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芥川龍之介のこと8-「翻案小説」-

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雪の朝

芥川龍之介の作品の出所を辿っていくと「鼻」「羅生門」は「今昔物語」から,「酒虫」は「聊斎志異」から,「杜子春」は「太平広記」か「新釈漢文大系」から,と古い時代の埋もれた良い話を再話するような形で自分なりの工夫を凝らして作品に仕立てていることに気付くでしょう。ある論文に芥川龍之介の諸作品の典拠が調べてありました。紹介します。
「酒虫」 1916年「新思潮」 蒲松齢『聊斎志異』巻十四「酒虫」
「仙人」 1916年「新思潮」 蒲松齢『聊斎志異』巻二「鼠戲」、 巻十四「雨銭」
「黄粱夢」 1917年「中央文学」 沈既済『枕中記』
「英雄の器」 1917年「人文」 『通俗漢楚軍談』26巻十二
「首が落ちた話」 1918年「新潮」 蒲松齢『聊斎志異』巻三「諸城某甲」
「尾生の信」 1920年「中央文学」 『荘子』「盗跖篇」、『史記』「蘇秦傳」など
「杜子春」 1920年「赤い鳥」 鄭還古「杜子春伝」(『太平広記』)
「秋山図」 1921年「改造」 憚南田「記秋山図之始末」
「奇遇」 1921年「中央公論」 『剪燈新話』巻二「渭塘奇遇記」
「仙人」 1922年「サンデー毎日」『聊斎志異』巻一「労山道士」
「女仙」 1927年「譚海」 『女仙傳』「西河少女」
例えば中島敦の「山月記」の出所となった「人虎伝」は芥川龍之介の「杜子春」の拠り所になったかもしれない「新釈漢文大系」の小説の部類にそろって見ることができます。そして太宰治「竹青」はこれまた「聊斎志異」からの再話です。このように日古典,中国古典に題材を求める傾向は特に戦時下の規制などもあったのでしょうが,面白い小説が芥川龍之介や中島敦,太宰治,谷崎潤一郎などによって広く翻訳,再話されたことは大変意義深いと思われます。

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雪の朝

それもただの翻訳ではなく,芥川流,中島流,太宰流,谷崎流と言われる作家の身体に馴染んだ作品として原作の質量を損ねず,もしくは原作以上に優れた作品として生まれ変わっています。私たちは現代でその恩恵に浴することができるわけです。例えば今私が「新釈漢文大系」の「杜子春傳」を読んでもやはり堅く,理解が行き届かないのが実情です。芥川の「杜子春」を読むと実に分かり良い。多少改筆されていたとしても殆ど気にならない。芥川の改筆点を原作と比較すればよいのだが,それは既に研究者がおこなっているので私のようなただの読書好きにとっては読みやすい方がやはり良いのです。

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雪の朝

上に「翻案小説」と題名を付けましたが,ある意味では翻訳とも言えるし,また再話とも言えると思います。
「先人の詩文などの発想や表現法を取り入れて、創意を加えて、新たに独自の作品を作る」ことが「換骨奪胎」という体ですが,とにかくも隠れた名品が歴史の閉ざされたパンドラの函の中から出てきて私たち庶民に伝えられることは実に幸せなことと思います。実は歴史の時間の影に隠れて陽の目を見ない市井の人々の素晴らしい話は数多くあります。実際,風土記の中には義行により殿様から褒賞を受けた百姓達や節婦と呼ばれた女達,またその逆で不義なる事で罰せられた悪党達などいろいろ出てきます。その一端は芝居,浄瑠璃などを通して現代にも伝えられています。例えばフィクションだとしても強く印象に残る岡綺堂の「半七捕物帳」などは歴史物,奇譚などを実に上手く取りそろえた珠玉の作品群だと思います。

