Mr.ホームズの推理-アブダクション-

若柳駅 274-2s
ヒメオドリコソウ咲いて

先日テレビで「Mr.ホームズ 名探偵最後の事件(2015)」をしていました。おもしろかったので書いてみます。

93歳になったシャーロック・ホームズが物忘れに苦しみながら,最後の事件であるアン・ケルモット夫人の自殺を食い止められなかった後悔を綴る形で映画は進んでいきます。 監督はビル・コンドン。ミッチ・カリンの 『ミスター・ホームズ 名探偵最後の事件』(角川書店刊)を原作にしています。
と,始めてから今日で3回目となります。シャーロックホームズの「観察力」,そして「養蜂をするホームズ」
今日はいよいよ最も興味をそそる「ホームズの推理力」について書いてみます。

しばしばホームズは探偵に必要な条件を,「知識」「観察」「推理」としています。いつも通りホームズに語ってもらいましょう。『四つの署名』の「推理の科学」からです。
君が今朝ウィグモア街の郵便局に行ったと分かるのは観察のおかげだ。しかし君がそこで何時電報を打ったかを教えてくれるのは推理だ」
「その通りだ!」彼は言った。「どちらもその通りだ。しかし実を言うと、どうやって君がそれを知ったのか見当がつかない。あれは突然の気まぐれだったし、誰にも言っていない」
ワトソンが郵便局に行ったことがなぜ分かったのでしょうか。ここでホームズは観察と推理を明確に分けて話しています。
僕は、観察によって君の靴の甲の上に小さな赤い土が付着していることを知った。ウィグモア通りの郵便局のちょうど向かいで、敷石を剥がして土が掘り返されており、それを踏まずに中に入れないような積み上げ方をしている。その土は特徴ある赤味を帯びていて、僕の知る限り、この辺りではあの場所以外には見あたらない。ここまでが観察だ。後は推理になる」

「じゃ、どうやって、君は電報のことを推理したんだ?」
「まず、僕は君が手紙を書いていなかったことを知っている。僕は午前中ずっと君の向かいに座っていたんだからね。僕はそこにある机の中に、君が切手と分厚いハガキの束を置いているのも知っている。ということは、電報を打つ以外に郵便局に何の用があるというんだ?他の要因を取り除いていけば、残った一つが真実でなければならない」

つまりホームズの思考は,「ワトソンの靴に付いていた赤い土-特徴ある赤味を帯びた土-どこの土か-ウィクモア通りの向かいの郵便局の道路工事-郵便局に行った」と観察するわけです。この観察の中には様々な思考が隠されています。
「ワトソンの靴に付いていた赤い土」は観察です。注意の持ち方です。観察するときに何に注意が向けられているかがポイントです。ホームズは,みな同じ物を見ているのに見えていないとよく言うのは,観察する際の注意の向け方や特徴付ける発見が出来ていないと言っているわけです。

若柳駅 015-2s
西日差し込む車内

この注意の向け方はその人を特徴づける物を探す行為なわけです。観察は発見する行為です。そのまま他とは違う物を探し出すという類別や識別というもので観察は成り立っています。映画の中でアン・ケルモット夫人が偽造したサインで銀行からお金を引き出し,薬屋に行って毒薬を買い,次に駅に行き,駅のホームで見知らぬ男にその金を渡します。その金が何の報酬としての金なのかホームズは観察によって見事に言い当てます。会って金を渡した男は「石工」だと言います。ごつい体,ズボンにはつぎはぎがあり,少し汚れた靴,何よりも大きな手,筋肉のついた体,節くれ立った擦り傷の多い手。この特徴によって何かを作る労働者だと分かります。でもどうして「石工」なのでしょうか。これが推理が混じる部分です。ケルモット夫人は過去に二人の子どもを流産している,そのことが彼女の人生を変えてしまった。彼女の考えることや行動は亡き子どもにすべて向けられている。子どもの墓を建てることは十二分に考えられる。二人の亡き子どもの墓を建てることで,子どもの安寧を祈ること。彼女が駅で接触した普段は会いそうもないあの男は「石工」だ。そう考えます。
男を観察した特徴をケルモット夫人の考え方と結びつけていく思考が働いています。推理は断片的な事実を一つの流れに取り込みながら進められていきます。仮定の蓋然性が次の観察事実によって一番可能性の高い事実へと集約されていくのが推理です。こう考えていくとホームズの推理は観察,行動,結びつけ,可能性と吟味されながら一つにまとまっていく,特別に目新しいものではないようです。これが「アブダクション」といわれる考え方です。「アブダクション」は時に「遡及的思考」とも言われます。進んだり,戻ったりしながら可能性の高い事実へと進んでいく思考のことを言います。難しく言うとアブダクションの中に「帰納的な思考」も「演繹的な思考」も入っているわけです。多くの観察した事実から引き出される帰納も,観察した事実に自然と現われてくる原因を探る演繹も,そしてケルモット夫人が墓を作るという新事実を発見する思考する思考もアブダクションなのです。


