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特集 怪異譚夜話 柳田國男の神隠し

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林の入口

柳田國男は優れた学者であるが,自身が子どもの頃に神隠しに遭ったり,不思議な体験をしたりしている処が私には気に入っている。そうした怪異を体験してきたからこそ彼は市井の伝説や噂を一笑に伏さず,むしろ寄り添う温かみを持っているようだ。そうした幻想を愛する温かみはもう「草もみじ」(明治30)という彼が二十二才に「文学界」にペンネーム大峰古日で書かれた抒情性にもよく表われている。山に迷い込んだ男は沼の主とも思われる美しい少女に出会うのである。こういった幻想味は幼い頃を書いた「故郷七十年」の中に彼の出発点としてたくさんのエピソードがある。「ある神秘な暗示」では屋敷の隅の繁みにある小さな祠の下から美しい玉を見つける。すると白昼の空に沢山の星が現れたこと。「神隠し」では年にも満たない彼が突然憑かれたように「神戸に叔母さんがいるか」と聞いて,突然家からいなくなる話だ。幼かった彼はまさしくそうした異界への入口に立って育った。平田篤胤の「仙境異聞・勝五郎再生記聞」のような世界が彼の前に開けていたのである。そうした彼が「近世奇談全集」(明治36)を編むのは当然のことで「遠野物語」に辿り着く。

近世奇談全集
近世奇談全集

怖い話もよいが,私は彼の書くどこか堅い文章から滲み出る一人の市井人の哀しみというものがひっそりと語られていることが殊に好ましい。以前にも書いたことだが,例えば「浜の月夜」という昭和初めに書かれた短編があります。場所は岩手県陸中八木駅の南に小子内という小さな漁村です。彼はこの数件しかない海沿いの集落の清光館という旅館に泊まりました。ちょうど盆踊りが行われる夜でした。満月が静かな海から昇ります。女達が「しょんがえ」という送り盆歌を何回も繰り返して歌いながら朝まで踊り続ける。

なにヤとやーれ
なにヤとなされのう

訳すと「何なりとしてもいいよ
どうなりともされるがよい」となるでしょう。

わたしのことをどうしてもよいのよ。
あなたの好きにしていいの

この日本の片隅の浜辺の村で,女達は思うままにならないこの人生を波の音を聞き,満月の光を浴びて歌い上げます。
この光景に柳田國男はこう書きます。
「この短すぎる歌詞は羞や批判の煩わしい世間から,ただ遁れて快楽すべしというだけの,浅はかな歓喜ばかりでもなかった。忘れても忘れきれない常の日のさまざまな実験(労働や人の営み),遣瀬(やるせ)ない生存の痛苦,どんなに働いてもなお追ってくる災厄,いかに愛してもたちまち催す別離」

朝-6s


6年後,もう一度あの光景を見たいと柳田はこの村を訪れた。ジュネーブから帰ったばかりだった。
しかし,6年前に泊まった清光館という宿屋はなかった。一生懸命奉仕してくれた宿の親父は漁に出たまま帰らぬ人となり,その妻は
働きに街へ出て,子どもは他の家にやられた。

柳田は小子内のあの時と変わらない明るい砂浜にしばらく立ち尽くしていた。


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特集 怪異譚夜話 霧布(し)く夜

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夜明け

福二は,遠野から三陸の浜辺,田之原に婿に行って二人目の子どもに恵まれた。ちょうど二人目の子どもが生まれた年に明治三陸大津波に見舞われて妻を失った。
その夏至も近い6月15日は日も長く,夕刻の明るみが空にまだ漂っていた。三日月を一日過ぎた月が西の山の端にかかろうとしている。最初は海の奥からドーンドーンと大砲を撃つような音が聞こえた。気付くと,目の前の波がするすると引いていく。このような急な波の引き方は尋常ではなかった。すぐ妻と二人の子どもを連れて月を目当てにして山に登った。もう少しで尾根というところで振り返ると夜のほのかな光で海が巨大な山のように膨れ上がって尾根をも超える高さで迫ってくるのが分かった。気付くと妻がいない。子どもの着物などを取りに戻ったか。

