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「ざしき童子」で盛り上がった賢治,善助,喜善

封人の家
    今にもざしき童子が出てきそうです(芭蕉が泊まった山形「封人の家」)
 
 今日は宮澤賢治と石川善助と佐々木喜善の三人の話です。そしてこの三人を結びつけたのが「ざしき童子」の話なのです。宮澤賢治の「ざしき童子のはなし」は,尾形亀之助の雑誌『月曜』の大正十五年二月号に掲載されました。
 佐々木喜善は遠野出身で,柳田国男をしてあの『遠野物語』を書かせた本人です。柳田国男主宰の雑誌『郷土研究』にも発表しています(大正2年7月号)。『郷土研究』は,当時,南方熊楠,折口信夫,早川孝太郎,金田一京助というそうそうたるメンバーが顔をそろえていました。喜善は遠野の話の中で,特に「ざしき童子」の研究を始めていて,昭和三年,賢治に「ざしき童子の話を送ってもらえませんか」と依頼しています。その原稿を賢治が送ったのは「昭和四年十二月二十四日」と堀尾青史「宮澤賢治伝」にあります。賢治が病床についていた時なので間があいたのでしょう。
 そして三人目は宮城県仙台出身の詩人石川善助です。善助は,賢治宅を二度訪問しています。一回目は大正十四年年末で,二回目は昭和七年一月です。賢治との出会いが感激だったと記しています。この三人の関係はいわば「ざしき童子のはなし」が取り持つ縁で結ばれていったと言ってもいいでしょう。宮澤賢治を知る上でもとても興味深いところがあります。
 何はともあれ,賢治の「ざしき童子」のお話を読んでみましょう。短い4つのお話からできています。
とても懐かしくおもしろいお話です。

 ざしき童子のはなし   宮澤賢治

 ぼくらの方の、ざしき童子のはなしです。

 あかるいひるま、みんなが山へはたらきに出て、こどもがふたり、庭であそんで居りました。大きな家にたれも居ませんでしたから、そこらはしんとしています。
 ところが家の、どこかのざしきで、ざわっざわっと箒の音がしたのです。
 ふたりのこどもは、おたがい肩にしっかりと手を組みあって、こっそり行ってみましたが、どのざしきにもたれも居ず、刀の箱もひっそりとして、かきねの檜が、いよいよ青く見えるきり、たれもどこにも居ませんでした。
 ざわっざわっと箒の音がきこえます。
 とおくの百舌の声なのか、北上川の瀬の音か、どこかで豆を箕にかけるのか、ふたりでいろいろ考えながら、だまって聴いてみましたが、やっぱりどれでもないようでした。
 たしかにどこかで、ざわっざわっと箒の音がきこえたのです。
 も一どこっそり、ざしきをのぞいてみましたが、どのざしきにもたれも居ず、ただお日さまの光ばかり、そこらいちめん、あかるく降って居りました。
 こんなのがざしき童子です。

「大道めぐり、大道めぐり」
 一生けん命、こう叫びながら、ちょうど十人の子供らが、両手をつないで円くなり、ぐるぐるぐるぐる、座敷のなかをまわっていました。どの子もみんな、そのうちのお振舞によばれて来たのです。
 ぐるぐるぐるぐる、まわってあそんで居りました。
 そしたらいつか、十一人になりました。
 ひとりも知らない顔がなく、ひとりもおんなじ顔がなく、それでもやっぱり、どう数えても十一人だけ居りました。その増えた一人がざしきぼっこなのだぞと、大人が出てきて云いました。
 けれどもたれが増えたのか、とにかくみんな、自分だけは、何だってざしきぼっこだないと、一生けん命眼を張って、きちんと座って居りました。
 こんなのがざしきぼっこです。

 それからまたこういうのです。
 ある大きな本家では、いつも旧の八月のはじめに、如来さまのおまつりで分家の子供らをよぶのでしたが、ある年その中の一人の子が、はしかにかかってやすんでいました。
「如来さんの祭へ行くたい。如来さんの祭へ行くたい」と、その子は寝ていて、毎日毎日云いました。
「祭延ばすから早くよくなれ」本家のおばあさんが見舞に行って、その子の頭をなでて云いました。
 その子は九月によくなりました。
 そこでみんなはよばれました。ところがほかの子供らは、いままで祭を延ばされたり、鉛の兎を見舞にとられたりしたので、何ともおもしろくなくてたまりませんでした。あいつのためにめにあった。もう今日は来ても、何たってあそばないて、と約束しました。
「おお、来たぞ、来たぞ」みんながざしきであそんでいたとき、にわかに一人が叫びました。
「ようし、かくれろ」みんなは次の、小さなざしきへかけ込みました。
 そしたらどうです、そのざしきのまん中に、今やっと来たばかりの筈の、あのはしかをやんだ子が、まるっきり痩せて青ざめて、泣き出しそうな顔をして、新らしい熊のおもちゃを持って、きちんと座っていたのです。
「ざしきぼっこだ」一人が叫んで遁げ出しました。みんなもわあっと遁げました。ざしきぼっこは泣きました。
 こんなのがざしきぼっこです。