若柳駅 329-2gs
夕陽沈む頃

アブダクションという思考は何も特別な思考ではありません。むしろ私たちが日常行っている考え方そのものがアブダクションと言っていいでしょう。ある新しい事実を発見する思考です。科学史を塗り替える程の,パラダイムを転換するほどの大発見もアブダクションということができます。シャーロックホームズは観察した事実から新しい事実を発見する思考,アブダクションの手練れであったと言えます。
われわれが何かを発想したり仮説しようとするとき、つまりは思考を開始するとき、まず先行的にアブダクションをしているのだろうとみなした。しかるのちにその第一次的なアブダクションによるおおざっぱな仮説が、それと関連するであろう観察事実とどのくらい近似しているかを帰納させたり、そこに必然的な帰結がありそうならば演繹的分析をおこなっていく。
しかしパースは、そのような帰納も演繹も実はアブダクション(第二次アブダクションや第三次アブダクション)にもとづいているのではないかとみなしたのだ。つまりはすべてはアブダクションに始まり、アブダクションに包まれていると見た。
                                            『パース著作集』を語る松岡正剛「千夜千冊」
パースの際立っている点は論理学に依りながらも人間の思考全体を「アブダクション」という生産活動として捉えた点です。帰納,演繹,シニフィアンとシニフィエ,イコン,三段論法,仮説,シンボル,インデックスという論理学が作り出したものをスルーして目的に辿り着く強さと柔らかさをパースの考え方は持っています。
「注意がたしかに後続する思考に大きな影響をおよぼすことを知る」この言葉はパース自身の言葉です。しかしシャーロックホームズと全く同じ言い方です。つまりアブダクションに始まって,アブダクションに終わるのです。

くりでん0912 131-2gs
沈黙に戻る

ではワトソンは郵便局に行って何をしたのか。ホームズは推理します。
「じゃ、どうやって、君は電報のことを推理したんだ?」
「まず、僕は君が手紙を書いていなかったことを知っている。僕は午前中ずっと君の向かいに座っていたんだからね。僕はそこにある机の中に、君が切手と分厚いハガキの束を置いているのも知っている。ということは、電報を打つ以外に郵便局に何の用があるというんだ?他の要因を取り除いていけば、残った一つが真実でなければならない」
こういうことです。①事務所でワトソンは手紙は書いていない②ワトソンの机の中には切手と分厚いハガキの束がある③ワトソンが机の中からハガキを出して書いたり,切手を貼った所を見ていない④推理-郵便局に行ったのはハガキを出すためではない。だから電報なのだ。
このアブダクションの中には隠されている様々な次元の違う事実も隠されています。つまり,ワトソンは手紙好きである。日常よく手紙を書いている。手紙を出すときには郵便局に行って出している。というような慣例的な事実も推理に影響を及ぼす前提というものがあるわけです。


