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明恵と西行

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『西行』を書いた高橋英夫氏は「西行は現世に浄土を見ようとした人。そして西行にとって花は浄土からのたよりだ」と言いました。私もそうだと思っています。その西行は二度陸奥(みちのく)を訪れています。最初は天養元年(1147)27歳の時,能因の辿った陸奥を自分でも辿ってみたいと思い,二度目は東大寺の焼失によって失われた金の勧進を重源から依頼されて文治二年(1186)69歳の西行が鎌倉で頼朝に会ってから平泉の秀衡を訪ねた,この2回です。

平泉から帰った西行は神護寺の法華会の「やすらい祭」に行っています。この時文治四年(1188)西行は71歳,明恵はまだ16歳だったそうです。二人は親しく和歌について話合い,この場で西行は自分なりの歌道論を述べたと言われています。それが明恵上人伝記の次の一節です。
西行法師常に来りて物語して云はく、我歌を読むは、遙かに尋常に異なり。 華、郭公、月、雪 都て万物の興に向ひても、凡そ所有相皆是虚妄なること眼に遮り耳に満てり。 又読み出す所の言句は皆是真言にあらずや。華を読むとも実に華と思ふことなく、月を詠ずれども実に月とも思はず只此の如くして、縁に随ひ興に随ひ読み置く処なり。紅虹たなびけば虚空いろどれるに似たり。白日かゞ やけば虚空明かなるに似たり。然れども虚空は本明かなるものにあらず、又色どれるにもあらず。我又此の虚空の如くなる心の上にをいて,種々の風情を色どると雖も、さらに蹤跡なし。此の歌即ち是れ如来の真の形体なり。されば一首読み出ては一体の仏像を造る思ひをなし、一句を思ひ続けては秘密の真言を唱ふるに同じ。我れ此の歌によりて法を得ることあり。若しこゝに至らずして、妄りに此の道を学ばゝ邪路に入るべし と云々。さて読みける 
  山ふかくさこそ心はかよふともすまであはれは知らんものかは
喜海、其の座の末に在りて聞き及びしまま、之を注す
これを読むと当時の西行が風景の何を見ていたかが分かります。確かに凡人の私たちが見ている風景とは全く視点が違います。

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私が歌を詠むということは,およそ普通の人の歌を詠むこととは全く違っている。
「華、郭公、月、雪 都て万物の興に向ひても、凡そ所有相皆是虚妄なること眼に遮り耳に満てり。」
(意訳)花,郭公,月,雪などすべては興味をもって見てもそれは虚妄なのだ。

「華を読むとも実に華と思ふことなく、月を詠ずれども実に月とも思はず只此の如くして、縁に随ひ興に随ひ読み置く処なり。紅虹たなびけば虚空いろどれるに似たり。白日かゞ やけば虚空明かなるに似たり。然れども虚空は本明かなるものにあらず、又色どれるにもあらず。」
(意訳)花を読むとも花と思わず月を詠むとも月と思わず,縁に従い興の赴くままに詠み置く。赤い虹が出れば空は鮮やかに彩っているように,また白日満つれば空明るく見える。しかし,虚空は本来彩られるものでも明るく見えるものではないのだ。

71歳の西行は一体何を言っているのでしょうか。まるで見ている花は実は花ではなく,見ている月も実は月ではないと言うのでしょうか。意味が分かりません。花や郭公や月や雪をそのままに見るのではなく違った見方で見ているという虚空という次元は何なのでしょうか。

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ただ「読み出す所の言句」と言っているので,どうも今見ている花や月はすべて「縁」に随うありのままの相で描かれるもので個々の存在を持っているものではない,すべては今の現象の加減によってつくられたものだと言いたいのかもしれません。そうすると花は花としてではなく縁によって今心に写しだされた花であり,それが仏を表し,月もまた斯くの如しと言いたいのだと思われます。
我が心に浮かんだありのままの相を言葉にすればそれは「真言」となる。心が澄み渡っていればその心から生まれる歌は真言と化す。まさに歌を詠むことは真言を唱え,仏をつくることに通ずるというのでしょう。ここに仏門にいる者の歌の意味が見えてきます。ただ雅に見せるために,効果を上げるためだけに技を凝らすような単なる「数奇もの」の歌ではなく,澄み渡る心でこの世を清明に歌う歌こそ心と現象と菩薩が溶け合う一如を可能とする。こういう視点こそが歌の完成形なのだと西行は言っています。

