2022/02/17
明恵と西行

『西行』を書いた高橋英夫氏は「西行は現世に浄土を見ようとした人。そして西行にとって花は浄土からのたよりだ」と言いました。私もそうだと思っています。その西行は二度陸奥(みちのく)を訪れています。最初は天養元年(1147)27歳の時,能因の辿った陸奥を自分でも辿ってみたいと思い,二度目は東大寺の焼失によって失われた金の勧進を重源から依頼されて文治二年(1186)69歳の西行が鎌倉で頼朝に会ってから平泉の秀衡を訪ねた,この2回です。
平泉から帰った西行は神護寺の法華会の「やすらい祭」に行っています。この時文治四年(1188)西行は71歳,明恵はまだ16歳だったそうです。二人は親しく和歌について話合い,この場で西行は自分なりの歌道論を述べたと言われています。それが明恵上人伝記の次の一節です。
西行法師常に来りて物語して云はく、我歌を読むは、遙かに尋常に異なり。 華、郭公、月、雪 都て万物の興に向ひても、凡そ所有相皆是虚妄なること眼に遮り耳に満てり。 又読み出す所の言句は皆是真言にあらずや。華を読むとも実に華と思ふことなく、月を詠ずれども実に月とも思はず只此の如くして、縁に随ひ興に随ひ読み置く処なり。紅虹たなびけば虚空いろどれるに似たり。白日かゞ やけば虚空明かなるに似たり。然れども虚空は本明かなるものにあらず、又色どれるにもあらず。我又此の虚空の如くなる心の上にをいて,種々の風情を色どると雖も、さらに蹤跡なし。此の歌即ち是れ如来の真の形体なり。されば一首読み出ては一体の仏像を造る思ひをなし、一句を思ひ続けては秘密の真言を唱ふるに同じ。我れ此の歌によりて法を得ることあり。若しこゝに至らずして、妄りに此の道を学ばゝ邪路に入るべし と云々。さて読みける
山ふかくさこそ心はかよふともすまであはれは知らんものかは
喜海、其の座の末に在りて聞き及びしまま、之を注す
これを読むと当時の西行が風景の何を見ていたかが分かります。確かに凡人の私たちが見ている風景とは全く視点が違います。

私が歌を詠むということは,およそ普通の人の歌を詠むこととは全く違っている。
「華、郭公、月、雪 都て万物の興に向ひても、凡そ所有相皆是虚妄なること眼に遮り耳に満てり。」
(意訳)花,郭公,月,雪などすべては興味をもって見てもそれは虚妄なのだ。
「華を読むとも実に華と思ふことなく、月を詠ずれども実に月とも思はず只此の如くして、縁に随ひ興に随ひ読み置く処なり。紅虹たなびけば虚空いろどれるに似たり。白日かゞ やけば虚空明かなるに似たり。然れども虚空は本明かなるものにあらず、又色どれるにもあらず。」
(意訳)花を読むとも花と思わず月を詠むとも月と思わず,縁に従い興の赴くままに詠み置く。赤い虹が出れば空は鮮やかに彩っているように,また白日満つれば空明るく見える。しかし,虚空は本来彩られるものでも明るく見えるものではないのだ。
71歳の西行は一体何を言っているのでしょうか。まるで見ている花は実は花ではなく,見ている月も実は月ではないと言うのでしょうか。意味が分かりません。花や郭公や月や雪をそのままに見るのではなく違った見方で見ているという虚空という次元は何なのでしょうか。

ただ「読み出す所の言句」と言っているので,どうも今見ている花や月はすべて「縁」に随うありのままの相で描かれるもので個々の存在を持っているものではない,すべては今の現象の加減によってつくられたものだと言いたいのかもしれません。そうすると花は花としてではなく縁によって今心に写しだされた花であり,それが仏を表し,月もまた斯くの如しと言いたいのだと思われます。
我が心に浮かんだありのままの相を言葉にすればそれは「真言」となる。心が澄み渡っていればその心から生まれる歌は真言と化す。まさに歌を詠むことは真言を唱え,仏をつくることに通ずるというのでしょう。ここに仏門にいる者の歌の意味が見えてきます。ただ雅に見せるために,効果を上げるためだけに技を凝らすような単なる「数奇もの」の歌ではなく,澄み渡る心でこの世を清明に歌う歌こそ心と現象と菩薩が溶け合う一如を可能とする。こういう視点こそが歌の完成形なのだと西行は言っています。

この言葉には71年生きて,詠む続けて来た西行の歌道への自負さえ感じさせます。心は三悪に満ち、濁りもする。しかし同様に心は清明に澄ませれば仏をもつくる。あるがままにあるこの世の現象をあるがままに写していく歌こそ仏道に叶うことである。
ではここの西行の最後の歌は何を言っているのでしょうか。
「山ふかくさこそ心はかよふとも
すまであはれは知らんものかは」
題しらず 新古今和歌集 巻第十七 雑歌中 1632
(意訳)「どんなに山深くまで思いを馳せてその趣を会得したと思っていても、実地に住まずに微妙な気味を識ることなどとてもできません。」『新日本古典文学大系 11』p.477
これは徒にただ思いを馳せて歌をつくってもそれはただの想像でしかない。何事も実地に山深くに住むことでしか本当の趣は分からないのだと戒めているようです。歌の心はすべて「真言」に通じるには,小手先の虚構は戒められるべきことです。
71歳の西行がわざわざ16歳の明恵に親しく歌論を説くとき,そこには年齢を越えて歌を志す者同士の通い合いが温かく伝わってきます。

このエピソードは最初に書かれたという「明恵上人伝」にはないので後で挿入された逸話ではないかとも言われています。
