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明恵と西行,鴨長明-明恵にとっての善妙神-

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高山寺 善妙神

世界遺産栂尾高山寺は明恵上人がいた寺である。
京都 栂尾山 高山寺のHPにはこうあった。
高山寺は京都市右京区栂尾(とがのお)にある古刹である。創建は奈良時代に遡るともいわれ、その後、神護寺の別院であったのが、建永元年(1206)明恵上人が後鳥羽上皇よりその寺域を賜り、名を高山寺として再興した。鳥獣人物戯画、日本最古の茶園として知られるが、デュークエイセスの唄「女ひとり」にも歌詞の中に登場しています。また、川端康成、白洲正子や河合隼雄の著書にも紹介されています。
写真集で上の「善妙神」の写真を見たときには私はぞくっとした。妙に艶っぽい。白い肌がよく合う。身体のラインが柔らかく何処か大人しいながらも輪郭に一定の緊張が滲み出ている。このような人間に近い雰囲気は浄土を渇望する強い意志も敢えて前に出さないようだ。それに,人を圧するような独立性も持たせてはいない。当時敢えて神像をデザインすることは珍しいとも感じるが,この柔和なまとまりの造形は明恵と湛慶の交流の深さを意味している。明恵はこの善妙神に経を上げていたのだろう。どんな出会いがあって,明恵は新羅伝来の善妙神を崇めていたのだろうと不思議に感じる。善妙神の彼女はまず明恵の夢に出てきた。

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春の光

明惠の『夢記』, 承久二年(1220)5月20日の夢のこと。もう景色は緑濃く,梅雨が始まろうとする晴れ間には樹木の木漏れ日がはっきりと暑さを伴う時期である。「十蔵房が持参した香炉の中に五寸ばかりの唐女の形の茶碗があって,それが生身の女性 となった。 翌日その女を連れて行くと、十蔵がその女は蛇と通じていると言った。 明惠は女が蛇身を 兼ねているのだと言った。そこで目が覚めた。 夢だった。明惠は「案日、 此善妙也、 云、 善妙龍人ニテ又有蛇身、 又茶坑ナルハ石身也」として、夢中の女人を善妙神だと断言している。明恵にとっての夢はこのようにリアルで,現実そのものでもあるのだろう。もちろん華厳宗の始めとされる義湘の護法神が善妙神であったことも明恵はよく知っていただろう。
この善妙神とはどんな神様なのだろう。
新羅華厳宗の初祖義湘(625−702)にまつわる伝説に由来する龍神である。 贊寧『宋高僧伝』巻四所収の 「新羅義湘伝」によれば、 善妙は入唐した義湘を常に援助した女人で、義湘が新羅へ船で帰国するときに、 自ら龍女となって海に飛び込み、 義湘の後を逐い、 後々まで彼を守護したという。 この善妙神は中国・ 朝鮮半島で発祥したいわば龍神である。  「明恵における神と仏」藤井教公から
明恵は夢で出会った善妙神をはっきりと記憶に留め,やがて運慶の息子湛慶に頼んで写真のような美しい神となって権現させた。善妙神像は一尺四寸の小さいものだというが,バランスや柔和な面持ちといい素晴らしい造形である。明恵の夢が少しずつ彼の現実の浄土を形づくっているといっていいだろう。さて善妙神像をつくった湛慶だが,高山寺には鹿一対,小犬のかわいらしい像がある。また高知雪渓寺の「善膩師童子像」もこの湛慶の作品である。明恵の厳しい一面もさることながら,かわいらしいこれらの像を眺める明恵もまた心休まったであろう。
しかし,もうこの頃には女人が蛇神,龍神と重なったイメージになっているのは「法華経」の龍女伝説から来るのだろうか。先日この特集で出た説教節「刈萱」では繁氏は奥方に出家を引き止められ,「蛇神と書いて女と読む」というセリフまで発します。龍蛇の類は女となり,また後の時代に辯才天と習合し大きな思想になっていきますが,もう12世紀にはこういった考え方があったのでしょう。一遍上人の伝記にも女と蛇のイメージで一遍の発心が固まるというストーリーがあるのは興味深いことです。

