2021/09/02

遠野 佐々木喜善の生家の近くの水車小屋
小栗虫太郎と言ったら「黒死館殺人事件」(昭和9)と誰しも言います。
私もハヤカワで読みました。ドストエフスキーの悪霊を読むような息苦しさにあえぎながら読みました。その読みにくさは視界狭窄に陥った文章の描写にあると確信したのは,ヘルツォークの映画を観たときの息苦しさと同じだったからでした。ヘルツォークの「アギーレ/神の怒り」はまさに虫太郎の「人外魔境」の世界の映像でした。アマゾンの密林で揺れる舟にシンクロするキャメラ。密林を中望遠でなめるように永遠に続く映像。ジャングルの中を彷徨うカメラはいつも何かが出てきそうな不安が蜜のように濃密に流れ出していました。中望遠で撮っていますから世界に寄り過ぎて部分しか写しだされません。すると観ている人は不安になります。映像は揺れますし,寄りすぎで部分しか写しだされませんから観ている者は視界狭窄のように感じ,肉体的に苦しむことになります。そしてそのまま肉体的不安をもたらすのです。実は虫太郎の文章スタイルにもこのような身体的苦痛を与える仕掛けが隠されているとしか思えません。このような身体的苦痛をの効果をねらった文章だから読みにくいのです。
ここで私が特に好きな「白蟻」(昭和10)の始めにある植物「オニヤエモグラ」の群生の描写です。大体が「オニヤエモグラ」なんていう植物があるんでしょうか。造語ではないでしょうか。とにかくまず読んでみましょう。読点(。)で/記号を入れて区切っておきます。
わけても、鬼猪殃々おにやえもぐらのような武装の固い兇暴な植物は、ひ弱い他の草木の滴しずくまでも啜りとってしまうので、自然茎の節々が、しだいに瘤こぶか腫物はれもののように張り膨らんできて、妙に寄生的にも見える、薄気味悪い変容をところどころ見せたりして、すくすくと巨人のような生長をしているのだった。/したがって、鬼猪殃々おにやえもぐらは妙に中毒的な、ドス黒く灰ばんだ、まるで病んだような色をしていた。/しかも、長くひょろひょろした頸くびを空高くに差し伸べていて、それがまた、上層で絡からみあい撚よりあっているので、自然柵とも格檣かくしょうともつかぬ、櫓やぐらのようなものが出来てしまい、それがこの広大な地域を、砦のように固めているのだった。/その小暗い下蔭には、ひ弱い草木どもが、数知れずいぎたなく打ち倒されている。/おまけに、澱よどみきった新鮮でない熱気に蒸したてられるので、花粉は腐り、葉や幹は朽ち液化していって、当然そこから発酵してくるものには、小動物や昆虫などの、糞汁の臭いも入り混って、一種堪えがたい毒気となって襲ってくるのだった。/それは、ちょっと臭素に似た匂いであって、それには人間でさえも、咽喉いんこうを害し睡眠を妨げられるばかりでなく、しだいに視力さえも薄れてくるのだから、自然そうした瘴気しょうきに抵抗力の強い大型な黄金こがね虫ややすでやむかで、あるいは、好んで不健康な湿地ばかりを好む猛悪な爬虫以外のものは、いっさいおしなべてその区域では生存を拒まれているのだった。/
なんと6センテンスしかないのです。6センテンスの中にこの情報量です。まさに息詰まる程の密林の如くに身体にまとわりつき,絡み合ってくる文章なのです。1センテンス目だけを抜き出してみます。
わけても、鬼猪殃々おにやえもぐらのような武装の固い兇暴な植物は、ひ弱い他の草木の滴しずくまでも啜りとってしまうので、自然茎の節々が、しだいに瘤こぶか腫物はれもののように張り膨らんできて、妙に寄生的にも見える、薄気味悪い変容をところどころ見せたりして、すくすくと巨人のような生長をしているのだった。
一つのセンテンスの中に句点(、)が7個もあります。このたたみ込むような言葉の並列はまさに虫太郎の独壇場です。しかし,デビュー作の「完全犯罪」や「人外魔境シリーズ」などではこのような句点が延々と続く息苦しさあまりありません。実に分かりやすいのです。

幻の川カシキアーレ
この虫太郎の肉体に堪(こた)える文章は密林的な,地図上の空白地帯のような,呪われた血筋の畸形が出てくる地の果ての国でいよいよ精彩を放ってきます。人智を超えた妄想にも似た,しかしどこかに実在していそうな世界を描くことで虫太郎の世界は膨張を続けます。
さてこうしたワンセンテンスの中で句点を多用して果てしもなく続くような虫太郎の文章スタイルは意図的だったのでしょうか。私はそうでもなく,漢文や江戸時代の読み物では割合多い表現だと思います。特に報告文章に多いようです。先日の小泉八雲「耳なし芳一」の原拠を思い出してください。
長州赤間関ハ古源平戦争の地にして千載の遺恨をとどむ幽魂長く消する事能ハず月明らかなれバ海面にあやしき声をきき,雨しきる夜ハ平砂に鬼火を飛ばす後世に至って一宇を建立し迷冥を慰する其の名を阿弥陀寺と名づく一門の縉紳(しんじん)及び兵士多少の古墳を連ぬ爰(ここ)に阿弥陀寺の近辺に瞽者(こしゃ)あり芳一といふ幼少より琵琶に習熟して長ずるに従い其の妙を極む・・・
このように報告や記録文章はワンセンテンスの中に5W1Hと出来事の経過と結末がすべて盛り込まれるのです。
結果的にはその報告を読む者は,集中を要し,感じとしては息苦しく,濃密に感じ取るのです。ですから虫太郎の文章は彼の読書から来るスタイルがそのまま反映されてきた文章だと思えます。
同じように肌にまとわりつく,濃密な文章は折口信夫「死者の書」です。そこで
小栗虫太郎の「白蟻」と1ページ辺りの文字数,読点(。)の数,句点(、),ワンセンテンス当たりの句点数,「」の数を比較してみました。
作品 | 文字数 | 文字数/ぺージ | 読点 | 句点 | ワンセンテンスでの平均句点 | 「 」数 |
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白蟻 | 57065 | 1358 | 885 | 3244 | 3.665 | 70 |
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死者の書 | 67667 | 1127 | 2123 | 4208 | 1.982 | 70 |
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「白蟻」は1ページ当たりの文字数が「死者の書」と比べて200文字以上も密です。また白蟻は読点が885しかありません。ですから句点÷読点でワンセンテンスで,「白蟻」では平均して使われる句点数が平均3.665にもなります。
「黒死館殺人事件」と「白蟻」に似ている文章の濃密さや句点で畳みかけるようなフラッシュ映像効果,事物に寄りすぎた映像は読む者を肉体的に責め付けるわけです。
それにしても
小栗虫太郎の作品は永遠にその魅力を発し続けています。

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