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雪の朝

芥川龍之介が生きた時代,日清・日露・日獨戦争と日が世界の列強と並び称され,オカルトや超心理学が輸入され,日に馴染んでいく奇談の世紀が繰り広げられました。文学での試行も実に興味深く,文壇,民俗学,オカルトとクロスオーバーな広がりは芥川の作品を読み解く上でも見逃せない視点となります。また,世界に進出する日のベクトルを反対にして,日を再発見させるベクトルを与えたのが小泉八雲でもありました。

この辺で「芥川龍之介のこと」と題されたシリーズを一旦は閉じたいと思います。今回確信できたのは,お勧めとしては一人の作家が気に入ったらぜひ全集で読む方がいい。一人の作家を全集で,年譜を片手に読むことは作家の作品だけではなく,その時代に生きた作家を丸ごと全て味わう醍醐味があります。作品と作品の間から時代が甦ってきます。多分読書の喜びは倍加するはずです。お試しあれ。


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芥川龍之介のこと7-「トロッコ」-

今日はまず連絡からです。
今度の土曜日26日に予定していた伊豆沼読書会は,感染防止のため中止とさせていただきます。
できれば安心して早く読書会をしたいですね。3月こそはと思っています。
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春を感じる朝 伊豆沼

皆さんは芥川龍之介と言われると最初に何の作品を思い起こされるでしょうか。
「蜘蛛の糸」「トロッコ」辺りではないでしょうか。
私は「トロッコ」です。しかし記憶を辿って作品を読むと違う点があったことを思い出しました。
途中,二人の土工が茶店に寄ります。主人公の八才の良平はトロッコの近くで待っていますが,一人の土工からお菓子をもらうシーンがあります。
巻煙草を耳に挾んだ男は、(その時はもう挾んでゐなかつたが)トロツコの側にゐる良平に新聞紙に包んだ駄菓子をくれた。良平は冷淡に「難有たう」と云つた。が、直ぐに冷淡にしては、相手にすまないと思ひ直した。彼はその冷淡さを取り繕ろふやうに、包み菓子の一つを口へ入れた。菓子には新聞紙にあつたらしい、石油の匂がしみついてゐた。
この箇所はどうしてかよく憶えています。ところが私は「新聞紙に包んだ駄菓子」ではなく「油紙に包んだ駄菓子」と記憶していたのです。どうしてこのような記憶違いをしていたのか,もう分かりません。石油の匂いが染み込んだ新聞紙だったのを油紙とイメージしていたのでしょう。なんとも不思議な思い違いです。

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春を感じる朝 伊豆沼

さて皆さんも芥川龍之介で初めて読んだのは「蜘蛛の糸」か,「トロッコ」ではありませんか。そんな方が多いと思います。
なぜなら教科書に載っていたからです。ここに教科書(昭和43年当時)で採用されていた作品を書き出してみます。

小学校6年下 「くもの糸」東京書籍,光村図書出版
中学校1年  「くもの糸」学校図書,日本書院
中学校1年  「トロッコ」東京書籍,三省堂,日本書院
中学校1年  「魔術」  光村図書
中学校2年  「杜子春」教育出版
中学校3年  「山鴫」大阪書籍
中学校3年  「鼻」  三省堂
高等学校1  「鼻」  尚学図書,好学社
高等学校1  「ある日の大石内蔵助」
高等学校1  「山鴫」大日本図書
高等学校1  「煙管」日本書院
高等学校1  「舞踏会」角川書店
高等学校2  「鼻」実教
高等学校2  「枯野抄」明治図書

このように芥川龍之介の作品は小学校・中学校・高校とすべての教科書に載っているわけです。これは芥川龍之介がデビュー当時から大変な人気があったということも表していると思います。そして子ども達は皆学校で,そして中学校になっても,高校でも芥川龍之介の作品を読むのです。
皆さんは,芥川龍之介の作品にどんな印象を持っていらっしゃるでしょうか。