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この言葉には71年生きて,詠む続けて来た西行の歌道への自負さえ感じさせます。心は三悪に満ち、濁りもする。しかし同様に心は清明に澄ませれば仏をもつくる。あるがままにあるこの世の現象をあるがままに写していく歌こそ仏道に叶うことである。
ではここの西行の最後の歌は何を言っているのでしょうか。
「山ふかくさこそ心はかよふとも
すまであはれは知らんものかは」
題しらず 新古今和歌集 巻第十七 雑歌中 1632
(意訳)「どんなに山深くまで思いを馳せてその趣を会得したと思っていても、実地に住まずに微妙な気味を識ることなどとてもできません。」『新日本古典文学大系 11』p.477

これは徒にただ思いを馳せて歌をつくってもそれはただの想像でしかない。何事も実地に山深くに住むことでしか本当の趣は分からないのだと戒めているようです。歌の心はすべて「真言」に通じるには,小手先の虚構は戒められるべきことです。

71歳の西行がわざわざ16歳の明恵に親しく歌論を説くとき,そこには年齢を越えて歌を志す者同士の通い合いが温かく伝わってきます。

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このエピソードは最初に書かれたという「明恵上人伝」にはないので後で挿入された逸話ではないかとも言われています。


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西行こぼれ話 その七-雁がねの歌-

遠野黎明
遠野の夜明け

前略
菅原さん。お元気ですか。
やっと先回,雁風呂の話まで進みました。
西行が平泉まで来たときに,青森の外が浜まで来たのかということ。
来たとしたら西行は外の浜に伝わるという雁風呂の話を知っていたのかという話でした。
結論から言えば,外の浜に行った可能性は少なく,また雁風呂の話を知っている可能性も少ないようです。しかし可能性はゼロではありません。
今日は西行が歌う雁の歌の中に「雁風呂」という美しい話を聞いていたかという痕跡を探ることになります。

平成19年1月21日(日) 172-2s
栗駒山とマガン

  霞中帰雁
46 何となくおぼつかなきは天の原霞に消えて帰る雁がね
  
47 雁がねは帰る道には迷うらん越の中山霞隔てて

  帰雁
48 玉章(たまづさ)の葉書かとも身ゆるかな飛び遅れつつ帰る雁がね

365 くまもなき月の面に飛ぶ雁の影を雲かとまがへつる哉

   船中初雁
419 沖かけて八重の潮路を行く舟はほのかにぞ聞く初雁の声

   朝聞初雁
420 横雲の風に分かるるしののめに山飛び越ゆる初雁の声

   入夜聞雁
421 烏羽(からすば)に書く玉章(たまづさ)の心地して雁鳴き渡る夕闇の空

   雁声遠近
422 白雲をつばさにかけて行く雁の門田の面の友したふなり

   霧中雁
423 玉章(たまづさ)のつづきは見えで雁がねの声こそ霧に消たれざりけれ

   霧上雁
424 空色のこなたを裏に立つ霧の面に雁のかかる玉章(たまづさ)

   寄帰雁恋
600 つれもなく絶えにし人を雁がねの帰る心と思はましかば

959 連ならで風に乱れて鳴く雁のしどろに声の聞ゆなる哉 
                                                   以上山家集
   帰雁
4 いかでわれ常世の花のさかり見てことはり知らむ帰雁がね
                                                   西行法師家集

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夏の終わりの天の川

霞や雲に遮られる雁の姿

連なって飛ぶ姿を玉章(たまづさ)になぞらえる様子

かすかに聞こえる初雁の声

夕闇になっても続く雁の飛ぶ姿は烏の羽に書いた玉章(たまづさ)のように見えること

山を飛び越えて聞こえる初雁の声は待ち望んだ雁の鳴き声だったこと


ただ雁の姿と声だけの現在を歌いながら,じっとそこにとどまる思考停止の中からふと立ち昇る何かを待っているかのようです。
写実に徹した西行の歌はどこか歌い上げるというよりも滲み出す風情が静かに感じられる優れた歌が多いです。観察眼の鋭さが違和感なく言葉の連なりの中に凝縮されています。

その点では
77 願はくは花の下にて春死なんそのきさらぎの望月の頃
と願いをはっきりと出してたたみかける言葉でその願いの力強さを出した歌とはまた対極にある雁の歌の写実性も好ましいものです。


