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時間は残酷なもの

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散歩にて

私が彼女と知り合ったのは冬にしては雪も降らない暖かな一月のある朝であった。
山深い一軒家は鬱蒼とした木々に囲まれていて,門口から数百メートルも入った所に母屋があった。
やがて春が来て,私は雪割草やシラネアオイが咲く屋敷の広い庭で花の話を彼女と交わすようになった。屋敷の広さから見ても,昔から代々続く豪農の家であるらしくミツバチも飼っており,ひとしおミツバチに興味があった私は彼女のミツバチの飼育の話を驚きの連続で目を見張るように聞いた。そして飼育箱の中に新しく女王バチが生まれると前にいた女王バチはある朝,何千という働きバチや雄バチを従えて大空に飛び立つことを知った。飛び立った女王バチはその日に生まれて初めて青空を見て,生まれて初めて太陽を仰ぐという。その後に何千という働きバチが雲のようになって女王バチを追いかけ,女王バチが留まった木にひとかたまりとなって女王バチを守る。このことを分封と言うのだという。
そんなミツバチの話をする彼女の顔は静かさを保ってはいるが瞳の底は輝いていた。
「私は女王バチのようにはなれない」とある日,言ったが,それはどんな意味で言ったのかいつか聞こうと思いながらも結局私は彼女に聞けなかった。いつもそうだ。その人の大切にしている気持ちに触れると私はおどおどとしてしまう。相手からの奥ゆかしいレトリックなのに隠されて表われてくるものを私はいざとなるとそっとそのままにしておいてしまう。相手の気持ちを確かめること位は何でもないはずなのに割り込んでいって答えを強要しているみたいで罪悪感を感じてしまう。自分ながら情けない性格だと思う。大人になれば何でも言える性格になると思っていた。しかし性格は変わらなかった。臆病な性格という面に触れにないように生きる術(すべ)を布いてしまったのだ。いつの間にか,自分自身を主張することが自分勝手と思われはしないかと恐れるようになった。

雨ニモマケズ石巻線-2s
最終電車で雨ニモマケズ

だから知り合ってからしばらく経ったというのに彼女の名前すら知らなかった。彼女の名前を知ったのは家の中から彼女を呼ぶ家の人の声によってだった。彼女の好きな物が何か,何の花が好きなのかさえ聞けなかった。ただ,咲いている花や木やミツバチやチョウや夜に鳴くフクロウ話を聞くだけで天国にいるような気持ちになった。私は彼女に惹かれていった。そして彼女も今まで見せなかった表情を時折見せるようになったことで打ち解けてきたのだと,私を嫌いではないのだと薄々感じるようになった。それだけで幸せな気持ちになった。

もう知り合ってから二年が過ぎて屋敷のシャクナゲが見事に咲きそろった頃だった。
「今年の分封は遅れているわ」と彼女は私の顔を覗き込むようにして言った。私はその所作にどんな意味があるのか分からず,でもやはり真意を聞き返すこともできないでいた。

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丘の向こうの空

暫く長期の出張で家を留守にして,秋も終わろうとする頃だった。
落ち葉を踏みしめて彼女の屋敷に久し振りに足を踏み入れた。リンドウの咲き残りが明るく見通しの良くなった雑木林の道に沿って並んでいた。
その時,婚礼の家具を積んで紅白の幕をまとったトラックが屋敷の母屋の方から出てきた。
私は思わず近くの柏の大木の陰に身を隠した。
(彼女はお嫁に行くのだ)
そう直感した。
私は走って彼女の家から離れた。
そして今までの彼女の言葉や覗き込む目の奥の光の意味が一瞬にして遅すぎる今になって理解できた。
(時間(とき)は残酷なものだ)
自分の臆病さも顧みず,勝手な自分はそう思った。



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今朝のさんぽ道

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今朝の長沼

日の出も早くなった。八十八夜を境に一段と春はスピードアップするようようだ。今日の太陽は日の出は4:36, 南中11:33,日の入り18:31である。日の出は一日毎に1分ずつ早くなっていく。そして景色も一日毎に緑がはっきりとしてくる。


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今朝のさんぽ道

田んぼに水が入って,地面に明るさが戻ってきた。
これから田に写る空が楽しめる。
さんぽ道にはチョウが飛び交っていた。


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今朝の八重桜

八重桜も満開に近くなった。
晴れた夜が楽しみだ。


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春迎える伊豆沼

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北帰行

先週3月6日だったと思うが,強い風が吹き荒れた。
その次の日の夕方には賑やかなマガンの塒入りが戻ってきました。どうやら強い風に乗ってガンハクチョウが戻ってきたようです。マガンハクチョウ達の鳴き声で満ちていた空間ががらんとしてさみしさを感じていましたから,飛ぶ姿や鳴き声が戻ってきたことが嬉しいです。現在でも数は少ないですが朝夕に呼び交わすマガンハクチョウの声がしています。若柳にある県のサンクチュアリーセンターの鳥情報では3月6日現在でマガンは36羽となっていましたがどうでしょう。サンクチュアリーセンター新田館は残念ながらコロナウィルスの感染拡大予防のため24日まで閉館しているようです。また早春恒例の野焼きも中止。お彼岸に合わせて行われているクリーンキャンペーンも中止になってしまいました。鳥がいなくなり最近は人すらいなくなっている伊豆沼です。
シジュウカラ,エナガ,カシラダカ,ツグミ,カワラヒワ,ヒヨドリ・・・。
前沼にはハクチョウが1羽。よく見れば死んだハクちゃんに寄り添っていたあの若いハクチョウだった。
夕暮れが濃くなってきた頃。2年前のあの頃,毎日通って呼びかけてきた声を掛けてみた。

