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賢治さんが乗って発車

ドラゴンレール 333-2gs
陸中松川駅を出て

今日は日曜日ですが,宮沢賢治さんは勤め先の東北砕石工場に寄りました。
東蔵さんと打合せをして先程一関行きの臨時列車に乗り込みました。きれいな三色の車体です。
花巻には夕方前に着くでしょう。




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名付けざるものたちの系譜 その二

飛ばない朝 127-2s
飛ばない朝

名付けられた者はこの世に刻まれる。自らが名で刻まれることで「呪」を受け,留め措かれ,固定される。識別され,認識され,区別され続ける。すべてそこから運動が生じ,人生も流れ始める。それらの運動の記録は記憶の沼に次々と沈んでいく。封じ込まれていくと言った方がよいのかもしれない。

名前を持つことで便利なこともある。不便なこともある。しかしこの世に投げ出された以上は自分の魂に責任はあるのではないだろうか。

しかしどうしても名付けることができないものもある。そう考えてみる。
気配,デジャブ,もたらされる不安,夢の意味,魂・・・。それらは存在して感じている。実感もしていることなのに分からない。

気仙沼線 431-2s
アトリ

漆原友紀の「蟲師」はそんな名付けられぬものを扱い,それらのものたちを「蟲」と称した。見えぬものもある見えるものもある。生命の原生体のようなものと言われる。それらは自然万物の中で,漂い,流れ,寄生し,制御し世界との関係づけを迫ることさえある。「蟲」を認識できない者,つまり普通の人には見えないし,また意味が分からない。「蟲」を認識できる者が更に研究し,異界や蟲の世界との接触を通じて特別な修行を積んだ者が「蟲師」と呼ばれる。

visual02.jpg
「蟲師」HPからビジュアル映像

蟲師は山伏にも似ている,巫女にも似ている。口寄せにも似ている。折伏もするし,祈祷もするし,薬の調合も行う。
つまりいわれなく取り憑かれた者を除霊するのである。そんな名付けられることのなかったもの達を相手にしている。

ふとここで私は先回言ったように「魂」の運動ととても似ていることも思い出した。「魂は憧れやすく,うつろい易い」と折口信夫は言った。魂とは「器(うつわ)」である。何かが外から入ってくる。人々は良いものを入れたいと乞い願った。実り多きもの,幸せをもたらすもの。生命も,神も,豊作も,幸せも自分の魂に宿ることを願った。季節の祭りはそうした意味があった。よきものを迎える儀式である。花祭りも神楽もそうした意味で行われ続けた。

しかし同時に山からは神も下りてきたが,違うものも下りてくる。来て欲しくない者もやってくる。そんなときはやさしく迎え入れ,ごちそうもするがやんわりと出ていってもらうこともあった。出てきて欲しくないものは地に押し込めた。大地を踏んで押しとどめようとした。力足を踏むのである。大地に押しとどめ,湧き上がることを防ぐため「杖」を使っていた。空海が杖をつくことで聖水が湧き上がる。同じように悪いものを湧かせないように杖をつく。蟲師達も調伏に使う。

気仙沼線 272-2gs
雪降り列車行く

ポイントは全て山や海から流れを伝い,その里に訪れると言うことだ。蟲師達は連絡に光脈沿いのご神木と呼んでもよい木の「うろ」に手紙を入れる。そうすると光脈沿いに手紙は流れ,繭になってもたらされる。この光脈と言われるものが地場のエネルギーの鉱脈のことである。その光脈を探すのは特殊な才能を持つ者である。しかしそれらは現在もパワースポットとして断続的に現れ出ている。そしてその場所には水や川の存在が大きい。そしてその近くに立つご神木である。神が憑く依り代となった木である。柳田国男の言ったクロモジなのか,折口信夫の言ったタブなのかは分からない。しかしどちらもクスノキである。

飛ばない朝 164-2s
蔵だけが残った場所

私のような凡人はこのように山の頂から川に沿って下りつつ,古びた樹木を探しながらその風景を見るしかないだろう。そこは光脈筋であり,その古びた木のうろには蟲師達の手紙が入っているかもしれない。宮本常一のように風景を読み解く技術も必要かもしれない。

あまりに写真が氾濫しているこの世で,本当に霊性を写し込める写真であればいいと思う。そんな写真はすぐ分かる。見ることで心が幸せになるからだ。「蟲師」には「光酒(こうき)」という飲み物が出てくる。最高の飲み物であり,たちどころに病気はなおり,蟲は退散する。



