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遠野物語-不思議な呪文-その5

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一遍絵図 祖父の墓で念仏を唱える

ここは北上市稲瀬町水越「ヒジリ塚」と言われているところです。

弘安三年(1280年)秋も深まって朝晩の野に朝霧がたちこめる頃
42歳の一遍上人が祖父河野通信(みちのぶ)の墓の前で念仏を唱えています。供える花もなく,ススキのそよぐ時節,一遍はススキを供えて朗々とした声で念仏を唱えました。20人の弟子達が一遍の声に祈りの言葉を重ね合わせました。
祖父の河野通信が亡くなってもう57年という月日が過ぎていました。一遍は生まれて物心ついた時に祖父通信が承久の乱で奥州に流されたのだと知りました。流されて2年後,通信は失意の内に病気で亡くなったのでした。通信68歳の若葉深い5月19日のことでした。
それから57年。
孫の42歳の一遍は祖父通信の墓参り本願として,九州,四国,北陸,信濃,上野,下野,白河を過ぎて江刺郡に入りました。

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「聖塚(ヒジリづか)」一遍の祖父河野通信(みちのぶ)の墓

ここで前前回の記事で出した竹田賢正氏の「東北地方の「阿字十方」の板碑」の表をもう一度ご覧下さい。

 種字  年号      西暦   偈文 所在地
弥陀三尊建治二年1276十方三世仏 一切諸菩薩 八万諸聖経 皆是阿弥陀宮城県矢本町大塩
弥陀建治三年1277十方三世仏 一切諸菩薩 八万諸正教 皆是阿弥陀宮城県南方町東郷新田
衿伽羅童子元享三年1323十方三世仏 一切諸菩薩 八万諸聖教 皆是阿弥陀宮城県仙台市経ヶ峯
勢至貞治二年1363十方三世仏 一切諸菩薩 八万諸聖経 皆是阿弥陀宮城県石巻市高木観音
(不明)至徳□年138□十方三世仏 一切諸菩薩 八万諸聖経 皆是阿弥陀宮城県南方町本郷天沼
弥陀明徳三年1392十方三世仏 一切諸菩薩 八万諸聖経 皆是阿弥陀宮城県河北町大森建立寺
観音(不明)十方三世仏 一切諸菩薩 八万諸聖経 皆是阿弥陀青森県深浦町北金ヶ沢


宮城県南方町には「阿字十方」の板碑が二基あることに注目しておきたいです。
更に同じ南方町には弘安四年四月十四日建立の供養碑があります。一遍が通過した翌春に建てられた板碑です。
またさらには全国で二例しか確認されていない正安二年(1300)の「踊り念仏碑」があるのです。正安二年は一遍が南方を通って祖父の墓参りをした年の20年後に当たります。碑面は次のようになっています。


                             右為四十八日踊念仏結衆等
                                      五十余人結衆
                                     庚
             種子 キリーク(阿弥陀如来)正安二年閏七月十五日
                                     子
                                      敬所奉造立也
                             所志者為精霊成仏法楽等也


  四十八日の踊り念仏を修したことを記念に建てられたものでしょう。一遍の影響が彼の死(1289年)の11年後まで色濃く残っています。
  時代こそ違っても「阿字十方」の板碑が二基と全国でも稀な一遍の踊り念仏碑の存在。
   この二つの事実に何か関係はないでしょうか。ただ板碑として近接しているだけなのでしょうか。
もう730年以上前のことですから隠れた糸も見いだせなくなっています。

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一遍もひととき結縁衆の家に上がってお茶をごちそうになったでしょう

遠野の小友地区の「座敷念仏」の中に残っていた「阿字十方三世仏 弥字一切諸菩薩 陀字八方諸聖経 皆量阿弥陀仏」という神呪経の一節。
口伝(こうでん)のみによって700年以上も遠野の人々に脈々と受け継がれてきました。
この希望への祈りは,何千回も何万回も浄土への誘いとして代々伝えられてきました。
もう一度問うことだけは許されるでしょう。
この念仏を一体誰がもたらし,人々に伝えたのでしょうか。

一遍 031_2_3_fused-2-1gs
男山から北上川を下に見る。そして北上市内。陽が沈む方が和賀地方。左奥に駒ヶ岳。
国見山から更に北上川に近づくと男山がある。北上川沿いに北上展勝地という桜の名所がある。

熊野信仰 002s
熊野権現影向図 京都 檀王法林寺蔵,元徳元年(1329)

北上市の極楽寺に一遍の祖父河野通信が流された。
極楽寺は中世に平泉よりも栄えていた寺だという。
日が沈み,西の焼石連峰に紫の雲が現れると,そこに阿弥陀如来が出現するという。


