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賢治と鉄道-通し苗代-

4月夕方電車 030-2s
ウメの花電車

先日宮本常一の本を読んでいる折に,「通し苗代」の話が出ていた。
「通し苗代」とは苗をつくるためだけの田であり,特に気候の厳しい東日本では苗作りが生育や収量に大きく影響するために特別に配慮して稲作が行われていたのです。その「通し苗代」には十分な肥料を与え,稲は植えずに草取りをしながら夏に耕しておいて丈夫な苗をつくるためだけの田なのです。風が少なく,水がかりの良い,家に近い場所に「通し苗代」はつくられました。
下の図を見て下さい。

賢治ブログ用 011s
花巻市上根子字和田地区の通し苗代の場所

この図の見方はアルファベットが付けられた家と通し苗代の場所が符合するようになっています。つまり,Aの家の人はAの通し苗代で苗を育てたのです。そうした見方をします。
東北であれば,どこの家でもこのように苗をつくる時には通し苗代に種籾を蒔いて苗を育てていたのです。その通し苗代の写真があったので載せておきます。
遠野物語で有名な遠野で写真を撮り続けていた浦田穂一「遠野この郷の記憶」という優れた写真集の中からです。

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浦田穂一「遠野,この郷の記憶」から「田植え」
通し苗代から田植えのために苗を小分けにして田に運ぶ男の人の様子です。
次にこの通し苗代が東北各県でどれくらい普及していたかの表もあったので載せておきます。

賢治ブログ用 007s
東北六県における通し苗代の普及率と変遷

この通し苗代という方法がどれだけ普及していて,効果を上げていたのかがわかります。
しかし,このような工夫を尽くしても,ヤマセにやられ冷害になり,干害に苦しみ,台風や大風による河川の洪水で収穫が見込まれるのが三年に一回という程に米作りが難しくなっていたことは確かです。品種改良が行われ亀の尾や陸羽132号という寒さに強い稲が植えられても難しかったのです。この苦労は農民の人たちの苦しみであり,宮沢賢治も自分が肥料設計した田を狂ったように走り回っていた苦悩は誰しも分かると思います。

このブログでも「賢治と鉄道」というタイトルで,賢治の樺太行きを追ってみました。その中で,旭川で下車して朝の5時に馬車を借りて,半日旭川農事試験場を見学した日程がありました。その急ぐ様子が「旭川」という詩になっています。

この旭川農事試験場で賢治は何を調べたのでしょう。
やはり北海道における稲作の現状を見たのだと思います。北海道の開発が進むにつれて急激に水田開発も進みました。北海道で稲作が急務という時代が来ていたのです。旭川農事試験場も20アールの試験田で稲作の試験が進んでいました。なによりも決定的なのはこの農事試験場で陸羽132号の試験栽培も賢治が行く2年前から始まっていたことも決定的です。賢治は陸羽132号の栽培試験の結果は知りたかったでしょう。北海道では,どうしても気候上か,湿田で育てるとうまくいかないようなのです。そこで,大正に入り,直播に流れが移っていきました。種籾を苗代に植えて苗を作らず,直に種籾を田に植えるという方法です。黒田式直播器(じかまきき)など工夫された農具が次々と発明されていきました。

黒田式直播器
黒田式直播器
たこの足といわれた直播器です。上の箱に種籾を入れるとたこの足のような細いくだを通って等間隔に植えられる仕組みです。

時代は,国の指導により,通し苗代から離れつつあり,更に昭和に入っていくと日中戦争による食料増産の急務のために苗代のためとはいえ使わないでおく田がないようにと指導されて消えていく流れだったのです。
賢治は北海道の最先端の直播の可能性や技術に賭けていたと思います。彼は最先端の知識と技術で稲作をより安定させたいと農民と同じくらい思っていたでしょうから。彼が夜明けの旭川を馬車を駆けさせることは岩手の農業を救うくらいの気持ちだったと思います。

ウメの花電車-2gs
ウメの花電車

偶然読んでいた宮本常一の本にあった花巻の通し苗代の図表を見て,賢治はどういったことをしていたのだろうと思いました。通し苗代の重要性は誰もが認めるところです。肥料設計としての彼はなにを行ったか。と思いました。

すると,あったのです。花巻高等農林学校在職中(大正十四)に肥料屋の八重樫次郎という人から肥料の効果の実験を依頼されていた報告書がありました。その肥料の名前は「ルチランチン」というドイツ製の肥料です。
 「水稲苗代期ニ於ルチランチンノ肥効実験報告」

