2016/04/02
賢治と鉄道-通し苗代-

ウメの花電車
先日宮本常一の本を読んでいる折に,「通し苗代」の話が出ていた。
「通し苗代」とは苗をつくるためだけの田であり,特に気候の厳しい東日本では苗作りが生育や収量に大きく影響するために特別に配慮して稲作が行われていたのです。その「通し苗代」には十分な肥料を与え,稲は植えずに草取りをしながら夏に耕しておいて丈夫な苗をつくるためだけの田なのです。風が少なく,水がかりの良い,家に近い場所に「通し苗代」はつくられました。
下の図を見て下さい。

花巻市上根子字和田地区の通し苗代の場所
この図の見方はアルファベットが付けられた家と通し苗代の場所が符合するようになっています。つまり,Aの家の人はAの通し苗代で苗を育てたのです。そうした見方をします。
東北であれば,どこの家でもこのように苗をつくる時には通し苗代に種籾を蒔いて苗を育てていたのです。その通し苗代の写真があったので載せておきます。
遠野物語で有名な遠野で写真を撮り続けていた浦田穂一「遠野この郷の記憶」という優れた写真集の中からです。

浦田穂一「遠野,この郷の記憶」から「田植え」
通し苗代から田植えのために苗を小分けにして田に運ぶ男の人の様子です。
次にこの通し苗代が東北各県でどれくらい普及していたかの表もあったので載せておきます。

東北六県における通し苗代の普及率と変遷
この通し苗代という方法がどれだけ普及していて,効果を上げていたのかがわかります。
しかし,このような工夫を尽くしても,ヤマセにやられ冷害になり,干害に苦しみ,台風や大風による河川の洪水で収穫が見込まれるのが三年に一回という程に米作りが難しくなっていたことは確かです。品種改良が行われ亀の尾や陸羽132号という寒さに強い稲が植えられても難しかったのです。この苦労は農民の人たちの苦しみであり,宮沢賢治も自分が肥料設計した田を狂ったように走り回っていた苦悩は誰しも分かると思います。
このブログでも「賢治と鉄道」というタイトルで,賢治の樺太行きを追ってみました。その中で,旭川で下車して朝の5時に馬車を借りて,半日旭川農事試験場を見学した日程がありました。その急ぐ様子が「旭川」という詩になっています。
この旭川農事試験場で賢治は何を調べたのでしょう。
やはり北海道における稲作の現状を見たのだと思います。北海道の開発が進むにつれて急激に水田開発も進みました。北海道で稲作が急務という時代が来ていたのです。旭川農事試験場も20アールの試験田で稲作の試験が進んでいました。なによりも決定的なのはこの農事試験場で陸羽132号の試験栽培も賢治が行く2年前から始まっていたことも決定的です。賢治は陸羽132号の栽培試験の結果は知りたかったでしょう。北海道では,どうしても気候上か,湿田で育てるとうまくいかないようなのです。そこで,大正に入り,直播に流れが移っていきました。種籾を苗代に植えて苗を作らず,直に種籾を田に植えるという方法です。黒田式直播器(じかまきき)など工夫された農具が次々と発明されていきました。

黒田式直播器
たこの足といわれた直播器です。上の箱に種籾を入れるとたこの足のような細いくだを通って等間隔に植えられる仕組みです。
時代は,国の指導により,通し苗代から離れつつあり,更に昭和に入っていくと日中戦争による食料増産の急務のために苗代のためとはいえ使わないでおく田がないようにと指導されて消えていく流れだったのです。
賢治は北海道の最先端の直播の可能性や技術に賭けていたと思います。彼は最先端の知識と技術で稲作をより安定させたいと農民と同じくらい思っていたでしょうから。彼が夜明けの旭川を馬車を駆けさせることは岩手の農業を救うくらいの気持ちだったと思います。

ウメの花電車
偶然読んでいた宮本常一の本にあった花巻の通し苗代の図表を見て,賢治はどういったことをしていたのだろうと思いました。通し苗代の重要性は誰もが認めるところです。肥料設計としての彼はなにを行ったか。と思いました。
すると,あったのです。花巻高等農林学校在職中(大正十四)に肥料屋の八重樫次郎という人から肥料の効果の実験を依頼されていた報告書がありました。その肥料の名前は「ルチランチン」というドイツ製の肥料です。
「水稲苗代期ニ於ルチランチンノ肥効実験報告」
大正十四年本校試作地ニ於ケルチランチンノ水稲苗代期ニ対スル肥効実験ノ成績左ノ如シ
一、チランチン使用区ハ対照不使用区ニ比シ種籾腐敗少ナシ
二、チランチン使用区ハ対照不使用区ニ比シ発育一般ニ旺盛ナリ
備考 一、更ニ水耕法ニヨリテ定量的試験ヲ行ヒ右結果ヲ確定スベシ
二、右耕種概要左ノ如シ
供用品種 陸羽一三二号
撰種 比重一・一三塩水撰
浸種 四月十一日ヨリ同十六日ニ至ル
チランチン使用期日 四月十七日
芽出シ 四月十七日ヨリ同廿日ニ至ル
播種期 四月廿一日
播種量 一歩五合
肥料 一歩宛窒素十二匁 燐酸十匁 加里九匁 原肥
管理 初メ廿日間水掛引
大正十四年六月十三日
花巻農学校
宮沢賢治
八重樫次郎殿
「効果大」と報告していました。
賢治の肥料設計も日々進歩していたことも確かです。そしてそれによって無理を重ね,また病に伏すことにもなります。
さて「賢治と鉄道」なのに何も鉄道ネタがないのも変な話で,おこられてしまいます。
そこで当時の写真を探しました。見て下さい。

大正11年頃の稚内駅ホーム
賢治が行く2年前,大正11年の稚内駅ホームの写真です。写真は『宮沢賢治「銀河鉄道」への旅』からp128の掲載写真
機関車は何でしょうか。拡大して見ます。

どうも「7934」と見えるような気がします。
とにかくも開業当時の宗谷本線は,この機関車が走っていたという証拠にはなるでしょう。
これは国鉄の7900型なのでしょうか。後でまた調べ直してみます。

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