ただこれらの雁の歌歌の中に「雁風呂」という言葉や外の浜を感じさせる地名も,雁風呂にちなんだエピソードも盛り込まれてはいないようです。西行が外の浜に行った可能性は少なく,また雁風呂という美しい話をどこかで聞いて知っていたという可能性も少ないようです。
しかし本当はどうだったのかは分かりませんでした。

菅原さん。
お尋ねの件,「西行」「歌枕にある青森の外の浜行き」「雁風呂」というキーワードはつながるかという問題は今日のこの記事で一旦終わりとさせていただきます。あまり実り多いものではありませんでしたが,お許し下さい。何かまた見つかりましたらご連絡差し上げます。長い間ありがとうございました。
呉々もご自愛の程を。


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西行こぼれ話 その六-雁風呂の話-

前略
菅原さん。お元気ですか。
とうとう西行と雁風呂の関係の話に入れそうです。西行が青森の外が浜に実際に行ったかどうかという話について長々と5回もかけてお手紙を書いてきましたが,やっと今日の6回目からは西行は雁風呂の話を知っていたのかという話に入ります。結論から言えば知っている可能性は少ないかも知れませんが,何か手がかりになるようなことがあるかを探ってみることは面白いことですね。西行の東下り,西行が平泉から青森の外が浜まで足を伸ばしたか,そして外が浜に伝わるこの「雁風呂」という美しい話を聞いていたかということになるでしょう。

そのためには雁風呂という話が西行の生きていた時代辺りまで遡れるのか,そのような記録があるか。ということと,西行の歌の中に雁風呂の話を土台としたような歌があるかということになります。
今日はまず「雁風呂」の話から始めましょう。


栗駒 108-2gs

混沌への序章

まず雁風呂の話は心温まる美しい話で,ちょっと検索してみても沢山取り上げられていますね。教科書に取り上げられ広く知られている椋鳩十の『大造じいさんとガン』の話も前書きを読めば,九州の猟師から聞いた話と書いてあるので,昔は九州辺りまでガンも渡ってきていたのでしょう。江戸時代に東京にも来ていたと聞いたことがあります。


現在宮城県の伊豆沼,内沼,蕪栗沼には毎年10万を超えるマガンが越冬のため渡ってきます。
10万を超えるマガンが毎朝飛び立つ様子はまさに天地をゆるがす震動と音で,自然の力をそのまま感じ取れる唯一の場所です。そして夕方塒に一斉に鳴きながら帰ってくる雁の落雁という独特の急降下やひるがえりも見事です。
日曜内沼 633-3s
ガンのアップ

昔は鴻雁と言ったそうで,鴻はヒシクイ,雁はマガンのことだそうです。
まず雁風呂の話は大体こんな話です。
日本に秋に飛来する雁は、木片を口にくわえ、または足でつかんで運んでくると信じられていた。渡りの途中、海上にて水面に木片を浮かべ、その上で休息するためであるという。日本の海岸まで来ると海上で休息する必要はなくなるため、不要となった木片はそこで一旦落とされる。そして春になると、再び落としておいた木片をくわえて海を渡って帰っていくのだと考えられていた。旅立ちの季節が終わりもう雁が来なくなっても海岸にまだ残っている木片があると、それは日本で死んだ雁のものであるとして、供養のために、旅人などに流木で焚いた風呂を振る舞ったという。 (wikiより)
この話は一体どこからどのようにして伝わっているのでしょう。

ここで地元青森の図書館の「雁風呂」についてのレファレンスがあるので見てみましょう。
青森県立図書館で所蔵している数多くの民話・伝説集のどれを探しても、(雁風呂が)“青森県で採話された”“○○村に伝わる”といった青森県の民話・伝説として掲載されている本はありません。(中略)『津軽の伝説1』で坂本さんは、調査の結果として「雁風呂」の記述がある古文書を二作品挙げて解説しています。
それによると「雁風呂」の話を初めて記録したのは京の豪商「万屋」という商家の主であり、随筆家の「百井塘雨」が書いた『笈埃随筆』だろうか、としています。作品の成立年(いつ書かれたものか)は不明とされていますが、百井塘雨の没年は寛政6(1794)年となっています。この随筆では「南部津軽口」「奥南部」と記述があり津軽を連想させますが、断定はできません。もう一つは、南方熊楠が「常世国について」という論考で取り上げ、「~俗に外ヶ浜の雁風呂湯と言う、と見ゆ。」と記述している『採薬使記』の「雁風呂」が、津軽の地名を確認できた最初の史料であるとしています。『採薬使記』の成立は宝暦8(1758)年で、江戸の人、阿部照任、松井重康の撰です。(中略)
そこで、「雁風呂・雁供養」が江戸期には俳句の季語として使われていることから、様々な事物を取り上げた書物によって、広く庶民に知られていたのではないかと調査したところ、『滑稽雑談』四時堂其諺著の巻之十六の二四が「雁風呂落雁木」の項目となっており、以下のような記述がありました。
「或説伝、越國の海嶋にて、鴈の社渡る時、鴈の街たる牧木を落とす所侍る、海島の社是を拾ひて、風呂をたくの薪とす、故に是を鴈風呂と伝よしいへり。」
この書の成立は正徳3(1713)年で、作者の四時堂其諺は京都安養寺正阿弥の住僧です。「南部津軽口」「奥南部」、「外ヶ浜」どころか「越國の海嶋」とありますので、他国の海に浮かぶ島の話として伝わっているということになります。
以上のことから、「雁風呂、雁供養」は津軽・外が浜に独自に伝わる話ではなく、遠いみちのくの地に思いを寄せた都びとが文芸的な脚色をし、その話が後世に伝えられたものと考えて良いようです。


