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かま神の星氏との思い出4

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内沼 マガンの飛立ち 10月31日

かま神の星さんという人は作品絶対主義だつた。
作品こそが今の自分のすべてであるという考え方で53年もの創作活動を続けてきた。
実は芸術家と言われる人の中には案外有名になってから手を抜く人がいる。また,何か役職に就くことで本来の創作活動から離れてしまう人もいる。このような輩からすれば,星さんという人は随分と実直に,真剣に,彫刻というものに向き合ってきた人だと思う。だから作品を一目見ただけで,その作品自体から醸される空気で作品の質が分かる。出会った作品の鑑賞というものも実は直感なのだと思う。
「作品は売らない」とよく言っていた。
ほしいという人も随分居ただろうけれど,頑なにそう言っていたのは,頑固という性格だけではないと思う。例えば西行の和歌に対し,聖のくせに和歌ばかり詠んでいてお遊びが過ぎるという批判が実際あった。当時は聖だって誰だって和歌ぐらいたしなむだろうが,人の欲目とはすぐそういう風に人をおとしめるのである。高山寺にいた明恵上人も和歌は好きで,自分でも詠んだが,西行と出会ってから人目を気にしてか,あまり表面には和歌を出さなくなった。高僧でもそんなことがあるのである。実際西行の和歌はたくさんの選者に持ち上げられ,今に伝えられている。彼の和歌の素晴らしさを見抜いて,作品を残そうとしたのは同人達である。

ところが,結社にも属さず,真面目にこつこつと,たった一人で創作を続けている,星さんのような優れた芸術家も,結構いる。「売らない」という彼の態度の真意は,作品や作品づくりが金に換算されることを忌み嫌っていた節がある。こんなことがあったと彼は言った。真剣に何度も工房を訪れ,作品を譲ってほしいと頼み込む人がいた。聞けば,家族の供養のためだと言う。誰だって供養のためと,真剣に何度も請われれば,「こんな作品でも人の為に役に立てば」と譲ったそうである。そして,わずかな御礼を受け取った。しかし,後日,そこの息子が来て,仏像などを売りつけて,詐欺罪で訴えてやると息巻かれたそうである。人の真心というものが分からないのが,実は身近な家族でもある。
この時の星さんの落胆ぶりはよっぽど大きかった。なぜなら,その話を私に何回もしてくれた。でもこれに懲りて,「売らない」というのではない。何よりも星さんにとって,作品は彼の思索と求道の現在の表現形だった。お金には換算できない,出来上がった作品がそのまま彼の魂の現在を写しだす本尊となり,同時に自らの不足を教えてくれるものだったのだ。星さんを見ていて,作品絶対主義と,誰に見られなくても質の高い作品を作り続ける情熱こそ,真の芸術家だと今更ながら星さんから教えられたのである。

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星さんの作品「阿弥陀如来聖衆来迎図」レリーフ 2022年
番号は解説の都合上,私が振った番号です

星さんの遺作は今年4月完成の「空也上人像」となりました。
空也上人の,様々な権力というものから解き放たれた自由を求め,彷徨う姿が,星さんの真の自由を体現するという意志の最後の証拠のように思えてなりません。不思議なことに,空也上人の尊顔が星さんの顔と妙に似ているのでした。

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栗駒山 雪のブナ
星さんのことを思うと,この写真と重なるような気がします。



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かま神の星氏との思い出3

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枯れ蓮の妙味

図録をつくりたいと私は言った
「かま神さまとそのなかまたち展」が始まる時,そう言った
「大変だから,つくらなくていいよ」
大変だというのは,あなたに面倒を掛けてしまうからという意味だ。でもどうしてもつくらないといけないと,実は今でも思っている。
自分がプロモートした企画であるから,展覧会の図録をつくり記録を残してまでが仕事だという気持ちでいた。

そして作品の撮影が始まった。
しかしである。作品がうまく撮れないのだ。はっきり言うと作品の質に見合った写真にならないのだ。作品の一つ一つが「強すぎる」というか,作品が持っている「エネルギーが停止を許さない」のである。そこで,作品を自然の中に置くことにした。それも薄明とか,薄暮とかの世界が落ち着き始める時間帯の流れと作品の呼吸を合わせたいと感じた。そうでもしないと作品の一つ一つが成仏しないというか,落ち着いてくれないのである。そして,星さんの家の庭に試しに作品を一つ置いた。ところが,作品は全く違ったように振る舞い始めた。自然の中に埋没してしまったのである。いくら撮っても作品の個性が現われてこなくなった。しかたなく照明を変え,真っ暗な中に作品を置き,ろうそくの光の明滅で撮ることにした。しかし,それも作品に対して合わなかった。作品から現れ出る輪郭が暗闇に埋没してしまった。

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霧の朝

本当に妙なことである。
写真に撮ることが不可能になったのである。
私は自分の未熟さを恥じた。写真ではうまく撮りきることができないものがあると知って,正直ショックだった。
とにかく自分自身が星さんの作品が語るものをしっかり把握できるまで成長しなければ,いつまでも撮れないだろうと思い,撮影をあきらめたのである。
そして一旦星さんの作品から離れることにした。その間に私には妻が死に,供養のための山伏修行もしたが,そんな独りよがりな格闘の日々の中,星さんが先日亡くなってしまった。正直,しまったと思った。取り交わした約束を私は反故にしたままである。