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名付けざるものたちの系譜

栗駒山 122s
栗駒山の夜明け

およそ私たちの住む世界を感じ取ると,名付け得た者達は名を持ち,そのものの形を持ち,区別できている。私たちはそれで「分かった」と納得もしている。しかし,それらのものは名付けられたことで留め措かれ止まり,釘をさしたように動けなくなり縛られていることも確かだ。

「魂」はどうだろう。魂の運動の体系化を試みた折口信夫はこう言っている。
天中を行き経る遊離した魂,神が降らせた魂が人体の中府に降りて触れた魂を殖やし整えるということである。
こうして殖え整えられた魂が活動する力をもち、その余韻が威勢をもって外に放たれるのであり,「触(フル)」「威(フユ)」「振」は神を識り、聡く明るく身体剛健、寿命長遠の神術であると説いている。

                                       「折口信夫の霊魂論覚書」小川直之 から
神が降らせて,天中を浮遊している魂はやがて人に入り,落ち着くようになる。その人に合う,相性の良い魂であればその人の中で慈しみ育てられ,活発に活動し始める。相性の悪い魂であれば不活発になる。「タマフリ」の儀式とは,良き魂を呼び,触れて取り入れようとするものだったろう。そして自分も栄えるという。
霧かかるs
湿原に居て

それはそうだとしても私たちがまだ名付け得ぬものもあるだろう。
かつて酸素がまだ見つからなかった折に,酸素のことを脱フロギストン空気と呼んだ。エーテルとも言った。今でもまだ宇宙を組成している68%のダークエネルギーや26%のダークマターの素性が分かっていない。あることは確かだが名付けられていないものがある。たとえば今朝見た夢の意味をまだ見いだせないでいる。はっきりとした形のないもの,流動体,目に見えないもの,または目に見えていながら認識の域に入ってきていないもの,そんなものを例えば「気」と呼ぶこともある。

呼ぶ山
「呼ぶ 夢枕獏岳短篇集」2012/04/30 メディアファクトリー 夢枕 獏

夢枕 獏の「呼ぶ」の冒頭の一編は「深山幻想譚」。「気」を集める男の話だ。山歩きをしていると空気の違う層に入ったのかと思われることがある。またどこか異質な雰囲気が漂う,何か形容できない気配を感じる場所に出くわすこともある。多分,そう感じた時に「気」を感じ取っているのかもしれない。
地球からの〈気〉が抜け出てくるばしょにはね,何というか,宇宙と同質の〈気〉とでもいうものがあるんです。どのくらい昔かわたしにゃわかりませんがね,大昔,地球ができる時に,この大地はその宇宙の〈気〉みたいなものをいろんなものとごつちゃに抱え込んでしまったらしい。
その〈気〉は無機質のものは通り抜け,白い靄のようなもので光の粒がきらめいている,緑色だが微妙に色合いが変わる。時折ピンク色のパール質の光が緑と溶け合うように見える。
その〈気〉はまわりの雰囲気に化ける。〈気〉自体はただの〈気〉と言う。
まさに変幻自在の流動体のようなものである。

IMGP3635-2s.jpg
稜線にたなびく

魂と名付けたり,気と名付けたり,幽霊と名付けたり,また漆原友紀は「蟲(むし)」と名付けたりする。漆原友紀の「蟲師(むしし)」のことです。
およそ遠しとされしもの/下等で奇怪/見慣れた動植物とはまるで違うとおぼしきモノ達/それら異形の一群をヒトは古くから畏れを含みいつしか総じて「蟲」と呼んだ

普通の人には見えない生命体の営みから起こる現象であり、この世のあらゆる生命よりも命の原生体に近いものが「蟲」だと想定している。

朝25 793-2ss
1月の凍結した伊豆沼

「蟲」は作品中,「生と死の間、者と物の間にいるもの」、「陰より生まれ、陽と陰の境をたむろするモノ共」、「我々とは在り方の異なる命」などとも説明され、その姿が見える者と見えない者がいるが、稀に全ての人間に見える蟲も存在する。未だ謎が多く姿形も多種多様で、動植物型のものやどちらともつかないもの、虹や雨など自然現象に近いもの、姿形は違えど実際の生物と全く同じ性質を持ったもの。透けているものや光を帯びているもの、物体をすり抜けるものもいる。また、死んでも骸は残さない。(by wiki「蟲師」より部分転載)

この話は後日に続きます。


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