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実は「トロッコ」は教科書に掲載する時に原作から削除されている部分があるのです。「トロッコ」の最後は次のような文で締めくくられています。
良平は二十六の年、妻子と一しよに東京へ出て来た。今では或雑誌社の二階に、校正の朱筆を握つてゐる。が、彼はどうかすると、全然何の理由もないのに、その時の彼を思ひ出す事がある。全然何の理由もないのに?――塵労ぢんらうに疲れた彼の前には今でもやはりその時のやうに、薄暗い藪や坂のある路が、細々と一すぢ断続してゐる。……
このように作品は26歳の良平が8歳の自分の出来事を思い出しているという設定です。教科書ではそっくりこの文章が削除されています。どうしてなのか。読み手の時制を混乱させないためと思われます。つまり8歳の時の出来事がラストで急に26歳の良平が追憶していた8歳だったでは理解が難しいのではないかと教科書会社は考えたのでしょう。そして子どもが読むのに26歳の主人公では年齢も大きく隔たっているので想像しにくいという理由があって,8歳の良平に注目させるためにこの部分を削除したのではないかと思われます。26歳の良平の追憶だということは読み手には要らない情報だと教科書会社は判断したということです。8歳の良平の冒険だけにしておけば幼い読者の様々な経験を引きだして読解し易いと教科書会社は判断しました。良平と自分が重ね合って共感できる場を教室につくろうとする意図なのでしょう。

この「トロッコ」の作品の味わいは,忙しい日々の生活でふと振り返って見る自分の人生は8歳のあの時のように不安で,遙かで,遠すぎる場所に来てしまったという暗いトーンの雰囲気です。これからの行き先も分からない人生に今も同じように放り出されている。この重要な主題にも関わる部分を削除したことは芥川龍之介への冒涜ではないでしょうか。芥川龍之介の大人の毒を子どもには健康上よくないから炭酸飲料の炭酸を飛ばしてからの砂糖水を飲ませなさいと言っているようなものである。
では小学生に読ませる「くもの糸」はどうでしょう。人間のエゴの深さ,業の深さになるのであろうか。私には「くもの糸」はやはり怖くて,まるで「往生要集」の地獄絵図を読んでいるようです。芥川龍之介の作品を児童生徒用にアンソロジーとして編むならば皆さんはどんな作品を取り上げますか。もちろん文章を削除したり,改作したりするなんていう愚かなことはやめましょうね。

芥川龍之介のこと6-「赤い鳥」-

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戻ってきた光 昨日2月11日

今日は「赤い鳥」に載せた芥川龍之介の5作品のことを取り上げましょう
芥川は「赤い鳥」という雑誌の趣旨を考えながら書いていたのかどうかと問うてみます。
まず芥川が「赤い鳥」に寄稿した5作品です。
蜘蛛の糸  大 正 7 (1918) 年 7 月
犬と笛    大 正 8(1919) 年 1 月
犬と笛    大正8(1919) 年特別号
魔術     大 正 9(1920) 年 1 月
杜子春    大 正 9(1920) 年 7 月
アグニの神  大 正 10(1921) 年 1 月
アグニの神   大 正 10(1921) 年 2 月
「蜘蛛の糸」から始まるというのは刺激的ですね。そして「犬と笛」「魔術」「杜子春」「アグニの神」と続きます。見ていくと芥川は年2回,1月号と7月号に寄稿すると割り当てられていたようにも思えます。最初からこういう契約だったのでしょうか。
さてここで芥川がこれらの作品をいつ脱稿したかを知るために脱稿した日付を付けてみましょう。すると「赤い鳥」の締切りに合わせて書いていたか,それとも以前に書いてあった作品群から「赤い鳥」の締切りに合わせて選んだのかが分かります。
蜘蛛の糸 大 正 7 (1918) 年 7 月   (大正七年四月十六日脱稿)
犬と笛 大 正 8(1919) 年 1 月 (大正七年十二月脱稿)
犬と笛 大正8(1919) 年特別号 (大正七年十二月脱稿)
魔術 大 正 9(1920) 年 1 月 (大正八年11月脱稿)
杜子春 大 正 9(1920) 年 7 月  (大正九年六月脱稿)
アグニの神 大 正 10(1921) 年 1 月 (大正九年十二月脱稿)
アグニの神 大 正 10(1921) 年 2 月 (大正九年十二月脱稿)
これを見ると書きためておいた作品の中から選んだというよりは書き直したり,仕上げたりすることも考え,締切りに合わせて脱稿しているようです。ということは芥川は「赤い鳥」に掲載するためのこれらの作品を構想していたのかもしれません。ただ蜘蛛の糸だけは割合先に仕上がっていたようです。