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さて明恵は美神「善妙神像」作製をいつ依頼したのだろう。明恵の弟子高信が記録している。
元仁元年(1224)頃に,善妙神と大白光神の像を湛慶に造らせ、 翌年嘉禄元年(1225)八月十六 日に奉安している。
「嘉禄元年乙酉(1225)八月十六日、 甲辰寅時、 白光、 善妙両神の御体之を奉納す。 (義林坊、 上人の 為、官を代わりて之を勤む。 ) 春日神は、 但だ勧請し奉り、 御体を安置せざるなり。 此の日、奇瑞等、之在り」と。
鎮守社壇は四社あったと言う。中央に大白光神。右に春日大明神。左に善妙神,そして右端に住吉明神が奉安された。
善妙神は「新羅国の神なり。 華厳擁護の誓有り。 故に之を勧請す。」と説明され,「右、 三国の明神を勧請す。 仰ぐ所は寺の擁護なり。 (本、 是れ西の経蔵処に之を崇め奉れり)
三社の宝殿併びに師子・ 狛犬及び白光善妙両神の御体等、 静定院行寛法印の沙汰なり。
三社の上下次第は、 上人思惟の処、 聊か夢想有りて之を定められ畢んぬ。 白光神(上) 、 春日(中)、善妙(下)なり。」と資料にある。
いずれの神も明恵が親しく感じ,夢の中に現れ,彼自身を長く護ってくれている神々である。釈尊を想い,二度までもインド渡航を志したが,それを止めたのもこの神々である。

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明恵上人という僧は,トータルで考えても純で,終生に亘って良きものに憧れる素直さを持ち合わせた孤高の僧だと思う。そこには俗的な身分関係の上下に心揺れることもなく,一人で自然の中に身を置き,学究と修行と夢と生活の全てをただ静かに純粋なる高みへ登るために費やすことができた希有な僧でもあった。終生和歌を愛したが執着したり,誇ることもなく「ふですさび」とした,粋な人柄でもあったと思う。


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明恵と西行,鴨長明-刈萱(かるかや)-


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今日現在殆どのハクチョウは北に飛立ちました。沼はまた寂しくがらんと静まり返りました

この特集「明恵と西行,鴨長明」では,明恵と西行,鴨長明とその同時代に生きた人たちの交流に注目して書いています。
今日は説教節「苅萱(かるかや)」と法然についてです。
私がこの「苅萱」を実際に見たのは神楽の演目「石童丸」でした。「苅萱」という話の粗筋を確かめましょう。
「刈萱」という話は,筑前国六カ国を知行し,八万騎の大将,加藤左衛門尉繁氏(重氏)の出家譚です。
季節毎に住まいを変えるほどの豪勢な屋敷を持っている加藤左衛門尉繁氏(重氏)ですが,毎年恒例の花見の宴を開いたその折り,彼の盃に一房の桜花が落ちました。一房の桜花は彼の盃の縁を三回回ったそうです。まさにその時,繁氏はこの世の無常を知り,すべてを捨てて仏門に入ることを決心します。一族郎党はすべて繁氏の出家を止めますが,その日のうちに繁氏はすべてを振り切って高野山に登ります。盃に一房の桜花が落ちたことで,富も栄誉も家族も妻も三歳の鶴姫やお腹の中に居る石童丸という子どももすべてを捨てて出家するという話です。やがて生まれた石童丸も13歳を迎え,母と共に,まだ会ったこともない父を訪ねて高野山に登り,父と不動坂で対面することになります。しかし,顔さえ見たこともない父ですから,今この不動坂で出会った目の前の僧が父だとは分かりません。一方,父(苅萱道心)は話している内に正に自分の息子,石童丸だと分かりますが,実際は自分ももう出家した身,「そなたの父は亡くなった」と嘘をつくことになります。この辺りが一つの山場ですが,父との再会を果たしたい,純粋でまっすぐな気持ちを持った石童丸と出家した手前,捨てた我が子を抱き寄せることすらできない父親の葛藤が最高潮に達します。苦渋の果て,なんとか嘘をついてその場を取り繕うしかない父親の葛藤が激しくまっすぐな気持ちの石童丸とぶつかり合います。二人はついに他人のまままた生き別れることになります。
石童丸はとぼとぼと高野山の坂を下り,下で待つ母に父はもう亡くなっていたことを伝えなければいけない哀しさ,情けなさにさいなまれます。ところが,下で待っている母の宿に着くとなんと母は石童丸が高野山に登った日から倒れ,病気で亡くなっていたことを知らされます。そしてやっと母を弔い,郷里へ戻ってみると石童丸の姉も母と弟の帰郷を待ち焦がれ病気になり,亡くなっていたことを知らされます。そして石童丸も父母や姉の菩提を弔うために出家します。

