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営業マン宮沢賢治-宮城県-

化女沼 367s
化女沼(12/23)

今日は宮沢賢治のことを書きます。
またお付き合いよろしくお願いします。
宮沢賢治の東北砕石工場技師時代のことはあまり話題にならないというか,童話や詩の作品群の方がずば抜けているためについそちらに目が行ってしまうことも確かなことです。しかし,サラリーマンとして働く賢治の姿に私自身がとても興味が湧くのは宮城県を営業の拠点としようとしていたこともあったし(書簡から仙台か釜石で独立することを言っている)実際に宮城県北の小牛田には昭和6年だけでも営業で何回も来ているからです。

4/18 仙台泊 翌19日仙台,小牛田,古川
5/4  仙台泊 翌5日仙台,石巻,河南町,小牛田
5/10 仙台泊 翌11日仙台,岩沼,仙台泊 翌12日小牛田,築館
9/19 小牛田,利府,仙台 仙台泊

残された書簡から拾い出すとこのようになります。

さて,これから書こうとするのは5/5の「仙台,石巻,河南町,小牛田」というルートです。実はこのルートは前々から考えていたことだったのです。
[327] 1931年4月13日 鈴木東藏あて 封書(封筒ナシ)
  四月十三日

拝復
貴簡難有拝誦仕候 亦昨日は父参上致し色々御世話様に相成候趣父
よりも厚く御礼申上候
(中略)

三、宮城県小牛田の県技師工藤文太郎氏を通じて農務課に改めて交渉のこと。(泣きを入れることを含む。)

四、同氏を通じて斉藤等の大地主に利害を説きて大量使用を勧むること

五、小牛田附近の白兵戦(組合)
気をつけたいのは河南町で「斉藤等の大地主に利害を説きて大量使用を勧むること」という部分です。この斉藤等の斉藤は「斉藤善右衛門」のことです。斉藤善右衛門は「農地改革前は、山形県・庄内平野の酒田本間家に次いで全国第2位の地主といわれた、宮城県・仙台平野(仙北平野)の斎藤家は、桃生郡前谷地村(現・石巻市)に田畑約1500haを所有する大地主であった。その当主である斎藤善右衛門(第9代、1854年 - 1925年)は酒造業や質屋も営んでいたが、1892年(明治25年)第2回衆議院議員総選挙で当選して代議士となる。1910年(明治43年)に斎藤株式会社を設立した。」by wiki。

賢治が行った昭和6年(1931)は財を築いた9代目善右衛門はすでにこの世になく,10代目の息子に引き継がれていた時代です。

化女沼 328s
化女沼(12/23)

賢治は小牛田の齋藤報恩農業館にいる工藤文太郎技師が高等農林時代の先輩ということで訪ねて話をしているうちに大地主の齋藤善右衛門を訪ねてはいかがかとなったのかもしれません。もちろん工藤が勤めていた齋藤報恩農業館自体が齋藤善右衛門の資金から成り立っていたわけですから。紹介状か何かを書いてもらったのでしょうか。
そして何よりも齋藤善右衛門に会ったのでしょうか。興味が湧くところです。
そのことは次の書簡を見るとわかります。
昭和6(1931)年5月5日付け鈴木東蔵宛 書簡337.338
午前10時
私は只今より広渕沼開墾地に高野技師を訪ふべく御座候 尚関口氏には本日も面会致し兼ぬる次第には御座候へ共別に信書を以て
どうも前谷地の齋藤善右衛門の所へまっすぐ行ったのではなく,近くの広渕沼開墾地にいた高野技師に会いに行ったようなのです。
この高野技師という人は名前が「高野一司(かづし)」と言い,賢治とは岩手国民高等学校の開校(大正15年1月)から懇意であった人でした。この岩手国民高等学校で賢治は農民芸術を担当し,あの「農民芸術概論綱要」を元に講義したことは有名です。その時の生徒の面倒一切を見ていたのが岩手県で最初に社会教育主事になった高野一司だったのです。この高野一司氏が岩手県から派遣され,宮城県の前谷地,広渕沼開墾地の所長として昭和2年から赴任していたのです。

化女沼 403-2s
化女沼(12/23)

高野氏を慕って来たのですが,どうも営業の方はすすまなかったようです。
書簡338 5/6
広渕の方は一寸六ヶ敷様子に有之候へ共斉藤報恩会の方は或いは数日中に回答有之哉と切に期待致し居り候 何分にも宮城県は推奨は多いに有効なりしも共同購入といふ点にて却って需要を害したりらしく寧ろ岩手県のごとく各肥料店へ直接売り込みしならば今頃は優に三十車を越え居たるかと甚残念に存じ居り候 これを経験として明年或いは今夏以後は県よりは単に証明及び推奨を乞ひ売込みは工場より直接に居たし度と存居候
このように,体力を使い果たした割には宮城県の共同購入という,岩手県にはない独特の販売ルートに阻まれてしまっていたということになります。
さんぽ道暮れ 109-2s
雪降って(12/28伊豆沼)

昭和6年という当時,農民と地主との間の小作人闘争,冷害による凶作,米の買い取り価格の下落等農業が大きく変換せざるを得ない時代のまっただ中でした。当時の様子を調べる度にわざわざ金を出して賢治の石灰を買う農民などいないのが現実ではなかったのでしょうか。何せ金で買う肥料は「金肥」と呼ばれ,手が出るものではなかったのです。牛馬の糞が一番いい肥料でしたから金を払ってまで買うのは本当に土地を広く持っていた近代的な自作農や地主だったのでしょう。
賢治の肥料設計や石灰での土壌改良はまさに正しく,近代農業の基本路線でした。モダンでした。
しかし,それらを十分に活用できる農業ではなかったことも事実です。小作人は搾取され続け,耕作地も取り上げられ,借金で夜逃げをすることも随分ありました。賢治自身も労農党に資金援助等も行っていたのは百姓の姿があまりにも痛々しく感じていたからです。賢治は未来アル農民タレと語り続けました。しかし時代はあまりにも遅すぎる歩みでした。


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