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夜明け

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夜明け

ホタルと思い,通い始めた先週だったが,如何せん早出の個体が3,4匹出ていた程度だった。
昨年のピークはと調べたらやっぱり夏至の後だった。今年海岸沿いはヤマセが寄せているというのでどの程度の影響があるのか予想もつかない。とにかく待機しておきたい。


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夏に向かうブナの林

いつもアップしているブナの林。
一気に雪が解けてからの爆発的なエネルギーの放出と植物の生長の速さにはただただ驚くばかりの生命力です。まさに六月,水の月。ちなみに前の記事で焼石岳のハクサンイチゲと書きましたがその写真も載せておきます。

焼石岳2016 444-2gs
賑やかなる神の庭

今年は行けるのかしら。石碑の調査を早く終わらせたいです。


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真西に沈む今日の夕陽を拝みましょう

『無量寿仏観経』には,精神を統一して浄土と阿弥陀仏や菩薩たちを観想する13の観法が説かれています。その最初の行が「日想観」と言われる集中して沈む太陽を見つめる行です。
みな日没を見よ。まさに想念を起し正坐し西向して、あきらかに日を観じて、心をして堅住ならしめて専想して移らざれば、日の没せんと欲して、状、鼓を懸けたるがごとくなるを見るべし。すでに日を見ること已らば、閉目・開目に、みな明了ならしめよ。これを日想とし、名づけて初めの観といふ。

聖徳太子が創建した四天王寺の辺りは大阪湾の方向に沈む夕日を眺める絶好の場所で,毎年春分の日と秋分の日に日想観の法要が執り行われます。沈む夕陽から阿弥陀如来が現われるという信仰は美しい作品も生み出してきました。また太陽や月に合わせて阿弥陀様が現われる山越阿弥陀来迎図です。国宝もありますが,折口信夫が冷泉為恭筆の阿弥陀来迎図について書いていますから,見てみましょう。
山越阿弥陀来迎図山越阿弥陀来迎図


四天王寺西門は、昔から謂われている、極楽東門に向っているところで、彼岸の夕、西の方海遠く入る日を拝む人の群集したこと、凡そ七百年ほどの歴史を経て、今も尚若干の人々は、淡路の島は愚か、海の波すら見えぬ、煤ふる西の宮に向って、くるめき入る日を見送りに出る。此種の日想観なら、「弱法師よろぼうし」の上にも見えていた。舞台を何とも謂えぬ情趣に整えていると共に、梅の花咲き散る頃の優なる季節感が靡なびきかかっている。「山越しの阿弥陀像の画因」から


現在の四天王寺で行われている日想観法要は2001年に復活したそうですから一旦なくなっていた行事が再興されたんですね。お彼岸の中日に執り行われるこの法要は何も寺だけでなく,庶民でも「日迎え・日送り」の行事として一般に行われていたことでした。宮城県でも名取に「名取老女」という話があります。
私が前に書いた記事から出します。

遠い昔。
陸奥の国,奥州名取郡に名取老女というお年寄りの女の人が住んでおりました。
名取老女は,大変信心深く,毎年,遠い熊野まで詣でることを欠かしませんでした。
その年も連れと共に熊野の那智の宮までやって来ました。すると山あいの方から紫色の雲が湧き上がり,その雲の上に忽然と阿弥陀如来が現れたのです。

この話は,またたく間に有名になり,伝説となって行きました。
なぜ宮城のただのお年寄りの体験が伝説にまでなれたのでしょうか。

この名取老女の作った歌が,「熊野御歌」として,平安末期(1125)成立の藤原清輔の歌学書「袋草子」に出ているからです。

「道遠し年もやうやうおひにけり思いおこせよ我も忘れし」
是陸奥ノ国ヨリ毎年参詣シケル女ノ年老イ後夢ニ見歌也

名取老女は,歌詠みとしても有名だったのかもしれません。それとも阿弥陀如来に親しくお会いした人ということでセンセーションを起こして,時の人となり,その時の歌が取りあげられたのかもしれません。

更にこの出来事は,大きくなり,動かぬ伝説として,世阿弥の謡「護法」の中に「名取老女」として出て来ることになります。

現代で言えば,名取老女という人は大ヒロインでしょう。
このようにして一枚の仏画が描かれることになったのです。
この話に出てきた仏画が「熊野権現影向図」 京都 檀王法林寺蔵,元徳元年(1329)です。

熊野信仰 002s熊野信仰 002s熊野権現影向図 京都 檀王法林寺蔵,元徳元年(1329)

