長沼 今日2月9日撮影


光を抑えることで画面にグラデーションが出てくる
平面の中に重力比が生まれ,重さが加わってくる
つまり写真という二次元の中に三次元や四次元の兆しを萌芽させる
明るさを知るには何よりも暗さが大切なのだ
それともあなたは何処までもあけすけな太陽で写真をいっぱいにするつもりだろうか
眩しすぎて飽和してしまうだろう
暗闇にこそ光は生まれる
光を抑えることです


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観察眼と言われることについて

栗駒湿原に再会 324-2s
ブナの葉残る

またうろうろとブナの林を歩きながら感じたことを書きます。

目的もなくぶらつくという歩き方の効用は様々な発見の糸口をつかむのに実に適しています。

私たちの生活はどうしても目的に対してどのように効率的に処理していくかという流れで考えますから,目的が叶う世界の中にいて,いらないことは大胆に捨てることもあるのです。結構自分の目的のために他の人の意見も聞かないということもしばしばです。仕事でも家庭でもこんなことはよく起きていて,あるときに致命的な亀裂になって出てくることもあります。例えば今頃の残雪が多い時期に起伏の少ない山を歩いていると迷うのです。すると,自分勝手にこっちは来たからあっちだと思い込みの論理が働き始めます。世界を勝手に自分流に眺め変えてしまい,さらに堂々巡りに陥ることがあります。

そこで私自身は基本として,来た自分の足跡を忠実に戻ること。次に違う道に入ってから戻った時にストックで大きく×印をつけておいてまた道をそれてしまわないようにすること。通過した場合に見た特徴のある木には色テープをつけておくこと。湿原を見つけたりしてルートから外れる場合には出だしのポイントをしっかり目に焼き付けておいて,その方向から見た写真を撮っておくことなどして少しずつ練習を重ねてきました。もちろん地図やコンパスも使って確認することも心掛けます。こんな確認作業を身に付けることでちょっとずつ雪のある山ややぶこぎにも慣れていきました。しかしあえて必要もないのに危険な歩き方をしないことが一番です。
安全に歩くことで観察眼も養われていくことでしょう。例えば残雪のブナ林を歩いていてどんなことを見つけて,どんなことを思ったのかを紹介しましょう。早春の山を歩くとなんと言っても目に着くのが,動物たちの残したものです。足跡,糞,食痕,引っ掻いた跡・・・。そんなものが目に着きますね。

次の動物の足跡を見て下さい。

栗駒湿原に再会 465-2s
イタチやテンのような足跡ですね。

ウサギの足跡のようにTの字型です。しかし前に並んだ足は後ろ足なのでしょうか。どうもジャンプしながら進んでいるようです。後ろの足跡には左が前,右が後ろとクロスしたような感じがします。後ろの右が先に着地してすぐ前の左が次に着地したのではと思わせます。そこではっきりしないので,進行方向の足跡を見てみました。次の写真です。

栗駒湿原に再会 468-2s
次の足跡

後ろの足跡を見ましたか,一枚目の写真と足の置き方が左右逆ですよね。足の蹴り方や着地の仕方が右左(みぎひだり)次は左右(ひだりみぎ)と交互に蹴ったり,着地していることが分かります。こんな当たり前でくだらないと思われる発見が次の疑問へのステップになるのです。これが観察眼を養うこととなります。
ファーブルもこのような観察眼の鉄人でした。ファーブルと言ったら「昆虫記」ですが,案外知られていませんがファーブルの「植物記」も私はすごいと思います。観察眼のある人は,昆虫でも,植物でも,動物でも的確に観察することが出来ます。随分前に紹介した串田孫一も鋭い観察眼の持ち主でした。こういう人達は学者や研究者だけでなくてもたくさんいます。自然が好きだという人たちです。大航海時代から18世紀の博物学の時代のアカデミーの論争は世界を秩序だった知でまとめ上げるという知的好奇心に飲み込まれていた時代でした。今読んでもわくわくすることがたくさんあります。