 また、北上川の朗明寺の淵の渡し守が、ある日わたしに云いました。
「旧暦八月十七日の晩に、おらは酒のんで早く寝た。おおい、おおいと向うで呼んだ。起きて小屋から出てみたら、お月さまはちょうどおそらのてっぺんだ。おらは急いで舟だして、向うの岸に行ってみたらば、紋付を着て刀をさし、袴をはいたきれいな子供だ。たった一人で、白緒のぞうりもはいていた。渡るかと云ったら、たのむと云った。子どもは乗った。舟がまん中ごろに来たとき、おらは見ないふりしてよく子供を見た。きちんと膝に手を置いて、そらを見ながら座っていた。
 お前さん今からどこへ行く、どこから来たってきいたらば、子供はかあいい声で答えた。そこの笹田のうちに、ずいぶんながく居たけれど、もうあきたから外へ行くよ。なぜあきたねってきいたらば、子供はだまってわらっていた。どこへ行くねってまたきいたらば更木の斎藤へ行くよと云った。岸に着いたら子供はもう居ず、おらは小屋の入口にこしかけていた。夢だかなんだかわからない。けれどもきっと本統だ。それから笹田がおちぶれて、更木の斎藤では病気もすっかり直ったし、むすこも大学を終わったし、めきめき立派になったから」
 こんなのがざしき童子です。


   (作品は宮澤賢治研究で有名なサイトの「宮澤賢治童話と詩 森羅情報サービス」から
    引用させていただきました。) 

 これを読んだ石川善助はとても強い印象を受けたのでしょう,『鴉射亭随筆』所収の「寂莫紀」で次のように書いています。

「大正十四年の年末宮澤賢治氏にお会いした時,はからずも「座敷童子」のお話を聞いた。その夜ひどい雪路を歩きながら再びかの日の怪異(善助が子どもの時座敷童子を見たことの意)に心理を新たにした。」

 そして賢治の「ざしき童子のはなし」の四つ目の話「渡し守の話」を取り上げながら,話を展開させていきます。

 ただどうしてこの時期に「ざしき童子」の話なのか?と思いませんか。わたしは次のように考えています。
 大正末期から昭和初期にかけて,西欧スピリチュアリズムという心霊主義が日本に入っています。一大怪談ブームが文壇にも押し寄せます。この辺の話は,東雅夫氏のプロデュースする『百物語の怪談史』等の著作で,文壇における怪談ブームを概観することができます。もう一つには,日本における印刷技術の飛躍的な発達が,全国津々浦々に同人誌ブームを巻き起こします。この同人誌ブームが地域の歴史や伝承を飛躍的に記録として残す場になったと考えます。地域に残る不思議な話や民話,民謡,ことわざ等が一気に表記文字として立ち現れて来たのです。「ざしき童子」が世界にデビューするのは当然のことだったと思われます。
 賢治,善助,喜善が「ざしき童子のはなし」で盛り上がったのは,実はこうした時代の背景と,同じ東北人としての懐古の念があったからなのだと思います。このような東北の民俗信仰は仏教に染まりすぎず,西欧ロゴス主義にも染まらない,東北に住む人々の考え方の原型があると思います。以前書いたブログの「折口信夫論」でもそのことについてふれました。





夏の終わりの夕暮れ

夏の終わりの夕暮れ
    蚕飼山から見た夕暮れの米川地区

  真っ赤な夕焼けの後,静かに暮れていった
  夏の終わり
  霞たなびく山里から聞こえる音はなく
  夕暮れの色が刻むように
  変わっていく
  「少し紫がかったるり色(ラピスラズリ)
   青紫のすみれ色(バイオレット)
   りんどう色(ジェンティアンブルー)
   紫から赤紫のあやめ色(パープル)
   ぼたん色(ピアニーパープル)
   やがて赤みがかった色は闇に吸い込まれるように
   ヘリオトープ
   アメジスト
   くわの実色
   インディゴブルー
   ミッドナイトブルー」
                  林完次『天の羊』から

  そして見上げると
  はいつのまにか
  そら中に広がっている

デネブ周辺

デネブ周辺
デネブ周辺」左真ん中下がデネブ
 NikonD300  ISO2000  6秒 +1.3 50mm F1.2 ビビット 撮影地 登米市

 薄明終了が8時。早くなりましたねえ。ひとしきり撮影すると,あら,スバルが・・。秋だなあ。 空気もしんとして夏のまとわりつく空気じゃありません。今年の夏のめあて,朝日連峰の大朝日岳で見をすることはかないませんでしたが,やっぱり晴れるといいなあ。
 今までいろんなところでを見てきましたが,焼石岳の銀明水小屋で見た空はほんとにに手が届きそうでした。記録を見ますと,えっ,13年前なの。あの頃は下山した蜂谷部落もダムに沈む前でした。