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朝の漁 今朝2月12日

ここで「赤い鳥」に掲載された作品群は芥川の「赤い鳥」に寄せるための意図を持っていたならば雑誌「赤い鳥」の刊行趣旨をわきまえた上での題材選定や内容執筆だったのか。
その意図を探るために「赤い鳥」執筆期間内に脱稿した作品群を年代順に挙げてみます。
大正七年
蜘蛛の糸 大 正 7 (1918) 年 7 月  大正七年四月十六日 「鼻」刊行
8月 「奉教人の死」
9月 「枯野抄」
10月 「邪宗門」起筆3日間で5回分脱稿新年号執筆依頼7件5件断わる
11月 スペイン風邪に罹る
12月 「毛利先生」を脱稿「あの頃の自分の事」脱稿
大正八年
犬と笛大 正 8(1919) 年 1 月   大正七年十二月
犬と笛大正8(1919) 年特別号
2月 スペイン風邪に罹る  「改造」発刊記念会
3月
4月 「蜜柑」「きりしとほろ上人伝」脱稿
5月 連載「路上」にかかる
6月 「大正八年六月の文壇」脱稿「羅生門」刊行「疑惑」脱稿小説の読み方講演
7月 路上進まず「改造」への原稿断念
8月 路上断念「じゅりあの・吉助」
9月 「妖婆続編」
10月 「大正八年度の文芸界」「江口かん氏の事」「芸術その他」
11月 「魔術」脱稿
12月 「有島生馬君に与ふ」「鼠小僧次郎吉」「葱」
大正九年
魔術 4 1 大 正 9(1920) 年 1 月    大正8年11月10日「影燈籠」刊行
2月
3月 「秋」「スサノオノ尊」の執筆に苦しむ「黒衣聖母」
4月 「或敵打の話」
5月
6月 「南京の基督」
杜子春大 正 9(1920) 年 7 月   大正九年六月 「影」「西洋画のような日本画」「捨児」
8月 宮城県青根温泉
9月
10月 「お律と子等」脱稿
11月
12月 「秋山図」「アグニの神」脱稿
大正十年
アグニの神 大 正 10(1921) 年 1 月大正九年十二月
アグニの神大 正 10(1921) 年 2 月
これらの作品群を比較すれば芥川の「赤い鳥」へ向けられた姿勢・構えが見えてくると思います。私などは「蜘蛛の糸」「杜子春」「犬と笛」は分かりやすく趣旨を汲み取った作品だと感じます。しかし同時に「魔術」「アグニの神」などはむしろ奇譚が好きな芥川ならではの題材の選定だと感じました。この辺りはもう少し詳しく分析する必要があろうかと感じています。

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朝の漁 今朝2月12日

ちょっと不思議だったことをお話しします。
年譜を見ても「犬と笛」だけがいつ脱稿したのか。
そして単行本になった多くの作品集の何処にも「犬と笛」は一度も収録されていないのです。こんな不思議なことがありましょうか。現代の作品集には掲載されてはいますが,当時は全く芥川が「犬と笛」を封じていたということになります。これは何故なのでしょうか。このことについても詳しく調べてみる必要があると感じます。

