2022/08/27
自由であることの意味

もうこの絵を描いた画家やモデルも分からない。中世の作品である。しかし何というモデルの目力(めぢから)であろうか。
昔子どもの頃に会った山伏にこんな目力を持った人がいた。
一瞬で人をすくませるような,存在そのものが強く外界へ押し出してくる。
(追記)記録が見つかりました。この絵はペトリス・クリストゥス「若い女性の肖像」1470 板油彩 28×21cm ベルリン国立絵画館
さて,いつから私は自分が「自由である」ということに殊更に敏感になったのだろうと思う。
今まで私はどこか欲望という言葉には穢れが伴い,快楽という言葉には堕落が伴う香りが漂っているように感じてきた。自分の立ち位置や表現は間違いなく自分のものだが,その立ち位置や表現はかなり自分勝手だ。実は自分だけではなく,人は間違っていても,傾いていても,歪曲されていても,そんな今の自分を生きてしまっている。そして現在に至っている。人には自分の言葉やイメージを表現する自由があるし,実際に表現している。それをまた真剣に受け止めようとする人もいる。そのように相手や自然の発することをそのままに受け止める姿勢も必要だと思って,私は「全肯定理論」という考え方をしてみている。それは自然からも人からも発せられるメッセージを逃さない観察による十全な理解をもたらすものと思っていた。でもその姿勢はどこか処世術のひとつであって,望む「自由であること」とは殊更に遠いことなのだ。
どうしても自分の思っている「欲望・快楽・身体・自由」という渦のように混じり合ったものたちの関係を解き明かさない限り私は「自由」ではないと妄想するようになった。汚れた自由でも駄目で,殊更に純粋過ぎる自由でもいけない。欲望がただ満たされることが自由ではいけないし,身体が欲望と関連づけられて欲望が満たされれば快楽であってもいけない。これらの言葉は特別に私の心の中でどうしても関連が強化されて傾いた形をしていると感じている。
そんなことを感じながらピエール・マシュレー『文学生産の哲学―サドからフーコーまで―』藤原書店(1994/02)を読む。この本は実に刺激的だ。この本は次のような文から始まる。
これを私はこう理解していた。実際,快楽と欲望の関係はけっして単純ではないし直接的でもない。身体組織が完璧に機能していると感じさせてくれる性的快楽はは内在的なものであり,純粋に自己自身との関係にほかならない。
快楽とは,内在的で,自己自身との関係にすぎないのだ。そして快楽を調整できれば,もっと自分が解放され,自由になれるのではないかと感じていた。そしてそれは資本主義的な欲望に強化され続けた自分の欲望を遠ざけることで調整できるとも感じていた。だから自分に取れないくらいに貼り付いている欲望を一枚一枚「剥ぐ」ことで可能となると思っている。
どうやら私の勘違いは,欲望を満足させることが快楽だと思っていたことだった。むしろ私の中で欲望と快楽との関係が心理的に強化されすぎていたことが原因だったと,今は思う。192ページに行き当たった。
もう一度言おう。「快楽は欲望の根源的な否定から成り立つのだ」したがって,快楽とは欲望の充足だと考えることは絶対にやめるべきだし,快楽と欲望を結びつけている自然な関係も断ち切らなければならない。そして快楽と欲望を対立させ,快楽は欲望の根源的な否定を前提にするものだと考えるべきである。
どうだろう。これからの世界は欲望の否定から出発できないだろうか。
自己に立ち返り,もう一度「欲望・快楽・身体・自由」の関係を見つめ直すことで戦争の終結に辿り着けないだろうか。
戦争が始まってもう半年も経ちました。
