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賢治と観無量寿経

沈む三日月沈む三日月。今夜は三日月。沈んで行く三日月と小径を組み合わせてみました。

 今日のタイトルは「賢治と観無量寿経」としました。少し似たことを折口信夫の「死者の書」を書くきっかけが夕陽の図にあったという記事で書いたことがありました。(その記事は こちら )その続きです。
 その中で,あの世とこの世がつながる場所は夕陽が沈むときに開かれると書きました。この夕陽をひたすら見て,イメージすることが『日想』という観無量寿経に書かれている十二の行の中の最初の行に当たるのです。実は前から宮澤賢治があれほどのイメージを駆使した語彙で様々な作品を作り上げたことが私には,何かの「行(ぎょう)」の記録ではないかと思ってきました。賢治自身が一つの行として,悟りに近づく訓練として,ものの見方を研ぎ澄まそうとしているのではないかと思うのです。

 このような考え方は,私自身がカメラを通して,何か,ものの見方を純化しようとする行為をしているのではないかと思えていたことにも関係しています。
 賢治が樺太の栄浜でただの感傷として死んだ妹と交信しようとしていたのではなく,かなりの訓練を積んであの世との交信に臨んだのではないかと思えるのです。自らが西方浄土を見る訓練を重ね,その結果としてあの世との回路を開こうとしていたのではないだろうかと思えるようになってきました。

みな日没の光景を見るがよい。その観を始めるにあたってはまず姿勢を正して西に向かって座り、はっきりと夕日を思い描くがよい。そして心を乱さず、思いを一点に集中して他のことに気をとられずにいられたなら、次に、夕日がまさに沈もうとして、西の空に太鼓が浮んでいるようになっているのを見るがよい。それを見おわった後、目を閉じても開いても、その夕日のすがたがはっきりと見えるようにするのである。このように想い描くのを日想といい、第一の観と名づける。(観無量寿経から)
 この「日想」が第一段階とすると,次の行は「水観想」となります。

水の清く澄みきったようすをはっきりと心に想い描き、心を乱さないようにするのである。水を想い描きおわったなら、次にその水が氷となったようすを想うがよい。そして氷の透きとおったようすを想い描き、それが瑠璃であるという想いを起すがよい。この想いを成しおえたなら、極楽世界の瑠璃の大地が内にも外にも透きとおり映りあうようすを見るであろう。(中略)世界の瑠璃の大地には、黄金の道が縦横に通じていて、しかもそれぞれの区域が七つの宝で整然と仕切られている。その一つ一つの宝には五百の色の光があり、その光は花のようであり、また星や月のように輝き、大空にのぼって光明の台となる。その台の上には百の宝でできた千万の楼閣がそびえている。また台の両側には、それぞれ百億の花で飾られた幡と数限りないさまざまな楽器があり、その台を飾っている。そしてその光の中から清らかな風がおこり、いたるところから吹き寄せてこれらの楽器を鳴らすと、苦・空・無常・無我の教えが響きわたるのである。このように想いを描くのを水想といい、第二の観と名づける
長い引用になって申し訳ないんですが,何か気付きませんか。そう,何だかこの部分を読むだけでも賢治の詩のイメージに近い気持ちになりませんか。いいえ,賢治はお経の中の極楽浄土を自らの感覚を磨きながら再現しようとしていたのだと思うのです。

 ちなみに観無量寿経では,「日想」「水想」と続き,第三の想は極楽大地をしつかりイメージできるようになる「大地想」。その極楽の大地に生える樹木の美しさを見る「樹想」木々の間にある八つの池に咲くきれいな蓮の花や流れる水の音を知る「八功徳水想」と,観想の行は十二まで進んでいきます。

 俗人である私は,この観無量寿経に描かれる景色を写真では表現できないものだろうかと邪心を起こしてしまうのです。

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夕陽

夕陽夕陽

 今日も最後の輝きを残して太陽が沈んでいきました。

 ここは長沼です。この丘の向こうには,被災地で働く自衛隊の方々のテントがぎっしりと並んでいます。
 毎日毎日働いて,復興のための任務を果たします。その人達の点呼が続いている中,今日という陽は沈んでいきました。
 ありがとうございました。明日もよろしくお願いいたします。私もがんばります。

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