福二は妻がいつでも戻れるように,以前のところにまた粗末な小屋を立てた。
そしてまたたく間に一年が過ぎた。妻は帰ってこなかった。津波に呑まれたとあきらめるしかない。夏になろうとしているのに毎夜霧が布(し)かれ,寒い風が吹く。冷害を知らせる山背(やませ)である。風に踊り狂うような霧の中に月がぼんやりと浮き上がっている。福二は便所に起きて波打ち際に出た。霧が少し晴れると,月の光が遠くの渚まで写しだす。また霧の布(し)き始めるや,その霧の中よりぼんやりと男女二人が波打ち際沿いに歩いてくるのが見えた。月の光にぼんやりと浮かび上がった女の顔を見て福二は跳び上がるばかりに驚いた。男と連れ添って微笑みながら行く女は,まさしく死んだ福二の妻である。男の顔は知らない男だった。二人は福二の目の前を通り過ぎ,波音にかき消されるようにやがて小さくなっていった。福二は思わずその跡をつけて,はるばると船越村の方に行く﨑の洞ある所まで来た。福二はいよいよ思い切って妻に声をかけた。妻の名を呼ぶと,妻は振り返って福二を見てやがてにこりと微笑んだ。男はと近くからよく見れば同じ村の者でやはり津波で死んだという男であった。福二が婿に入る前に互いに深く心を通わせていた男がいたと噂に聞いていた。その男であった。
「おれと一緒になって,子どもも待っているというのに。子どもは可愛くはないのか」
女は少し顔の色を変えて俯いて泣きはじめた。
死んでしまった者に帰ってこいという酷いことも言われないものだと,悲しく情けなくなり足元に目を落として福二も泣いた。顔を上げ気付くと,男女の後ろ姿はもう小浦(おうら)へ行く道の山陰に廻り見えなくなろうとしていた。少し追いかけてみたが,ふと死んだ者を追いかけるものではないと心付いた。そのまま夜明けまでその場に立ち尽くして考え,しらじら朝になりてふと我に帰った。福二はその後病気で長く床に就いた。

この文の原拠は遠野物語第九十九話です。


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特集 怪異譚夜話 志賀直哉「剃刀」

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ダブル ファンタジー

今日の「怪異譚夜話」で紹介したいのは志賀直哉「剃刀」(明治43)です。志賀直哉はこの時26才で,前年武者小路実篤と白樺を創刊し,大学も退学した年でした。私はこの作品を確か旺文社文庫で読みました。この結末は私にはとてもショックでした。もともとロマン主義を通過した私の読書はどこか夢のような雰囲気の,異界の美しさを好んでいました。私が今まで紹介してきた「怪異譚夜話」もそうした私のフィルターを通してのものです。しかし「剃刀」はそうした私の好みとはまるで対極にあるリアルな現実の暗闇を抉り出していました。まさに現実の不条理を喉元に突きつけられたようなショックでした。そのショックは丁度桐野夏生「OUT」を読んだ後の総毛立つ生々しいリアルのおぞましさと同じでした。「小僧の神様」「范(はん)の犯罪」と,志賀の視点は実に社会性に関連づけて冴え渡っています。例えば「范(はん)の犯罪」の創作では彼自身が従弟の自殺事件から着想を得ているそうです。

支那人の奇術で、此小説に書いたやうなものがあるが、あれで若し一人が一人を殺した場合、過失か故意か分らなくなるだらうと考へたのが想ひつきの一つ。 所がそんな事を考へて間もなく、私の近い従弟で、あの小説にあるやうな夫婦関係から自殺して了つた男があつた。私は少し憤慨した心持で、どうしても二人が両立しない場合には自分が死ぬより女を殺す方がましだつだといふやうな事を考へた。気持の上で負けて自分を殺して了つた善良な性質の従弟が歯がゆかつた。そしてそれに支那人の奇術をつけて書いたのが「范の犯罪」である。(by Wiki「范の犯罪」)

志賀自身がこうした現実に根付く社会性を創作のテーマにしていることは確かだと思う。

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栗駒山 展葉のとき 今年「震災から10年-今ここにいる私-」写真展から

今私の手元に最高裁の上告棄却の新聞の切り抜きがある。新聞の日付はないが2004(平成16)年1月22日の記事のようだ。
ある日,女が運転する車が岸壁から車ごと海に転落した。女は助かったが供述では自殺を強要された末の車ごとのダイブだった。女は自殺するように精神的に追い詰められた果ての自殺未遂だった。自殺を強要した男は現場にはいなかったが,自殺するしか方法がないと精神的に追い詰めていったことが殺人未遂罪に適用されるかどうかという点が争点だった。最高裁は「他の行為を選択することができない精神状態に陥らせ,死亡する危険の高い行為をさせたのだから,殺人の実行行為に当たる」と殺人未遂罪に当たるとして」被告側の「転落は女性の自由意志でなされたもの」という主張を覆した。

私はこの事件が相手を精神的に追い詰めて死の実行まで至らしめるという事実がどうにも怪異で仕方がなかった。まさに現実は死を越えるほどリアルなものとなる。どうやれば相手を精神的に死まで追い詰めることができるのか。そのことが不思議だった。