そこで『採薬使記』に載っているという「雁風呂湯」を確かめてみようと当たってみました。『採薬使記』の成立は宝暦8(1758)年で、江戸の人、阿部照任,松井重康の撰です。
ところが気を付けて見たいものは表紙にありました。阿部照任,松井重康の他に「後藤光生 附記」と三人目の名前があるのです。文中「光生按ずるに」という言葉が沢山出てきます。つまり後藤光生が更に解説を加えているということです。

雁風呂
『採薬使記 上』奥州の部に雁風呂の話がある。

重康が言うには奥州の外が浜辺りには毎年秋に雁が来るけれど,羽を休めるために一尺ほどの木の枝をくわえてくる。その枝を捨てておいて更に南へ渡っていく。次の年の春に北へ帰る頃捨てておいた木の枝をまたくわえて渡っていく。しかし(捕らえられたり,撃たれたりして)帰って行く雁は稀で木の枝だけが残ってしまう。そこで残った木の枝を集めそれを薪として風呂を焚く。そしてその風呂にいろんな人に入ってもらう。
このように遠い国に渡ってきて人に捕らえられ,死んでしまった雁たちを供養するのである。毎年春のこの時期に行われるこの行事を俗に「外が浜の雁風呂湯」と言う。


これが当時に伝わっていた雁風呂ですね。
ところが,次のページを見ますと,この雁風呂の話の経緯が書いてあるのです。

雁風呂山水国tr
『採薬使記 上』雁風呂の話がある次のページに注目して下さい

光生が思うに(後藤光生のこと)求林齋の(西川如見のこと。求林齋と号した)「怪異辯断」という本にあるが,日本渡海の唐人が語りて言うには唐土の北の山西国(山西省辺り)あり,その北辺に毎年鴻雁の来る時に枯れ木の細枝をくちばしにくわえて飛んできて落とすところあり。土地の人はそれを拾い集めて薪として売る人がいる。その値は毎年白銀五万両にもなるという。

栗駒星 141s

ということは地元に生まれた話ではなく,中国山西の話が外国人によって日本にもたらされた。ということになります。
また解説を加えた後藤光生に依れば求林齋と号していた西川如見の『怪異辯断』という本にそのことが載っているというので『怪異辯断』を当たってみましたが特別に項立てて取り上げていない文章の中にあるのか,探し当てることはできませんでした。

混沌への序章
蕪栗沼 ガンの飛び立ち

阿部照任も松井重康も「採薬使記」の前書きを見ますと,「享保初めの頃の人」とあり,解説を加えた後藤光生も本草学者で様々な本を編したり書いたりしている1696-1771年に生きた江戸の人です。

どうも雁風呂という話の出所(でどころ)の山西国という場所はマガンの渡りのルートにも当たっている場所で確かとも言えそうな雰囲気です。
マガンルート
人工衛星を使ったマガンの渡りのルート。中国へのルートが山西国に重なるようです。

菅原さん
文献による初出が江戸時代ということになります。
「みちのくの 奥ゆかしくぞ 思ほゆる 壺の石文 外の浜風」(山家集1011)と歌には歌っている西行ですが,実際に平泉にやってきた時に青森の外の浜まで足を伸ばした形跡もなく(伝説などにはありますが),雁風呂の話も後の江戸時代の1713年の『滑稽雑談』
か。『採薬使記』の1758年かということになります。西川如見の『怪異辯断』という本だとしても1714頃となります。
まだ当たっていない部分もありますから引き続き探してみます。

