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さくら詣り2023⑯-やわらかい声-

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雨もよう

宮沢賢治の「おきなぐさ」を聞いていたとき
「花芽」を「かが」と読んだ
やはり「はなめ」と読んだ方がかわいい
漢字の世界に染まり過ぎて
声や考え方までカチカチに,堅くなってしまっている
もっとやわらかい
かなの優しさや美しさを声に乗せる
声というのは,愛おしく散る花びらのように
この世に生まれ出てほしい

私たちはそんなことばの世界にいたい




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さくら詣り2023⑮-出会い-

桑畑の桜3完成形s
桑畑の桜 光が当たった場合

今年の桜との出会いも終わりに近づいている。
思い出せば今年新しく出会った,数本の櫻との思い出もできた。
大崎市田尻中小塩の枝垂れ桜
石巻市北上町女川 薬師の櫻
石巻市皿貝観音寺のしだれ桜
いずれも堂々とした櫻の古木だった

4月12日早朝
空気がうるんでいる
雨が近いのだ
ほんの少しの風
櫻が一斉に散り始めた
雨に当たる前に
自分の意志で散ろうとしている
風でもない
雨でもない
そんな何かに突き動かされているのではないな
あくまで自分の
熟するときに櫻は前触れもなく
一斉に散る
またたく間に地面が桜色になる
地で咲く

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為内の櫻

先日NHKの夜の7時のニュースで全国放映された為内の櫻
そう言えば,高速を飛ばし,私も行った。
夜通し撮影して,夜が明けたら,桜の後ろにどかんと岩手山があった
素晴らしいロケーションだった

岩手は風景が宮城より一回りも大きい気がする


さくら詣り2023⑭-夜の櫻を撮る-

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天の川とともに

どうしても櫻と天の川を組み合わせたいと,撮影は夜になる。
撮影を続けていると,昼はあまりにも眼に見えるものが多すぎると気付いて,眼をふたぎたくなる。まるで見え過ぎる過酷な現実に耐えきれない如くにそっと眼を閉じたくなる。いや,閉じた方がゆっくりと世界が自分に寄り添っていてくれているような気になる。

昼の光は,見え過ぎて,世界に満ちている様々なものが一時(いちどき)に,自分に辛く迫ってくるような気がして,ちょっと怖いのである。見えているものに何か責任を持たなくてはいけないという気持ちにさせる,真昼の景色の強さに思わず引いてしまう。すると,白昼の白々とした世界がかえって遠いもののように感じられてくる。勝手に視覚や思考能力にフィルターを掛けてしまって,人はカーテンを閉めるように感覚にふたをしたくなる。ふたをしたそこから,自分を取り巻く世界が急に静かになる。
「今見えている世界が急に静かになる」
これが大切なことだと感じる。私はそれを「花ぐもりの憂鬱」と言っている。
自分の見えない底の方から,何かが形を欲するかのようにゆらゆらと立ち昇って来るのを感じる。それは幽霊のように,エクトプラズムのように,真昼の闇の中に形を成そうとする。私はその感覚をなんとか言葉のかけらとして受け取ろうとする。言葉というピントで,感覚を合わせようとする。

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おやっ。ベガの近くに流れ星

もし,この世のすべてのものは常に生々流転しており,定まらず,あなたが見ているこの世界も一瞬一瞬の幻だと言われ,「空」だと言われたら,そうなのかもしれないと思う。しかし,この「空」の考え方を自分の感覚の枠として使ったら,なんのことはない,すぐに全ては虚しいというニヒリズムに陥るだろう。価値のない,独りよがりで宙ぶらりんのただの幻想で見る世界として片付けると,幻視しようとする人はすべて役立たずになる。私たちは見えている世界を何か科学的に追求しているわけでもない,ただそこにいるだけなのである。その存在に価値があるかどうかは分からない。

どうしようもなく,幻視している。普遍的でない,科学的でない,現実的でないだけで自分の思考を排除したら,詩人のことばは存在しないだろう。詩人なんてこの世にはいらないとあなたははっきりと言えるだろうか。