では志賀直哉「剃刀」の主人公の床屋の芳三郎はいったいどうして剃刀を客の咽に突き立てるようなことになったのだろう。最初具合の悪い芳三郎はふらふらとして寝入っている若い客の顔剃りで手元が狂い薄く切ってしまう。血が薄く,だがやがてはっきりと浮かび上がる。
嘗て客の顔を傷つけた事のなかつた芳三郎には、此感情が非常な強さで迫つて来た。呼吸は段々忙しなくなる。彼の全身全心は全く傷に吸ひ込まれたやうに見えた。今はどうにもそれに打ち克つ事が出来なくなつた。……彼は剃刀を逆手に持ちかへるといきなりぐいと咽をやつた。刃がすつかり隠れる程に。若者は身悶えも仕なかつた。
 一寸間を置いて血が迸しる。若者の顔は見る/\土色に変つた。
 芳三郎は殆ど失神して倒れるやうに傍の椅子に腰を落した。総ての緊張は一時に緩み、同時に極度の疲労が還つて来た。眼をねむつてぐつたりとして居る彼は死人の様に見えた。夜も死人の様に静まりかへつた。総ての運動は停止した。総ての物は深い眠りに陥つた。只独り鏡だけが三方から冷やかに此光景を眺めて居た。

剃刀を逆手に持ち替え,最後はこれまた逆に写る鏡越しのショットで物語が静かに終える。
物語はなんという現実を超えたリアルを保証しているのだろうか。


追伸
10月から伊豆沼・内沼サンクチュアリーセンター新田館で読書会を開きます。
本のことが好きな方,おもしろい本を探している方,コメント欄,拍手コメント欄からご連絡ください。こちらから日程等をお知らせいたします。

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特集 怪異譚夜話 小栗虫太郎

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遠野 佐々木喜善の生家の近くの水車小屋

小栗虫太郎と言ったら「黒死館殺人事件」(昭和9)と誰しも言います。
私もハヤカワで読みました。ドストエフスキーの悪霊を読むような息苦しさにあえぎながら読みました。その読みにくさは視界狭窄に陥った文章の描写にあると確信したのは,ヘルツォークの映画を観たときの息苦しさと同じだったからでした。ヘルツォークの「アギーレ/神の怒り」はまさに虫太郎の「人外魔境」の世界の映像でした。アマゾンの密林で揺れる舟にシンクロするキャメラ。密林を中望遠でなめるように永遠に続く映像。ジャングルの中を彷徨うカメラはいつも何かが出てきそうな不安が蜜のように濃密に流れ出していました。中望遠で撮っていますから世界に寄り過ぎて部分しか写しだされません。すると観ている人は不安になります。映像は揺れますし,寄りすぎで部分しか写しだされませんから観ている者は視界狭窄のように感じ,肉体的に苦しむことになります。そしてそのまま肉体的不安をもたらすのです。実は虫太郎の文章スタイルにもこのような身体的苦痛を与える仕掛けが隠されているとしか思えません。このような身体的苦痛をの効果をねらった文章だから読みにくいのです。
ここで私が特に好きな「白蟻」(昭和10)の始めにある植物「オニヤエモグラ」の群生の描写です。大体が「オニヤエモグラ」なんていう植物があるんでしょうか。造語ではないでしょうか。とにかくまず読んでみましょう。読点(。)で/記号を入れて区切っておきます。

わけても、鬼猪殃々おにやえもぐらのような武装の固い兇暴な植物は、ひ弱い他の草木の滴しずくまでも啜りとってしまうので、自然茎の節々が、しだいに瘤こぶか腫物はれもののように張り膨らんできて、妙に寄生的にも見える、薄気味悪い変容をところどころ見せたりして、すくすくと巨人のような生長をしているのだった。したがって、鬼猪殃々おにやえもぐらは妙に中毒的な、ドス黒く灰ばんだ、まるで病んだような色をしていた。しかも、長くひょろひょろした頸くびを空高くに差し伸べていて、それがまた、上層で絡からみあい撚よりあっているので、自然柵とも格檣かくしょうともつかぬ、櫓やぐらのようなものが出来てしまい、それがこの広大な地域を、砦のように固めているのだった。その小暗い下蔭には、ひ弱い草木どもが、数知れずいぎたなく打ち倒されている。おまけに、澱よどみきった新鮮でない熱気に蒸したてられるので、花粉は腐り、葉や幹は朽ち液化していって、当然そこから発酵してくるものには、小動物や昆虫などの、糞汁の臭いも入り混って、一種堪えがたい毒気となって襲ってくるのだった。それは、ちょっと臭素に似た匂いであって、それには人間でさえも、咽喉いんこうを害し睡眠を妨げられるばかりでなく、しだいに視力さえも薄れてくるのだから、自然そうした瘴気しょうきに抵抗力の強い大型な黄金こがね虫ややすでやむかで、あるいは、好んで不健康な湿地ばかりを好む猛悪な爬虫以外のものは、いっさいおしなべてその区域では生存を拒まれているのだった。

