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ダダイスト辻潤 その9-虚無思想について-

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蓮の花咲き始める今朝の内沼

辻潤の書いたものを読めば誰しも彼の妙に肩の力が抜けた文章に気負いのない気軽さを感じる。達観したような彼の語り口はどこか細野晴臣の音楽に通じるような遊びにも似た心地よさがある。それを虚無主義と言えば,なるほどとも思われる。彼を批判する者は坂口安吾のように辻潤を「日本のダダイズムの脆弱性を体現している」と決めつける。そのようにすぐレッテルを貼り,排他性を誇ることは権威の擁護者なのである。そんな中で萩原朔太郎は辻潤を正しく見ているように感じる。「辻潤と螺旋道」で述べている。
辻潤といふ存在は何だらうか。彼はスチルネルの紹介者でアナアキズムの導入者で、ダダイズムの媒介者で、虚無思想の發明人で、老子の敬虔な學徒であり、その上にも尚蜀山人の茶羅つぽこと、醉ひどれ詩人ヹルレーヌの純情主義と、デクインジイの阿片耽搦とを混ぜ合せた、一個の不思議な人格である。總括して言ふならば、彼は多分に東洋的な風格を帶びて居るところの、一つの典型的なデカダンである。デカダンである故に、彼は阿片食ひの夢に搦れ、ダダイズムに誘惑され、老子の虚無思想の無爲を愛し、スチルネルの自我に執し、蜀山人の逃避を求め、そして尚ヹルレーヌの純情センチメンタリズムとに献身するのだ。
確かに朔太郎の言うようにデカダンの香りもする辻潤のタダイズムは表面こそ脆弱に見えるが芯では思想を突き詰める探求に満ちている。それが翻訳の方向性にも出ている。彼は正面切ってはその情熱を主張しない。俺だ俺だと言わない。それはある面で僕は学者ではないというあくまで中立を保つような謙遜さにあると感じる。そういったいつも自分は在野に在るという姿勢も好ましい。「螺旋道」の目次を見ると彼の翻訳は常に「虚無」というもののスタイルを求めている。
デカッサァス(デカッサス)「刹那」「芸術上のアイロニイ」「新悪、不真面目」「近代性とデカダンス」「嘲笑者」
ヒュネカア(ヒュネカ)「螺旋道」「月狂反逆者」「閃光」
マラルメ「忘れられた頁」
アラン・ポウ(エドガー・アラン・ポー)「影」「家具の哲理」(ポーの作品?)
エァマスン(エマーソン)「たんたらす」
バルザック「無神論者の供養」
エンマ・ゴルドマン「フランシスコ・フェラアと近代学校」これは伊藤野枝のために訳したのでしょう
レオバルデ「自然と氷島人との対話」
グゥルモン(グールモン)「想界漫歩」
レオン・シェストフ「ハィンリッヒ・ハイネ」
ブレィズ・サンドラァル「虚無の対蹠に於いて」


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蓮の花咲き始めた今朝の内沼

辻は,マックス・シュティルナー「唯一者とその所有」の訳を何回も試みている。これは難しい本ですがまず大杉栄が1912年に紹介しています。辻は32歳の1915年にまず「万物は俺にとって無だ」という序文を訳しています。そして3年後1918年には人間編を全訳して1920年に「敬愛する武林無想庵兄に捧ぐ」として出版している。この著作は思想的にも衝撃的な面を持っていただろうと思われます。ヘーゲルの弁証法の運動性を解体すると観念論は全くの無と帰する畏れがありました。シュティルナーは運動性を止め,ヘーゲルの飛躍を止め,残るだろう自己を徹底的に解体していきました。その結果は「己は創造的虚無」と出ました。この場合「虚無」とは自己をゼロ地点まで降下させる行為です。そのゼロ地点に立つ自己は依って立つものが無い点で全くの自由なのです。このゼロ地点が,つまり「無」からスタートして万物が創造されていくのだと思われます。「己は無二だ」ということはすべての不純物を取り払った自己の裸の姿です。
このように辻潤は「虚無思想」を徹底的に突き詰めようとするポジティブな思想探求者でした。
ただ生きることを面倒くさがる怠惰な生活者ではなかったと思います。
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ダダイスト辻潤 その8-同志セーガン(青顔)-

