FC2ブログ

春迎える伊豆沼

DSC_8215sss.jpg
北帰行

先週3月6日だったと思うが,強い風が吹き荒れた。
その次の日の夕方には賑やかなマガンの塒入りが戻ってきました。どうやら強い風に乗ってガンハクチョウが戻ってきたようです。マガンハクチョウ達の鳴き声で満ちていた空間ががらんとしてさみしさを感じていましたから,飛ぶ姿や鳴き声が戻ってきたことが嬉しいです。現在でも数は少ないですが朝夕に呼び交わすマガンハクチョウの声がしています。若柳にある県のサンクチュアリーセンターの鳥情報では3月6日現在でマガンは36羽となっていましたがどうでしょう。サンクチュアリーセンター新田館は残念ながらコロナウィルスの感染拡大予防のため24日まで閉館しているようです。また早春恒例の野焼きも中止。お彼岸に合わせて行われているクリーンキャンペーンも中止になってしまいました。鳥がいなくなり最近は人すらいなくなっている伊豆沼です。
シジュウカラ,エナガ,カシラダカ,ツグミ,カワラヒワ,ヒヨドリ・・・。
前沼にはハクチョウが1羽。よく見れば死んだハクちゃんに寄り添っていたあの若いハクチョウだった。
夕暮れが濃くなってきた頃。2年前のあの頃,毎日通って呼びかけてきた声を掛けてみた。

「来たよーーー」

暗がりの中の声の主を探すようにハクチョウはこちらをじっと見ていた。

DSC_9085-2gs.jpg
霧の林

2月中旬辺りから林は一年の中で一番見通しがよくなります。雑木林の向こうがこんなに明るいものだと改めて感じる頃です。この時期の林は歩いても気持ちよく,獣道を辿ればキツネやリスと出会うこともあります。落ち葉でやわらかくなったふかふかした林床をしばし歩きます。國木田独歩の書いた林にいるようです。
楢(の木)はあまり風流な木でない。その枝は粗、その葉は大、秋が来てもほんのりとは染まらないで、青い葉は青、枯れ葉は枯れ葉と、乱雑に枝にしがみ着いて、風吹くとも霜降るとも、容易には落ちない。冬の夜嵐吹きすさぶころとなっても、がさがさと騒々しい音で幽遠の趣をかき擾みだしている。
 しかし自分はこの音が嗜(す)きなので、林の奥に座して、ちょこなんとしていると、この音がここでもかしこでもする、ちょうど何かがささやくようである、そして自然の幽寂がひとしお心にしみわたる!
 自分はいつしか小山(近くで絵を描いている友人)を忘れ、読む書(ワーズワース)にもあまり身が入らず、ただ林の静けさに身をまかしていると、何だか三、四年前まで、自分の胸に響いたわが心の調べに再び触れたような心持ちがする。「小春」明治33年11月


DSC_8973-2s.jpg
さんぽ道

久し振りにあのさんぽ道に行ってみた。
林の奥が透き通っている。木々の向こうの空はこんな明るさだったのかと初めて知った。


にほんブログ村 写真ブログ ネイチャーフォトへ
にほんブログ村

朝の漁

DSC_5004-2gs.jpg
朝の漁 長沼にて 今朝撮影

今は何が獲れるんですかと聞くと,「ワカサギだね」と言われました。
結構獲れるんだそうです。


にほんブログ村 写真ブログ ネイチャーフォトへ
にほんブログ村

朝の楽しみ

DSC_8583-2gs.jpg
長沼の美しき朝  昨日1/11撮影

もう一度朝の楽しみとは何だろうと考えてみる。
言っておくが朝は日の出前後30分のことを意味している。大切なことはいつも境目にあって,その時に自分がどこに居ればよいかと言うことだ。当然に朝は夜と昼の境目だ。

夜明け前の空の色
雲の形
冷えて立った空気の層
その場所は牧草地だが小高くなっている。高く繁った藪が人を通すことを拒んでいるように思える。

その朝は何時になく赤くただれたように焼けた空が地平線を取り囲んでいた。
ふとその赤い光が高く繁っている藪の一部分だけが薄く,人が辛うじて登って通れることを教えてくれた。私は遠慮無くその藪の薄くなった急斜面を蔦に巻かれながら犬と一緒に登り始めた。
そうして,なだらかな丘になっている牧草地のてっぺんに易々と辿り着いた。そして思った。
「なぜ今までここに辿り着こうとは思わなかったのだろう。こんなに素晴らしい場所なのに・・・。」
例えば道がなければ人は敢えてそこを通ろうとは思わないだろう。見えているのに辿り着こうとしないのは用意された道がないからだ。犬でさえこの牧草地の丘は辿り着けないものだと今まであきらめていたのだ。

人はどこで今日の朝を迎えたいかを贅沢な選択肢の中から選ぼうとする。あえて何時間も車を走らせて自分の朝に辿り着くこともある。自分の選択肢はベストであることもあるが,いつもそうだとは限らない。素晴らしい朝のこの瞬間を同時に二か所や三か所で味わうことはできないからだ。人が有限であるというのはこのことを指している。すべては一回性の中に居ることからすべては始まっている。これを実存主義は自由と呼ぼうとした。何を選んでもよい,選択する自由だと。しかし実際は違う。それは読み代えた資本主義的な自由なのだ。実存という単語はexistense。接頭辞exは「~外へ」という意味。自分の中にあるものからの選択ではない。敢えて自分の外に出ようとすることが実存という意味なのだ。だから未知の世界に自分が跨ぎ入ることが自由の証になる。これは大した冒険でもある。跳ばないといけない。

こんなに美しい朝を今まで辿り着こうともしなかったこの場所で味わうことが出来たことは何を意味しているかと自問してみる。最高じゃないか。ちょっと日常を変えるだけでこの喜び。犬もそう感じているらしかった。周囲の景色を楽しんでいる。予定されたコースだが,そうでもない。バリエーションルートだ。

すべては自分次第なのだ。自分の中にある贅沢過ぎる選択肢の数々に辟易してはいないか。そう思ったら君は自分の境目にいる。事を起こさなくてはいけない時期に来ているのだ。それは未知の世界への飛躍である。そして自由の証ともなる。


にほんブログ村 写真ブログ ネイチャーフォトへ
にほんブログ村

雪を待つさんぽ道

DSC_0806-2gs.jpg
めずらしくさんぽしている家族がいた

今朝,里の紅葉の色を見た時にとても哀しく感じた。もう終わりだという気配が漂っている。
最後の紅葉をよく確かめたいと思い,久し振りにいつものさんぽ道に出かけてみた。
落ち葉を踏みしめながら薄暗くなった林の中を歩くと,あまりにも季節に無頓着な自分を情けなく思った。

DSC_0927-2gs.jpg
すっかり葉を落としたホオノキの樹幹の白さが目に付いた

DSC_0840-2gs.jpg
林の中の道は続く

DSC_0830-2gs.jpg
木立は冬を待っているようだ


にほんブログ村 写真ブログ ネイチャーフォトへ
にほんブログ村

どうして出口は閉じられているのか

DSC_4149-s.jpg
どうして出口は閉じられているのか

意を決して入った道なのにどうして出口は閉じられているのか


DSC_4183-2gs.jpg
どうして出口は閉じられているのか

暗い道の向こうに光が見えたのに通行止めか
どうして出口は閉じられているのか


にほんブログ村 写真ブログ ネイチャーフォトへ
にほんブログ村