FC2ブログ

8/31今朝の伊豆沼

霧の夜明けgs
今朝の伊豆沼 霧の夜明け

今朝起きると星が見えるではありませんか。
気温18℃。すぐ伊豆沼へ。
しかし,すぐ霧に包まれてとうとう何も見えなくなってしまいました。

フジクローム風に仕上げてみました。
そう見えますか。

日曜朝 014-2gs
夜明けの船着き場


にほんブログ村 写真ブログ ネイチャーフォトへ
にほんブログ村

それよりもご本人が一番にお気の毒だ-柳田國男と佐々木喜善-

夕暮れ 050-2s
夕暮れの伊豆沼

今年の夏は柳田國男が佐々木喜善に宛てた書簡をゆっくり読んでいた。
柳田國男と佐々木喜善と言ったら,「遠野物語」をこの世に出したコンビである。明治43年に出た本です。このとき國男35歳,喜善は25歳でした。この二人には終生変わらぬ師弟ともいうような,友情とも言うような深い関係が続いていました。

柳田國男から佐々木喜善に宛てた手紙や葉書は,遠野の物語を聞かせて欲しいという「今月も二日に御出ねがひ度候 来月も二日の夜にねがひ上候・・・」で始まる明治41年11月26日付けの葉書から始まり,佐々木喜善が死んで家族が柳田に電報を送った返事の手紙まで計107通あります。

仙人峠行き 087-2s
遠野から釜石に抜ける仙人峠の道

私が柳田國男の文章を読んだり,対談を読んだり,手紙を読んだりしていく内に柳田國男の人柄の印象も変わってきました。

以前は遠野物語の編集についてもきつい要求を出したりするものだと高飛車な柳田國男に不快感も抱くこともありましたが,よくよく読んでいくと厳格さというのは柳田の学問に対する厳しさという態度の表れであって,喜善に対する人間的な細かな配慮も忘れず,喜善のことを思いやる言葉やふるまいが多く見られます。実際,喜善が病気の時には励まし,生活に困窮すれば岩手県知事に手紙を出して,仕事を斡旋してあげたり,喜善が東京で神職になるのはどうかと相談すれば,その難しさを説いたり,本の貸し借り,柳田が砧の方に居を構えてコクワの木がほしいと言ったら喜善はコクワの木を送ってあげたりとたくさんのことで二人は交流を続けていました。

夕暮れ 057-2sかすかな明かり残る夕暮れ

父喜善の仕事を手伝っていた娘「若」の容態が悪ければ,柳田は娘御の容態はいかがかと書いたり,息子が筆写の手伝いをして原稿を送れば,令息の文字は達者にて,たのもしいですねと書き送っている。

DSC_0203-2gs.jpg
朝焼けの伊豆沼

喜善の娘は「若」と言って,写真を見るとかわいい娘で,喜善は本当に娘を愛していた。生活に困窮して娘を病気にさせてしまったことは自分でも情けないことだと喜善は思っていた。私が今思うに,喜善はあれだけのよい仕事をしながらもう少し我慢強ければと思うところもある。
結局,仙台の河北新報の三原氏や一力氏の強力な後押しがあったにもかかわらず,柳田の少しならお金を送金するという申し出があったのにもかかわらず21歳で大切な娘を死なせてしまったことは本当に悔やまれることであった。

そのことは喜善自身にも大きな痛手となった。
娘の後を追うように一ヶ月後に彼自身も死んでしまうことになった。惜しまれることである。
昭和8年9月29日彼は息を引き取った。
喜善をして「あの人にはかなわないな」と言わせた宮沢賢治はその8日前になくなっていた。

DSC_0200s.jpg
ハスの中を行く

啄木,柳田と喜善と賢治。
この四人の関係の考察は石井正己氏などがすでに調べてはいるが,私は佐々木喜善の仕事と人柄は東北人の少し翳りのある栄光という点で突出していて,賢治の鋭い光とはまったく違う色の光を発した喜善の光に魅せられている。

今日のタイトルの「それよりもご本人が一番にお気の毒だ」という言葉は,柳田國男が佐々木喜善の訃報を受け取ってすぐ書いた手紙の中の言葉です。


クリックしてね
にほんブログ村 写真ブログ ネイチャーフォトへ
にほんブログ村