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十日夜(とおかんや)と三の月(再掲)

十日夜-2gs

十日夜(とおかんや)三の月 ISSも入れました  撮影場所は,気仙沼線 和渕-前谷地
2017年11月の写真と記事を使います

来週の11月8日(火)の皆既月食を前に,カレンダーを確かめてみたら「十日夜(三の月)」と書いてありました。今日は,旧暦の10月10日に当たっており,月齢10なので,十日夜の月で,「十日夜」は「とおかんや」と読むのだそうです。この日,田の神様は山へ帰っていく日で主に東日本で「十日夜」の祭りをしていたということなのです。

旧暦の8月15日  今年は9月10日 「十五夜」と呼び中秋の名月        
旧暦の9月13日  今年は10月8日 「十三夜」と呼び,十五夜に続く「後の月」     
旧暦の10月10日 今年は11月3日 「十日夜」と呼び,「三の月」そして神様は山へ帰る

では「三の月」は何を意味しているのでしょうか。月見でもしていたのでしょうか。まず十五夜で一度目のお月さんを拝んで,二度目にに十三夜を拝んで,そして三度目に拝む月なので「三の月」なのかなと思いました。

さて週末の4日,5日は新田地区市民文化祭です。
8日の皆既月食が見られるようにとお天気祭をする意味で,私は月の写真特集の写真を展示します。
よかったらおいで下さい。景品もありますよ。


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特集 暦を読む-遊行する神々-

暦
今年(2021)辛丑の暦

江戸時代からずっと暦の形式は変わらず現在でも写真のような形式をが取られています。
これは安倍晴明の「ホキ内伝」にある牛頭天王が妻を娶りに南の海に出掛け,8大龍王の沙掲羅の三女の頗梨采女(はりさいじょ)を娶り,やがて八人の子どもを産み,方位を司る八将神になったものです。この八人がそれぞれ方位に位置付けられています。
牛頭天王が金神(こんじん)となり,天道神,またスサノウノミコトになります。また牛頭天王の妻,頗梨采女は歳徳神(年神)となり福をもたらします。この歳徳神がスサノウノミコトの妻,稲田姫となります。
では暦に書いてある順にその神さまが五行の「木・火・土・金・水」の何に該当するのかを見てみます。
太歳神-木星
大将軍-金星
太陰神-土星 太歳神の妃
歳刑神-水星
歳破神-土星 太歳神-木星の反対側にいる
歳殺神-金星 
黄旛神-食を起こす羅睺星(らこうせい)土を司る空想上の星
豹尾神-いつも黄旛神の反対側にいる計都星(けいとせい)。これも想像上の星
これらの方位を司る神々が恵方や忌方を示しています。
吉方とされる歳徳神は今年は南南東に配されていて,2月に恵方巻を食べたのは歳徳神のいる南南東を向いて食べたのでした。
さて,これらの「木・火・土・金・水」という五元素は五行にそのまま配当され,天体の惑星にもなります。「木星・火星・土星・金星・水星」です。これにもちろん「太陽・月」が入り,中国の天文学では紀元前から観測を続け膨大な天体データを取り続けてきました。これらのデータから相似性を探して規則性を見つけたりしてきました。
史記には次のような文があります。
土星が水星と会合すると五穀の実りは豊かだが,事はうまくゆかず,敗軍があることになる。だからその位置に相当する国は大事を行うことができぬ。土星が出る時は領土を亡失し,土星が入る時は土地を獲得する。金星と合する時は流行病や内乱があって,土地を敵に取られる。上p251平凡社
多分この史記の記述も過去のデータから共通性を見いだして,このように書いているのだろうと思います。

