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本棚のオーナーになりませんか

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本棚のオーナーになりませんか

先日こんなちらしを手に入れた
「本棚のオーナーになりませんか」
ぜひ応募したら,と言われ,選ぶんだったらすぐ読める短編小説がいいなと思った。

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寒い朝の三兄弟

とりあえずで選んだ本で本棚のタイトルは
「たった1時間で人生が変わる短編小説ベスト」
で,選んだ本は
「続いている公園」フリオ・コルサ-タル 岩波文庫所収
「うぐいす館の謎」アガサ・クリスティー
「催眠術の啓示」エドガー・アラン・ポー 創元推理文庫
「剃刀」志賀直哉 旺文社文庫
「山に埋もれたる人生あること」柳田国男 岩波文庫「山の人生」所収

選んだ本の解説も付けた方がいいなと思って,解説も入れてみた

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野焼き跡で「雨ニモマケズ」

本棚の解説
本当にすぐ読み終える短編から選んでみました。
ですから「たった1時間で人生が変わる短編小説ベスト」というタイトルです。
「続いている公園」は昔ラテン文学が流行った時代にボルヘスなどと一緒に巡り会った作家で,フリオ・コルサ-タルです。彼の「石蹴り遊び」という作品も各章を自由にスキップさせ,好きな順で各章を読んでいっても一編の小説になるという全く自由な知的発想の達人の一編です。その中でも「続いている公園」はあっと言わせる文句なしの超短編です。お勧めの作家です。
「うぐいす館の謎」アガサ・クリスティー著は,本格ミステリーが流行った頃に読んだ雰囲気たっぷりの一編です。数々の作品の中で私がクルーゾーの「悪魔のような女」を彷彿とさせるはらはらどきどき感は堪りません。
「催眠術の啓示」エドガー・アラン・ポー著は,言わずと知れたポーの作品の中でも一オシです。死後の人間と通信できるかという実験。さてどうなるか。
「剃刀」志賀直哉著は,最もアバンギャルドな不条理を描いて一瞬にして背筋の凍る作品です。この作品を読んだ後,私は理容店に行けなくなりました。
「山に埋もれたる人生あること」柳田国男 岩波文庫「山の人生」所収は,硬派柳田の中にある谷崎潤一郎のような嗜好性を示す作品です。ちなみに柳田に興味ある方は,「浜の月夜」とその続き,「清光館哀史」をお勧めします。

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大川小学校で「雨ニモマケズ」かなり前の撮影です


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マッスに挑む-流線型ライン-

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マッスに挑む-流線型ライン- 今朝1月15日 蕪栗沼

この頃読んだ本で印象残ったものに,吉村貞司『古仏との対話』美術公論社 1979がある。
元来私は仏像が好きでよく見て回った時期もあったが,どこかに権力と財力がつくりあげたものだという野卑な偏屈さもあって遠ざかっていた。まるで駄々をこねる子供のようだったのである。そうして民衆の作り上げた石仏の方に興味が移った。シンプルで力強く大胆で繊細,そうした野ざらしの仏達に親近感を抱いたのだった。しかし,寺院のほの暗い宝蔵にある沈黙に憂うる仏達は救いを求めるすべての民のために厳然として存在していることは忘れたことはない。救いや優しさ,微笑み,厳格さ,宥(なだ)め,華やかさ。憧れうるすべての表情に沈黙の仏達は応えてくれている。それは真剣に救いを求める者に均しく与えられるものなのである。

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飛立ちの瞬間

何よりも吉村氏の真剣な筆圧に心惹かれた。
例えば氏の言うように浄瑠璃寺の池越しに水面に映った九仏を見るべきだった。浄瑠璃寺の池の配置と横に並んだ九仏はまさに観無量寿経の水観のこの世での実現ではないか。また,向源寺十一面観音を未だに拝んだことがなかった自分を深く悔いることになった。十一面観音というと,東北地方の北上川沿いの寺に多い十一面観音を拝むと千年以上も前の時代に人々が慕い焦がれている世界がこの世ではなかったのではないかと確信することになる。むしろ汚濁にまみれたこの世に今現前している観音様が寄り添っていてくれるだけでも奇蹟であったのである。
どうして人々はこの世ではなく来世を深く求めるのだろうか。仏を求める人々はあまりにも現世での別離,悲しみが深すぎると知っていたのではなかったか。そんな彼らこそ素直な心を持ち合わせていたのではないかと思ってしまう。今生きている私たちにとってはどうだろう。