今日のところはこの辺にておわりとします。
ご自愛下さい。
尚,以前の記事で「中勘助の鳥の物語-雁の話-」を載せています。お暇な時にでもどうぞ。(その記事は こちら )

追記
『採薬使記』は国会図書館デジタルコレクション.http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2535819
『怪異辯断』は早稲田大学「古典籍総合データベース」.http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/wo01/wo01_03382/index.htmlを参照しました。

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西行こぼれ話その五-月を見て-

三滝堂 595s
月昇る(長沼

西行の歌と言ったら桜で,山家集の中には桜が一番多く230首詠まれているそうだ。
しかし月の歌も多い。

その月の歌を選び,ただつらつらと読む


『西行』を書いた高橋英夫氏は「西行は現世に浄土を見ようとした人
そして西行にとって花は浄土からのたよりだ」と言った。

月もまた言葉のない手紙


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西行こぼれ話その四-西行橋-

穂高 275-2s
涸沢の雪渓を行く

さて,西行の話から西行伝説まできました。
今月登った穂高の写真を見ながら続けます。

「冬萌(ほ)きて夏枯れ草を刈っている」と西行にわざと謎かけをする童。
なぞなぞが分からず困ってしまう西行。
にんまりとする童。

西行の戻しの橋では
「その絹を売るか」と西行が尋ねれば
「鮎にだったら売る」と答える。(うるかは鮎の塩辛のこと,売るかと鮎の塩辛のうるかを掛けている)
西行はそれが分からず,引き返す。

西行桜では
猿のように素早く木に登る子どもを見て
「猿稚児とみるより早く木に登る」と西行が言うと
すぐさまその子が
「犬のような法師(西行のこと)来たれば」と動物に掛けて返す。
西行はこりゃかなわんと引き返す。

西行戻し石では
わらびを摘むのに手を焼くなとわらび採りの子どもに言うと
おまえこそ「ひのきの笠でずこ(頭)焼くなよ」と西行にやりかえす。
西行はこりゃ負けたわと引き返す

これらの各地に残る西行戻しの伝承は歌の返しとされたり,歌の中にこめられた言葉遊びだったり,とんちやだじゃれ,はぐらかし,落語の蒟蒻問答だったりするところにおもしろさがあります。

穂高 301-2s
夕焼け色の涸沢テントサイト

柳田国男は「西行橋」の論考の中で伊賀の阿郡の木遣り歌を引いています。


さて西行のぼーさんが はじめて東へ下るとき 熱田の宮に腰を掛け かほど涼しき此の宮を 熱田の宮とだれ言うた
そこで神主言うことにゃ 西行とは西に行くと書くのに 東(あづま)下りとはこれいかに アーエンヤノエーン


涼しい場所なのに地名は熱田とはこれいかに
西行なのに西へ行かず東(あづま)下りとはこれいかに
と言葉遊びをしているのです。

柳田国男は橋の歌占いがあったと述べ,渡る渡らないが占いの対象ともなる場所だったのではないかと言う。枕草子の「歌詰橋」や静御前が義経の死を知って引き返した橋を思案橋という等,橋そのものに神からのお告げが立ちやすい場所という考えが昔からあって,橋のたもとに占い師がいたのではなかったかと予想している。

西行を小馬鹿にした童や女達はすべて仏の化身ではないかとも言われ,歌の名手である西行にわざとひやかしの形で親しみを込めて遊んでやっていた。西行はいじわるな仏の化身達を相手に困り果て,来た道を戻っていった。

穂高 423s
北斗七立つ

ここには,親しみを込めて揶揄するという,人のコミュニケーションの遊びが存在しています。親しみを込めるからこそ「ため口」で話すとか,友達を皮肉って言うとか独特の笑いがその間に立ち昇って階級意識も無化する空間ができていきます。なぜ西行なのかと問えば,歌の神様だって外から見たらぼろをまとった犬のような奴さ。と親しみを要求するという空間が西行伝説の中にはあります。そしてそこに西行が全国の多くの人々の心の中に生き続けていることが分かってきました。西行を揶揄する素振りで限りない親しみを表そうとする庶民の気持ちのもち方にも心動かされるものです。義経東下りや政略によって流された人々の哀しい怒りがこんな形で生き続ける不思議を感じます。


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