2015/08/14
遠野物語-不思議な呪文-その5

一遍絵図 祖父の墓で念仏を唱える
ここは北上市稲瀬町水越「ヒジリ塚」と言われているところです。
弘安三年(1280年)秋も深まって朝晩の野に朝霧がたちこめる頃
42歳の一遍上人が祖父河野通信(みちのぶ)の墓の前で念仏を唱えています。供える花もなく,ススキのそよぐ時節,一遍はススキを供えて朗々とした声で念仏を唱えました。20人の弟子達が一遍の声に祈りの言葉を重ね合わせました。
祖父の河野通信が亡くなってもう57年という月日が過ぎていました。一遍は生まれて物心ついた時に祖父通信が承久の乱で奥州に流されたのだと知りました。流されて2年後,通信は失意の内に病気で亡くなったのでした。通信68歳の若葉深い5月19日のことでした。
それから57年。
孫の42歳の一遍は祖父通信の墓参り本願として,九州,四国,北陸,信濃,上野,下野,白河を過ぎて江刺郡に入りました。

「聖塚(ヒジリづか)」一遍の祖父河野通信(みちのぶ)の墓
ここで前前回の記事で出した竹田賢正氏の「東北地方の「阿字十方」の板碑」の表をもう一度ご覧下さい。
種字 | 年号 | 西暦 | 偈文 | 所在地 |
弥陀三尊 | 建治二年 | 1276 | 十方三世仏 一切諸菩薩 八万諸聖経 皆是阿弥陀 | 宮城県矢本町大塩 |
弥陀 | 建治三年 | 1277 | 十方三世仏 一切諸菩薩 八万諸正教 皆是阿弥陀 | 宮城県南方町東郷新田 |
衿伽羅童子 | 元享三年 | 1323 | 十方三世仏 一切諸菩薩 八万諸聖教 皆是阿弥陀 | 宮城県仙台市経ヶ峯 |
勢至 | 貞治二年 | 1363 | 十方三世仏 一切諸菩薩 八万諸聖経 皆是阿弥陀 | 宮城県石巻市高木観音 |
(不明) | 至徳□年 | 138□ | 十方三世仏 一切諸菩薩 八万諸聖経 皆是阿弥陀 | 宮城県南方町本郷天沼 |
弥陀 | 明徳三年 | 1392 | 十方三世仏 一切諸菩薩 八万諸聖経 皆是阿弥陀 | 宮城県河北町大森建立寺 |
観音 | (不明) | 十方三世仏 一切諸菩薩 八万諸聖経 皆是阿弥陀 | 青森県深浦町北金ヶ沢 |
宮城県南方町には「阿字十方」の板碑が二基あることに注目しておきたいです。
更に同じ南方町には弘安四年四月十四日建立の供養碑があります。一遍が通過した翌春に建てられた板碑です。
またさらには全国で二例しか確認されていない正安二年(1300)の「踊り念仏碑」があるのです。正安二年は一遍が南方を通って祖父の墓参りをした年の20年後に当たります。碑面は次のようになっています。
右為四十八日踊念仏結衆等
五十余人結衆
庚
種子 キリーク(阿弥陀如来)正安二年閏七月十五日
子
敬所奉造立也
所志者為精霊成仏法楽等也
四十八日の踊り念仏を修したことを記念に建てられたものでしょう。一遍の影響が彼の死(1289年)の11年後まで色濃く残っています。
時代こそ違っても「阿字十方」の板碑が二基と全国でも稀な一遍の踊り念仏碑の存在。
この二つの事実に何か関係はないでしょうか。ただ板碑として近接しているだけなのでしょうか。
もう730年以上前のことですから隠れた糸も見いだせなくなっています。

一遍もひととき結縁衆の家に上がってお茶をごちそうになったでしょう
遠野の小友地区の「座敷念仏」の中に残っていた「阿字十方三世仏 弥字一切諸菩薩 陀字八方諸聖経 皆量阿弥陀仏」という神呪経の一節。
口伝(こうでん)のみによって700年以上も遠野の人々に脈々と受け継がれてきました。
この希望への祈りは,何千回も何万回も浄土への誘いとして代々伝えられてきました。
もう一度問うことだけは許されるでしょう。
この念仏を一体誰がもたらし,人々に伝えたのでしょうか。

男山から北上川を下に見る。そして北上市内。陽が沈む方が和賀地方。左奥に駒ヶ岳。
国見山から更に北上川に近づくと男山がある。北上川沿いに北上展勝地という桜の名所がある。

熊野権現影向図 京都 檀王法林寺蔵,元徳元年(1329)
北上市の極楽寺に一遍の祖父河野通信が流された。
極楽寺は中世に平泉よりも栄えていた寺だという。
日が沈み,西の焼石連峰に紫の雲が現れると,そこに阿弥陀如来が出現するという。

にほんブログ村

にほんブログ村