ここで太陽の運行や日の出,日の入りが祭り事に欠くことが出来なかった暦や暦法に繋がっていったことは明らかでしょう。

役職と日奉部ひまつりべ(又、日祀部ひまつりべ)なる聖職の団体で、その舎人出身なるが故に、詳しくは日奉大舎人部とも言うた様である。此部曲かきべの事については、既に前年、柳田先生が注意していられる。之と日置部・置部など書いたひおきべ(又、ひき・へき)と同じか、違う所があるか、明らかでないが、名称近くて違うから見れば、全く同じものとも言われぬ。日置は、日祀よりは、原義幾分か明らかである。おくは後代算盤そろばんの上で、ある数にあたる珠たまを定置することになっているが、大体同じ様な意義に、古くから用いている。源為憲の「口遊くゆう」に、「術に曰いはく、婦人の年数を置き、十二神を加へて実と為し…」だの、「九々八十一を置き、十二神を加へて九十三を得……」などとある。此は算盤を以てする卜法である。置くが日を計ることに関聯していることは、略 疑いはないようである。ただおくなる算法が、日置の場合、如何なる方法を以てするか、一切明らかでないが、其は唯実際方法の問題で、語原においては、太陽並びに、天体の運行によって、歳時・風雨・豊凶を卜知することを示しているのは明らかである。「山越しの阿弥陀像の画因」から


この考え方が現代でもダイヤモンド富士やパール富士の貴重さに繋がっている感じがします。
お彼岸で富士山のダイヤモンド富士はどこから見ることができるのでしょうか。調べてみました。

山梨県の七面山敬慎院前展望地付近,6時9分頃 「信仰の山」とされていて宗教色が強く見られるため、非常に特殊な山です。
ライブカメラが設置してあることから、カメラマン知名度も高いです。撮影ポイントは標高およそ1720m地点にある展望地。
背後に隋身門という門があり、ライブカメラはここに設置されています。(現在は休止中)HP「富士山とともに」から
山梨県にある標高1983mの七面山の本社随身門から富士山頂から太陽が昇るのを見ることができます。

この七面山はもともと真言宗の霊山でした。太陽信仰と修験道も深く結びついています。つまり天体の運行で珍しい現象が見られる土地と時期が一致する場所が修験道の霊場と深く関係があるのです。先程出た七面山(お彼岸の日の出がダイヤモンド富士になる)や羽黒山などの全国の霊場が天体現象の計算の上で成り立っているものと思われます。
東北ではお彼岸の中日に例えば栗駒山の頂上に太陽が沈む,ダイヤモンド栗駒が見られる場所はどこかとカシミールを使って調べてみました。

達谷の岩屋
2017.3.20の太陽が沈む栗駒山(達谷の窟から見て)

答えは「達谷の窟(たっこくのいわや)」と出たのでした。そしてその直線上に世界遺産の平泉があるのです。平泉もその西側を治める達谷の窟もダイヤモンド栗駒が見えるように計算された立地としか思えません。まさに平泉は西方を浄土に沈むお彼岸の太陽を見る場所だったのです。
達谷の窟 042-2s
平泉の南側を東西に区切る太田川を遡ると,この達谷の窟にたどり着きます。達谷西光寺達谷窟毘沙門堂と言われ,北を守る毘沙門天が本尊となっています。天台宗です。かつては中尊寺も天台宗で,北上川流域の天台宗の寺は黄金時代を築いた時代が偲ばれます。
この地にちなんで鬼伝説があるのです。
この地に悪路王・赤頭・高丸という蝦夷がいました。坂上田村麻呂を征夷大将軍に任じ、蝦夷征伐の勅令を下します。延暦20年(801年)、坂上田村麻呂は窟に籠る悪路王等と戦い、激戦の上これを打ち破り首を刎ね、蝦夷を平定しました。
そしてこの地に毘沙門堂を建てたのです。この辺りの経緯を知りたい人は高橋克彦のアテルイの話「火怨 北の燿星アテルイ」(講談社文庫)を読むと分かりやすいです。

真東から日が昇り,真西に沈む天体現象と方位方角が結びつき,また霊山との関連が結びつくことで場所が特定されていく。そのような条件を満たす場所こそ,最も阿弥陀仏に近しい場所(トポス)となります。この世の極楽の地にふさわしいのです。