例えば高村光太郎の「山の雪」は中学校の教科書にも載っていた時代がありました。
(前略)ヤマウサギの足あとで、これはだれにでもすぐわかる。いなかにすんでいた人は知っているだろうが、ウサギの足あとは、ほかのけもののとちがって、おもしろい形をしている。ちょうどローマ字のTのような形で、前の方によこに二つならんで大きな足あとがあり、そのうしろに、たてに二つの小さな足あとがある。うしろにあるたての小さい二つがウサギの前あしで、前の方にある大きいよこならびの二つがウサギの後あしである。ウサギの後あしは前あしよりも大きく、あるく時、前あしをついて、ぴょんととぶと大きな後あしが、前あしよりも前の方へ出るのである。このおもしろい足あとが雪の上に曲線をかいてどこまでもつづく。その線がいく本もあちらにもこちらにもある。小屋のそとの井戸のへんまできていることもある。井戸のあたりにおいた青ものや、くだものをたべにきたものと見える。
 そのウサギをとりにキツネがくる。キツネは小屋のうしろの山の中にすんでいて、夜になるとこのへんまで出てくる。キツネの足あとはイヌのとはちがう。イヌのは足あとが二列にならんでつづいているが、キツネのは一列につづいている。そしてうしろの方へ雪がけってある。つまり女の人がハイヒールのくつでうまくあるくように、一直線上をあるく。四本のあしだから、なかなかむずかしいだろうとおもうが、うまい。キツネはおしゃれだなあとおもう。(中略)キツネがあるくと、カラスがいればさわいで鳴くからじきわかる。
 ウサギや、キツネのほかに、イタチの足あと、ネズミの足あと、ネコの足あと、みんなちがう。ネズミの足あとなどは、まるでゆうびん切手のミシンの線のようにきれいにこまかく、てんてんてんてんとつづいて、さいごに小屋のえんの下のところへきている。これは二列になっていて、雪がうしろへけってない。イタチのも二列。
 おもしろいのは人間の足あとで、ゴム靴でも、地下足袋じかたびでも、わらぐつでも、あるき方がひとりひとりちがうので、足あとをみると誰があるいたかたいていわかる。大またの人、小またの人、よたよたとあるく人、しゃんしゃんとあるく人、前のめりの人、そっている人、みなわかる。わたしの靴は十二文という大きさなので、これは村でもほかにないからすぐわかる。ゴム靴のうらのもようでもわかる。あるき方のうまい人や、まずい人があるが、雪の中では小またにこまかくあるく方がくたびれないといわれている。両足をよこにひらいてあるくのがいちばんくたびれるようだ。靴のかかとをまげる人のもくたびれそうだ。これはからだのまがっている人、内ぞうのどこかわるい人のだ。
足跡だけで内蔵が悪いことまで分かる。たかが足跡だが,されど足跡である。まさにシャーロックホームズ的な推理がなりたっていくのです。これが観察眼というものでしょう。
次の写真を見て下さい。

栗駒湿原に再会 519-2s
池塘の雪解け

私たちは広範囲の景色を一瞬にして見て様々なことを判断しています。幾分池塘の水の反射や写り込みといったものや中島があること,池塘の広さ,奥の樹木はブナだろうか。と言ったものに注目して,写真の世界を読み込んでいきます。そしてそれによって引き出される感情も体感しています。暗い景色だ等々。
着眼点が違うとその人の理解や共感の度合いも最初から違ってきます。観察眼というものが,見たその人の作品の味わい方を根底から決定してしまっているのです。これはとても大きなことです。ただ見て,ピカソがさっぱり分からない。興味があってピカソのことを知って,作品を見に行ったでは全く違う理解となるでしょう。観察眼が養われていく過程が,人のものの考え方,人生のとらえ方まで左右することとなります。

ここでさっき見た池塘の写真の上のブナだけ切り取ってみましょう。

栗駒湿原に再会 519-2-1s
ブナ林

まったく違った印象になると思います。
全体を一瞬にして見て判断している動物としての私たちが,改めてしぶとく世界をじっくりと眺めることでぐっと印象が違ってきます。つまり写真,絵画,映画と言われるビジュアル系だけでなく,文学や詩でも,ゲイジュツはある面で作者は深さが要求される使命を負っていることということなのです。作り手はいつもそんな追究性が試されていて,見る側は作り手と渡り合う程の観察眼が駆使されることで「作品の快楽」がこの世に生まれていくこととなるのでしょう。



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読む写真 宮本常一の手法-網野善彦が読む-

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廃校の分教場の窓に映る桜

宮本常一の残した「忘れられた日本人」は多くの人に影響を与えたけれど,網野善彦は宮本常一の仕事を実質的に受け継いだと言ってもいいでしょう。常民文化研究所が調査して村々から借りた大切な文書が返却されずにいたのを後に入った網野善彦が村々を回り,返していったのです。村の宝物とされる古文書を借りること自体が苦心惨憺の末であることは「忘れられた日本人」の冒頭の「対馬にて」を読むとよく分かります。村の宝物を借りておいて返しもしないのは信用を失うことです。これらの遺産を一つ一つ網野は村を訪れて返していったのです。この古文書返却の経緯は「古文書返却の旅」(中公新書)として読むことができます。