 大正十四年本校試作地ニ於ケルチランチンノ水稲苗代期ニ対スル肥効実験ノ成績左ノ如シ

 一、チランチン使用区ハ対照不使用区ニ比シ種籾腐敗少ナシ

 二、チランチン使用区ハ対照不使用区ニ比シ発育一般ニ旺盛ナリ

 備考 一、更ニ水耕法ニヨリテ定量的試験ヲ行ヒ右結果ヲ確定スベシ
     二、右耕種概要左ノ如シ
         供用品種 陸羽一三二号
         撰種 比重一・一三塩水撰
         浸種 四月十一日ヨリ同十六日ニ至ル
         チランチン使用期日 四月十七日
         芽出シ 四月十七日ヨリ同廿日ニ至ル
         播種期 四月廿一日
         播種量 一歩五合
         肥料 一歩宛窒素十二匁 燐酸十匁 加里九匁 原肥
         管理 初メ廿日間水掛引

  大正十四年六月十三日
                     花巻農学校
                           宮沢賢治

 八重樫次郎殿
「効果大」と報告していました。

賢治の肥料設計も日々進歩していたことも確かです。そしてそれによって無理を重ね,また病に伏すことにもなります。

さて「賢治と鉄道」なのに何も鉄道ネタがないのも変な話で,おこられてしまいます。
そこで当時の写真を探しました。見て下さい。
賢治ブログ用 013-2s大
大正11年頃の稚内駅ホーム

賢治が行く2年前,大正11年の稚内駅ホームの写真です。写真は『宮沢賢治「銀河鉄道」への旅』からp128の掲載写真
機関車は何でしょうか。拡大して見ます。

賢治ブログ用 013-2s
どうも「7934」と見えるような気がします。
とにかくも開業当時の宗谷本線は,この機関車が走っていたという証拠にはなるでしょう。
これは国鉄の7900型なのでしょうか。後でまた調べ直してみます。



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夕陽を浴びて-なぜ通信がゆるされないか-

御岳堂駅 015-2gs
夕陽を浴びて

『春と修羅』の詩群の中にあって,とし子の死に関係する作品は暗く青白く,永遠とも言えるにぶい光を放ち続けています。
ここにとし子(トシ)に関係する作品を発表順に挙げてみます。

「永訣の朝」       1922/11/27    無声慟哭 『春と修羅』
「松の針」         1922/11/27   無声慟哭 『春と修羅』  
「無声慟哭」       1922/11/27    無声慟哭 『春と修羅』  
「風林」          1923/06/03     無声慟哭 『春と修羅』
「白い鳥」        1923/06/04    無声慟哭 『春と修羅』
 
サハリン(樺太)行き
「青森挽歌」       1923/08/01    オホーツク挽歌 『春と修羅』
「青森挽歌 三」     1923/08/01    オホーツク挽歌 『春と修羅』補遺
「津軽海峡」       1923/08/01    オホーツク挽歌 『春と修羅』補遺
「駒ヶ岳」         不明         オホーツク挽歌 『春と修羅』補遺
「旭川」 1923/08/02か  オホーツク挽歌『春と修羅』補遺8/2午前
「宗谷挽歌」       1923/08/02    オホーツク挽歌 『春と修羅』補遺8/2夜
「自由画検定委員」   不明         オホーツク挽歌 『春と修羅』補遺
「青森挽歌」       1923/08/01    オホーツク挽歌 『春と修羅』
「オホーツク挽歌」    1923/08/04   オホーツク挽歌 『春と修羅』
「樺太鉄道」        1923/08/04    オホーツク挽歌 『春と修羅』
「鈴谷平原」        1923/08/07    オホーツク挽歌 『春と修羅』
「 噴火湾(ノクターン)」 1923/08/11  オホーツク挽歌 『春と修羅』


しかし,何回か読んでいると不思議なことに気付きます。
《ヘッケル博士!
わたくしがそのありがたい証明の
任にあたってもよろしうございます》

そしてそこから7行目

そしてわたくしはほんとうに挑戦しよう)

何か確信めいた暗い希望を感じさせる暗示が読み取れるのです。
賢治は死んだ妹トシとの交信にある程度の自信を感じていたのではないでしょうか。そのような自信とも取れる口調には根拠があったように受け取れます。