今日の夕陽は特別です。山の重なる鞍部に沈む太陽をぜひ拝みましょう。紫の雲たなびいた後に奇蹟の阿弥陀如来が現われるのです。心して拝みましょう。

◎今日の記事の内容は過去の記事の内容をまとめて載せています。


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寒さに耐える木

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寒さに耐える木

東北の土地で育った羽生選手が
耐え続けて立った頂点
すごいなあと思います

まさに黒々とした森の中で
耐える白い一本の木です
ただただ美しい


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水越武-探検家の系譜-

敬老の日星空 006-2-1s
暗闇のブナ林を撮る

台風がもたらした南国の密度の濃い生暖かい空気の塊を浴びた後,台風一過の栗駒山に来ている。
日没後のブナ林を見たいと思って来た。もちろん真っ暗である。林の上の方の枝には日没後の空のかすかな光が懸かっている。上空は強い風が吹いて大きく揺れているが,不思議に林の中は圧するような静けさがある。自分の体を強く押してくるような空気感がある。暗闇の夜の力である。

探検の本を読んだこの夏は,しばしば写真家の水越武のことを思い出した。彼も敢えて世界の辺境と呼ばれる人も通わない世界に好んで入り続けている人だからだ。フンボルトがアマゾンで夜にジャガーを恐れるように,敢えて水越武も世界各地の地図の空白部に入り込んで,ジャガーやグリズリーを恐れる。

未知の山河とか地図の空白部などという言葉を聞くと,震えるような血の騒ぎを覚え,そのような山々に近づくための計画を何年も自分の中で温め,現実の行動に漕ぎ着けた。
                                                             「最後の辺境」p80-82

これは正に探検家の本性だと思う。

水越武 最後の辺境
水越武「最後の辺境」2017.725刊 中公文庫

そんな彼がカラコルムの五大氷河を連続して踏破する1979年から始まり,黄河源流の幻の山アムネマチン,植村直己が忽然と消えたマッキンリーの更に北のブルックス山脈,南米のアルゼンチン,ブラジル,パラグアイの国境の交差するイグアスの滝,赤道の氷河アフリカ,コンゴ川流域の熱帯雨林,そして2003年のバイカル湖といずれも地球の最奥部に入り込んだ記録を写真と文章で綴っている。AIが流行する現代でも探検は自分の体一つで行うしかない点で16世紀や17世紀と変わりない。フンボルトは訪れた場所で必ず山登りをした。
チンボラソ登山図_12
フンボルトの「チンボラソ登山図」1807年

水越武も山登りから始まった。未知への知的探求は山登りから始まると言ってもいいのかもしれない。

地球を彩る多様な自然の王国は興味の尽きないところだった。私はその強烈な魅力に取り憑かれ,飽くことなく次から次へと歩いてきた。
                                                             「最後の辺境」あとがき

彼が「山の輪舞(ロンド)」という写真集を出したとき,私は何回もページを繰った。そしてこんな場所を見てみたいと思った。それが1983年のことである。今からもう34年前のことである。そしてその時の彼は45歳でした。現在79歳になります。60歳を越えてからコンゴ川の秘境を歩き回り,エボラ出血熱の流行の最中をなんとかかいくぐって帰国したのでした。未知への探求という「強烈な魅力に取り憑かれた」探検家達の情熱はなくなることがありません。山に,海に,原生林に消えていった探検家達もたくさんいます。マロリーはエベレストに登ったのか。南極点争いでのアムンゼンとスコット隊の明暗。船だけが残り,乗組員が全員消えたというメアリー・セレスト号事件などは探検とは離れるがまた興味深い。



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鳥海山へ行く その2

鳥海山 555-2gs
青空がのぞく

鳥海の2回目です。
今年は雪渓もすっかり消えていて,雪渓の上を歩くことはありませんでした。

頂上の小屋に泊まったのは管理人さんも下りた9月の中旬にもなろうとした頃でした。
音一つしない夜の暗闇で星に囲まれているような夜でした。

次の朝,よく晴れて日本海にきれいな影鳥海が見えました。

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お花畠から鳥海湖を望む

鳥海には春の思い出もあります。
コールデンウィークに登ったときのことです。
の日には荒れました。一寸先も見えません。そうです。メイストームと言われることを後で知りました。
しかし,今日中に下りなかったら仕事に間に合いません。
山小屋の人が「これから下りますから着いてきて下さい」と言いました。
「助かった」と思いました。

ところが・・・

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稜線を行く

激しい吹雪の中で,山小屋の人も迷ったのです。
やがて親子連れの母親の方がエッジから滑落してしまったのです。白い谷底にお母さんはあっという間に消えていきました。
その時の取り残された子ども達の顔は忘れられません。やがて谷底からお母さんが這い上がってきました。それから私がトップを取りました。ステップを切るのに苦労しましたが,もう下りないと危ない時刻でした。

鳥海山での昔の思い出です。



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