2021/07/18
ダダイスト辻潤 その9-虚無思想について-

蓮の花咲き始める今朝の内沼
辻潤の書いたものを読めば誰しも彼の妙に肩の力が抜けた文章に気負いのない気軽さを感じる。達観したような彼の語り口はどこか細野晴臣の音楽に通じるような遊びにも似た心地よさがある。それを虚無主義と言えば,なるほどとも思われる。彼を批判する者は坂口安吾のように辻潤を「日本のダダイズムの脆弱性を体現している」と決めつける。そのようにすぐレッテルを貼り,排他性を誇ることは権威の擁護者なのである。そんな中で萩原朔太郎は辻潤を正しく見ているように感じる。「辻潤と螺旋道」で述べている。
辻潤といふ存在は何だらうか。彼はスチルネルの紹介者でアナアキズムの導入者で、ダダイズムの媒介者で、虚無思想の發明人で、老子の敬虔な學徒であり、その上にも尚蜀山人の茶羅つぽこと、醉ひどれ詩人ヹルレーヌの純情主義と、デクインジイの阿片耽搦とを混ぜ合せた、一個の不思議な人格である。總括して言ふならば、彼は多分に東洋的な風格を帶びて居るところの、一つの典型的なデカダンである。デカダンである故に、彼は阿片食ひの夢に搦れ、ダダイズムに誘惑され、老子の虚無思想の無爲を愛し、スチルネルの自我に執し、蜀山人の逃避を求め、そして尚ヹルレーヌの純情センチメンタリズムとに献身するのだ。
確かに朔太郎の言うようにデカダンの香りもする辻潤のタダイズムは表面こそ脆弱に見えるが芯では思想を突き詰める探求に満ちている。それが翻訳の方向性にも出ている。彼は正面切ってはその情熱を主張しない。俺だ俺だと言わない。それはある面で僕は学者ではないというあくまで中立を保つような謙遜さにあると感じる。そういったいつも自分は在野に在るという姿勢も好ましい。「螺旋道」の目次を見ると彼の翻訳は常に「虚無」というもののスタイルを求めている。
デカッサァス(デカッサス)「刹那」「芸術上のアイロニイ」「新悪、不真面目」「近代性とデカダンス」「嘲笑者」
ヒュネカア(ヒュネカ)「螺旋道」「月狂反逆者」「閃光」
マラルメ「忘れられた頁」
アラン・ポウ(エドガー・アラン・ポー)「影」「家具の哲理」(ポーの作品?)
エァマスン(エマーソン)「たんたらす」
バルザック「無神論者の供養」
エンマ・ゴルドマン「フランシスコ・フェラアと近代学校」これは伊藤野枝のために訳したのでしょう
レオバルデ「自然と氷島人との対話」
グゥルモン(グールモン)「想界漫歩」
レオン・シェストフ「ハィンリッヒ・ハイネ」
ブレィズ・サンドラァル「虚無の対蹠に於いて」

蓮の花咲き始めた今朝の内沼
辻は,マックス・シュティルナー「唯一者とその所有」の訳を何回も試みている。これは難しい本ですがまず大杉栄が1912年に紹介しています。辻は32歳の1915年にまず「万物は俺にとって無だ」という序文を訳しています。そして3年後1918年には人間編を全訳して1920年に「敬愛する武林無想庵兄に捧ぐ」として出版している。この著作は思想的にも衝撃的な面を持っていただろうと思われます。ヘーゲルの弁証法の運動性を解体すると観念論は全くの無と帰する畏れがありました。シュティルナーは運動性を止め,ヘーゲルの飛躍を止め,残るだろう自己を徹底的に解体していきました。その結果は「己は創造的虚無」と出ました。この場合「虚無」とは自己をゼロ地点まで降下させる行為です。そのゼロ地点に立つ自己は依って立つものが無い点で全くの自由なのです。このゼロ地点が,つまり「無」からスタートして万物が創造されていくのだと思われます。「己は無二だ」ということはすべての不純物を取り払った自己の裸の姿です。
このように辻潤は「虚無思想」を徹底的に突き詰めようとするポジティブな思想探求者でした。
ただ生きることを面倒くさがる怠惰な生活者ではなかったと思います。