今日の記事はいつものように書き下ろしで推敲無しで出しています。繋がらないところもあります。そこはごめんなさい。この話はもっと続きそうです。また書きます。


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白鳥の駅 雁の駅-アファナシエフ「ピアニストは語る」-

新田駅 047-2s
ハクチョウの駅雁の駅

テンプレートを変えました。
なんか思い切り写真を載せたいと思っていたのですが,なかなかできませんでした。
写真だけクリックしても中途半端な感じだし…。

スクロールしないとうまくいかないところもありますが,細かいところまで見ることができるようにします。またお付き合いください。

さて今日は最近読んで面白かった本です。先日バッハホールに来たヴァレリー・アファナシエフがインタビューで語った記録です。
ピアニストは語る
2015年のインタビューですから昨年ですね。
アファナシエフが非常に深い生き方をしているピアニストであると言うことがよく分かる一冊でした。文章も無駄がなく,なめらかで彼と握手した時の柔らかい肌を思い起こしました。インタビューにキケロやアリストテレスやプラトンが縦横無尽に引用され,それが全然取って付けたようなペダンチックな感じが全くせず,自然なのです。彼の演奏は,文学であり,哲学であり,思索であり詩や映画によってさらなる深みへと誘うものであると強く感じました。彼の音楽の魅力はそうした深い人生への構えから立ち昇っていたものだったのです。彼がボルヘスやムジール読んだのが亡命後だそうですから,ソ連には入っていない作家もいまだにいるんだなあと思いました。そのムジールが彼の飼っているネコの名前になったと言いますからやはりアファナシエフの嗜好はただならぬ感じはします。第一部の人生編では,ソ連という国の音楽教育から,コンクール出場が国家の威信を掛けたシステムとして成り立っている事情がよく分かるようになっています。亡命時のハラハラドキドキの顛末もまるでスパイ映画を見ているような感じになりました。どういうレッスンを受けていたか,演奏にはどういう考え方が必要か,手に取るように分かります。また指導する教授陣の持ち前のオリジナリティーがおもしろく描写されていることも人間味が感じられて面白いところです。師と仰ぐギレリスの,アファナシエフを温かく見守る心持ちや忘れられない過ぎ越しの夜の果てしなく続く演奏の夜など,ピアニストとして真摯に生きる姿に憧れてしまいました。
そんな彼が演奏上で独特の感覚に襲われ(これはウィリアム・ジェームスの「宗教的な経験の諸相」に出てきた一体感だと私は思いますが),旋律と和声の完全な調和を得たと思われる答えについてはまた別の機会に語りたいと思います。



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紅葉の朝-親鸞の他力とは-

栗駒紅葉 173-2s
日の出に浮かび上がる紅葉

以前の記事で吉本隆明の「親鸞」は名作に入るのではないかと書きました。あれから何回か読み,あまりにも自分の単純な浅はかさ加減を思い知らされた気がしました。それほど親鸞の行き着いた地平は実に厳格だったと思い知らされました。

親鸞
「親鸞」吉本隆明

まず私たち「凡夫」と言われる一般人は何か道徳的に,良い事を行えば極楽に行ける的な考え方がどこかにあって生活をしています。多くはそうした「積善信仰」と言われている心持ちが信仰の基盤になっています。小さな善をこつこつと重ねることで自分の罪が洗い清められ,成仏への道が開けていく。神仏を敬い,先祖を敬い無心に拝むことも大切です。その無心さゆえに人の心を打ち,願いが遂げられることもありました。お言葉に,歌に,儀式に,一人の祈りの言葉に,念仏に,ひたすら無心に人は追い続けてきたものがあります。

しかし親鸞はそんな楽観的で,健康的な信仰の姿が本当に成仏の保証となるのか,欲で成仏を願うことは不遜な行為ではないか,念仏を唱えることは確かに悪いことではない,しかしそれが本当に極楽にたどり着く保証となるのだろうか。仏道に仕える者が修行し,念仏を唱えるだけで極楽に行けると教えて果たして良いものだろうか。人間の行うことは私欲以外の何において仏の教えに叶うと言うことができるのでしょうか。突き詰めていけば,何もはっきりとした往生の道はないのです。親鸞はそこを突き抜けていきました。そのような疑問の答えを個々の信仰の責任の中に丸投げして,投機しているだけに過ぎないとしたら。

或る僧が親鸞に言いました。「わたしもたまに念仏を唱えることに迷いが生じます」
親鸞は答えました。「わたしにもそのようなことがあります。そうした時には休むことです。」

何を一生懸命に信じて行ってもそれが仏の道である保証はない。

親鸞の究極の言葉は続きます。
「面々(おのおの)の計(はかり)りごとなり」

この意味は,次のように取れます。

「一人一人が自分の考えでよろしい」

我欲をただ突き通すより,真実と思われる幻のまっただ中でもだえ苦しむよりも
「面々(おのおの)の計(はかり)りごとなり」
「一人一人が自分の考えでよろしい」

親鸞の言う「発心(ほっしん)」はこのような人々の我欲の果てに現われる根本的な信仰への疑問という地平から立ち昇ってきます。
ここに「他力」という本来の仏にすがる道が現われます。

