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宮沢賢治「小岩井農場」解読⑭-雨ニモマケズ手帳の庚申-

p165右
雨ニモマケズ手帳のp165に書かれた庚申の文字

急に先回から庚申の話を始めましたが,一つは賢治の詩の中に「昴の塚」という言葉があり,それが庚申塔(塚)の別称だとする文章を見つけました。果たして「昴の塚」が本当に庚申塔だと言えるのか,賢治自身がそう言っていたのか,それとも花巻地方では庚申塔(塚)を「昴の塚」と言う習慣があったのか,とにかくわたしには初耳でした。そこで気になって現在調べています。まずは春と修羅第三集の中の「秋」です。

七四〇  秋 一九二六、九、二三   

   江釣子森の脚から半里
   荒さんで甘い乱積雲の風の底
   稔った稲や赤い萓穂の波のなか
   そこに鍋倉上組合の
   けらを装った年よりたちが
   けさあつまって待ってゐる   

   恐れた歳のとりいれ近く
   わたりの鳥はつぎつぎ渡り
   野ばらの藪のガラスの実から
   風が刻んだりんだうの花
     ……里道は白く一すじわたる……

   やがて幾重の林のはてに
   赤い鳥居や昴(ぼう)の塚や
(後略)


ではどうして賢治自身の他の作品には「庚申」というタイトルもあるのに,ここでは「庚申塔(塚)」とは言わず,「昴の塚」という使い方をしていたのでしょうか。不思議です。

雨ニモマケズ手帳には五庚申や七庚申の文字が見えます。その余白にうっすらと書かれていることも確かめるために全集を見てみました。

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五庚申七庚申の文字の上には右から石碑のようにして「早池峰山」「湯殿山月山羽黒山」「巌鷲山」とあります。
また隣のページには太く白抜きの文字で左に「湯殿山」と書かれています。同じ庚申塔でも五庚申も七庚申は少し珍しい部類に属します。一年の内に五回しか庚申の日がないという五庚申。七庚申は一年で七回も庚申の日が訪れるという意味で,大体が一年間で六回,庚申の日が訪れる普通の年とは違って五庚申,七庚申の年に行に励めば,御利益倍増と言われてきたようです。
賢治がこのように五庚申,七庚申を書いているということはこのような特別な意味も理解していたからでしょう。

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それにしてもです。
なぜ賢治は庚申塔(塚)を「昴の塚」と言い換えて使ったのでしょうか。
庚申信仰がどこかでの「昴(スバル)」と結びついているように理解していたのでしょうか。「庚申縁起」等も見ましたが具体的にのスバルとの関連はつかめませんでした。それとも二十八宿の中の「昴(ぼう)」の意味なのでしょうか。二十八宿の中の「昴(ぼう)」は方位的には真西を意味します。

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この詩「秋」の題材になっている花巻市鍋倉春日神社にある石碑群を見れば何か分かると思います。
わたし自身は,二十八宿の「昴(ぼう)」にあたる真西,即ち西方浄土を願う信仰から供養塔一般を「昴(ぼう)の塚」と言ったのではないかと推量します。庚申塔(塚)だけを「昴(ぼう)の塚」と限定することはできないのではないかと考えました。の好きな賢治ですから「昴の塚」をのスバルの昴と関連させているのかと期待しましたが,勉強不足です。機会があれば改めて調べ直したいと思います。
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宮沢賢治「小岩井農場」解読⑬-昴の塚とは庚申塔か-

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昴 スバル

賢治の文語詩稿 一百篇の中に「庚申」という詩があります

   歳に七度はた五つ、    庚の申を重ぬれば、   

   稔らぬ秋を恐(かしこ)みて、    家長ら塚を理(おさ)めにき。   

   汗に蝕(むしば)むまなこゆゑ、   昴(ぼう)の鎖の火の数を、   

   七つと五つあるはたゞ、  一つの雲と仰ぎ見き。


庚申(こうしん)とは日待ち信仰の一つで,庚申の日「かのえさる」の日に寄り合いを開き,徹夜で行を積んだり拝んだりする行事です。江戸期に急速に広がり全国的に明治時代まで行われていました。講ごとに庚申塚を建てて満願成就をお願いしていました。
この「庚申」という詩は,珍しい七庚申や五庚申に特に豊作を願って建てていたという説明の前半部。毎日身を粉にして働いていた農民が過酷な労働のために汗が眼に入り,昴(すばる)の星の数さえ七個と言ったり五個と言ったりしてはっきりと数えられなくなっているという意味の後半部が「七と五」というキーワードでうまく結びついている構造です。賢治はこの庚申信仰で出てきた「七と五」という数と昴(スバル)の星の数を七個と言ったり五個と言ったりする,全く違う現象の数での奇妙な一致を詩の命綱として完成させたのだと思われます。ですからこの詩の魅力は「七と五」つながりの天と地の事象を組み合わせた技の妙にあります。

