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春の栗駒山-宮城道雄-見ることからの解放-

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栗駒山(4月)

昨日は3月の栗駒山でしたが,今日は昨日のブナ林を抜けて,栗駒山の頂上付近の様子です。それも4月の雪の様子が分かる写真にしました。雪の質が変わっているのが分かるでしょう。かき氷状になっていて歩きにくくなります。それでも暖かく晴れた日にを歩くのは気持ちがよいものです。

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栗駒山頂上直下から秣岳,鳥海山を望む

ふとわたしを呼ぶ声がして目が覚めた。

誰の声だったのか。わたしはしばらく寝床で思いを巡らしたが,心当たりの人は思いつかなかった。
心当たりのない優しい声で目覚めたわたしは,その声が誰かからの何かのメッセージなのではないかと,また思いを巡らした。しかし何も心に思い当たるものは浮かんではこなかった。

自然の音などに深く心動かされることがたくさんある。
見ることとは違う感覚になる。
谷崎潤一郎の「美食倶楽部」は見ることに対抗する感覚から究極の食を書き上げたという点ですぐれた感覚小説と言えるかもしれない。とにかく究極の食を追究するためには闇でなくてはいけないのだ。暗闇の中に一人置かれた客人はやがて廊下を伝う足音を聴く。そして暗闇の中でやってきて説明する女の声や究極の食を食べるための顔のマッサージを受ける。もうこの辺から谷崎独特の怪しい感じはするが,全然違和感がない。

実はこうした暗闇に一人置かれているという状況が最高の食をいただくための大切な準備であるわけです。暗闇の中でやがて感覚が研ぎ澄まされていく。見ることだけに集中していた身体の感覚のアンバランスが補正されていくわけです。わたしはこれを「感覚遮断」と名付けて感覚を鍛錬するよい方法ではないかと思っています。
ですから読書でも,宮城道雄の随筆は特に心動かされ,時折本を手に取っています。盲人である箏曲家の宮城道雄はすぐれた随筆も書きます。彼の「音の中で生きる世界」が随筆によく現れています。つまり見る世界とは違う感興が広がるのです。例えば開け放たれた部屋に扇風機が動いています。彼はその音を聴くと,自分が広い凪の春の海の真ん中に小舟に揺られて漂っている感じがすると書いています。見ることだけに執着している者にはこんな感覚は生まれてこないと思います。
宮城道雄の随筆は何も難しい言葉はありません。平易な話し言葉で書かれています。これは文章を文字で書くという意味から解放されていて,言葉の意味で筋を通すというより感じたものがそのまま現れてくるんだと思います。佐藤春夫はこの宮城道雄の文章を「純粋言語」と評して「重要な示唆を与えるものだ」と書いています。何か,独特の,味わいがあるのです。
同じ雨の音でも春雨と秋雨とでは、音の感じが全然違っている。風にそよぐ木の音でも、春の芽生えの時の音と、またずっと繁った夏の緑の時の音とは違うし、或は、秋も初秋の秋草などの茂っている時の音と、初冬になって、木の葉が固くなってしまった時の音とは、また自ら違うのである。それから、紅葉の色も、自分には直接見えないけれども、その側に行くと、自分には何となくその感じがする。
音だけで感じる世界がこんなに豊かだと思い知らされます。

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頂上まであと少し

この宮城道雄の感覚の豊かさを誰よりも知っていたのが内田百閒でしょう。琴も玄人肌の百閒でしたが,宮城道雄とは親友以上の仲でした。百閒は宮城道雄の文章の感激を忘れることは出来ないと言います。宮城道雄が台湾に演奏旅行に出かけた折りに出くわした三百年以上の大木が切られるシーンを綴った文章を読んで,百閒は涙を流したといいます。
根がすっかり切り取られた木が倒れて谷にすべって落ち出した。その大木の枝がその辺に生えている小さな草木を折りながらすべって行く音や,岩角にぶつかって,枝を折りながら下に落ちていくときは,谷や山にその音が響いて,壮大ではあるが,何かしら悲しいような気がして,私は涙がでた。
音だけで成り立つ景色は実際字面を辿っていくと,くどく感じて止まってしまうこともあります。しかし,梶井基次郎の「闇の絵巻」のあの夜のシーンもそうです。谷の深さを確かめるために,谷底に向かって石を投げると,いろいろなものにぶつかりながら石は落ちていく。そして深い沈黙が訪れる。やがて間を措いて,深い谷底から芳烈な柚の香りが立ち昇ってくる。
まさに見えない世界の豊かさが実に新鮮に,まるで顔面にぶつかってくるようです。

実は内田百閒はこの宮城道雄の感覚にすっかり惚れ込んでいたのでした。これは内田百閒が作家として正にその方向に向かっていたからでした。そうして彼は「柳検校の小閑」という作品を書き上げます。この「柳検校の小閑」は三島由紀夫をして「春琴抄」と並ぶ名品と言わしめます。私も好きなシーンを拾い出します。
最後の番の女生徒が出て行くとき,後ろの戸を閉める音はした様であったが,なにかのはずみで,ひとりでに開いたらしい。五月の午後の風が草の葉のにほひを載せて,まともに自分の顔に吹いてきた。風の筋が真直ぐであるということを感じる。広々とした校庭の遠くの方に起こった風であろう。草の香りに混じって何か生臭いにほひが鼻についた。
またひとしきり聴くことの大切さに耳を傾けたい。


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