栗駒紅葉 100-2s
ブナの林に朝日差す

念仏を唱えるだけで極楽浄土に行ける
善を重ねれば極楽浄土に行ける

親鸞の言う「他力」はそんな安易で楽観的な頼るということではありません。実は人間の真の平等とは何かという地平まで下りたって「他力」の条件とは何かを指し示したのでした。これは人間の救いを根本から考え直した鋭利な思想の到達点でした。良いことをする人間,悪いことをした人間。すべて「面々(おのおの)の計(はかり)りごとなり」しかしそうした人間のすべてが「発心」することで本願を遂げることができる。発心することに良い人,悪い人はない。人はみな平等。






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霧深く

のの岳霧深く 008-2s
霧深く

日の出とともに昇る朝日と鉄道を入れようと山の頂上へ
ところが霧が深く,いつまでたっても晴れません。

あきらめて山から下りてきました。

親鸞
吉本隆明による親鸞

今更ながらこれって名著に入るかもしれません。
勢いのある文章。久し振りのフルスロットルという感じです。この勢いで彼は文章にてこの世に「還ってくるか」という思いになりました。


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観察眼と言われることについて

栗駒湿原に再会 324-2s
ブナの葉残る

またうろうろとブナの林を歩きながら感じたことを書きます。

目的もなくぶらつくという歩き方の効用は様々な発見の糸口をつかむのに実に適しています。

私たちの生活はどうしても目的に対してどのように効率的に処理していくかという流れで考えますから,目的が叶う世界の中にいて,いらないことは大胆に捨てることもあるのです。結構自分の目的のために他の人の意見も聞かないということもしばしばです。仕事でも家庭でもこんなことはよく起きていて,あるときに致命的な亀裂になって出てくることもあります。例えば今頃の残雪が多い時期に起伏の少ない山を歩いていると迷うのです。すると,自分勝手にこっちは来たからあっちだと思い込みの論理が働き始めます。世界を勝手に自分流に眺め変えてしまい,さらに堂々巡りに陥ることがあります。

そこで私自身は基本として,来た自分の足跡を忠実に戻ること。次に違う道に入ってから戻った時にストックで大きく×印をつけておいてまた道をそれてしまわないようにすること。通過した場合に見た特徴のある木には色テープをつけておくこと。湿原を見つけたりしてルートから外れる場合には出だしのポイントをしっかり目に焼き付けておいて,その方向から見た写真を撮っておくことなどして少しずつ練習を重ねてきました。もちろん地図やコンパスも使って確認することも心掛けます。こんな確認作業を身に付けることでちょっとずつ雪のある山ややぶこぎにも慣れていきました。しかしあえて必要もないのに危険な歩き方をしないことが一番です。
安全に歩くことで観察眼も養われていくことでしょう。例えば残雪のブナ林を歩いていてどんなことを見つけて,どんなことを思ったのかを紹介しましょう。早春の山を歩くとなんと言っても目に着くのが,動物たちの残したものです。足跡,糞,食痕,引っ掻いた跡・・・。そんなものが目に着きますね。

次の動物の足跡を見て下さい。

栗駒湿原に再会 465-2s
イタチやテンのような足跡ですね。

ウサギの足跡のようにTの字型です。しかし前に並んだ足は後ろ足なのでしょうか。どうもジャンプしながら進んでいるようです。後ろの足跡には左が前,右が後ろとクロスしたような感じがします。後ろの右が先に着地してすぐ前の左が次に着地したのではと思わせます。そこではっきりしないので,進行方向の足跡を見てみました。次の写真です。

栗駒湿原に再会 468-2s
次の足跡

後ろの足跡を見ましたか,一枚目の写真と足の置き方が左右逆ですよね。足の蹴り方や着地の仕方が右左(みぎひだり)次は左右(ひだりみぎ)と交互に蹴ったり,着地していることが分かります。こんな当たり前でくだらないと思われる発見が次の疑問へのステップになるのです。これが観察眼を養うこととなります。
ファーブルもこのような観察眼の鉄人でした。ファーブルと言ったら「昆虫記」ですが,案外知られていませんがファーブルの「植物記」も私はすごいと思います。観察眼のある人は,昆虫でも,植物でも,動物でも的確に観察することが出来ます。随分前に紹介した串田孫一も鋭い観察眼の持ち主でした。こういう人達は学者や研究者だけでなくてもたくさんいます。自然が好きだという人たちです。大航海時代から18世紀の博物学の時代のアカデミーの論争は世界を秩序だった知でまとめ上げるという知的好奇心に飲み込まれていた時代でした。今読んでもわくわくすることがたくさんあります。