さくら詣り2023⑬-サイドストーリーをあなたに-

夜明けのISS2-7gs
ISSを見上げて 今朝4月24日撮影

サイドストーリーという表面にはあまり出てこない物語について書こうと思う。
サイドストーリーという存在に気付いたのは,昔話を読んでいた時だった。
物語の筋書きの裏にある,表面に出てこない別の物語が,表面の筋書きをより深く,味わい深くしている場合があるようだ。その筋を書いてみます。

子どものいない夫婦が,清水寺に詣でて子が授かるようにと祈願を行なう
二七日とも三七日ともいう祈願を重ね,その満願の日の夜
観音様が枕元に立って,お前達の願いごとを叶えてあげようと言う
夫婦に子どもが生まれる。

大体がこのように展開する。
ところが,すんなりとは行かない場合がある。この時,語られなかった,隠れたサイドストーリーがはっきりと表面へ浮かび上がってくる。

子どものいない夫婦が,清水寺に詣でて子が授かるようにと祈願を行なう
二七日とも三七日ともいう祈願を重ね,その満願の日の夜
観音様が枕元に立って,お前達の願いごとはよく分かったが,子どもを授ける訳にはいかぬと言われる。
どうしてだ,と夫婦は観音様に尋ねる
お前達には,前世の因縁があると言われる。

と,ここでサイドストーリーが語られる。今まで本人達も見たことも,聞いたこともない前世の業が観音様によって語られる。
「お前達は,前世の業によって子どもを授けるわけにはいかぬのだ。
男の前世は,猟師で多くの動物の命を奪った。そして女の方は,前世で,畑を焼いた時に鳥の雛たちも一緒に焼いてしまったのだ」
「そんなあ」
夫婦は落胆して叫ぶ。
それでも夫婦は,自分達はどうなってもいいからと泣いて懇願する。

更にここで,サイドストーリーが枝分かれするように,派生するように立ち上がっていく。

子どものいない夫婦が,清水寺に詣でて子が授かるようにと祈願を行なう
二七日とも三七日ともいう祈願を重ね,その満願の日の夜
観音様が枕元に立って,お前達の願いごとはよく分かったが,子どもを授ける訳にはいかぬと言われる。
どうしてだ,と夫婦は観音様に尋ねる
お前達には,前世の因縁があると言われる。
男の前世は猟師で,動物の命を奪い,女の前世では,鳥の雛を焼き殺した
夫婦は,引き下がらない。自分達はどうなってもいいからと泣いて懇願する。
それでは,条件があると観音様は,譲歩する。
お前達に子どもは授けるが,その子が四歳になるまでにお前達のどちらかが死ぬことになる。それでもよいか。
かまいません。
夫婦に子どもが生まれる。

普通だと祈願すれば,すんなりと願いごとが叶うが,物語の展開上,表面に次々と願いが叶えられない困難が生じていく。このようにサイドストーリーが次々と立ち現れてくる。つまり,今現在,登場人物がそのように生きているのは,そのような生き方を選択したからである。「そのような生き方」とは,運命であり,子どものない生き方を選択せざるをえない,前世の業ゆえの今なのである。これには更にもう一つの展開がある。

子どものいない夫婦が,清水寺に詣でて子が授かるようにと祈願を行なう
二七日とも三七日ともいう祈願を重ね,その満願の日の夜
観音様が枕元に立って,お前達の願いごとはよく分かったが,子どもを授ける訳にはいかぬと言われる。
どうしてだ,と夫婦は観音様に尋ねる
お前達には,前世の因縁があると言われる。
男の前世は猟師で,動物の命を奪い,女の前世では,鳥の雛を焼き殺した
夫婦は,引き下がらない。自分達はどうなってもいいからと泣いて懇願する。

私たちは金持ちだ。なんでも差し上げよう。土地も,金もある。(大体が長者だったりする)
それでも断わるというならば,私は観音様をこれから幾代も呪うことになる,と最後には人が観音様を脅すような勢いになるのです。

観音様は困って,それではお前達に子どもは授けるが,その子が四歳になるまでにお前達のどちらかが死ぬことになる。それでもよいか。
かまいません。
夫婦に子どもが生まれる。

サイドストーリーを置く意味とは何だろうか。
見えないように隠しておいても表面上,筋は進むのである。
最近,このサイドストーリーというものを筋の展開上,必要なものだと実践した監督が二人いる。新海誠と濱口竜介である。