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お彼岸の中日に起こる奇蹟

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祈りの星々

太陽黄経0°のお彼岸の中日
私は毎年この日に沈む太陽を「阿弥陀如来来迎図」と称して撮影してきました
つまりお彼岸の中日に沈む太陽の光の中から阿弥陀如来が現れるという奇蹟を記録したいという意味です
何もこの謂われはただの伝説ということだけではなく,それなりの意味があって伝わっていることではないかと思っています。実際に大阪四天王寺では日没に合わせて「日想観法要」が執り行われます。太陽黄経0°のお彼岸の中日に太陽信仰の儀式が執り行われる。ごく自然なことです。その特別な日に奇蹟が起こると言われると,やはりそうかもと思われます。

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お彼岸中日の落日

さて,最近私は,新田生まれの伊藤正子さんの昔話にある「小夜姫」に興味を持ち,その構造を探るために説教物をよく読んでいます。その一つ安寿と厨子王の「山椒大夫」を読み返していますと,ある一箇所に目が留まりました。
厨子王が助けられて,天王寺に行き着くと,そこに梅津の院がやってきます。当時の天王寺は行きあぶれた者や旅行者や子どもで溢れていて,寝泊まりをしている所でした。水上勉に依れば,天王寺ではそうした行きあぶれた子どもの中から臨時に雇い入れたり,施食してあげることで救済も行なっていたものですから,厨子王もそういった経緯で天王寺に運び込まれてきたといえるでしょう。さて高貴なる梅津の院は帝の重臣ではあったが,世継ぎの子がおらず,清水の観音に願を掛けた所,天王寺に行けば見つかるであろうという夢告げを受けたことで厨子王のいる天王寺にやってきたのでした。押並ぶ数多くの子ども達の最後尾に一際目立つ厨子王を見つけ,お茶の給仕をさせようと着替えさせると,他の稚児達と比べて格段に上の雰囲気です。厨子王もこの時と自分の身を明かし,自分は奥州,日の本の将軍,岩城判官正氏の子であると名乗ります。
この日が彼岸の中日のことであったと書かれていたのです。

奇蹟はお彼岸の中日に起こる
そんなことをまた知らされた日でもありました。


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許されてあるもの

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生まれて間もない仔牛が寝ている。その姿があどけなくとてもいい。

牛小屋の天井から午後の光が差し込んでいる
その光の中に仔牛は寝ていた
なんとあどけないその姿よ
あなたこそこの世に許されてあるもの
ここにあるためのすべての理由はいらない
ただあるだけでいい
暖かい日の光にまどろむ仔牛よ
許されてあるもの

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目を覚ました

仔牛が目を覚ました
この世を知ると言うことは
そんなに難しいことではない
あなたのように許されてあるものは
みんなが大切にしてくれる



名付けざるものたちの系譜 3

松島 119-2-1gs
12/30 「希望への光」 仙石線 陸前小野-東名

皆様あけましておめでとうございます。
本年もどうぞよろしくお願いいたします。

年の初めからいきなり,前の記事の「コーラ」の話の続きを書くことにしました。すみません。適当に流して下さい。「コーラ」というプラトンのティマイオスの中で出てくる言葉は「場所」と訳されていますが,名付けられているだけで実に不思議なものを差し示しています。「コーラ」という語を再浮上させたのはジャック・デリダで「コーラ―プラトンの場 (ポイエーシス叢書)」として2004年に未來社から出ています。まず本の紹介をみてみましょう。
プラトンの宇宙開闢論『ティマイオス』に書き込まれた特異な語=「コーラ(場)」。「あるときコーラは、これでもなくあれでもないようにみえ、同時にこれでありかつあれであるようにみえる。」あらゆる概念的同一性を逃れ去る、そんな場なき場/その深淵状の謎をデリダが読み解く。今日、われわれは、みずからの“場”をどのように名づければよいのか?哲学のみならず、フェミニズム、建築の思考に深い影響を及ぼした事件的書物、翻訳刊行。
何を言おうとしているのか分かりませんね。

ここで書かれていることからちょっと引用していきます。

・「コーラこそは、みずからを刻印するありとあらゆるものの記入の場を象るものなのだ」
・「コーラは、なにかある主体ではない。それは主体というものではない。基底材でもない。解釈学的諸類型がコーラに情報=形をもたらすことができるのは、つまり、形を与えることができるのは、ただ、接近不可能で、平然としており、アモルフで、常に手付かず=処女的、それも擬人論に根源的に反抗するような処女性をそなえているそれが、それらの類型を受け取り、それらに場を与えるようにみえる限りにおいてのみなのである」

「コーラ」の特徴を一生懸命言おうとしていますが,コーラ自体は,文字化されたり,形容されることを嫌っているもののようです。
デリダはこの「コーラ」のイメージを「たとえば砂や水の表面に、反射によって何かが映し出され、訪問者の動きによって形が変化し、なにも痕跡を残さないような仕組み」と考えているようです。接近する人や観察者,注視などの存在によってコーラ自身はすぐその影響を受けて変幻自在に変態(メタモルフォーゼ)を繰り返すような存在です。高感度で,柔らかく,些細なことでもすぐ変化してしまうようなイメージでしょうか。もちろん把握不可能な空間に溶け込んで物質としての特性を持たない,奇妙きてれつなものです。しかし,静止した時間ではその存在すら観察不可能で,ある運動の中で顕現してくるようなものです。