なんとも悲しい,この世の理不尽が幼気(いたいけ)のない子どもに次々と降りかかっていくのがこの説教節の魅力です。同じ説教節で思い出すのは森鴎外が再話した「山椒大夫」でしょう。あの安寿と厨子王の受ける仕打ちや残酷さが「苅萱」の石童丸にも当てはまります。悲しい涙を誘います。
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昨日の内沼 鳥たちの最後の朝

さて繁氏は,着の身着の儘で京の街角で出会った高野聖に出家できる寺はないかと尋ねます。
聖は今有名なのは「比叡の山の西塔の北谷に住んでおいやす法然上人」と答えます。
「大原の里の問答寺で百日の大原問答しはってな。それがえらいことやと信者がぎょうさん集まってな。東山に新しい寺を建てはってな。その寺の辺りを新黒谷と呼ぶんやな。」
繁氏は早速と法然を尋ね,法然の下で13年勤めました。出身の土地の名前を取って出家名は刈萱道心と言いました。そこへ苅萱道心(繁氏)の子,13歳の石童丸がやってくるのです。ここでこの時代の登場人物の生まれた年を簡単に書いておきましょう。そうそうたるメンバーが同時代を生きていたことがわかります。1200年になると道元,その2年後に日蓮が生まれています。ちなみに親鸞は法然の弟子ですし,東大寺大勧進を引き受けた重源は,この役を法然が固辞した末に引き受け,また重源の依頼を受けて西行が平泉を訪れることになります。
同時代の僧達
名前生年年齢没年
西行1118年73歳1190年
重源1121851206
法然1133801212
鴨長明1155611216
明恵1173601232
親鸞1173901263

刈萱の話に戻りましょう。
繁氏が街角で教えてもらった高野聖の話に出て来た法然の大原問答は法然54歳1186年文治2年のことです。この問答の席に重源もいました。この1186年は壇ノ浦で平家が滅びた次の年です。加藤左衛門尉繁氏(重氏)刈萱道心は当時21歳ですから,繁氏自身は1175年生まれということになります。「刈萱」などの遁世譚が生まれる背景には様々な要因があるでしょうが,出家がただの現実からの逃げ口ではない覚悟が必要だということ,裏返せばそんな駆け込み寺的な出家が多かったことも背景では語られているようです。実際,法然は念仏を唱えれば易々と極楽に行けるように受け取られて人気を博している節があり,それに対して明恵が異を唱えたり談論風発する時代の勢いを感じます。確かに西行は出家に際し,泣きすがる子を足蹴にしたというエピソードがあり,また一遍の出家の際にも似たようなエピソードがあります。この新仏教誕生の時代は大変おもしろいエピソードがたくさんあります。明恵,西行そして鴨長明,法然,親鸞と興味は尽きません。