例えば高村光太郎の「山の雪」は中学校の教科書にも載っていた時代がありました。
(前略)ヤマウサギの足あとで、これはだれにでもすぐわかる。いなかにすんでいた人は知っているだろうが、ウサギの足あとは、ほかのけもののとちがって、おもしろい形をしている。ちょうどローマ字のTのような形で、前の方によこに二つならんで大きな足あとがあり、そのうしろに、たてに二つの小さな足あとがある。うしろにあるたての小さい二つがウサギの前あしで、前の方にある大きいよこならびの二つがウサギの後あしである。ウサギの後あしは前あしよりも大きく、あるく時、前あしをついて、ぴょんととぶと大きな後あしが、前あしよりも前の方へ出るのである。このおもしろい足あとが雪の上に曲線をかいてどこまでもつづく。その線がいく本もあちらにもこちらにもある。小屋のそとの井戸のへんまできていることもある。井戸のあたりにおいた青ものや、くだものをたべにきたものと見える。
 そのウサギをとりにキツネがくる。キツネは小屋のうしろの山の中にすんでいて、夜になるとこのへんまで出てくる。キツネの足あとはイヌのとはちがう。イヌのは足あとが二列にならんでつづいているが、キツネのは一列につづいている。そしてうしろの方へ雪がけってある。つまり女の人がハイヒールのくつでうまくあるくように、一直線上をあるく。四本のあしだから、なかなかむずかしいだろうとおもうが、うまい。キツネはおしゃれだなあとおもう。(中略)キツネがあるくと、カラスがいればさわいで鳴くからじきわかる。
 ウサギや、キツネのほかに、イタチの足あと、ネズミの足あと、ネコの足あと、みんなちがう。ネズミの足あとなどは、まるでゆうびん切手のミシンの線のようにきれいにこまかく、てんてんてんてんとつづいて、さいごに小屋のえんの下のところへきている。これは二列になっていて、雪がうしろへけってない。イタチのも二列。
 おもしろいのは人間の足あとで、ゴム靴でも、地下足袋じかたびでも、わらぐつでも、あるき方がひとりひとりちがうので、足あとをみると誰があるいたかたいていわかる。大またの人、小またの人、よたよたとあるく人、しゃんしゃんとあるく人、前のめりの人、そっている人、みなわかる。わたしの靴は十二文という大きさなので、これは村でもほかにないからすぐわかる。ゴム靴のうらのもようでもわかる。あるき方のうまい人や、まずい人があるが、雪の中では小またにこまかくあるく方がくたびれないといわれている。両足をよこにひらいてあるくのがいちばんくたびれるようだ。靴のかかとをまげる人のもくたびれそうだ。これはからだのまがっている人、内ぞうのどこかわるい人のだ。
足跡だけで内蔵が悪いことまで分かる。たかが足跡だが,されど足跡である。まさにシャーロックホームズ的な推理がなりたっていくのです。これが観察眼というものでしょう。
次の写真を見て下さい。

栗駒湿原に再会 519-2s
池塘の雪解け

私たちは広範囲の景色を一瞬にして見て様々なことを判断しています。幾分池塘の水の反射や写り込みといったものや中島があること,池塘の広さ,奥の樹木はブナだろうか。と言ったものに注目して,写真の世界を読み込んでいきます。そしてそれによって引き出される感情も体感しています。暗い景色だ等々。
着眼点が違うとその人の理解や共感の度合いも最初から違ってきます。観察眼というものが,見たその人の作品の味わい方を根底から決定してしまっているのです。これはとても大きなことです。ただ見て,ピカソがさっぱり分からない。興味があってピカソのことを知って,作品を見に行ったでは全く違う理解となるでしょう。観察眼が養われていく過程が,人のものの考え方,人生のとらえ方まで左右することとなります。

ここでさっき見た池塘の写真の上のブナだけ切り取ってみましょう。

栗駒湿原に再会 519-2-1s
ブナ林

まったく違った印象になると思います。
全体を一瞬にして見て判断している動物としての私たちが,改めてしぶとく世界をじっくりと眺めることでぐっと印象が違ってきます。つまり写真,絵画,映画と言われるビジュアル系だけでなく,文学や詩でも,ゲイジュツはある面で作者は深さが要求される使命を負っていることということなのです。作り手はいつもそんな追究性が試されていて,見る側は作り手と渡り合う程の観察眼が駆使されることで「作品の快楽」がこの世に生まれていくこととなるのでしょう。



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