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マッスに挑む-流線型ライン- 今朝1月15日 蕪栗沼 最後に拡散する

自分しか信じない者は自分だけ信じて終わるだろう。
薄ら寒い東北の地の仏達は今なお朽ちて腕をなくしても仏であることをやめてはいない。
東北の仏達はすきま風吹きすさぶ差し込む雪に耐え続け,求める人々を支え続けて来たのである。


追悼 雲仙普賢岳火砕流犠牲者

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「火からのメッセージ」1992年3月25日 と渓谷社

今日のニュースでは雲仙普賢岳で起きた火砕流から30年と出ていた。
43人の方がこの火砕流で犠牲になったという。冥福をお祈りいたします。
この犠牲者の中に火学者のクラフト夫妻がいたと記憶していた。そこでクラフト夫妻の本を本棚から出して眺めた。「火からのメッセージ」1992年3月25日 と渓谷社刊の本だった。

当時の様子で彼らはどこにいて,火砕流に呑み込まれることになったのだろうか。資料を読んでみてみつけた。

北上木場農業研修所には第十三分団一部の団員約10名程が待機中だった。その他にNHK報道関係者2名,地元住民3~4名がいて,さらに上にある「定点」と呼ばれた報道関係の人達が集まる地点には4社のタクシーが駐車して,20名程度が葉たばこ畑の道沿いにいた。この定点は当時「火砕流は水無川に沿って来るため、避難勧告地域内ではあるが水無川から200m離れた上、40mの標高差がある定点が襲われることはない」」と言われていた。この定点から更に上に50mばかり上に2名の取材者がいた。そしてそこからさらに200m上に3人の取材者が荒れ地の中にいた。2台のカメラを普賢岳の方に据え付けていた。
この3人がクラフト夫妻と都立大学講師の米国人学者ハリー・グリュッケンでした。

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「火からのメッセージ」1992年3月25日 山と渓谷社の裏表紙にあるクラフト夫妻の写真

このとき妻のカティアさんは49歳,夫のモーリスさんは45歳だった。
夫妻は研究者仲間では「火山の鬼」と呼ばれ,噴火のニュースがあると誰よりも先に駆けつける現象火山学者(直接観察する学者)だった。溶岩の近くまで行っても耐火靴は履かなかったという。熱が感じられなくなるというのがその理由だったようだ。

今日は地元では2400本のキャンドルを灯し,犠牲になった方々の冥福を祈った。

詩の言葉-吉増剛造の手法-

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エコトーン

吉増剛造の詩を読んでみましょう

,耳を
澄まし,


空はハレ

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句読点によって吃音が,空白によって時間が表現される。いわゆる吉増流「沈黙の語法」である。

「小川は囁く。
小川は囁く。

人影が静かに歩く。」
「草書で書かれた,川」から『アドレナリン』


繰り返されるリフレイン「小川は囁く。」は音であり,2回目の「小川は囁く。」は残響であり,残像である。言葉は音であり,残響から成り立っている。そして3行目の空白の行は言葉以前の,消えていく言葉の溶暗を表している。

吉増剛造の詩はこのように実に可視的なのです。
詩の言葉は別にストーリーの叙述という意味を創り出す作用だけに使われるのではなく,発せられる言葉に霊的な力が籠る「魂入れ」の儀式も兼ねている。