明恵と西行,鴨長明-あるべきようは-

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春の光 伊豆沼 今日2月27日

さて西行が明恵のところにやってきて歌の心を語ったエピソードが「明恵上人伝」にある。
しかしどうも不思議である。西行が述べたことと最後に詠んだ歌との関連がうまく続かない気がする。
「山ふかくさこそ心はかよふともすまであはれは知らんものかは」という歌である。
(意訳)「どんなに山深くまで思いを馳せてその趣を会得したと思っていても、実地に住まずに微妙な気味を識ることなどとてもできません。」意を解すると,歌はただうまく想像して書いてもそれはうその歌である。実地に山に住むことで山の本当の味わいが歌に出るものなのですと言いたいのだろうか。どうも解せないところがある。
さて一方の明恵の語録の中に「あるべきようは」という言葉がある。
「人は阿留辺機夜宇和(あるべきようわ)と云う七文字を持つ(たもつ)べきなり。僧は僧のあるべき様、俗は俗のあるべき様なり、乃至帝王は帝王のあるべき様、臣下は臣下のあるべき様なり。此のあるべき様を背く故に、一切悪きなり。我は後世たすからんと云者に非ず。ただ現世に、先ずあるべきやうにてあらんと云者なり。」
この明恵の「あるべきようは」という言葉と西行の「山深く・・」の歌がどこかつながるような気がする。僧は僧のあるべき様,その歌を詠い,庶民は庶民のあるべき様,その生活を詠い,帝王は帝王のあるべき様、臣下は臣下のあるべき様に努めるところに真なる歌が立ち上がってくるのものなのです。都にいる者が山深くに住む心地で歌を詠ってもそれはどこか嘘になるものです。ただの想像で書いているからです。嘘のない歌はやがて真言となり,その一首が如来ともなる。このあるべき様は死後の浄土にあるように思うのでなく,今爰に生きることから始まる。今の自分をそのままに一所懸命に生き抜くことから浄土は見えてくる。
このようにして明恵の「あるべきようは」と西行の「山深く・・」の歌が通底しているように感じられる。
ここで明恵,西行と同時代を生きた鴨長明の言葉に気を付けてみよう。

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春の色 昨日2月26日の内沼

もし、人この云へる事を疑はぽ、魚と鳥とのありさまを見よ。魚は水に飽かず。魚にあらざれば、その心を知らず。鳥は林を願ふ。鳥にあらざれぽ、その心を知らず。閑居の気味もまた同じ。住まずして、たれかさとらむ
「方丈記」十七「衣食のたぐい」

これは魚と水は切っても切れない互いを行かすもの同士である。鳥は林があることで生きられる。閑居の気味もまた同じ。住まずして、たれかさとらむ山奥に一人隠棲している者こそ山深くの趣を知ることができる。住まずにただ想像しているだけで何が理解できようか。

西行の「山ふかくさこそ心はかよふともすまであはれは知らんものかは」という歌と鴨長明の「方丈記」十七「衣食のたぐい」の下線部の文章はまるで同じ事を言っているように思われます。互いに呼応し合っていると言ってもいいでしょう。奇しくも明恵と西行と鴨長明の三人が同じことをテーマにして語っているように思われます。

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春の光 昨日2月26日の内沼

この三人の歌の達人が同じテーマについてこのように語っていることは,まさに当時の作歌の取るべき姿勢がどのような考え方であったかを推し測ることができるのではないでしょうか。明恵,西行,鴨長明。三人の境遇や生きる場所は違っても和歌の真髄を求める空気を吸って,「僧は僧のあるべき様」に生きようとしていたのです。