ニアミスs
かすめる  やっと晴れて梅雨明け宣言が出ました。今夜のをかすめるようにISSが通過していきました

辻潤がお帰りモネの宮城の気仙沼まで何回もやってきたのは菅野青顔がいたからでした。そして石巻にも松山巌王がいたからでした。辻が言うには「ここには都会的な雰囲気がある」と気仙沼の人が気に入ったからでした。と同時に落合直文らがつくった文化的な土壌があった時代でした。
何よりも本が好きで好きでたまらない菅野青顔でした。2万冊の蔵書があったと言います。辻もまたそうでした。本が好きで好きでたまらない。二人とも本さえ読んでいたら幸せなのです。同志をみつけたように二人が出会ったことは辻にとっても幸せだったでしょう。今日は菅野青顔の手書きの蔵書目録を見ます。菅野こそ気仙沼が生んだ本文化の結晶とも思える人物です。彼のいる図書館に通った人達は本を読む楽しみを胸深く吸い込んで育っていったでしょう。辻が好きになれる人物でした。

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菅野青顔全集

所謂辻潤は伊藤野枝に捨てられた男です。
しかし彼は伊藤野枝について悪口ひとつ言いませんでした。逆に野枝にもっと早くチャンスを与えられなかった自分を情けない男だと言います。野枝さんは成長したのだと言います。捨てられた男があまりそんなことは言わないはずです。それが,その性格の良さが辻の良さなのです。人は世間体のことばかり言います。どこかで身分や権力を持つものに同調するのです。辻の純真さはあらゆる権力からもあらゆる身分からも,社会のシステムからも自由である生き方から来ています。確かに行動として革命を求めた伊藤野枝にとっては不甲斐ない男と映ったのでしょうが・・・。実は辻は心から本を愛する穏健派なのです。精神の自由を体現した生き方を終生貫きました。その姿は無骨過ぎたとも言えるでしょう。
実は菅野青顔も辻と似たところがありました。
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菅野青顔 昭和40年(1965) 何だか辻と雰囲気がよく似てきました

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菅野青顔自筆の蔵書目録です。

彼の蔵書目録は好きな辻潤から始まります。NO1が辻潤翻訳の「天才論」から始まり,6ページすべて辻の本だけで埋まります。ちなみに2番目に出てくるは武林無想庵です。辻が好きだった友だちです。

ただただ本を読むことが好きだけで出会って,親交を深めた二人。辻潤と菅野青顔。わたしは二人の友情がとても羨ましく映るのです。

タダイスト辻潤 その7-宮城に飛んできた天狗-

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夕暮れの光

辻潤が道をおらび歩いたり「おれは天狗だ」と言って屋根から飛び下りたりしたのは,昭和7年(1932)3月。彼が49歳のことでした。
斎藤茂吉の診察を受けてしばらく入院することになりました。

今日は,その天狗の辻潤が実は宮城県に飛んできていたという話です。
まずは歌人加藤克巳の歌です。

唐突に辻潤の石浮かび来て空空(くうくう)くろろん春のあけぼの

宮城県気仙沼観音寺に辻潤の追悼記念碑,「陀仙碑」が建立されたのは昭和25年8月24日のことだそうです。気仙沼では戦後の昭和22年から辻潤の命日昭和19年11月24日に合わせ,「陀仙忌」が続いているのだそうです。もう50回を超えているそうです。気仙沼には菅野青顔という辻を慕う好人物がいました。辻は昭和16年の年越しも気仙沼の菅野青顔のもとで過ごしました。また仲良しは石巻に松山巌王という住職がいました。いよいよ戦争という中で辻は宮城に疎開していたと言ってもいいでしょう。

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辻は,亡くなる昭和19年も3月から6月末日まで石巻の松巌寺松山巌王に身を寄せていました。
彼は天狗ですから宮城までは一っ飛びです。

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一番左菅野青顔 左から二番目口ひげの男が辻潤(気仙沼市史より)

コロナが明けたら,気仙沼に行って辻の足跡を訪ね歩きたいものです。

ダダイスト辻潤 その6-春と修羅出版の流れ-

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海の彼方の天の川

一体どういう経緯で「春と修羅」は東京の関根書店から発行されることになったのでしょう。
「春と修羅」発行元が関根書店であり,その主が関根喜太郎です。そして翌年,この関根書店から辻潤は「虚無思想研究」を出しています。そしてその「虚無思想研究」に宮沢賢治の詩「冬(幻想)」が掲載されます。まるで関根書店の関根喜太郎を軸として辻潤と宮沢賢治が出会ったといってもいいかもしれません。