彼は執拗に銅板や石に刻もうとする。この刻んだり,打ち付けたりする行為は,永遠のためにでもあるが,実は詩の言葉も,時間や空間から自由になることはできないということを反語的に表現していることかもしれない。渾身の力で刻むのは心許ない詩を永遠に残る残響としての文字に変えようとする。自然や世界には読めない文字の「読みうる可能性」に満ちあふれていることを知らされる。

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歩行ガ,ユメノ,ナカノ,繁ル丘ニ,登ッテ,イッタ。
姿ガ,幽カニ浮カンデ,来テ,イタ。
薄イ,血ノ色,ニ,包マレ,テイタ。

奥デ,タズネル聲ガシタ。

少シ,姿ガ,崩レタカ。
吉増剛造『好摩,好摩』



つまずき,木魂,残響,気配,残像,そして溶暗。この境界線上のグラデーションは言葉で「明確さを追究する」使い方では決してできない。消えかかる闇やしじま,人は曖昧な夢でも泣くことさえできる。言葉になりかけては沈んで行くものがある。ほら。あそこにかすかな波紋が立っているだろう。声高な強い力を持った説得力のある言葉だけがこの世を変えるのではない。かすかなる波紋の立てる振動がやがてシンクロして増幅する。そしてこの世を覆い包むことがある。その見えないその変わり目を語る言葉がほしい。
その言葉は,かすかに立ちのぼる。木魂,残響,気配,残像。そして溶暗として使われ,書かれるべきものである。

橋本愛 木綿のハンカチーフ

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昨夜は満 29日撮影 場所は長沼八景の一つ,山ノ神秋の山ノ神神社から撮影

昨夜は満。この頃外国の満の紹介が出てきて3の満はワームムーンと言うのだそうです。日本の啓蟄に似たイメージなのでしょう。ちなみに12か月すべて載せますと次のようになるそうです。

1月: Wolf Moon/Old Moon(狼が空腹で遠吠えをする頃)
2月: Snow Moon/Hunger Moon(狩猟が困難になる頃)
3月: Worm Moon/Sap Moon(土から虫が顔を出す頃/メープル樹液が出る頃)
4月: Pink Moon(フロックス/Phlox というピンクの花が咲く頃)
5月: Flower Moon(花が咲く頃)
6月: Strawberry Moon(イチゴが熟す頃)
7月: Buck Moon(雄ジカの新しい枝角が出てくる頃)
8月: Sturgeon Moon(チョウザメが成熟し、漁を始める頃)
9月: Corn Moon(とうもろこしを採取する頃)
10月: Harvest Moon(収穫の頃)/Hunter’s Moon(狩猟を始める頃)
11月: Beaver Moon(毛皮にするビーバーを捕獲するための罠を仕掛ける頃)
12月: Cold Moon(冬の寒さが強まり、夜が長くなる頃)引用は「jungle city.com」から
わたしは日本独自の呼び方の方がいいのではないかと常々思っています。何せ日本人はつい最近まで旧暦で生活していたのですから。
ならばあなたは昨日の満月を何と言うのかと言われそうですが,わたしだったら「春の真ん中の満月」。又はこんな言葉はないかもしれませんが「中春の月」(中秋の名月をもじって)と呼ぶのもいいかなと思ったりします。旧暦では昨日は2月17日です。旧暦の春は1月2月3月が春ですから昨日の満月は春の季節の真ん中に当たっている満月となります。ですから「春の真ん中の満月」又は「中春の月」と呼んで見たのです。ワームムーンよりは季節感も分かっていいかなと思いますがどうでしょう。花々が咲くこの季節に合った言い方の方が日本にはあるような気がします。


さて,今日は橋本愛が歌う「木綿のハンカチーフ」についてお話したいです。
彼女が歌う「木綿のハンカチーフ」を初めて聴いた時,実はわたしは感動したのです。彼女の歌い方には賛否両論あるらしいことを後で知りましたが,わたしには喜ばしい衝撃でした。というのも日本の古来からの語りというものは橋本愛のこの歌い方のような魅力を持っていたのではなかったかと思ったのです。人の心の思いを言葉に乗せて表出すると語りとして現れ出てくる。この語りを更に歌の境界へ近づけていくと歌として自立してくる。橋本愛の「木綿のハンカチーフ」は語りと歌の境界を朧気に往き来しているように感じます。まあ,何よりもまず聴いてみてください。



