2021/03/30

昨夜は満
月 29日撮影 場所は
長沼八景の一つ,山ノ神秋
月の山ノ神神社から撮影
昨夜は満
月。この頃外国の満
月の紹介が出てきて3
月の満
月はワームムーンと言うのだそうです。日本の啓蟄に似たイメージなのでしょう。ちなみに12か月すべて載せますと次のようになるそうです。
1月: Wolf Moon/Old Moon(狼が空腹で遠吠えをする頃)
2月: Snow Moon/Hunger Moon(狩猟が困難になる頃)
3月: Worm Moon/Sap Moon(土から虫が顔を出す頃/メープル樹液が出る頃)
4月: Pink Moon(フロックス/Phlox というピンクの花が咲く頃)
5月: Flower Moon(花が咲く頃)
6月: Strawberry Moon(イチゴが熟す頃)
7月: Buck Moon(雄ジカの新しい枝角が出てくる頃)
8月: Sturgeon Moon(チョウザメが成熟し、漁を始める頃)
9月: Corn Moon(とうもろこしを採取する頃)
10月: Harvest Moon(収穫の頃)/Hunter’s Moon(狩猟を始める頃)
11月: Beaver Moon(毛皮にするビーバーを捕獲するための罠を仕掛ける頃)
12月: Cold Moon(冬の寒さが強まり、夜が長くなる頃)引用は「jungle city.com」から
わたしは日本独自の呼び方の方がいいのではないかと常々思っています。何せ日本人はつい最近まで旧暦で生活していたのですから。
ならばあなたは昨日の満月を何と言うのかと言われそうですが,わたしだったら「春の真ん中の満月」。又はこんな言葉はないかもしれませんが「中春の月」(中秋の名月をもじって)と呼ぶのもいいかなと思ったりします。旧暦では昨日は2月17日です。旧暦の春は1月2月3月が春ですから昨日の満月は春の季節の真ん中に当たっている満月となります。ですから「春の真ん中の満月」又は「中春の月」と呼んで見たのです。ワームムーンよりは季節感も分かっていいかなと思いますがどうでしょう。花々が咲くこの季節に合った言い方の方が日本にはあるような気がします。
さて,今日は橋本愛が歌う「木綿のハンカチーフ」についてお話したいです。
彼女が歌う「木綿のハンカチーフ」を初めて聴いた時,実はわたしは感動したのです。彼女の歌い方には賛否両論あるらしいことを後で知りましたが,わたしには喜ばしい衝撃でした。というのも日本の古来からの語りというものは橋本愛のこの歌い方のような魅力を持っていたのではなかったかと思ったのです。人の心の思いを言葉に乗せて表出すると語りとして現れ出てくる。この語りを更に歌の境界へ近づけていくと歌として自立してくる。橋本愛の「木綿のハンカチーフ」は語りと歌の境界を朧気に往き来しているように感じます。まあ,何よりもまず聴いてみてください。
如何だったでしょうか。
囁くような彼女の声が実にリアルです。わたしはこのような歌の原型を語りや囁きの中に見いだそうとする解釈もアリだと感じました。彼女の身体そのものから立ち上がっていく感情の声はまるで歌の源初状態,「前-歌い(Ur-sing)」のようです。歌の源初状態は歌詞という言葉を詠うところから始まります。「木綿のハンカチーフ」の歌詞自体が恋している男女の手紙のやりとりで構成されていますから手紙を読むという秘密めいた私的な空間での出来事なのです。その秘められた空間に互いの気持ちが立ち昇っていきます。25歳の彼女,橋本愛は言葉の詰まりやフレーズの最後の言葉の音の落とし,感情の高まりによる声の震えまで見事に再現していると感じました。これらの技術は実は歌を歌い上げる点では障害になっていると思わせる点で,そこを歌手として歌い切っていないと聴く人によっては感じさせてしまったことなのかもしれません。それにしても歌という中にこれ程の「素(す)」で臨み楽曲にしたこと自体がコロナという現代に合っているような気がします。

燃え上がる夕焼け
わたしが橋本愛が歌う「木綿のハンカチーフ」を聴いたとき,ふと「安寿と厨子王」の安寿を思い浮かべました。人買いの山椒大夫に売られ,奴隷になる二人ですが,姉の安寿は弟の厨子王を逃がすために自分自身は沼に入水して果てます。
「語り」というのは物語ることです。そして物語るのは「説教物」のことを差しています。それらは「山椒大夫」であり,「苅萱」であり,「小栗判官」のことです。又は安徳天皇が入水する話です。この語り物によって物語は広く人々の心に深く浸透していきました。悲しすぎる現実が語られれば語られるほど涙を誘います。説教物では登場人物は痛めつけられ,とことんなぶられ,いじわるされ続けます。この物語を語る語りの技術,間の入れ方,声色の変化,沈黙,声の震え,声の落とし等がリアルな物語の場を演出させていったのでした。
ここでちょっと安寿の入水シーンを読んでみましょう。
「水に入りやがった。」
日暮れにならんとしているのに戻らぬ姉弟のことを聞いた大夫は怒りのままにどなり散らしすぐ追っ手を送り探させた。
そして沼のほとりにそろえてあった安寿のわら靴をみつけた。
「これが今生(こんじょう)の別れ」
彼女はそう心の中で呟いた。
弟の厨子王が山道を走って下ってゆく。後ろ姿がどんどん小さくなっていく。
そしてやがてかき消されるように彼方に見えなくなった。
16歳になったばかりのまだ幼さが残る安寿だが,姉としての彼女の目に芯のある光が見える。これでいいのだ。彼女は先程弟が下りていった山道をしっかりとした足取りで下りていって,坂のたもとにある沼にやってきた。
沼は木々の中に静まりかえっていた。
彼女はふと着物の懐に手を入れた。母親からもらったお守りをさわろうとしたのだった。しかしまさぐったその指はあきらめた。先程弟にそのお守りは渡したのだった。今走って逃げている弟の持っている地蔵菩薩に手を合わせて祈った。
「弟をお助け下さい。私の命に代えても。わたくしは大丈夫です。」
彼女は小さなわら靴を脱いで沼のほとりにそろえた。そして沼に身を投げた。

光差す沼の道
橋本愛は「木綿のハンカチーフ」を歌う中で,見事に歌詞中の少女の内面をシンプルで,かつ限界までさらけ出して表現しました。それはある面で安寿のきりりとした果て方とは反対でありながら同じ別れというものを概念ではなくあくまで一人の少女の別れとして捉えた橋本の読みのひたむきさから繰り出されたリアルさなのでしょう。