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遠野物語-不思議な呪文-その4

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遠野の小友地区の「座敷念仏」の中に残っていた「阿字十方三世仏 弥字一切諸菩薩 陀字八方諸聖経 皆量阿弥陀仏」というお経。
 不思議なのはこのお経がどの宗派仏教の寺院に伝わっていないというのです。では,このお経が一体誰によって遠野の人々にもたらされたのかという謎が残るわけです。
 そこで調べてみると先祖の供養をする中世(鎌倉後期から室町)の板碑にこのお経が書かれている事実が分かってきました。これらの板碑は特に宮城・岩手に今でも多く残っているので,これらの板碑からアプローチできないかと思ったのです。またこのお経が室町時代の「御伽草子」の中にあわやという時に助ける呪文として用いられていたことも分かってきました。
この呪文が鎌倉末期,南北朝期から室町にかけて広く使われていたこともあったようなのです。この呪文を考察した内藤氏も竹田氏も高野聖と推測していますが,どうでしょうか。遊行して歩く聖は沢山いたと思います。念仏聖,廻国聖,六十六部聖等・・・。

まず板碑の造立年代からして鎌倉武士が陸奥に入ってきたことで板碑が急激に造られ始めます。
次に,陸奥に沢山の人が往き来できるようになっていった時代も同じ時代です。和歌の世界では陸奥の歌枕も沢山あります。能因法師が,その後に続いて西行が,西行に続いて芭蕉が奥の細道を歩きます。
そして同時に信仰の面では三山参り,お伊勢参りと,熊野参りと,民衆の中でも移動が始まります。

そんな時代の移り変わりの中で,この呪文は遠野に今でも消えることなく民衆の回向の中に残されてきたのです。
では4回目の今日は,考えられる人物にスポットを当てていきましょう。
先回の記事の最後にこう書きました。
ただ1270年代という最も早い時期の「阿字十方三世仏」板碑群とどうしてもずれが生じます。
1 是信
2 一遍
3 その他の高野聖
今日は是信です。


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夕立前

是信は親鸞の弟子で記録では「是信 奥州和賀住」と書かれ,弟子は「能信(是信の子供?後に本誓寺二世),仏道,覺妙 自余門弟之を略す」(建保五年1218年)とあるのでその他にも多くの弟子がいたようです。岩手,秋田,青森に真宗を広めた最初の人ということになります。是信は和賀に住んでいたというところから,その門流を和賀門徒と言われています。是信の記録は遠野の西教寺にも伝わっています。
 是信は承安三年(1173)生まれで86歳まで生きたと言うので正嘉二年(1258)没ということになります。親鸞の弟子いつ頃から和賀に住んで折伏弘布活動をしていたかと言うと,専空という弟子が聖人からこんな話をされています。
「ただ陸奥のこと最(いと)いぶかしく思うぞ。是より彼国に赴,是心(是信のこと)覺圓,無為心等に教示し,立川の邪義を防がんこと,御坊に非(あらず)して誰かあるべき」と記録にあるのです。「親鸞聖人正統伝」
 このことから,専空はもう五年にわたって是信を助けて岩手で布教活動をしているけれど,まだ立川流という好ましくない教えを正しく教化させねばならない。このことは大切なことで,専空お前が手伝わなくて誰がやるのだということを言っています。この文書が暦仁元年(1238)ですから,五年を遡っても1234年の文暦年間には和賀に下向して布教活動に力を入れていたことになります(1231年の説あり)。

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当時極楽寺のあった国見山。是信も,西行も,そして今度話す一遍も皆ここから陽が沈むこの景色を見たと思います。


今回,親鸞の和讃を全文検索してみましたが「阿字十方三世仏 弥字一切諸菩薩 陀字八方諸聖経 皆是阿弥陀仏」という言葉は出てきませんでした。

是信についての記録を他の寺社関係から探るか,地元の遠野西教寺の記録等から出てくることはないでしょうかね。

次回は一遍です。


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遠野物語-不思議な呪文-その3

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ヒマワリ畑の天の川

今日は遠野の小友地区の「座敷念仏」の中に残っていた「阿字十方三世仏 弥字一切諸菩薩 陀字八方諸聖経 皆量阿弥陀仏」というお経の謎を追っての三回目ということになります。不思議なのはこのお経がどの宗派にも伝わっていないという事実でした。阿弥陀仏ですから浄土宗や浄土真宗の僧は知っていると思っていたら誰も知らなかった。では,このお経が一体誰によって遠野の人々にもたらされ,定着していったのかという謎が残るわけです。