途中で中途半端になりましたが今日はここで一応区切りとします。

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差し込む光の春


芥川龍之介のこと5-岡本かの子「鶴は病みき」-

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サンピラー立つ 2月8日昨日の朝 蕪栗沼

芥川龍之介のことを書き始めての5回目となりました。
今日は岡本かの子の「鶴は病みき」からです。事実上の岡本かの子の小説家としてのデビュー作になり、文学界賞をもらった作品が彼女と芥川の思い出を書いたこの作品でした。作中では芥川は「麻川」となっており、かの子は「葉子」と書かれています。昭和11年6月に文学界掲載です。岡本かの子が芥川と出会ったのは避暑のため鎌倉駅裏にある「平野屋」での隣の部屋同士になった偶然のことからでした。大正12年7月、かの子34歳の時で夫一平、子ども太郎と共に過ごした夏のことでした。芥川は31歳でした。二人はそれっきりとなり、芥川が死んでしまう昭和2年の早春汽車の中で偶然に二人は再会することとなります。そしてその年の7月芥川は死んでしまいました。
かの子はどうして芥川が死んで8年も経ってから敢えて「鶴は病みき」を書いたのでしょうか。私はふとそう思いました。
「鶴は病みき」は隣同士となった芥川との交流を描いたものですが、読んでみると芥川に対する尊敬と彼女独特の女から観た男への鋭い切っ先をもった批評が入り交じったラブレターにも感じました。作中かの子が初めて文士達の会合で見かけた芥川を「麻川氏を惜しむこころ、麻川氏の佳麗な文章や優秀な風采、したたるような新進の気鋭をもって美の観賞」と褒めちぎっています。当時の作家としての芥川への傾倒が知れ、また世間での芥川の人気度も分かります。
麻川氏は私達より三四日後れ昨夜東京から越して来た。今朝早くから支那更紗しなさらさ(そんなものがあるかないか、だが麻川氏が前々年支那へ遊んだことからの聯想れんそうである。)のような藍色模様あいいろもようの広袖浴衣ひろそでゆかたを着た麻川氏が、部屋を出たり入ったりして居る。着物も帯も氏の痩躯長身にぴったり合っている。氏が東京から越して来ると共に隣の部屋の床の間に、くすんで青味がかった小さな壺つぼが、置かれたよう(私の錯覚かしら)な気がする。宿の主人が置いたのか、氏が持って来たのか、花は挿して無いし今後も挿さないような気がする。
などと要らない心配をする独特の思い入れが知られ、
某日。――麻川氏の太いバスの声が度々笑う。隣の棟に居て氏のノドボトケの慄ふるえるのを感じる。太いが、バスだが、尖鋭な神経線を束ねて筏いかだにしそれをぶん流す河のような声だ。
と細かな筆致はかの子独特の芥川に対する期待や思慕を感じさせる。
私はこの「鶴は病みき」を最初に読んだときには芥川の暴露本かと思ったが、細かく読むとかの子の芥川への追慕と思わせるやさしさも感じられる。こんな文章もある。
「麻川氏と私とは、体格、容貌、性質の或部分等は、全く反対だが、神経の密度や趣味、好尚等随分よく似た部分もある。氏も、それを感じて居るのか、いわゆるなかよしになり、しんみり語り合う機会が日増に多くなった。そして氏の良き一面はますます私に感じられて来るにも拘かかわらず、何とも云えない不可解な氏が、追々私に現前して来る。それは良き一面の氏とは似てもつかない、そして或場合には両面全く聯絡れんらくを持たないもののようにさえ感じられる。幼稚とも意地悪とも、病的、盲者的、時としてはまた許しがたい無礼の徒とも云い切れない一面に逢う。」

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サンピラー立つ 2月8日昨日の朝 蕪栗沼

岡本かの子「鶴は病みき」の発表にはちょっといろいろな経緯があった。
この「鶴は病みき」は小説家になることを切望していたかの子にとっても内心期するところがあったのだろう。彼女は原稿を「中央公論」に持ち込んだ。ここから瀬戸内寂聴「かの子繚乱」から引用します。
当時編集長だった佐藤観次郎は編集部の藤田圭雄に読ませ,まあのせてもよいというところまでになった。
ところが,かの子は(待っている)その間が待ちきれず谷崎潤一郎に直接事情を訴えて原稿を渡した。「こんなものは仕方がない」と谷崎は原稿を送り返してきたのだった。そのためかえって収拾がつかなくなった。