そこで土星と水星が会合する天文現象がどの程度あるのか,天文ソフトで調べてみました。
期間は西暦1500年~2050年までの550年間で検索しました。会合時の離角は一度以内にしました。すると「1403/02/14 06:22 0゚51'」から「2049/02/05 19:07 * 0゚24'」の合まで239回ありました。そのうち地平線の下で起こるものが121回あります。下の写真のように土星と水星が会合します。2018年1月13日の最近あった合を軌道と一緒に出してみました。
水星土星合セツメイ
土星と水星の合
550年間で239回ということは単純に見えなくても2年に一回は土星と水星の会合が起きているという計算になり,多いようにも思えます。また物事が大きく変化すると言われる年「癸酉」の当たり年と重なる確率はどうかと調べたら,たった一回1801年に起きた土星と水星の会合だけが一致するだけでした。その他の干支とも会合する年とを数えたげてみましたが,特別に多い干支は見つかりませんでした。天で起きることは地にも影響し,人にも影響するという「天・地・人」の三才説は中国の天文の思想ですが,やはり彗星は妖気星と言ったり,日食や月食を不吉なことと考えたことから出ているかもしれません。その辺の真偽は私にも分かりません。

では史記の文の終わりに出てくる土星と金星との会合はどうでしょうか。

水星金星j
土星と金星との会合  今年 2021/02/07 09:00 0゚54'に起きた合を出してみました。

同じ条件で検索すると550年間で269回あります。これも地平線下や昼間で見えない合も入れてあります。やはり2年に一回平均で土星と金星の会合は起きていることになります。流行病や内乱が2年に一回平均で起きているとはこの世の中では安心して生きてはいられない程の頻度です。
昔からの暦は毎年方位が変わるわけで,更に大将軍などは3年間も同じ方位に留まっているように決められています。これではいつまで待っても中々事が起こせません。そこでやがて恐い神々は遊行して歩くようになりました。恐い神様が移動するわけですからいなくなればその方位は一定期間吉方に変わるわけです。
暦をよく見ていくと一体いつからが吉なのか,分からなくなるほど複雑です。

特集 暦を読む-シーボルトお気に入りの暦2-

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ポーランドボート選手の練習した長沼

昨日はシーボルトがオランダに帰り,書いた本「日本」で紹介した天明三年の南部絵暦(田山暦)を紹介しました。この暦はすべて絵で描いてあるので文盲の人であっても理解できると言われ,通称「盲暦」と言われていました。下の写真がシーボルトの写した暦です。多分シーボルトは橘南谿(たちばななんけい)の「東遊記」を見て,この南部暦を見つけたのではないかと思います。「東遊記」の「蛮語(岩手)」にこの天明三年の南部暦が大きく紹介されていたからです。

DSCF0662sシーボルト
シーボルトが書き写した絵暦

よくよくシーボルトの本を読むと,彼の書き写す描写力と速さはすごいです。さすがシーボルトです。
ただ,絵暦の専門家が調べるとどうも誤解して書いている箇所が何カ所かあると言います。例えば八月と九月の記号,月を連結する紐の左端が交差している,六月の初伏(しょふく)の日付が二十日なのに十日としている等の写し間違いがあるのだそうです。それにしても誰かから説明を受けたのでしょうが暦注などはかなり理解しています。
今日は先回の暦の続き後半の八月から十二月の部分を説明付きで見てみましょう。かなり面白い絵もあります。

DSCF0625-6s説明付き
天明三年南部田山暦後半

特に傑作の絵はまず「二百十日」です。見て下さい。
DSCF0625-6二百十日
二百十日は二十四節気にも七十二候にもない用語です。聞くところによると渋川春海が漁師から聞いて海が荒れやすい「二百十日」という言葉を暦に入れたのが最初だといいます。この二百十日はお金で示されています。百文の束が二つあって「二百」で,あと一文銭が十枚あって合わせて二百十日なのです。ちなみに日付は六日と読めます。
もう一つ紹介します。「冬至」です。
DSCF0625-6冬至

「冬至」を表すのにまず「豆腐」を書きます。この四角形はとうふなのです。そしてじを「ち」と読ませて「とうじ」と読ませるのです。おもしろい。もっとリアルさを出すために赤で「血」の色を出して色でも訴えます。この暦が東北の天明の大飢饉の最中に書かれていたと思うと苦しい生活でも笑顔を絶やさないようにしたいという民衆の心が痛いほどに伝わってきます。昔の人は偉い。

特集 暦を読む-シーボルトお気に入りの暦-

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天明三年癸卯(1783)田山暦(盲暦) 