答えから言うと「関根喜太郎-尾山篤二郎-歌人尾山の弟子,関徳弥-徳弥と親戚の賢治」という流れでしょう。
関根書店の主人関根喜太郎は歌人尾山篤二郎と自然詩社編集所に一緒に勤めていた時代があった。関根は尾山の同人誌に何回か歌を投稿して知り合いだった。一方,関徳弥は宮沢賢治とは「いとこおじ」という関係の親戚筋に当たり,賢治の影響で短歌を始め,尾山篤二郎門下にいました。関徳弥は,賢治の「春と修羅」刊行について,全面協力をしていたので,師である尾山にどこかいい版元はないかと相談を持ちかけたのです。尾山は考えた結果,関根喜太郎は出版社を経営しているからいいのではないかと薦めた。こういう流れではないかと思います。

では,辻潤はどのように「春と修羅」を手に入れたのでしょうか。
自分で見つけて手に入れたのでしょうか。それとも誰かから勧められて手に取って読んだのでしょうか。それとも贈られたのでしょうか。何とも分かりません。とにかくも発売されて割合にすぐ読んだことは確かです。
この辺りは予想することしかできませんが,まず関根喜太郎と辻潤が知り合いだったと考えます。

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今日714日夕方のと金 直近の記事の写真と比べると随分離れましたね

関根喜太郎は和歌をやっていて,「荒川畔村(あらかわはんそん)」と名乗っていました。「本名・関根喜太郎、別名康喜」です。ですから尾山の主催する雑誌にも和歌を投稿したり,「大正七年頃には新しき村に加わった後、堺利彦の『新社会』や本連載878の土岐哀果の『生活と芸術』などに短歌を投稿し、同九年には日本社会主義同盟に参加し、それとパラレルに出版界に入ったようだ」(ここ引用)尾山篤二郎を介して関根喜太郎と関徳弥はつながるのです。そして辻潤と関根喜太郎は堺利彦を介して知り合いだった可能性もあります。辻潤は関根書店で関根喜太郎と話をする中で積んであった最新刊の「春と修羅」を偶然手に取ったと考えられないでしょうか。翌年,辻潤は関根書店で「虚無思想研究」を出し,暫くして萩原朔太郎と組んで「ニヒル」も出します。辻にとって関根喜太郎はいろいろ注文しやすい,頼みやすい間柄だったのでしょう。

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道の奥 毎日道の写真ばかり撮っています


ダダイスト辻潤 その5-関根喜太郎とは何者-

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昨夕12日のMA2.4のと光度-3.9等の金 
夕方,雷雨の後に雲の切れ間から細いを見た
なんか7に入って初めてを見たような気がする

前の記事でも述べたように,わたしが辻潤のことに興味を持ったのは,宮沢賢治の春と修羅の出版からわずか2ヶ程度で読売新聞に取り上げていたことである。今更に辻潤の読むことや本に対する嗅覚は実に優れていたと思う。そして彼の審美眼は確かで,当時の無名な宮沢賢治であっても,有名な谷崎潤一郎であっても,公平に読む人であることである。辻潤にとって大切なのは読んだ作品の完成度である。宮沢賢治の特殊性や独自性を的確に見抜き,模倣ではないどこまでも緊張の続く表現に心底驚いたのである。

この大正から昭和の時代は言わば日本の文筆表現の疾風怒濤の時代になっていた。所謂同人誌ブームの炎が全国で燃えさかっている時期と一致する。これは活版印刷の普及によってである。ガリ版書きの時代は終わり,世の表現ツールは一気に活字になったことである。現代で言えば,手書きからワープロになったような大きな表現ツールの進化であった。しかしこの同人誌は3号続けば御の字といわれる程であった。編集方針やテーマや原稿集めなど殆ど資金難の中で行われており,原稿依頼をしても執筆者には現物支給の献本で終わらせるのが巷では殆どであったろう。

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昨日のさんぽ道


さて「春と修羅」は大正十三年(1924)420日発行で,発行所は東京京橋区南鞘町十七番地関根書店関根喜太郎,印刷者岩手県花巻川口町百九番地吉田忠太郎。自費出版,千部発行と書いてある。

では「春と修羅」の発行所である関根書店はどのような経緯で決まったのだろうか。
そして翌大正十四年,辻潤の主催する「虚無思想研究」から原稿依頼があって賢治は第一巻第6号に「冬(幻聴)」を送りました。
さてこの「虚無思想研究」ですが,発行人が「関根喜太郎」なのです。
前年「春と修羅」を出した,あの関根書店の関根喜太郎なのです。
宮沢賢治の「春と修羅」,一年違いで辻潤の「虚無思想研究」,それをつなぐものが関根喜太郎。

一体,関根喜太郎とは何者なのでしょうか。