 それに内藤正敏氏が気付いて,「遠野物語の原風景」(2010)の中の「不思議な真言念仏と中世の宗教空間」という章でこの呪文に考察を加えています。そして内藤氏はついに「大日本続蔵経」の中の「仏説阿弥陀仏根本秘密神呪経」と遠野の「座敷念仏」と殆ど一致していることを突き止めたのです。

 昨日の記事では「阿字十方三世仏 弥字一切諸菩薩 陀字八方諸聖経 皆量阿弥陀仏」と遠野に伝えられていたのですが,原典の「仏説阿弥陀仏根本秘密神呪経」では最後の4行目が「皆量阿弥陀仏」ではなく「三字之中是具足」であり,どうしてこの違いが出てきたのか,という点について考えを書きました。
 結局は,聖(ひじり)が布教の過程で教典の内容を分かりやすく伝える「唱導指導」という手法で,より簡潔な形で「三字之中是具足」というよりも「皆,是(こ)れ阿弥陀仏」とはっきり唱えた方がよいという考えがバリエーションを生むきっかけになったのではないか,そしてこのお経自体の構造も「字解き」「絵解き」という唱導指導の形態を備えていたとも予想できます。

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ひまわり畑

そこで今日の三回目ですが,中世の石碑にはどう書いてあったかを出してみて,お経自体のバリエーションがもっとあるのか,あるとしたら布教の際の聖達の宗派の違いや地域偏差もあるのかということを確かめてみましょう。
まず,「阿字十方・・」のお経が書かれた板碑を拾い出した記録を竹田賢正「板碑偈文「阿字十方」の伝承系譜について」(『山形県地域史研究』14 1989)から引用します。ちなみにこれらの板碑は殆どが先祖の供養のために,または生きている間に善徳を積んだ印として(生きている間の功徳としては「逆修」と言われています)立てられている石碑が殆どです。

東北地方の「阿字十方」の板碑
 種字  年号      西暦   偈文 所在地
弥陀三尊建治二年1276十方三世仏 一切諸菩薩 八万諸聖経 皆是阿弥陀宮城県矢本町大塩
弥陀建治三年1277十方三世仏 一切諸菩薩 八万諸正教 皆是阿弥陀宮城県南方町東郷新田
衿伽羅童子元享三年1323十方三世仏 一切諸菩薩 八万諸聖教 皆是阿弥陀宮城県仙台市経ヶ峯
勢至貞治二年1363十方三世仏 一切諸菩薩 八万諸聖経 皆是阿弥陀宮城県石巻市高木観音
(不明)至徳□年138□十方三世仏 一切諸菩薩 八万諸聖経 皆是阿弥陀宮城県南方町本郷天沼
弥陀明徳三年1392十方三世仏 一切諸菩薩 八万諸聖経 皆是阿弥陀宮城県河北町大森建立寺
観音(不明)十方三世仏 一切諸菩薩 八万諸聖経 皆是阿弥陀青森県深浦町北金ヶ沢

宮城県の石巻,登米が多いのです。不思議です。
このほかに他の地方では下のように記録されています。
 種字  年号      西暦   偈文 所在地
弥陀弘長二年1262十方三世仏 一切諸菩薩 八万諸聖経 皆是阿弥陀群馬県玉村町下新田
弥陀三尊文永五年1268十方三世仏 一切諸菩薩 八万諸正教 皆是阿弥陀群馬県伊勢崎市宮子町
弥陀弘安十年1287十方三世仏 一切諸菩薩 八万諸聖教 皆是阿弥陀埼玉県伊奈町小針内宿


板碑関係では時代や地域によって変異があるわけではないようです。
むしろ間違いなく「 十方三世仏 一切諸菩薩 八万諸聖経 皆是阿弥陀」 と刻まれている傾向にあるようです。
どうして阿字や弥字,陀字が省略されているのでしょうか。これは冒頭の二文字を省略しても同じ効力があるとしています。いやむしろ口承によって伝えられた経は阿字,弥字,陀字という文字を敢えて隠すことによってその法力が発現するという考えもあったと思われます。口伝による手法の奥義なのでしょう。

ひまわりの丘 041s
ひまわりの丘

竹田氏のいた山形県村山地方切畑地区に残るこのお経も同じだそうです。
出てきた石巻市高木観音堂にある1401年の表とは違う年代の刻字を見てみましょう。この石碑には阿字,弥字,陀字が省略せず刻まれています。