ここで,もう一つコーラを説明する文章を読んでみましょう。
「コーラはありとあらゆる限定を、それらに場を与えるべく受け取るが、その限定のうちのどれ一つとして固有のものとして所有することはない。コーラはそれらを所有し、それらを持つ、というのも、コーラはそれらを受け取るからだが、しかし、それらを固有性として所有することはなく、何一つ固有なるものとして所有することはない。コーラとは、まさに、そのうえに、その主体に、それも、その主体にじかに、みずからを書き込みにやって来るものの総体ないしプロセスであるわけだが、しかしそれは、それらすべての解釈に還元されることはないのである」
どうやら外界からの刺激を受け取ると,その刺激に反応して場を提供するような役目を持っている感じがします。それもゆらぎのような「場」として,生成してくるようです。これらは解釈や二次元的な語法や思考の中に取り込まれることもなく,およそ生まれ出る,生成してくる者に場を与え,生成することを許すような存在なのでしょう。
この辺りの表現は実にデリダ的で,因果関係に即して語るというよりは,ひとつの芸術作品を仕立てているような記述の仕方です。デリダは更にこう言っています。「宇宙に震動を与える 篩 (ふるい)として「比喩」として発想されたものであり、この篩が水平でも垂直でもなく、斜めに置かれている。それは篩であると同時に一種の弦楽器にも似ていて、コーラをコーラル(合唱的)なものとするというのだ。」すべての生成を許す場として,波長を合わせながら(合唱的に),生まれ出ようとするものの形象化を司り,許可する存在とも言えます。

私はこのような形容することが難しい,世の中で確たる存在の位置をも認められていないものたちを「名付けざるものたち」と見てきました。

以前の記事
「名付けざるものたちの系譜 その1」( こちら )
「名付けざるものたちの系譜 その2」( こちら )
 
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曇りゆく空にISS

たとえば昔から言われている魂という存在です。折口信夫の言葉を読みましょう。
天中を行き経る遊離した魂,神が降らせた魂が人体の中府に降りて触れた魂を殖やし整えるということである。
こうして殖え整えられた魂が活動する力をもち、その余韻が威勢をもって外に放たれるのであり,「触(フル)」「威(フユ)」「振」は神を識り、聡く明るく身体剛健、寿命長遠の神術であると説いている。

                                       「折口信夫の霊魂論覚書」小川直之 から
降り注ぐもの(魂)を受け止め(誕生する),慈しみ育て(成長),増やし(子どもをつくり),やがて離れる(死ぬ)。自然界におけるあらゆる生き物の誕生から死までの運動体系をアナロジカルに表現しているのです。この考え方は,現代では古いアミニズムと呼ばれています。しかし自然の運動性を語る上で,この考え方ははきわめて効果的に思えます。何も古いアミニズムだからと排除せず,科学的な記述だけに偏らず,自然の生成と運動にシンクロする記述も存在しています。実はこの存在や運動の始まりを記述する周辺で「名付けざるものたち」が発生しています。コーラはそうした記述や言葉が生まれ出る,世界の始まりを支える存在としてこの世の発生を下支えする機能を持っているのです。

海沿いにて 227-2s
新しい年へ向かう女川駅

どうやらこのコーラは,無から有への場の発生やその運動を司る存在論の基礎に当たるものかもしれません。このコーラという存在論のエネルギーを自然の中に適用させると,誕生,生長,繁殖,死という生物の各ステージを生命という現象で説明できるのです。

月光 056-2s
13の月光を受けて 12/30 東北本線 新田-石越

この話はまたに続きます。

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コーラ

海沿いにて 010-2gs
朝の海 荒浜海岸

コーラ

それはたゆたうように在る
しかしその存在は証明されたことはない
それはちょっと変わった形である
だいたいが形があるかどうかも分からない
だれも見たことはないし
確かめたこともない
あるなと感じてもそれは次元が違うところにいるようにも思える
近くだけれど反り返った世界であってこの世ではない
とらえどころのないものなのだ
だから名前すらない

コーラ
まるで触媒のように立ち現れてくるのだ
それ自身では場所を持たない
あるものが存在しようとするときに
その場所を提供するだけだ
生成することを
この世にあらんとすることを・・・ただ許している
意志するとかすかに世界のどこかで反応する
小さな灯をともすように
しかし考える対象にするとたちどころに形容されることを許さない

目的なんてない
そもそも言葉や思考の文脈ではつかまらない
「コーラこそは、みずからを刻印するありとあらゆるものの記入の場を象るものなのだ」

コーラ
とある公園に椅子がある
その椅子は誰かが座るようにつくられている
しかし誰も座らない
誰かのために作られたが誰れのためでもない
その公園に辿り着いた者などいないからだ

