2023/10/02
供養すること

ハスの景色
妻が逝って一年
供養することを考える
何回も,何回も,こんな供養の仕方でよいのかと思う
もっと喜んでくれる供養ができたのではなかったか
コスモスが咲けばコスモスを手向ける
ヒガンバナが咲けばヒガンバナを手向ける
好きだったスパゲティをつくれば,それを手向ける
好きだった飲み物を手向ける
お勤めをする
写真に語り掛ける
晴れた空に語り掛ける
でもこんな供養でよいのかと,もう一人の自分が呟く

朝の道
宮沢賢治は妹トシを亡くしてから苦しい日々を送った
そして死んだトシと《通信》を試みる
「こんなやみよののはらのなかをゆくときは/客車のまどはみんな水族館の窓になる」と始まる「青森挽歌」。その最後。
《みんなむかしからのきやうだいなのだから
けつしてひとりをいのつてはいけない》
ああ わたくしはけつしてさうしませんでした
あいつがなくなつてからあとのよるひる
わたくしはただの一どたりと
あいつだけがいいとこに行けばいいと
さういのりはしなかつたとおもひます
トシが死んでから8か月経っていた。妹だけがいいところ(極楽浄土)に行けばいいとは一切いのらなかったと言う。
ああ,賢治はこんな(嘘みたいな)ことまで言って
誰の機嫌を損ねることを恐れているのだろうか。
世界を差し置いて自分の妹だけの成仏を願うことは
仏の機嫌を損ねる我が儘な祈りだと感じていたからだろう

浮かび上がる
安徳天皇はわずか6歳で入水した
生き残った母は,出家し建礼門院となり,寂光寺で息子と平家一門の菩提を弔う日々を送っていた。その建礼門院もまだ29歳である。花摘みに出かけている。4月の遅い春がようやく寂光寺にもやってきていた。左手に花籠を抱え,右手にはイワツツジの枝を持っている。この花を仏前に供えるのである。女院の部屋は,来迎三尊が飾られていた。中尊(阿弥陀如来)は手に五色の糸を持ち、左には普賢菩薩の画、右には善導和尚と先帝の画と並び、妙法蓮華経八巻と、善導和尚の手になる九巻の御書(ごしょ)も置かれていた。昔は蘭麝香(らんじゃこう)の香りに充ち満ちた部屋で過されていた女院であったが,今は,春先の花の微かな香りが部屋に立っていた。障子には、いろいろなお経を色紙に書き写し,貼りつけてある。大江定基法師の、「笙歌せいが遥かに聞ゆ孤雲の上、聖衆しょうじゅ来迎す落日の前」という詩も見える。
「でもこのような身になった悲しみは、言葉に尽くせぬほどでございましたが、考えてみますれば、一門の菩提を弔い、忘れ難い先帝の面影を胸に、朝夕、勤めいそしむことは、何よりのお導きと思うようになりました」
朝夕に勤めいそしむことは,何よりのお導きと思うようになりました。だだただお勤めに励むことが自分のできることだと思えるようになったのである。
供養することは,お勤めを通して別れた人に語り掛け続けることだと思う。
賢治も,建礼門院も,それが今の自分にできるすべてだと思っていた。
