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西行こぼれ話

拝啓
菅原さんお元気ですか。
朝晩めっきり涼しくなりましたね。
さて,お尋ねの「西行と雁風呂の伝説との関係について」まとまりもしませんが,月日もたったことですから,今のところ感じたことを返事として書いてみたいと思います。ご笑覧下さい。
                                                               匆々
                                                                     nitta245より

西行歌碑
西行歌碑

一遍が祖父河野通信(みちのぶ)の墓を訪ねたのは通信が死んで57年も経っていた。
それでも一遍は万感の思いをもって北の果ての岩手県北上市にやってきた。1280年のことである。一遍の祖父河野通信は承久の変で天皇方について流された。記録では「平泉に流された」とあるが,罪人ながら要人はここ江刺の極楽寺に送られる。そこで2年ほどして亡くなった。

私は,その河野通信の墓「ヒジリ塚」と言われているところを訪ねた後,清衡が平泉に移る前にいたという国見山にある極楽寺跡を訪ねました。そして沈む夕陽を見てみたいと国見山に登り始めました。この道は修験道場の山道で途中胎内くぐりの場所もあります。
登り始めて偵岡(ものみおか)神社を過ぎたところに写真にある西行歌碑をみつけました。

「陸奥のかど岡山のほととぎす稲瀬のわたしかけてなくらむ」

ふと気付いた。西行はここまでは北上しているのだな。

西行歌碑2
文治二年(1186)に西行が極楽寺に来たという

文治二年(1186)に西行がここ極楽寺に来たという話があります。そうか。平泉よりも北の方に来ているのだなと内心嬉しく思いました。
というのも西行が青森の外の浜にも行っているということを思わせる歌があるからです。

「陸奥(むつのく)の奥ゆかしくぞ思ほゆる壺の碑(いしぶみ)外の浜風」(山家集1011)

しかし,これをして西行が青森の外の浜に来たとは言えないのではないかと思うところもあるのです。どうも歌も壺の碑や北の果ての外の浜の風はいいだろうなあと,話に伝え聞いたことを詠み込んでいるのではと思わせます。では外の浜を歌った歌はその他にないのかと調べてみても,西行の歌にはないのです。

 ないどころか西行が平泉より北へ行った気配があまりしないのです。
そんなことないじゃないか。写真に出た説明にもあるように江刺郡のここ国見山は平泉よりもずっと北じゃないかと思うでしょう。

「陸奥のかど岡山のほととぎす稲瀬のわたしかけてなくらむ」
そこで調べてみました。この歌は西行の作品にはないのです。では一体どうしてこの歌が西行の作品であると断定できたのかを知りたいと思いました。

西行は二度陸奥(みちのく)を訪れています。
最初は天養元年(1147)27歳の時,能因の辿った陸奥を自分でも辿ってみたいと思い,二度目は東大寺の焼失によって失われた金の勧進を重源から依頼されて69歳の西行が鎌倉で頼朝に会ってから平泉の秀衡を訪ねたこと。一回目の陸奥行きは平泉に着いたのが十月十二日もう雪が降り,吹雪になったと書いていますから,平泉で年を越して春になってから出羽の方に抜けたようです。

そして年が明けて春になり束稲山の見事な桜に感嘆し,出羽に旅発ったと考えられます。
桜の花をみちのくに平泉にむかひて,束稲と申す山の侍るに,こと木は少きやうに,桜のかぎりみえて花のさきたりけるを見てよめる

ききもせずたばしねや山のさくら花よしののほかにかかるべしとは(1533)
と詠んだのでしょう。
白河の関(1213,1214)信夫(1214,527)武隈の松(1215)おもはくの橋(1216)なとり河(1217),衣河(1218)とおもはくの橋以外はすべて能因が辿った陸奥行き(『能因歌枕』,『能因法師集』)通りになります。ただこれらの歌が西行の一回目の陸奥行きなのか二回目の陸奥行きの折に作られたものか,諸説があるようです。とにかくも能因の跡を追うことが西行にとっての陸奥行きの本願と言ってもいいでしょう。
 では,能因の辿った陸奥の最北端はどこだったのでしょう。塩釜か野田(名取川)周辺でしょう。この後は能因の目はむしろ出羽国(象潟)に向いていたようです。能因が青森の外の浜に来ていたならば,西行も後を追って訪れたでしょう。

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国見山から落日を望む

「陸奥のかど岡山のほととぎす稲瀬のわたしかけてなくらむ」
「かど岡山」は,極楽寺があった国見山周辺の地名です。現在の北上市の東です。「ほととぎす」は夏の鳥を言います。好んで西行ならずとも能因や他の歌人も取り上げます。「稲瀬のわたし」は現在もこの周辺が稲瀬町になっていて,北上川を舟で渡すところだったのでしょう。
これは西行の作でしょうか。何か証拠になるようなことがあったからでしょう。

まず越年した最初の陸奥行きでは平泉に着いたのが,十月十二日は今の暦では十一月の中旬ですから十分雪の可能性はあります。それからの時期に西行は若いとはいえ,北の最果ての青森の外の浜に行くことは無謀ではないでしょうか。そして翌年の桜の時期まではまだ寒い時期で,雪解けを待って出羽への道に入ったことでしょう。平泉からは外の浜まで一丁毎に傘卒塔婆が建てられていて二十日の行程だったそうですから割合に夏道では分かりやすかったかもしれません。しかし,青森までは更に遠い遠い道だったと思います。これで一回目の陸奥行きでの西行の外の浜行きの可能性は低いと言わざるを得ないのではないでしょうか。

煙草農家の庭先s
煙草農家の庭先

では,最初の陸奥行きから40年もたった六十九歳で再度陸奥に行った折に,西行は青森の外の浜まで行く可能性の方はどうでしょう。
「みちのくの 奥ゆかしくぞ 思ほゆる 壺の石文 外の浜風」と西行が憧れる土地が最果ての歌枕の地外の浜であったことは疑いがないと思われます。そしてここ極楽寺を訪れ,
「陸奥のかど岡山のほととぎす稲瀬のわたしかけてなくらむ」
と詠む可能性もあります。
西行は秀衡から「この頃はよく採れなくなりましてねえ」と言われながらも五千両もの砂金をあっさりと出す確約を取り付けた後,安心して北へ向かったという設定になるでしょうか。そして極楽寺でこの歌を詠った。しかし,やはり時期的にも難しい部分がまた出てくるようです。従って「陸奥のかど岡山のほととぎす稲瀬のわたしかけてなくらむ」という歌も西行の作品ではない可能性がどうしても色濃く残ります。

ではどうしてこの歌が西行の作品と言われ続けているのか,探ってみました。

そしてそこに西行が伝承の中で様々な変異を見せながら,陸奥の多くの人々の心の中に生き続けていることが分かってきました。そして西行を揶揄する素振りで限りない親しみを表そうとする庶民の気持ちのもち方にも心動かされました。

菅原さん。
長くなりました。またお手紙の続きを書きます。
次回は「陸奥のかど岡山のほととぎす稲瀬のわたしかけてなくらむ」という歌がなぜ西行の作となって残ったのかのお話をします。
呉々もご自愛の程を。


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