しかし,この庚申信仰のことを「昴(ぼう)の塚」と理解し,庚申塚と昴スバルは同一だとする解釈を目にしました。

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宮沢賢治「小岩井農場」解読⑫-「東岩手火山」登山の意味-

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雲海の上に昇る満


大正11年(1922)賢治26歳の917-18日のことでした。農学校に勤め始めて10か経ち,生徒5,6人を連れて岩手山に登りました。そしてその山頂での様子が作品「東岩手火山」となりました。

実はこの登山の目的が,賢治の誘い方によく出ているように感じます。
生徒達の作文の中に、(賢治)先生から、旧暦八十五日(1922年916日)は 「満」で、岩手山頂で満月を拝むとちょうどおわんのようなかっこうに見え、その中から仏さんが三体現われると言われて 誘われたというエピソードがあります。 また、当時生徒であった照井謹二郎さんの文にも「空は底抜けに澄んでいて良く晴れ、満月だった。」という記録もあります。
つまり中秋の名月を岩手山で見ようと誘っていたのです。実際にはこの日は満月ではなく,月齢25の真夜中過ぎに出てくる月だということは作品の中でも書いてあります。大正11年の中秋の名月は10月5日でした。

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宮沢賢治「小岩井農場」解読⑪-東岩手火山-

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さそり座と天の川源頭部 昨晩撮影 D810 64mm ISO640 138秒

昨晩はシーイングもいいようなので,久し振りにを撮りに行った。
レンズも付けるとカメラがかなり重くなっています。後で量ってみたら2.2kgもありました。これからはもう少し軽いカメラにしたいものです。
さて,詩「小岩井農場」をよく読んで見ると,どうやら少なくても大正11年16日,57日(岡澤敏男氏説),そして本番の521日と,3回小岩井農場に詩作のために訪れています。そしてそれ以前にも何回も訪れていたように感じさせます。例えば岩手の下路としての小岩井農場通過も入れればかなりの数の訪問回数でしょう。それらの思い出も入れて,今までの記憶の集大成としての詩「小岩井農場」なのだと思われてきます。私自身これを書くまでは,賢治自身がイメージの「つぎはぎ」の詩を嫌っていたという記憶もありましたから,詩「小岩井農場」はただ一回性の歩行感覚実験に挑戦するという斬新なアイディアで望んだファーストテイク的価値もすごいと思っていましたが,実像はかなり違ってきてしまいました。
そうした中で賢治の登と小岩井農場訪問は切り離せない関係にあると思い,先回,賢治の岩手を取り上げたのでした。今日の作品,詩「東岩手火山」もまた2500字に迫る大作です。これを取り上げるのには,賢治にとって夜はどう表現されているのだろうかと思ったからです。ご存じのようにこの詩「東岩手火山」は大正11年918日,教え子など6人と岩手山に夜中に登って頂上付近でご来光を待つという暗闇の中で書かれた詩です。

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宮沢賢治「小岩井農場」解読⑩-賢治の岩手山登山-

小岩井 100-6s
小岩井農場暮色

前記事「「小岩井農場」解読⑨-5月21日は雨は降らなかった?-」の続きとなります。
大正11(1922)年5月21日午前10時56分賢治を乗せた汽車は小岩井駅に到着しました。さあ,今まで誰も手に付けなかった言わば感覚紀行詩と言っても良い作品「小岩井農場」の始まりでした。どうやら狼ノ森辺りに差し掛かったところで雨が降り出して,「 雨だ。たしかだ。やっぱりさうだ。/ 降り出したんだ。引っ返さう。」ということになりました。引き返したのです。
ところが,5月21日,この日は小岩井農場では雨は降らなかったという記録が残っていたのです。すると作品「小岩井農場」の後半は賢治が「実際に見た幻想の雨」なのだとなります。一体全体どこまでがドキュメンタリーでどこからが虚構なのでしょうか。だんだん分からなくなってきました。
小岩井 116-6s
そこで今日は賢治の岩手と小岩井農場とのつながりを考えてみたいと思います。

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