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一枚の雑巾が語るもの

さんぽ道2月おわり 058-2s
今朝の雪のさんぽ道

昨夜の雪は雨に変わり凍ったようです。二度桜の花に雪が積もり,凍っていました。
まだ朝晩かすかにマガンやハクチョウの飛ぶ姿や鳴き声を聞くことができます。
早いウメはほぼ六分咲きで止まっていましたが,三月になれば満開になるでしょう。

さんぽ道2月おわり 026-2gs
今朝のいつものさんぽ道

今日は図書館へ調べ物です。なんだかぼんやりといろいろなことを考えていますが,言葉になって表われてきません。もどかしいような何か落ち着かない気持ちになります。でもこういう時間を送ることでつながってくるものがあり,それが写真に生きてくることもあります。

ところで森美術館で行われている「村上隆五百羅漢図展」は入場者20万人を超えたそうです。作品が3m×100mという作品はすごいですね。その展覧会と並行して横浜美術館では「村上隆とスーパーフラット・コレクション」展が開催されていて,村上隆のコレクションが展示されています。

村上隆とスーパーフラットコレクション村上隆という作家の創作のバックヤードツアーのようなものでしょうか。彼の絵をつくり出す背景になるコレクションが見られるわけです。NHKの日曜美術館で取り上げた時もこの話は出ましたが,コレクションの中には「雑巾」もあるんです。どのような経緯でコレクションに入ったのか分かりませんが,おもしろくも感じました。

村上隆コレクション雑巾
説明には「古道具坂田旧蔵」と書いてあります。調べてみると「古道具坂田旧蔵」とは,目白で「古道具坂田」という店があり,そこにあった雑巾らしいです。村上隆がこの店を訪れ,この雑巾とコーヒーフィルターが欲しくなり、価格を尋ねたそうだ。そのときに坂田氏は「これは売り物ではないので」と答えたという。やがて対談をきっかけに再会した時に,その雑巾とコーヒーフィルターが坂田氏から村上氏に贈られたわけです。
物の美しさは見る人の感受性の範囲内でしか見えません。このことは、見る側が成熟し、自身を確立してゆかないと、いつまでも他人の美の基準や、品物にくっついている肩書きに依りかかって物の美しさを判断することになってしまいます。~(略)~この展示がご覧戴いた方にいくらかでも生活の楽しみの幅を広げるヒントを与えることができれば、それは企画者の一人として望外の幸せだと思っております。
                                                坂田和實氏が松濤美術館で行った展覧会図録より

ご主人の坂田和實氏もなかなか面白い人です。確かに自分が成熟して確立していないとモノの良さは分からないものです。「いつまでも他人の美の基準や、品物にくっついている肩書きに依りかかって物の美しさを判断することになってしまいます。」というのは本当でしょう。
しかし皮肉にもこのコレクション展で「この雑巾」の価値は急上昇したでしょう。価値をつけるとは値踏みをするものですから,こんなに有名になった雑巾なんてないと思います。

おもちゃづくり 113-2gs
夜を駆け抜ける

村上氏のモノを見る目が実に自由だということが「スーパーフラット」ということなんでしょうか。生活雑貨からキーファーまでありとあらゆる作品が等価値で置かれている。秀吉自筆の書状と雑巾は等価値で置かれているのです。魯山人の隣にアラーキーの写真が置かれます。モノをモノとして見て,権威づけられたモノをゼロに戻す。他人のモノサシに寄りかからない。自分が必要と認めたモノを探して見つける。その基準はお金ではないのです。

最後に,五回目の3.11が近づいてきました。
いつも「自分は何をしてきたか。」と自分に尋ねます。この言葉は自分の中で流動体のように伸びたり縮んだりしながら,特に呑まれるほどに大きく,時にはからまり,自分の中でぐるぐると廻っています。このあふれる程のモノをカネで買えるという社会は本当に正しかったのか。自由資本主義のシステムに乗せられ,災害公営住宅に入居した後にコミニティーの問題が生じていると聞けば,実はカネ中心の価値基準が最後には人間のコミニティーを分断させたのではないかと思ってもしまいます。いつも問われているのは権威づけられたモノや他の人から借りたモノサシで動き続ける資本主義に対して,反省を迫られていることに気付かないほど鈍感になっている自分だということではないか。