そんな網野善彦が宮本常一を再び意識するようになったのは1984年2月に,当時教科書に載った「忘れられた日本人」の中の「梶田富五郎翁」について,筑摩書房から執筆を依頼されてのことだったようです。網野が「忘れられた日本人」を読んでそれまではさして気にも留めておかなかった内容に心を深く動かされたのです。
網野が心動かされた筆頭に挙げているのが「土佐源氏」です。この「土佐源氏」は土佐の山中の橋の下に住む乞食のようになった若い頃に馬喰をしていためくらの男の女性遍歴の話です。馬喰をしていたこの男の生き様は昔の日本の姿をありありと浮かび上がらせます。義務教育制度がまだ成立していない時代です。学校に行かない子どもも随分いたのです。つまり定住性の社会制度が成立する村の掟に当てはまらない住所を持たない流浪することで生活していた人々が多くいたことは確かです。

星桜本番 228-2gs
分教場の窓に映る桜

網野が「忘れられた日本人」の中に読み取るのは,そうした効率的なシステムから流浪する民の世界です。
例えば「梶田富五郎翁」では梶田翁が子どもだった頃,メシモライという形で漁の手伝いをしていました。
浅藻ちう所は元来天道法師の森の中で人が住んではならんことになっておった。このあたりではそういうところをシゲというてなあ,あすこは天道シゲじゃけに住んではならん,けがれるようなことをしてはならんと,土地の人はずいぶんおそれておった。
そういうところへどうして住むことになったかといいなさるんか。
対馬という所は侍の多いところで,どの村でもなかなかしきたりがやかましい。わしら漁師のような礼儀も作法も知らんものは,とてもつきあいできるもんじゃあない。それでいっそ神様のバチが当たってもかまわんけえ,まあめんめら同士(銘々同士)気の合うたものだけてくらすのがよかろうちゅうて浅藻へ納屋を建てることになったんじゃいの。
漁を生業とする人々は割合に自由に移り住むことのできる時代であったとも言えますし,神様の住む森もあって,その土地に入ればすべての権力が無力化されることも合ったわけです。治外法権の場所は村人が逃げ込む山にありました。また,一部の遍歴民が芸を見せれば,船賃が無料になったり,関所を素通りできる特権が与えられていた事実があったのです。網野はそうした裏にあって階級社会を支えていた人々を鋭くあぶりだそうとしました。それをアジールと言ったり無縁・公界・楽とも言ってきました。

もうこのように書いていくと,私が以前取り上げた「新・逃走論」の続きになってしまいます。サンカ,走り,逃散,一揆,山人,神隠しといった農村システムから外れたキーワードにつながっていってしまいます。鉄道が敷かれ,統制が行き渡り,ことごとく社会は均一化されていきました。戦前の日本の姿を見事なまでに記録した宮本の鋭いまなざしは無文字文化の熟成を高らかに歌っていたとも言えるでしょう。


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読む写真 宮本常一の手法-その二 写真が語ること-

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赤い鉄橋(陸羽東線)

宮本常一の「地割り」という考え方は,土地を分けるという形で表現された人々の考え方や歴史を知る最良の考え方と言えるでしょう。外部から来て,そこに定住したり,開墾して入植した場合に,その集団内で計画的に土地を分割する思想があったのです。短冊状に区切られた土地が地割りです。宮本常一は,日本各地の景観をそこに住む人々の合理的な考え方の結果として読み込むわけです。

景観を民俗学の方法として立ち上げる
これが宮本の方法論です。
さっそく今日も写真を見てみましょう。

入学式 022-s
山口県山口市から三田尻への途中(1969.8)

田んぼの中に一軒の昔の家があります。どうやら左の母屋と右側に牛(西日本)や馬(東日本)を飼っていた駄屋が一体化した家です。屋根の形は伝統的な寄せ棟ですが,上の方に神社の千木というスタイルを残しています。このような屋根の下は瓦屋根でつながっています。では宮本氏はこの家をどう読むのでしょうか。
このように改築したのは特に駄屋の方に独立する年代の子どもや孫がいて勉強部屋として改造して使われているのでしょう。従って,この家は三世代か四世代家族が住んでいるでしょう。子どもの将来を温かく見守る家族の姿を感じることができます。このように改築した家が多い所は進学率が高く,学問を尊ぶ傾向がある。
このような読みを行うわけです。素晴らしいですね。一つの景観から人々の思想までを深く掘り出してみせる宮本氏の手法の確かさを感じることができます。

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陸羽西線 立谷沢川鉄橋を往く

宮本常一は『日本の村』の前書きでこう書いています。
汽車が駅に着いたら,そこに積まれている荷物にどんなものがあるかをよく気を付けて見よ。それでその辺りの産業がわかる。また乗り降りのお客のしたくで,そのあたりの村が富んでいるか貧しいかもわかる。汽車の窓から見る家々によっても,開けているか,おくれているかを知ることもでき,富んでいるか,貧しいかもわかる。田畑のできぐあいで,まじめにはたらいているかもわかるものだ。
徹底したこの観察の極意を常一に教えていたのは常一の父です。