阿字十方画像
かすかに「弥字一切諸菩薩」と読めませんか。

そして宮城の石巻,登米にどうしてこれだけ集中しているのかも気になります。
誰がこの「阿字十方三世仏」伝えたのでしょう。こちらはとても大きな影響を受けた土地ということになります。遠野と宮城は深くつながっている可能性があります。そして板碑の場所をプロットしてみるとやはり北上川が浮かび上がります。北上川沿いの船の往き来がそのまま板碑や文化の伝播に重なっています。

では本当に一体誰がこの不思議な呪文を遠いこちらの陸奥の国に伝えたのでしょうか。

穂高 1822-2s
深い森

推測の域はでませんが,次の可能性を考えてみました。
ただ1270年代という最も早い時期の「阿字十方三世仏」板碑群とどうしてもずれが生じます。
1 是信
2 一遍
3 その他の高野聖

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ハスの花咲く

次回はその周辺を探ってみたいと思います。


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遠野物語-不思議な呪文-その2

穂高 1455-2s
ザイテングラードのお花畑から前穂高Ⅰ,Ⅱ,Ⅲ,Ⅳ,Ⅴ峰を望む

さて今日も奥穂高に登ったいろいろな写真と共に「遠野物語-不思議な呪文-その2」をお送りします。よろしくお付き合いください。
まずお詫びと訂正です。
昨日私は遠野の小友地区に古くから伝わっている「座敷念仏」の中に「阿字十方三世仏 弥字一切諸菩薩 陀字八方諸聖経 皆量阿弥陀仏」というどの宗派にも伝わっていない不思議な真言の呪文があった,とお話ししました。それに内藤正敏氏が気付いて,「遠野物語の原風景」(2010)の中の「不思議な真言念仏と中世の宗教空間」という章でこの呪文に考察を加えていました。そして内藤氏はついに「続大蔵経」の中に同じ呪文を発見したと書きました。これは「続大蔵経」ではなく,正しくは「大日本続蔵経」です。お詫びして訂正いたします。昨日の記事の部分も赤い文字で訂正しておきました。失礼致しました。

で,その「大日本続蔵経」の第一輯第三套(とう)第五冊にその呪文が出てきたわけです。そのお経は「仏説阿弥陀仏根本秘密神呪経」です。内藤氏はこの長年の謎に終止符を打ったわけです。すごい発見です。

内藤正敏「遠野物語の原風景

その「阿字十方三世仏 弥字一切諸菩薩 陀字八方諸聖経 皆量阿弥陀仏」という呪文は原典に載っていた呪文と最後がちょっとだけ違っていたのでした。最後の「皆量阿弥陀仏」が原典と思われる「仏説阿弥陀仏根本秘密神呪経」の中では「三字之中是具足」となっていたのです。この違いはどこから生じてきたのでしょうか。
まず七字四行のこの経の最初の文字に気を付けますと「阿,弥,陀」となります。
阿字十方三世仏 弥字一切諸菩薩 陀字八方諸聖経 三字之中是具足
原典の最後の「三字之中是具足」の「三字」とは阿弥陀の三文字の中にこの世のすべてが入っている(具足)という意味になります。
つまり阿弥陀様の「阿と弥と陀」を取って最初の出だしにしつらえたお経だと分かります。このような方法を「字解き」というそうです。ちょっと暗号めいた感じを入れるわけです。

例えば中学時代に習った「唐衣(からころも)/きつつなれにし/妻しあれば/はるばる来ぬる/旅をしぞ思ふ(410) 」古今集の在原業平の和歌の区切りの冒頭の一文字を取ってつなげると「か,き,つ,ば,た」という言葉が暗号のように込められていたという「折句(おりく)」の手法ですね。このような手法が特に難しいお経等を説明したり,解説したりするときによく使われていたのです。その時に絵も見せながら一緒に解説するととても分かりやすくなるわけです。絵を使ったりするすることを「絵解き」と言われていました。教えを広めるためにはまず分かりやすさが大切なわけです。

 このように絵を使ったり,言葉で解説するときの工夫を「唱導指導」と言って,行脚する僧にとっては大切な積まなくてはいけない修行だったはずです。この阿字十方三世仏 弥字一切諸菩薩 陀字八方諸聖経 三字之中是具足という呪文も,そうした「絵解き」「字解き」の布教の一端として生まれてきた呪文ではないでしょうか。