かま神の星氏との思い出2

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朝の漁 内沼 昨日

今年の4月末の頃だったと思う
突然星氏から見せたいものがあると電話が来た
早速行ってみると,これが今年の作品だと言って高さ2尺ほどの「空也上人像」を見せてくれた
「そうか。星さんは空也上人まで辿り着いたのか」と,遙か遠い道を来て,その果てに空也上人を見つけたという星氏の感慨に共感した。見れば2023と年まで台座に彫っている。今年はこれだと念を押された。
思うに昨年2022年は大作「阿弥陀聖衆来迎図」である。レリーフにして実に細かいところまで彫られている。大体が「阿弥陀聖衆来迎図」を現代で取り上げる事自体が斬新だと思った。
「阿弥陀聖衆来迎図」から「空也上人」へ
作品の変遷から,星さんの心の中を探ってみる。
ずばり,迎えに来てもらう「阿弥陀聖衆来迎図」の「待ち」の姿勢から,「空也上人」の称名念仏の高らかな声による自力による「成仏」への変化である。星さんの作品の題材の求め方は,何も言わずとも星さんの心の願うもの-思想の遍歴-を忠実になぞっているのだ。星さんは作品の詳しい説明を好まなかった。むしろ作品を見てほしいとだけ言い,固く沈黙を守る方だ。その方がいい。だって人は勝手に嘘を並べ,虚言を呈しては他人の気に入るように喋るのだ。星さんはそのことを知っていたと思う。とにかく作品を見て,何かを感じてほしいとだけ繰り返していた。
星さんは,きらびやかな平等院の「阿弥陀聖衆来迎図」から,いよいよ脱却して,自身が求めていた一人旅,たった一人の「空也上人」として旅立つことを望んだのだ。
星氏のこの究極の選択,ひとり歩く道にこそ,孤高のかま神芸術家にふさわしい生き様が刻まれている。
星氏の冥福を祈ります。


神仏の違い-かま神の星氏との思い出-

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朝 昨日撮影

かま神で有名な星氏が亡くなったそうである。
昨年に氏の作品展「かま神さまとそのなかまたち」を開催して以来,氏から多くの話を聞いてきた。
その思い出を少し述べることで氏の冥福を祈りたい。

木について
彫刻家である氏は,よくこう言っていた。
「木の中からそのお姿が現われるまでは何を彫ろうとしているのか私にも分からない」
つまり木の中に彫りだしてほしいお姿が隠れていらっしゃるという。彫る人間側の目論見ではうまくいかないと言うのである。
氏の最初の作品は先祖代々の内墓があるところに年代も推し測ることができない程の赤松の大木があった。その松の大木が台風で倒れそうになり,やむなく切り倒すことになった。その松で「雲中音声菩薩」と「如意輪観音菩薩」を彫った。この作品は木が切り倒されて50年も過ぎているのに,木がまだ生きているかと感じられるほど重かった。そして年月が経るほどにつやつやと松ヤニが浮かび上がり,作品自らが光り続けている。氏は,ケヤキ,マツ,タイワンヒノキ,カツラ,ヤナギ,ヒノキ,エンジュ,クリ等の木材を用いていたが,かま神を彫るにはクリが一番よいと言う。
「クリは細工が楽で,乾燥してからもひずみが少ない」
縄文時代からクリは木工でも用いられていたと感じた。それにしても年々光を増す作品群に驚き,私はこう尋ねた。

「木を彫っていて,何か霊的な,怨念のような思いを感じたことはありますか」

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朝 昨日撮影

というのも羽黒山縁起の中に次のような記述があったのを思い出したからだ。
「酒田の湊に浮木あり。 幸、桑の木なり。 夜毎に光をはなつ。 件の木を以て軍荼利・妙見、脇士の二像を加造し奉り、参払理の大臣、斧を取給へば三十二の妙相あり。 われ慈悲の眸り新たにて、連眼瞬くごとし。 一度削りて三礼し奉れば、既に木身額きたまへり。 伽藍に居奉り、羽黒三所権現と仰奉る者也。」
つまの夜ごとに妖しい光を放つ流木を,蜂子皇子(能除大師,参払理の大臣)が怨念を沈めて,成仏させるために「軍荼利・妙見、脇士の二像」を彫ったのである。

すると氏は,目を輝かせてこう言った。
「あるよ。何かの思いが木から噴き出して,眠れないことがよくあった。そんなに時には何日か寝ないで彫り続けるんだ」
「寝ていても,彫っている間は,顔はこうだ,手はこうだと夢に出てくる。そうした時にはすぐ飛び起きて鑿(のみ)を握る」

展覧会をするために「仏師 星剛(たけし)」と,肩書きを書いたら,氏はすぐ否定した。
「仏師というのは売るために仏像を彫る職業人のことだよ。私は金のために彫ったことはないよ。」
そして「木彫創作家」という肩書きは,どうですかと言ったら,氏は納得された。

思い出は尽きない。


水辺のアジール-伊豆沼からのたより2-

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伊豆沼夕景 昨夕8月12日

さっきお盆の迎え火を焚いた
ゆらゆらとゆらめく炎にいつしか考えることが吸われていた
心が吸われてしまうということは,火もそうだが,水を見てもよく起こることだ
心を,意識と置き換えてもいい
心や意識が自分の処ではなく,見ている対象に乗り移ってしまうことを言っている
どうかして人は,ゆらめくものを見つめてしまうと,心が吸われてしまう。
これは,ごく自然なことなのだ。

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夏の朝

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