生きている人間が死んだ人と交信することに自信を持っている。
言い換えれば異空間との交信に確実さを感じた,壮大なる実験を試みようとしているのです。
賢治はその方法を携えて樺太までやってきたように感じます。

彼は栄浜で一体何をしたのでしょうか。

遡ること6/3の夜
彼は夜通し歩いていた。
そして疲れ切った朝,白鳥が飛ぶのを見て「とし子だ」と確信しました。    「白い鳥」

壮大な実験は終わりました。
8/11
最後に彼は次のように書いてオホーツク挽歌群を締めくくりました。

どうしてもどこかにかくされたとし子をおもふ    「噴火湾(ノクターン)」


結論はこうでした。
「なぜ通信がゆるされないのか」




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赤い残光

御岳堂駅 107-2gs
赤い残光

今線路沿いは,ウメ,菜の花,スイセンと次々と花で明るくなっています。まさに春鉄道です。
どうしても仕事帰りに撮る写真なので夕暮れから夜にかけての写真が多くなります。いわゆる夜鉄(よるてつ)が多くなります。
こちらは宮城県北部ですから,撮れる線は東北本線,気仙沼線,石巻線,陸羽東線,大船渡線辺りが多くなります。

この写真は昨夕の気仙沼線のとあるところ。18:15下り電車です。
トンネルを抜ける寸前,赤い尾灯がトンネルの中を赤く照らし出します。通過途中ではトンネル内が明るくなりすぎたりしますが,トンネルを抜けきる寸前にこの残照が暗闇の中から現われます。

私自身撮り鉄になったのは今年からです。初心者そのものです。よろしくお願い致します。
撮る範囲も限られており,情報ネタよりも写真が中心になってしまいます。
初めていらした方は物足りないかもしれませんが,ご了承下さい。




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賢治と鉄道-樺太行き その四-

夕方の電車 119-2gs
ウメの花咲いて夕方電車


今までのトシからの通信は
いつも予期しない時に届けられていました。

その通信がまた届いたのです。「春と修羅」補遺の「青森挽歌三」です。

 私が夜の車室に立ちあがれば

   みんなは大ていねむってゐる。

   その右側の中ごろの席

   青ざめたあけ方の孔雀のはね

   やはらかな草いろの夢をくわらすのは

   とし子、おまへのやうに見える
列車の同じ車両の中ごろの右の席にとし子がいるというのです。確かに今までに死んだはずのとし子がいたという法隆寺の駅のことを思い出します。


「まるっきり肖たものもあるもんだ,
法隆寺の停車場で
すれちがう汽車の中に
まるっきり同じわらすさ。」
父がいつかの朝さう云っていた。

そして私だってさうだ
あいつが死んだ次の十二月に
酵母のような細やかな雪
はげしいはげしい吹雪の中を
私は学校から坂を走って降りて来た。
まっ白になった柳沢洋服店のガラスの前
その藍いろの夕方のけむりの中で
黒いマントの女の人に遭った。
帽巾に目はかくれ
白い顎ときれいな歯
私の方にちょっとわらったやうにさへ見えた。         青森挽歌三

賢治の受け取る通信は音ではなく,映像です。風に乗って「おにいちゃん」という声がするのではないのです。ありありと「白い顎ときれいな歯/私の方にちょっとわらったやうにさへ見えた」というリアリティーのある映像が届くのです。この点は大切でしょう。
それでは,その映像として届くトシからの通信は,本当に予期せぬ時ばかりなのでしょうか。いいえ。賢治はトシからの通信が届く条件も書いています。

「巻積雲のはらわたまで
月のあかりは浸みわたり」
「青森だからといふのではなく
大てい月がこんなふうに暁ちかく
巻積雲にはいるとき
或いは青ぞらで溶け残るとき
必ず起る現象です。」 


列車の外はこんな景色です。こんな景色が見られた時がトシからの通信が届く時だと言うのです。
月と雲が織りなすこんな時に通信は届くわけです。
それでは8月4日付けの「オホーツク挽歌」に唐突に出てくる次の言葉はどんな意味を持っているのでしょう。


(十一時十五分、その蒼じろく光る盤面(ダイアル))