なんと6センテンスしかないのです。6センテンスの中にこの情報量です。まさに息詰まる程の密林の如くに身体にまとわりつき,絡み合ってくる文章なのです。1センテンス目だけを抜き出してみます。

わけても、鬼猪殃々おにやえもぐらのような武装の固い兇暴な植物は、ひ弱い他の草木の滴しずくまでも啜りとってしまうので、自然茎の節々が、しだいに瘤こぶか腫物はれもののように張り膨らんできて、妙に寄生的にも見える、薄気味悪い変容をところどころ見せたりして、すくすくと巨人のような生長をしているのだった。



一つのセンテンスの中に句点(、)が7個もあります。このたたみ込むような言葉の並列はまさに虫太郎の独壇場です。しかし,デビュー作の「完全犯罪」や「人外魔境シリーズ」などではこのような句点が延々と続く息苦しさあまりありません。実に分かりやすいのです。

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幻の川カシキアーレ

この虫太郎の肉体に堪(こた)える文章は密林的な,地図上の空白地帯のような,呪われた血筋の畸形が出てくる地の果ての国でいよいよ精彩を放ってきます。人智を超えた妄想にも似た,しかしどこかに実在していそうな世界を描くことで虫太郎の世界は膨張を続けます。
さてこうしたワンセンテンスの中で句点を多用して果てしもなく続くような虫太郎の文章スタイルは意図的だったのでしょうか。私はそうでもなく,漢文や江戸時代の読み物では割合多い表現だと思います。特に報告文章に多いようです。先日の小泉八雲「耳なし芳一」の原拠を思い出してください。

長州赤間関ハ古源平戦争の地にして千載の遺恨をとどむ幽魂長く消する事能ハず月明らかなれバ海面にあやしき声をきき,雨しきる夜ハ平砂に鬼火を飛ばす後世に至って一宇を建立し迷冥を慰する其の名を阿弥陀寺と名づく一門の縉紳(しんじん)及び兵士多少の古墳を連ぬ爰(ここ)に阿弥陀寺の近辺に瞽者(こしゃ)あり芳一といふ幼少より琵琶に習熟して長ずるに従い其の妙を極む・・・

このように報告や記録文章はワンセンテンスの中に5W1Hと出来事の経過と結末がすべて盛り込まれるのです。
結果的にはその報告を読む者は,集中を要し,感じとしては息苦しく,濃密に感じ取るのです。ですから虫太郎の文章は彼の読書から来るスタイルがそのまま反映されてきた文章だと思えます。
同じように肌にまとわりつく,濃密な文章は折口信夫「死者の書」です。そこで小栗虫太郎の「白蟻」と1ページ辺りの文字数,読点(。)の数,句点(、),ワンセンテンス当たりの句点数,「」の数を比較してみました。
    作品     文字数文字数/ぺージ読点句点ワンセンテンスでの平均句点 「 」数        
 白蟻   57065     1358  885  3244       3.665  70
死者の書    67667     1127  2123  4208       1.982  70


「白蟻」は1ページ当たりの文字数が「死者の書」と比べて200文字以上も密です。また白蟻は読点が885しかありません。ですから句点÷読点でワンセンテンスで,「白蟻」では平均して使われる句点数が平均3.665にもなります。
「黒死館殺人事件」と「白蟻」に似ている文章の濃密さや句点で畳みかけるようなフラッシュ映像効果,事物に寄りすぎた映像は読む者を肉体的に責め付けるわけです。
それにしても小栗虫太郎の作品は永遠にその魅力を発し続けています。


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特集 怪異譚夜話 夢

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蓮の行方

もう7年も家に帰っていなかった。
久し振りに実家に帰ってきた安心感か,熱を出して寝込んだ。
静かすぎる真昼の障子を濾した白い光は小学生の頃に熱を出して学校を休んだ時に見た光と同じだった。
家を出てもう10年。のような眠りの合間に思った。「自分は一体何をしてきたんだろうか」
そしてまた眠りに堕ちた。
蒲団がとても暖かい。こたつで暖めた蒲団なんだ。練炭の強い香りがした。母親は寒い冬はいつもこのようにしてくれた。
肩先から蒲団に入ってくるものがあった。
「とら」
猫のとらはいつもこう蒲団に入ってきて私の足もとで丸くなって眠る。
私は幸せな気持ちになって眠った。

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朝の眩しい光で目が覚めた。
世界がクリアになった。頭がすっきりしている。熱が下がったのだ。
「とら。ありがとう」足もとに眠るとらを足で探した。
やがてゆっくり意識が戻ってきた。

とらはもう自分が小学生だった時に死んだのだった。
すると昨晩肩先から蒲団に入ってきたのは・・・。
はっきりと肩先に猫のその感触が甦ってくる。私は急いで掛け布団をはいで足もとを見た。
足もとが丸く窪んで,そこに猫の毛が一本残っていた。



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