常一が十五歳で大阪に出るとき,この父は人生の十か条を常一へのはなむけの言葉としたそうです。
①汽車に乗ったら窓から外をよく見よ。田や畑に何が植えられているか。育ちがよいか,悪いか。
②新しく行った村でも町でも必ず高いところに上がって見よ。方向を知り,目立つものを見よ。目を引いたものがあったら,そこへは必ず行ってみることだ。
・・・
⑩人の見残したものを見るようにせよ。その中にいつも大事なものがあるはずだ。
『宮本常一の写真に読む失われた昭和』佐野眞一著から

写真というものが,景観を方法として立ち上げる武器になることを改めて考えました。




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読む写真 宮本常一の手法-地割り-

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春の気配 陸羽東線 最上駅を出て

「賢治と鉄道」の宮沢賢治の樺太行きについては,中途半端な点もありましたが一旦終わりとして,今日から写真について話したいと思います。題して「読む写真 宮本常一の手法」と,いつも題名だけが格好良く中々中身が着いていきません。

宮本 常一(みやもと つねいち)は,1907年8月1日 - 1981年1月30日73歳,民俗学者と紹介されている。戦前から全国各地を廻り,聞き書きを続けました。その最たるものが『忘れられた日本人』(昭和35)で岩波文庫で今でも読めます。

忘れられた日本人

聞き書きしたこれらの作品は,いずれも昔の日本人の姿を映し出していて,興味深く読めます。
彼の徹底した追究の姿勢の特徴は,足で稼ぐ聞き書きと写真にあります。彼は聞き書きをしながら,十万点以上の写真を残しています。これらの写真が実は宮本民俗学を理解するにも,写真が学問にどうつながっていくかという手法を知るにも重要に思えるのです。
私は彼を「歴史民族学の絵解き師」と呼びたいです。絵解き師とは昔,常民に仏法を理解させるために,曼荼羅などの絵を使ったり,物語にしたり,歌にしたりして分かりやすく説法した僧のことを言います。
前振りはともかく早速記録された写真を見ていきましょう。次の写真を見て下さい。

地割り 007-2s
畑の地割りの例  広島県能美島中町(現 江田島市)の背後 1966.12撮影

「地割り」というのは,その土地が分割されている様子を言います。土地割りとも言い,分割線とも言います。
写真を見ると尾根に沿って道路が通っていて畑がモザイク模様のように美しい形で並んでいます。そしてその起伏に沿ってたてのラインが一軒の農家の持ち分です。つまり短冊状に土地を分割していった歴史があったと思われます。土地を平等に分けていく考えがあったのです。ですから,この場所はもともと地主がいて,それが先着順に譲られていった形ではないでしょう。もしお金を出して譲っていったのであれば,畑には大小が生まれ,水の取りやすい場所が取られ,もっと不規則になったはずです。
どうやら集団でこの場所に移り住み,みんなで平等に分けたのです。例えばこのような平等性の結果を,宮本は漁民が陸上がりして集落をつくった場合にこのような地割りになるのではないかと推測するわけです。このようにその地形から集落ができる過程を考えるのです。
 このたった一枚の写真から集落を形成する集団の土地分割や土地利用の歴史を読み取ることができるのです。
これは興味深いことです。もっと近くで,このような地割りの例を見ましょう。次の写真を見て下さい。

地割り 018-2s
横浜市周辺 1968年12月 新幹線の車窓から 
起伏に沿って縦に分割した線がはっきりと分かります。
一軒について縦に区切られた線の中の土地が自分の土地になります。
一番上に山があります。燃料の木を切り出したりするのでしょう。また山の手前に灌木か,何かが植えられています。家畜などの餌にするものを取る場所かもしれません。畑には様々な物が植えられています。地割りの考え方は自給自足を最大限まで効率的に進める考え方が現れ出ていると写真を読むわけです。このように,その土地にやってきて,開墾して自分の土地となり,定住していく歴史があったと読めます。中世の名田の考え方でしょう。
次の写真は地割りの典型的な例です。

地割り 027-2s
東京都府中市の新田土地割りの図

道路に沿って短冊状に土地が割り振られています。そして一軒一軒の土地をよく見ると,その土地の中に宅地,畑,雑木林,墓地があるのです。このような土地の構成の仕方は,最も合理的で無駄がない形でしょう。現代で言えば,畑付き土地分譲建て売り住宅の販売のようなものでしょうか。
実際このような土地割りであっても貧富の差が出てきて,退転したりする農家も出てきたことでしょう。そして土地が売りに出され,地区に関係のない者がその土地を買ったりすることもあったと思います。また,分家して新しい土地を開墾したりすることもあったでしょう。このようにして素封家や旧家や地主が形成されたのかもしれません。

宮本常一は写真からこのような日本全国の土地の歴史を丹念に読み取っていたのです。写真が学問の最強の武器となることを自覚していた宮本常一の手法は素晴らしいと思います。

この話は続きます。


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