明恵と西行-鴨長明と和歌の心-

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今朝2月24日の蕪栗沼

先日「明恵と西行」という記事を載せた。今日はその続きです。
平泉から帰った西行が明恵のいた神護寺を訪れたのは文治四年(1188)と言われ,この時西行は71歳,明恵はまだ16歳だったそうです。その場で西行は自分なりの歌道論を明恵に述べたと言われています。それが明恵上人伝記の次の一節です。
西行法師常に来りて物語して云はく、我歌を読むは、遙かに尋常に異なり。 華、郭公、月、雪 都て万物の興に向ひても、凡そ所有相皆是虚妄なること眼に遮り耳に満てり。 又読み出す所の言句は皆是真言にあらずや。華を読むとも実に華と思ふことなく、月を詠ずれども実に月とも思はず只此の如くして、縁に随ひ興に随ひ読み置く処なり。紅虹たなびけば虚空いろどれるに似たり。白日かゞ やけば虚空明かなるに似たり。然れども虚空は本明かなるものにあらず、又色どれるにもあらず。我又此の虚空の如くなる心の上にをいて,種々の風情を色どると雖も、さらに蹤跡なし。此の歌即ち是れ如来の真の形体なり。されば一首読み出ては一体の仏像を造る思ひをなし、一句を思ひ続けては秘密の真言を唱ふるに同じ。我れ此の歌によりて法を得ることあり。若しこゝに至らずして、妄りに此の道を学ばゝ邪路に入るべし と云々。さて読みける 
  山ふかくさこそ心はかよふともすまであはれは知らんものかは
喜海、其の座の末に在りて聞き及びしまま、之を注す
簡単に意訳してみると「私(西行)にとって歌を詠むことは普通の作歌とは違っている。華、郭公、月、雪など全ての興の向くままなれどこれらは皆虚妄なるものである。華を読むとも実際は華と思わず,月を詠ずれども実際には月とも思はれず。ただ縁にしたがって読み置く。紅の虹たなびけば虚空いろどれるに似たり。白日かゞ やけば虚空明かなるに似たり。然れども虚空は元々明るくもないし彩れるものでもない」自然の活写の達人西行が一体何を言うのかと驚く。花も,郭公も,月も,今見えているものを詠うのではないと言っているのです。花,郭公,月これらのものを通して仏道を完成させることが和歌の本意であると語るのです。つまり和歌というものは,仏門にある者にとっては西方浄土へ階段を登るための方法である。つまり和歌を詠むことはそのまま仏道を極めるための道歌という意味なのです。一体西行がこんなことを言うものでしょうか。このエピソードってほんと?
そして締めの歌
山ふかくさこそ心はかよふともすまであはれは知らんものかは
(意訳)「どんなに山深くまで思いを馳せてその趣を会得したと思っていても、実地に住まずに微妙な気味を識ることなどとてもできません。」
和歌を詠むということはただ思いを馳せて想像してつくったとしてもそれは偽りで,本当の歌は実際に,例えば山深く住むことによって得た趣を詠うことでこそ仏の道に叶うものであるという意味に聞こえる。

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今朝2月24日の蕪栗沼 サンピラー

和歌そのものは仏門にいる者にとっては道歌であらねばならない。これは逆説的には和歌そのものがただの酔狂や戯れに陥っている現状を牽制しての言葉にも感じられる。いわゆる「数寄者」と「仏門にいる者の和歌」は違うと言いたいようです。
ここで西行と同時代を生きた鴨長明の歌をひとつ。
朝ゆふににしをそむかじと思へども月まつほどはえこそむかはね
(意訳)朝夕にいつも西方浄土を思えように努めてはいるけれど実際に月を待っている間に西方浄土のことは忘れてしまっているのだ
これは西行の「仏門にいる者の和歌=道歌」に対する痛烈な皮肉とも受け取れます。ひたすら和歌を詠むことが真言となるという西行の姿勢と真言は唱えるが,長明は,つい西方浄土を忘れている自分もいると実に正直に肩の力を抜いて告白しています。
ひたすら乞い求めて情熱的に脇目もふらず信仰に没頭する西行。一方では念仏を唱える気にならない日には歌を詠み,音楽に興ずるのもたまには良いのではと,くだけて書く長明の姿勢。なんとも好対照な二人です。

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今朝2月24日の蕪栗沼

さて,歌を詠うこととは,単なる「数寄者」のやることで軽んじられることなのでしょうか。浄土を目指すことと「歌を詠う」ことは両立しないのでしょうか。やはり二つの見方があります。西行が生まれる百年前に生きた源信は「和歌は綺語だ」と言っています。「綺語」とは偽りの言葉遊びだという意味です。この源信に対する反論を71歳の歌詠みの西行は16歳の若い明恵に,168年経って「歌は浄土への道」と説いたのです。16歳の明恵はどう思ったのでしょうか。