文政六年(1823)七月に来日した27歳のシーボルトは日本に5年半にわたって滞在して文政十二年十二月に国外退去になった。国外に秘密事項を持ち出そうとしたことがその理由だった。いわゆるシーボルト事件である。
次々とオランダに送った日本を紹介するものの中に日本の暦が2種あったと後の「日本」の中でシーボルトは紹介した。文政十一年(1828)の暦と天明三年癸卯田山暦(南部絵暦)の二つである。
天明三年癸卯田山暦(南部絵暦)は,すべて絵で描かれた実にユニークな暦でした。シーボルトも一目見て気に入ったのでしょう。早速写してそしてその説明を求めて暦注も付けてあります。
さて,シーボルトは天明三年癸卯田山暦(南部絵暦)を一体どこで見たのでしょうか。予想ですが橘南谿(たちばななんけい)の「東遊記」を見て,この南部暦を見つけたのではないだろうか。「東遊記」の「蛮語(岩手)」にこの天明三年の南部暦が大きく紹介されていたからである。シーボルトが日本を知るために寛政7年初版のこの本を読んだと考えられる。大変面白く感じただろう。では天明三年の南部絵暦とはどんなものだろうか。さっそく見てみましょう。

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天明三年癸卯(1783)田山暦(盲暦)一月二月三月を拡大したもの

おもしろいですね。すべて絵で書いてあります。
絵の説明を入れてみます。
DSCF0624-qw説明付き
天明三年癸卯(1783)田山暦(盲暦)説明入り

二月十六日の月食おもしろいですね。
月食は,月が病気になって鉢巻きをしてうんうん言って寝ている状態なのです。月の上のごまつぶ七個は「食分が七」という意味です。工夫していますね。
シーボルトならずとも見た人は皆おもしろいと思いますよね。

特集 暦を読む-改元の仕方-

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伊豆沼は台風の影響も少なく,蓮の花もかなり咲いてきました

今日は改元について考えます。
現在は元号はもちろん令和ですが,推古天皇から今までは254回の改元がなされたようですが,その改元の理由は様々です。
一番多いのはやはり天変地異です。二番目は疫病などです。彗星などが不吉な徴候と思われて改元された例も五つほどあります。その中に「甲子(きのえね)」と「辛酉(かのととり)」が16例ずつあります。つまり,改元する場合「甲子(きのえね)」と「辛酉(かのととり)」の年がよいという考えがあったということです。まず「甲子きのえね」の年の改元を集めました。

甲子改元
甲子の年に改元した例

まず「甲子」の年は,60通りある干支の最初に当たるものです。「甲子」は物事の始まりとして吉だということです。ですからよく改元されるわけですね。甲子園球場も甲子の年につくられたのではないでしょうか。
では次に出てきた「辛酉(かのととり)」はどうなのでしょう。この「辛酉(かのととり)」の年は王朝が交代する大変革の年と言われています。ですから改元して新しい波をつくることで安泰にしようと考えるのだと思います。

辛酉改元
辛酉(かのととり)の年に改元した例

スタートを祝う「甲子」の場合は目出度いことなのでよいのですが,「辛酉」の方は問題です。
いずれにしても改元した月日が似ていませんか。「甲子」でも「辛酉」でも改元したのが2月下旬それも終わりに近い日にちです。これはどうしてでしょうか。60通りある日にちの干支がこの2月の終わりに一巡する時期に当たるのです。60年に一回訪れる甲子の年の
日にちの干支が一巡する時期をねらって改元が行われるのではないでしょうか。新しいスタートにふさわしい気持ちが現れる改元です。
ではもう一方の「辛酉(かのととり)」はどうなのでしょうか。「辛酉((かのととり))」は60通りある干支の58番目に当たり一巡する直前の干支という位置です。まさに終わりを飾る暦上でも変革が見えるのが「辛酉(かのととり)」の年なのです。ちなみにこの「辛酉(かのととり)」の前年が民間信仰で有名になった57番目の干支「庚申(かのえさる)」です。この「辛酉(かのととり)」「庚申(かのえさる)」どちらも同気で「陰・陰」の「金・金」なのです。日にちの「辛酉(かのととり)」「庚申(かのえさる)」は八専に当たり,何もかもがうまく行かないとされる日に当たります。こうしたことで改元への好機に当たると思われます。