「来たよーーー」

暗がりの中の声の主を探すようにハクチョウはこちらをじっと見ていた。

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霧の林

2月中旬辺りから林は一年の中で一番見通しがよくなります。雑木林の向こうがこんなに明るいものだと改めて感じる頃です。この時期の林は歩いても気持ちよく,獣道を辿ればキツネやリスと出会うこともあります。落ち葉でやわらかくなったふかふかした林床をしばし歩きます。國木田独歩の書いた林にいるようです。
楢(の木)はあまり風流な木でない。その枝は粗、その葉は大、秋が来てもほんのりとは染まらないで、青い葉は青、枯れ葉は枯れ葉と、乱雑に枝にしがみ着いて、風吹くとも霜降るとも、容易には落ちない。冬の夜嵐吹きすさぶころとなっても、がさがさと騒々しい音で幽遠の趣をかき擾みだしている。
 しかし自分はこの音が嗜(す)きなので、林の奥に座して、ちょこなんとしていると、この音がここでもかしこでもする、ちょうど何かがささやくようである、そして自然の幽寂がひとしお心にしみわたる!
 自分はいつしか小山(近くで絵を描いている友人)を忘れ、読む書(ワーズワース)にもあまり身が入らず、ただ林の静けさに身をまかしていると、何だか三、四年前まで、自分の胸に響いたわが心の調べに再び触れたような心持ちがする。「小春」明治33年11月


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さんぽ道

久し振りにあのさんぽ道に行ってみた。
林の奥が透き通っている。木々の向こうの空はこんな明るさだったのかと初めて知った。


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朝の漁

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朝の漁 長沼にて 今朝撮影

今は何が獲れるんですかと聞くと,「ワカサギだね」と言われました。
結構獲れるんだそうです。


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朝の楽しみ

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長沼の美しき朝  昨日1/11撮影

もう一度朝の楽しみとは何だろうと考えてみる。
言っておくが朝は日の出前後30分のことを意味している。大切なことはいつも境目にあって,その時に自分がどこに居ればよいかと言うことだ。当然に朝は夜と昼の境目だ。

夜明け前の空の色
雲の形
冷えて立った空気の層
その場所は牧草地だが小高くなっている。高く繁った藪が人を通すことを拒んでいるように思える。

その朝は何時になく赤くただれたように焼けた空が地平線を取り囲んでいた。
ふとその赤い光が高く繁っている藪の一部分だけが薄く,人が辛うじて登って通れることを教えてくれた。私は遠慮無くその藪の薄くなった急斜面を蔦に巻かれながら犬と一緒に登り始めた。
そうして,なだらかな丘になっている牧草地のてっぺんに易々と辿り着いた。そして思った。
「なぜ今までここに辿り着こうとは思わなかったのだろう。こんなに素晴らしい場所なのに・・・。」
例えば道がなければ人は敢えてそこを通ろうとは思わないだろう。見えているのに辿り着こうとしないのは用意された道がないからだ。犬でさえこの牧草地の丘は辿り着けないものだと今まであきらめていたのだ。

人はどこで今日の朝を迎えたいかを贅沢な選択肢の中から選ぼうとする。あえて何時間も車を走らせて自分の朝に辿り着くこともある。自分の選択肢はベストであることもあるが,いつもそうだとは限らない。素晴らしい朝のこの瞬間を同時に二か所や三か所で味わうことはできないからだ。人が有限であるというのはこのことを指している。すべては一回性の中に居ることからすべては始まっている。これを実存主義は自由と呼ぼうとした。何を選んでもよい,選択する自由だと。しかし実際は違う。それは読み代えた資本主義的な自由なのだ。実存という単語はexistense。接頭辞exは「~外へ」という意味。自分の中にあるものからの選択ではない。敢えて自分の外に出ようとすることが実存という意味なのだ。だから未知の世界に自分が跨ぎ入ることが自由の証になる。これは大した冒険でもある。跳ばないといけない。

こんなに美しい朝を今まで辿り着こうともしなかったこの場所で味わうことが出来たことは何を意味しているかと自問してみる。最高じゃないか。ちょっと日常を変えるだけでこの喜び。犬もそう感じているらしかった。周囲の景色を楽しんでいる。予定されたコースだが,そうでもない。バリエーションルートだ。

すべては自分次第なのだ。自分の中にある贅沢過ぎる選択肢の数々に辟易してはいないか。そう思ったら君は自分の境目にいる。事を起こさなくてはいけない時期に来ているのだ。それは未知の世界への飛躍である。そして自由の証ともなる。


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