2018/01/01

12/30 「希望への光」 仙石線 陸前小野-東名
皆様あけましておめでとうございます。
本年もどうぞよろしくお願いいたします。
年の初めからいきなり,前の記事の「コーラ」の話の続きを書くことにしました。すみません。適当に流して下さい。「コーラ」というプラトンのティマイオスの中で出てくる言葉は「場所」と訳されていますが,名付けられているだけで実に不思議なものを差し示しています。「コーラ」という語を再浮上させたのはジャック・デリダで「コーラ―プラトンの場 (ポイエーシス叢書)」として2004年に未來社から出ています。まず本の紹介をみてみましょう。
プラトンの宇宙開闢論『ティマイオス』に書き込まれた特異な語=「コーラ(場)」。「あるときコーラは、これでもなくあれでもないようにみえ、同時にこれでありかつあれであるようにみえる。」あらゆる概念的同一性を逃れ去る、そんな場なき場/その深淵状の謎をデリダが読み解く。今日、われわれは、みずからの“場”をどのように名づければよいのか?哲学のみならず、フェミニズム、建築の思考に深い影響を及ぼした事件的書物、翻訳刊行。
何を言おうとしているのか分かりませんね。
ここで書かれていることからちょっと引用していきます。
・「コーラこそは、みずからを刻印するありとあらゆるものの記入の場を象るものなのだ」
・「コーラは、なにかある主体ではない。それは主体というものではない。基底材でもない。解釈学的諸類型がコーラに情報=形をもたらすことができるのは、つまり、形を与えることができるのは、ただ、接近不可能で、平然としており、アモルフで、常に手付かず=処女的、それも擬人論に根源的に反抗するような処女性をそなえているそれが、それらの類型を受け取り、それらに場を与えるようにみえる限りにおいてのみなのである」
「コーラ」の特徴を一生懸命言おうとしていますが,コーラ自体は,文字化されたり,形容されることを嫌っているもののようです。
デリダはこの「コーラ」のイメージを「たとえば砂や水の表面に、反射によって何かが映し出され、訪問者の動きによって形が変化し、なにも痕跡を残さないような仕組み」と考えているようです。接近する人や観察者,注視などの存在によってコーラ自身はすぐその影響を受けて変幻自在に変態(メタモルフォーゼ)を繰り返すような存在です。高感度で,柔らかく,些細なことでもすぐ変化してしまうようなイメージでしょうか。もちろん把握不可能な空間に溶け込んで物質としての特性を持たない,奇妙きてれつなものです。しかし,静止した時間ではその存在すら観察不可能で,ある運動の中で顕現してくるようなものです。
ここで,もう一つコーラを説明する文章を読んでみましょう。
「コーラはありとあらゆる限定を、それらに場を与えるべく受け取るが、その限定のうちのどれ一つとして固有のものとして所有することはない。コーラはそれらを所有し、それらを持つ、というのも、コーラはそれらを受け取るからだが、しかし、それらを固有性として所有することはなく、何一つ固有なるものとして所有することはない。コーラとは、まさに、そのうえに、その主体に、それも、その主体にじかに、みずからを書き込みにやって来るものの総体ないしプロセスであるわけだが、しかしそれは、それらすべての解釈に還元されることはないのである」
どうやら外界からの刺激を受け取ると,その刺激に反応して場を提供するような役目を持っている感じがします。それもゆらぎのような「場」として,生成してくるようです。これらは解釈や二次元的な語法や思考の中に取り込まれることもなく,およそ生まれ出る,生成してくる者に場を与え,生成することを許すような存在なのでしょう。
この辺りの表現は実にデリダ的で,因果関係に即して語るというよりは,ひとつの芸術作品を仕立てているような記述の仕方です。デリダは更にこう言っています。「宇宙に震動を与える 篩 (ふるい)として「比喩」として発想されたものであり、この篩が水平でも垂直でもなく、斜めに置かれている。それは篩であると同時に一種の弦楽器にも似ていて、コーラをコーラル(合唱的)なものとするというのだ。」すべての生成を許す場として,波長を合わせながら(合唱的に),生まれ出ようとするものの形象化を司り,許可する存在とも言えます。
私はこのような形容することが難しい,世の中で確たる存在の位置をも認められていないものたちを「名付けざるものたち」と見てきました。
以前の記事
「名付けざるものたちの系譜 その1」(
こちら )
「名付けざるものたちの系譜 その2」(
こちら )

曇りゆく空にISS
たとえば昔から言われている魂という存在です。折口信夫の言葉を読みましょう。
天中を行き経る遊離した魂,神が降らせた魂が人体の中府に降りて触れた魂を殖やし整えるということである。
こうして殖え整えられた魂が活動する力をもち、その余韻が威勢をもって外に放たれるのであり,「触(フル)」「威(フユ)」「振」は神を識り、聡く明るく身体剛健、寿命長遠の神術であると説いている。
「折口信夫の霊魂論覚書」小川直之 から
降り注ぐもの(魂)を受け止め(誕生する),慈しみ育て(成長),増やし(子どもをつくり),やがて離れる(死ぬ)。自然界におけるあらゆる生き物の誕生から死までの運動体系をアナロジカルに表現しているのです。この考え方は,現代では古いアミニズムと呼ばれています。しかし自然の運動性を語る上で,この考え方ははきわめて効果的に思えます。何も古いアミニズムだからと排除せず,科学的な記述だけに偏らず,自然の生成と運動にシンクロする記述も存在しています。実はこの存在や運動の始まりを記述する周辺で「名付けざるものたち」が発生しています。コーラはそうした記述や言葉が生まれ出る,世界の始まりを支える存在としてこの世の発生を下支えする機能を持っているのです。

新しい年へ向かう女川駅
どうやらこのコーラは,無から有への場の発生やその運動を司る存在論の基礎に当たるものかもしれません。このコーラという存在論のエネルギーを自然の中に適用させると,誕生,生長,繁殖,死という生物の各ステージを生命という現象で説明できるのです。

13の月光を受けて 12/30 東北本線 新田-石越
この話はまたに続きます。