穂高 1586-2s
水飲みに雪渓に来たサル

そして,最後の「三字之中是具足」が唱導指導を受けたある聖僧によって,分かりやすくした結果,遠野に伝わっては「皆量阿弥陀仏」と改変されたのではないかと思われます。

うーん。おもしろいです。まるで上質のミステリーを読んでいる気分です。

穂高 1738-s
穂高にいたアサギマダラ。彼らも東南アジアまで渡っていくのでしょうか。

すると次のような疑問が湧きます。
この呪文の最後に気を付けて調べると,この呪文を遠野に伝えた人物と山形に呪文を伝えた人物と宮城県に伝えた人物が同定ができるのではないか。
この呪文の最後が「皆量阿弥陀仏」という遠野と同じ文句で終わっていれば,山形,宮城,埼玉,群馬のポイントがにわかに結ばれることになるでしょう。つまり同一の唱導指導を受けた聖僧か,聖集団が風のように東国を通り過ぎ布教していったものだと分かってくると思ったのです。

この歴史ミステリーに憑かれて4か月過ぎました。いろいろな本を読んで少しずつ見えてきたことをこのように今回自分なりにまとめていきます。


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遠野物語-不思議な呪文-

穂高2-1s
涸沢,テントサイトの夜

本当に久しぶりに遠野物語の話を書きます。
以前3/31の記事で次のように書いて終わりました。
さて遠野では人が亡くなって寺で葬式を済ませた後,地区に戻ってきてからまた地区の人たちだけでお念仏を唱えるといいます。これを「座敷念仏」と言ってきました。実はこの座敷念仏のお経に聞き慣れない経文が混じっていたのです。
その話はまた後にします。
3/31の記事は こちら

座敷念仏の中にある聞き慣れないお経に気付いた内藤正敏氏は,「遠野物語の原風景」(2010)という本の中の「不思議な真言念仏と中世の宗教空間」という章でこの不思議な呪文に考察を加えています。その呪文が

「阿字十方三世仏 弥字一切諸菩薩 陀字八方諸聖経 皆量阿弥陀仏」
そもそも,このお経が一体どこから来たものなのか,そしてどのように伝えられてきたたのか。
 あらゆる宗派の僧達に聞いても分からないと言うのです。そうなのです。宗派の僧を通して伝えられていたお経ではなかったのです。内藤氏はある日「大日本続蔵経」の中で偶然にそのお経の出所が「仏説阿弥陀仏根本秘密神呪経」だとつきとめたのです。内藤氏はこの経の長年の謎に終止符を打ったわけです。すごい発見です。

しかし,出典が明らかになったとしても次の謎が残ります。
なぜ何のために,誰が,このお経を遠野の人々に語り伝えたのかという謎です。
「真言」と「阿弥陀信仰」と「宗派に属さない,つまり聖」によって伝えられたお経というキーワードがそろいます。

私はこの謎にいたく興味を持ちました。
なぜなら「阿字十方三世仏 弥字一切諸菩薩 陀字八方諸聖経 皆量阿弥陀仏」という経文は特に東国にぽつぽつと板碑や同じ座敷念仏として現在でも伝えられていたからです。岩手に,宮城に,群馬や埼玉にこの経文が見つかっています。一番遡った石碑が群馬県玉村町下新田の弘長二年(1262)から明徳二年(1392)の宮城県河北町大森建立寺の石碑まで,現在まで9基まで見つかっていると竹田賢正氏は「板碑偈文「阿字十方」の伝承系譜について」(「山形県地域史研究」14,1989 )で書いています。そして竹田氏のいた山形県村山地方にもこの経文が伝えられていたのです。
このように限定されたところに残っている特殊な「阿字十方」のお経は一体誰が伝えたのでしょうか。宗派僧ではありません。竹田氏は日蓮宗に転宗した高野聖と予想しているようです。

穂高の朝
穂高の朝

そこで宮城県の六基の板碑に刻まれた1276年から1392年までで,宮城や岩手で伝える可能性のある有名な人を拾ってみることにしました。
まず親鸞の高弟「是信」です。彼は和賀住になっています。可能性は大です。
また1280年には北上にある祖父の墓を訪ねて「一遍」も来ています。踊り念仏時宗です。また日蓮宗「日目(にちもく)上人」の父も登米市出身です。

どうしてか,この時期に有名な聖がたくさん陸奥に来ています。
他にも廻国聖,念仏聖,六十六部衆と沢山の聖が遊行していたと考えられます。
「阿字十方三世仏 弥字一切諸菩薩 陀字八方諸聖経 皆量阿弥陀仏」に秘められた不思議は解けることがありません。
しかし魅力的な問いです。実は「御伽草子」の中にも必殺の呪文としてこのお経が出てきます。

誰が何のために,この阿字十方の経文を広めたのか。そして北の果ての遠野に確かに700年以上を超えて残っている事実は驚きです。
是信が死んだとされる10/14に十月仏やマイリノホトケと称して行事が残っていることから考えて,遠野の人々の懐の広さと信仰の「保存力」とはものすごいと思います。
尚,この調査は続いています。



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