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11月伊豆沼読書会のお知らせ

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霜が降りた朝

ハクチョウが多くなり,大分賑やかになってきました。

伊豆沼読書会のお知らせです
今度の土曜日25日
場所 登米市伊豆沼・内沼サンクチュアリーセンター
13:30~

内容は「巫女,坊様による口寄せ」です


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台湾の昔話「七爺八爺(ちーやぺーや)」を聴いた

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今朝のハスの景色

土曜日の伊豆沼読書会に,インターンシップとして台湾から来日している大学生のお二人に来てもらって,台湾の昔話を聴いた。
「死神」というタイトルで,どんな話かと思ったが,固い友情や信頼を感じさせる良い話だった。家で改めて調べてみたら「七爺八爺(ちーやぺーや)」という話だった。台湾ではお年寄りから子どもまで,絶大な人気を誇る話らしい。

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河北新報に載った二人の記事


ある日、七爺と八爺の二人は外にいる時、大雨に降られました。
二人は,仕方なく雨をしのいで,近くの橋の下で雨宿りをすることにしました。七爺は
「わたしが家に行き,傘を持ってくるからここで待っていてくれ」
と八爺に話して雨の中,家に走りました。
ところが,いくら待っても七爺は戻ってきません。
八爺は七爺との約束を守り,七爺が来ることを信じて,橋の下で待ち続けました。
強い雨にあっという間に川の水かさは増して,背が低かった八爺は濁流に呑まれて死んでしまいました。
後から来た七爺は、自分の犯してしまった罪を深く恥じて,八爺が流された同じ場所で川に身を投げました。ところが身長が高くて溺れませんでした。七爺はその川の橋の欄干に紐を括り、首吊り自殺しました。

それをみた天帝や地獄の偉い人が、義兄弟の誓いを守った忠義な心と、不憫さに二人をまとめて地獄の門番として使い,真面目に勤め,今では地獄の八家將の一員にまでなったといいいます。
という話でした。なかなか感動的な話です。何よりも二人は殆ど支障なく日本語を理解し,話すことができます。すばらしいと思いました。

さて読書会では,伊藤正子さんの笑い話,特に「馬鹿婿」を取り上げて進めました。台湾から来た二人もどうやら「馬鹿婿」のおもしろさが分かったようで,くすくす笑っていました。来てくれてありがとう。

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今朝のハスの景色

次回の伊豆沼読書会は,一か月おいて,9月30日の予定です。

発音が横滑りする転訛の例2「ダイコク・ウガ・ソウゼン」

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ハス咲く揃う 7月12日撮影 長沼

先日「発音が横滑りする転訛の例「ショウトク」」という記事を書きました。
今日は,その続きになります。
今日紹介する「ダイコクさま」は,同じ発音ながら,違う神や仏を指し示していて,混同してしまいます。
まず,「大国主の尊(おおくにぬしのみこと)」音読みすれば,「ダイコク」
次に「大己貴神(おおなむちのかみ)」音読みすれば,「ダイコキ」引きづられて「ダイコク」
次に「大黒さま」そのまま読んで「ダイコク」
当初は,この三種類の性格も違う神様を別様に漢字を当てていたのでしょうが,発音が同じ事から「ダイコクさま」に収斂していってしまったのでしょう。これは,やはり話し言葉の連絡の中で,同じ発音なので同じものを指し示すようになっていった例でしょう。

例えば「倉稲之御魂之神」と書いて「うが(か)のみたまの神」と読み,別にも「宇迦之御魂の神(うかのみたまのかみ)」という表記があり,更に「宇賀神(うがしん)」があり,「うか-うか-うが」と同じ発音なので,いっしょくたにまとめられていきます。

また,「お蒼前さま」という馬の神様がいます。この「ソウゼン」が,勝善,小善,想善,蒼前,宗善,宗膳とどんどん当て字が拡張していって,意味が横滑りしていくのです。柳田国男の記事にも出て来ますが,秋田の例を見てみると,「そうぜん」という発音から,意味がどんどん横滑りしていく様子が分かります。
元々は「ソウゼン」ですが,文字に起こすと「相染(そうぜん)」。ここから転じて,相染(あいせん)また,転音して「愛染」となり,馬の神様がいつの間にか,愛染明王と結びつくことになるのです。

今の世ですと,書いた文字と発音と意味が一致するようになっており,誤解無く受け取り,理解することができますが,今日の例は,話し言葉が中心だった時代の人々の思考様式を知る,貴重な資料となると思います。


聴くことは戦い

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今日のさんぽ道

「聴くことは戦い」というタイトルは,昔話採訪家の小野和子さんがテレビで言っていた言葉だ。
「聴く」ということは,受動的でありながら,全身で集中して聴かないと,相手の思いを受け入れることはできないと小野さんは言う。その通りである。人は相手の言うことを自分勝手に解釈し,自分勝手に判断を下している。相手に知って貰うために会話しているのに,その会話はそれぞれの思いとはかけ離れた方向へ逸れていく。日常で繰り広げられる私たちの会話がまるで何かに追われているように短絡的になっていて,用件ばかりを言い,その字面を,そのままに相手の考えと速断しているから尚更だ。

今年,伊豆沼読書会は伊藤正子さんの昔話を取り上げている。そこで,私自身も伊藤正子さんの残した昔話の録音をよく聴くようになった。ところがである。聴くことに集中することは案外に難しく,ちょっと集中が途切れるとはっと気付いた時には,もう聞き落としてしまっていることが多い。この頃の私はどうも聴く力が落ちているらしい。見て理解する世界にあまりに慣れすぎたのだと思う。それでも,毎日ラジオなどはよく聴いているのだが・・・。

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