まずこれについては朝の描写から始まるこの詩ですから「午前十一時十五分」と言われています。そして「その青じろく光る盤面(ダイヤル)」はどう見ても時計です。賢治は日が高くなった午前十一時十五分に時計を見た。そしてその時計の盤面は青じろく光ったということです。しかし,午後十一時十五分ではないのでしょうか。つまり夜の十一時十五分とも受け取れるわけです。萩原昌好の「宮沢賢治「銀河鉄道」への旅」では夜ではないかと予想されています。つまり前日(3日)の夜十一時十五分です。そこで栄浜の1923年8月3日夜11:15の星空を見てみます。

星図1923年8月3日
樺太栄浜から見た東の星空

白鳥座が天頂に来ています。この天頂にある白鳥座が栄浜にある「白鳥湖」に写るということがポイントです。萩原氏はこう書きます。
八月三日午後六時二十分に栄浜に着いた賢治は,山口旅館に旅装を解き,それから多分夕食も摂って栄浜白鳥湖まで足を延ばしたのである。絶えず,お題目を唱えながら。夜半に至り,白鳥座と白鳥湖とが接点となるその地点において,彼はトシが無上菩提に至ることを一心に祈り続け,夜明けになって山口旅館の近くの砂丘の陰で疲れた体を休めた-と考えられる。
星空の下,波の音に打ち消されないように「南無妙法蓮華経」を唱え歩いたのでしょう。そしてやがて日が変わる頃月が昇ってきます。そして月が傾く夜明けまで彼は栄浜で祈り続けていたのだと思います。

(十一時十五分、その蒼じろく光る盤面(ダイアル))

は夜の十一時十五分と考えるといよいよリアルになっていく部分もあります。萩原氏はこの(十一時十五分、その蒼じろく光る盤面(ダイアル))の十一時が「銀河鉄道の夜」の中の十一時と符合していくと展開していきます。その辺りも興味深いところです。



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賢治と鉄道-樺太行き その三-

東京 312-2s
夜明け 東武スカイツリーライン隅田川を行く。上は首都高速6号向島線

今夜は「賢治と鉄道」樺太行きの3回目です。

稚内・大泊連絡船   稚内発   23:30 8/2 
              大泊着    7:30 8/3

宮沢賢治は1923年(大正十三)8月3日朝,樺太の大泊に着きました。
賢治は最初の目的である教え子の就職の依頼を,王子製紙の細越健氏に会って,果たすことができたのであろうか。記録はない。その体で賢治は大泊発の午後1時10分の列車に乗っただろう。

樺太庁鉄道     大泊発    13:10
             栄浜着    18:20

やっと最北の地にたどり着いたのです。栄浜の北緯は47°24'37.0"Nです。花巻と8°の差があります。この栄浜は当時戸数三百数十戸,人口1700人余りとで山口旅館という百人程度泊まれる旅館があったそうです。この山口旅館で旅装を解き,休んだであろう。そして海岸の方に出掛けていきました。

下り普通列車-2s
カシオペアを待ちながら

栄浜にたどり着いた賢治は「オホーツク挽歌」にその思いを記している。この詩の日付は八月四日です。朝の景色の描写から始まります。
   

   海面は朝の炭酸のためにすつかり銹びた

   緑青(ろくせう)のとこもあれば藍銅鉱(アズライト)のとこもある

   むかふの波のちゞれたあたりはずゐぶんひどい瑠璃液(るりえき)だ

賢治はいつ死んだ妹トシとの交信を試みたのだろう。どうやら栄浜に着いた昨夜から明け方にかけて試みたようだ。賢治は疲れ切っていた。
白い片岩類の小砂利に倒れ

   波できれいにみがかれた

   ひときれの貝殻を口に含み

   わたくしはしばらくねむらうとおもふ

   なぜならさつきあの熟した黒い実のついた

   まつ青なこけももの上等の敷物(カーペット)と

   おほきな赤いはまばらの花と

   不思議な釣鐘草(ブリーベル)とのなかで

   サガレンの朝の妖精にやつた

   透明なわたくしのエネルギーを

   いまこれらの濤のおとや

   しめつたにほひのいい風や

   雲のひかりから恢復しなければならないから




カシオペア南へ3-gswb
カシオペア南へ

賢治はどのような方法でトシとの交信を試みたのだろうか。

一つの気になる言葉が突然に詩の中に入っている。

 (十一時十五分、その蒼じろく光る盤面(ダイアル))



この意味はなんだろうか。


この話は次回に続きます。


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