この出来事について後年谷崎は対談の中でこう話している。
「記憶にないんですが,それ(「鶴は病みき」)を「中央公論」か何かに推薦してくれというんですよ。自分がいいと思えば推薦するけれど初めから推薦すると約束するのはいやだ。だから拝見した上でよかったら推薦するよと言った。そしたら(原稿を)送ってきた。それと一緒に反物が一反来たんですよ。ぼくは腹が立ってね。送り返したんです。不愉快になってね。(対談「文芸」)谷崎潤一郎読本昭和31」

こうしたすったもんだで作品は出所を探して迷い始めたのでした。
実は谷崎は一高時代に岡本かの子の兄大貫晶川と同級で同じ文学仲間だったことから昔からかの子を知っていたのだが,厚化粧したかの子をあまり好きではなかったようだ。「野暮だ」と言い放っている。
さて「鶴は病みき」は,こうして中央公論から干されて,かの子は川端康成に相談した。川端は大正11年から岡本家に出入りしており,昭和8年10月の「文学界」創刊に向けて準備を進めていたのですが,その会合はかの子の家で行っていたのでした。川端は「鶴は病みき」に登場する芥川の一番の友菊池寛に原稿を見せて相談した。すると菊池寛は「芥川の一面がよく書けている。いいだろう」と了承したと言います。
こういうわけで「鶴は病みき」は「文学界」昭和11年6月号に載り,かの子は憧れの文学の殿堂の階(きざわし)に足をかけたのでした。しかし反響は賛美両論入り乱れたことは言うまでもありません。かの子自身は後にこの問題作について自作案内で「文人を愛惜する余り書いた」と説明しています。

私は「鶴は病みき」の後の文芸10月号に載った岡本かの子の「混沌未分」は爽やかでとても好きです。

芥川龍之介のこと4-上海-

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伊豆沼立春夜景 2月4日

2019年の大晦日に録画してから観るのを忘れていた芥川龍之介を描いたドラマ『ストレンジャー〜上海の芥川龍之介〜』をやっと観た。芥川龍之介を松田龍平が演じている。渡辺あやの作品である。演出は大河ドラマやドラマ「坂の上の雲」などを手がけている加藤拓。渡辺あやはテレビドラマ『火の魚』『その街のこども』『カーネーション』『ロング・グッドバイ』等。映画では『ジョゼと虎と魚たち』『天然コケッコー』『合葬』等を手がけている。1920年代の上海の様子を豪華なセットや濃密な映像で再現し、なかなかよかった。特に中国特派員時の芥川を取り上げた視点はなかなか珍しいとも思った。
 ドラマは上海に着いた芥川をまず「アグニの神」(赤い鳥に大正10年1月号に掲載)と「上海游記」の到着当時の出来事を折り合わせながら進んで行く。「アグニの神」はインドのヒンドゥー教の火の神であり上海に住む魔法使いの老婆が信奉している神のことである。この老婆は掠った少女を口寄せとして使う謎の占い師である。ただ「アグニの神」(大正9年12月)は中国に行く前に上海を舞台として書かれている点に注目したい。また「南京の基督」も脱稿は大正9年6月で、青根温泉に行く1ヶ月前です。こうした中国題材を経て中国視察の機会が整ってきたのでしょう。
 ドラマの中に玉蘭という夫が処刑された薄幸の美人が出てきます。玉蘭は処刑された夫の血の池にクッキーを浸らせ、その黒くなったクッキーを食べます。同様に京劇の役者美男子のルールー(この役どころは梅蘭芳メイランファンのことだろうか)も死んでしまいます。すると玉蘭はまた、ルールーの血のクッキーをつくります。少し不気味なこの風習は葬送の儀式としての意味が中国にはあるのでしょうか。
 実際にそうした芥川龍之介に中国視察の機会が訪れたのは、大正10年2月22日で29歳になろうとしていた時でした(芥川の誕生日は3月1日)大阪毎日新聞の特使という身分でした。翌月の3月出発で3~4か月の滞在という条件でした。芥川は上海に着くなりすぐ入院してまるまる1ヶ月も上海に滞在し、ゆっくりと上海の空気を吸いました。
ここで年譜から芥川の中国滞在の4か月間をメモしてみました。
3月19日(土)午後5時30分 東京駅発の汽車に乗って中国へ出発
3月20日~26日 熱のため大阪で静養
3月27日(日)  大阪を出て門司
3月28日(月)門司港から筑後丸に乗って上海へ
3月30日(水)午後上海港に到着万歳館泊
4月1日~23日 上海里見病院に入院
4月26日 後の満州国総理の鄭考胥(ていこうしょ)や革命派の文人章炳麟(しょうへいりん)と会談
5月2日 上海を出発。杭州へ西湖見物
5月9日 蘇州
5月12日 蘇州から揚州へ
5月19日 蕪湖(ウーフー)
5月22日 九江着
5月23日 廬山に登る
5月26日 漢口着
6月11日 洛陽を経て北京着1ヶ月滞在
7月10日 天津着
7月17日 奉天経由釜山から門司へ帰国
この旅行記は大阪毎日新聞に8月17日~9月12日に「上海游記」と題して連載。翌年大正11年1月1日から2月13日まで「江南游記」連載。