如何だったでしょうか。
囁くような彼女の声が実にリアルです。わたしはこのような歌の原型を語りや囁きの中に見いだそうとする解釈もアリだと感じました。彼女の身体そのものから立ち上がっていく感情の声はまるで歌の源初状態,「前-歌い(Ur-sing)」のようです。歌の源初状態は歌詞という言葉を詠うところから始まります。「木綿のハンカチーフ」の歌詞自体が恋している男女の手紙のやりとりで構成されていますから手紙を読むという秘密めいた私的な空間での出来事なのです。その秘められた空間に互いの気持ちが立ち昇っていきます。25歳の彼女,橋本愛は言葉の詰まりやフレーズの最後の言葉の音の落とし,感情の高まりによる声の震えまで見事に再現していると感じました。これらの技術は実は歌を歌い上げる点では障害になっていると思わせる点で,そこを歌手として歌い切っていないと聴く人によっては感じさせてしまったことなのかもしれません。それにしても歌という中にこれ程の「素(す)」で臨み楽曲にしたこと自体がコロナという現代に合っているような気がします。

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燃え上がる夕焼け

わたしが橋本愛が歌う「木綿のハンカチーフ」を聴いたとき,ふと「安寿と厨子王」の安寿を思い浮かべました。人買いの山椒大夫に売られ,奴隷になる二人ですが,姉の安寿は弟の厨子王を逃がすために自分自身は沼に入水して果てます。
「語り」というのは物語ることです。そして物語るのは「説教物」のことを差しています。それらは「山椒大夫」であり,「苅萱」であり,「小栗判官」のことです。又は安徳天皇が入水する話です。この語り物によって物語は広く人々の心に深く浸透していきました。悲しすぎる現実が語られれば語られるほど涙を誘います。説教物では登場人物は痛めつけられ,とことんなぶられ,いじわるされ続けます。この物語を語る語りの技術,間の入れ方,声色の変化,沈黙,声の震え,声の落とし等がリアルな物語の場を演出させていったのでした。
ここでちょっと安寿の入水シーンを読んでみましょう。
「水に入りやがった。」
日暮れにならんとしているのに戻らぬ姉弟のことを聞いた大夫は怒りのままにどなり散らしすぐ追っ手を送り探させた。
そして沼のほとりにそろえてあった安寿のわら靴をみつけた。

「これが今生(こんじょう)の別れ」
彼女はそう心の中で呟いた。

弟の厨子王が山道を走って下ってゆく。後ろ姿がどんどん小さくなっていく。
そしてやがてかき消されるように彼方に見えなくなった。
16歳になったばかりのまだ幼さが残る安寿だが,姉としての彼女の目に芯のある光が見える。これでいいのだ。彼女は先程弟が下りていった山道をしっかりとした足取りで下りていって,坂のたもとにある沼にやってきた。
沼は木々の中に静まりかえっていた。
彼女はふと着物の懐に手を入れた。母親からもらったお守りをさわろうとしたのだった。しかしまさぐったその指はあきらめた。先程弟にそのお守りは渡したのだった。今走って逃げている弟の持っている地蔵菩薩に手を合わせて祈った。
「弟をお助け下さい。私の命に代えても。わたくしは大丈夫です。」
彼女は小さなわら靴を脱いで沼のほとりにそろえた。そして沼に身を投げた。


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光差す沼の道

橋本愛は「木綿のハンカチーフ」を歌う中で,見事に歌詞中の少女の内面をシンプルで,かつ限界までさらけ出して表現しました。それはある面で安寿のきりりとした果て方とは反対でありながら同じ別れというものを概念ではなくあくまで一人の少女の別れとして捉えた橋本の読みのひたむきさから繰り出されたリアルさなのでしょう。