コーラ
すべての意味ははぎ取られている
「これでもなくあれでもないようにみえ、同時にこれでありかつあれであるようにみえる」
接近すると消え
しかし大胆に存在しているがおよそ権威というものは持たず
平然としている
イノセントでありながらすべてを許す

場所であって空間ではない
まよいが

あるいはカフカの「掟の門前」の開かれることのない門


海沿いにて 278-2gs
海沿いにて 石巻線 沢田-浦宿  万石浦に年の瀬の陽がきらきらと輝いていました


コーラとはプラトンのティマイオスに出てきた不思議な言葉です。
およそ概念化できず,実に可変性の高い,可塑性の高いものです。
何にでも変化可能で実体をもたないものです。強いて言えば「場所」と訳されていますが,とらえどころのないものです。それは永遠につかまらない蝶のようなものでもあり,永遠につかまらない蝶の存在をこの世に許すもののようにも受け取れます。あるものが形づくられようとするときに同時に現れるけれど,決して自分自身では形をなさないものです。



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名付けざるものたちの系譜 その二

飛ばない朝 127-2s
飛ばない朝

名付けられた者はこの世に刻まれる。自らが名で刻まれることで「呪」を受け,留め措かれ,固定される。識別され,認識され,区別され続ける。すべてそこから運動が生じ,人生も流れ始める。それらの運動の記録は記憶の沼に次々と沈んでいく。封じ込まれていくと言った方がよいのかもしれない。

名前を持つことで便利なこともある。不便なこともある。しかしこの世に投げ出された以上は自分の魂に責任はあるのではないだろうか。

しかしどうしても名付けることができないものもある。そう考えてみる。
気配,デジャブ,もたらされる不安,夢の意味,魂・・・。それらは存在して感じている。実感もしていることなのに分からない。

気仙沼線 431-2s
アトリ

漆原友紀の「蟲師」はそんな名付けられぬものを扱い,それらのものたちを「蟲」と称した。見えぬものもある見えるものもある。生命の原生体のようなものと言われる。それらは自然万物の中で,漂い,流れ,寄生し,制御し世界との関係づけを迫ることさえある。「蟲」を認識できない者,つまり普通の人には見えないし,また意味が分からない。「蟲」を認識できる者が更に研究し,異界や蟲の世界との接触を通じて特別な修行を積んだ者が「蟲師」と呼ばれる。

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「蟲師」HPからビジュアル映像

蟲師は山伏にも似ている,巫女にも似ている。口寄せにも似ている。折伏もするし,祈祷もするし,薬の調合も行う。
つまりいわれなく取り憑かれた者を除霊するのである。そんな名付けられることのなかったもの達を相手にしている。

ふとここで私は先回言ったように「魂」の運動ととても似ていることも思い出した。「魂は憧れやすく,うつろい易い」と折口信夫は言った。魂とは「器(うつわ)」である。何かが外から入ってくる。人々は良いものを入れたいと乞い願った。実り多きもの,幸せをもたらすもの。生命も,神も,豊作も,幸せも自分の魂に宿ることを願った。季節の祭りはそうした意味があった。よきものを迎える儀式である。花祭りも神楽もそうした意味で行われ続けた。

しかし同時に山からは神も下りてきたが,違うものも下りてくる。来て欲しくない者もやってくる。そんなときはやさしく迎え入れ,ごちそうもするがやんわりと出ていってもらうこともあった。出てきて欲しくないものは地に押し込めた。大地を踏んで押しとどめようとした。力足を踏むのである。大地に押しとどめ,湧き上がることを防ぐため「杖」を使っていた。空海が杖をつくことで聖水が湧き上がる。同じように悪いものを湧かせないように杖をつく。蟲師達も調伏に使う。

気仙沼線 272-2gs
雪降り列車行く

ポイントは全て山や海から流れを伝い,その里に訪れると言うことだ。蟲師達は連絡に光脈沿いのご神木と呼んでもよい木の「うろ」に手紙を入れる。そうすると光脈沿いに手紙は流れ,繭になってもたらされる。この光脈と言われるものが地場のエネルギーの鉱脈のことである。その光脈を探すのは特殊な才能を持つ者である。しかしそれらは現在もパワースポットとして断続的に現れ出ている。そしてその場所には水や川の存在が大きい。そしてその近くに立つご神木である。神が憑く依り代となった木である。柳田国男の言ったクロモジなのか,折口信夫の言ったタブなのかは分からない。しかしどちらもクスノキである。

飛ばない朝 164-2s
蔵だけが残った場所

私のような凡人はこのように山の頂から川に沿って下りつつ,古びた樹木を探しながらその風景を見るしかないだろう。そこは光脈筋であり,その古びた木のうろには蟲師達の手紙が入っているかもしれない。宮本常一のように風景を読み解く技術も必要かもしれない。

あまりに写真が氾濫しているこの世で,本当に霊性を写し込める写真であればいいと思う。そんな写真はすぐ分かる。見ることで心が幸せになるからだ。「蟲師」には「光酒(こうき)」という飲み物が出てくる。最高の飲み物であり,たちどころに病気はなおり,蟲は退散する。



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