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伊豆沼立春夜景 2月4日

 さて当時の上海は「魔都」と呼ばれ、世界の国々から集まった人々でごった返していました。そして様々な世界の文化がひと所に咲き乱れていました。上海租界です。そんな世界の先端を行く上海を私が初めて知ったのはアンドレマルロー「人間の条件」を読んだときでした。そして後に横光利一「上海」を読み、今回芥川龍之介も行ったことを考えると、まず日露戦争で大手を振った日本人が上海に満ち、文人達も上海を目指しました。まずは1918年谷崎潤一郎が訪れてすっかり上海が好きになり8年後にまた行っています。多分芥川は、谷崎から上海の話は随分と聞かされていたでしょう。自分にも上海の番が回ってきたと喜んだと思います。そして帰国後の芥川の話に触発されたのが横光利一です。横光は1928年に1ヵ月間上海に滞在して「上海」を書きます。それと前後して金子光晴の「どくろ杯」。彼は1926、27、28年に上海に数ヵ月間滞在しています。そして「上海にて」の堀田善衛、彼自身は終戦を上海で迎えています。

さてさて長くなりましたが、芥川自身が中国の美女揃いを紹介されて言った言葉が実に気に入りました。「上海遊記」からです。
余洵氏は老酒を勧めながら、言い憎そうに私の名(芥川のこと)を呼んだ。
「どうです、支那の女は? 好きですか?」
「何処の女も好きですが、支那の女も綺麗ですね。」
「何処が好いと思いますか?」
「そうですね。一番美しいのは耳かと思います。」
 実際私は支那人の耳に、少からず敬意を払っていた。日本の女は其処に来ると、到底支那人の敵ではない。日本人の耳は平すぎる上に、肉の厚いのが沢山ある。中には耳と呼ぶよりも、如何なる因果か顔に生えた、木の子のようなのも少くない。按あんずるにこれは、深海の魚が、盲目になったのと同じ事である。日本人の耳は昔から、油を塗った鬢びんの後に、ずっと姿を隠して来た。が、支那の女の耳は、何時も春風に吹かれて来たばかりか、御丁寧にも宝石を嵌めた耳環なぞさえぶら下げている。その為に日本の女の耳は、今日のように堕落したが、支那のは自然と手入れの届いた、美しい耳になったらしい。
第一に耳の美しさを選び、線を引いた「支那の女の耳は、何時も春風に吹かれて来たばかりか」という表現は実にキュートで可愛らしい表現です。
(この話は続きます。次は「赤い鳥」と芥川になると思います)