一枚の雑巾は,そんなことを語っているように思えました。



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春先の雪-不思議な呪文-

ドラゴンレール 091-2gs
春先の雪

日目上人は日蓮の高弟日興の愛弟子であり,宮城に日蓮宗をもたらした最初の僧でした。
日目上人の祖父,新田太郎重房が承久の変の後,宮城登米の地(三迫新田郷)を与えられたのでした。このことをきっかけとして小野寺姓だった重房は新田姓に改姓したのでした。そして日目上人の父,二代目の新田五郎重綱は文永六年(1264)に鎌倉で亡くなったそうです。三迫新田郷は日目上人の兄五郎次郎頼綱が継いでいた。日目上人はこの地で新井田に大石寺の末寺として本源寺,森に上行寺,一迫に妙教寺,築館宮野に妙円寺を創建したのでした。

先回,遠野の座敷念仏に残っていた経に「阿字十方三世仏 弥字一切諸菩薩 陀字八方諸聖経 皆量阿弥陀仏」という不思議な念仏があり,宗派仏教では伝えられていない神呪経という経だったことを話した。山形の竹田賢正氏は山形の氏の実家にも同じ念仏があることを知り,その伝承のルートを考えてみた。その論文が「板碑偈文「阿字十方」の伝承系譜について」(『山形県地域史研究』14 1989)である。そして氏は結論として「日蓮宗に転宗した高野聖」によってもたらされたと言います。

どうして「日蓮宗に転宗した高野聖」と言えるのかが問題なのです。
まずこの念仏の特徴は。
「阿字」十方三世仏
「弥字」一切諸菩薩
「陀字」八方諸聖経 
皆量「阿弥陀仏」と並べると
「阿という一文字」の中には十方三世仏が全て入っているのだよ
「弥という一文字」の中には一切の諸菩薩が入っているのだよ
「陀という一文字」の中には八方のすべての経が入っているのだよ
だから南無阿弥陀仏と唱えればすべての神々しい力が湧いてくるのだよと簡単に言い聞かせるような解釈の講義を伝えるような経なのです。

実際板碑の碑文には,「十方三世仏 一切諸菩薩 八方諸聖経 皆量阿弥陀」と刻まれ,「阿字」「弥字」「陀字」は省略されて書かれることが多いのです。(二回前の記事「日目上人の出自一」の東北地方の「阿字十方」の板碑 偈文を見て下さい)
この呪文は絶体絶命の危機に唱えると効果があるという効験の高い呪文であるとお伽草子の中でも出てきます。しかしこれらは口伝に依ることで力を顕わすものであり,文字に置き換えたら効力がなくなるという考えがあったというのです。板碑の偈文には,「十方三世仏 一切諸菩薩 八方諸聖経 皆量阿弥陀」とだけ刻まれ,後は完全な形は口伝によるもののみと限定したのです。秘密として隠したわけです。実際は経通りに伝えられましたが,秘伝としておくために板碑にする場合には省略することと約束したのでしょう。

縦構図3-2gs
夜を駆ける

確かに秘伝であれば文字に残さず口伝のみとする作法はあるでしょう。
ところでこのような仏教を世に広く伝えたり,信心をもたらす方法は特に吟味されてきました。今で言う教育の技術というのでしょうか,分かりやすく現実的で聞く者が納得できなければ信者は増えません。そこで編み出されたのが「絵解き」つまり絵を見せながら信心することの大切さや仏に祈ることの大事さを解説したり,「字解き」説話を通して難しい言葉も簡単に解説することで念仏を唱えることの大切さを知らしめたのです。こうした聖達が遊行しながら人々にありがたい話を授け,信心する心を育てていったと思われます。布教はこのように各地でありがたいお坊さんが来たと伝えられ,または一遍のように木札が配られ御利益があるようにと人々も信心を深めていったのでしょう。こういう高野聖はたくさんいたでしょうし,また布教教化活動は大切な修行の一つでもあったと思われます。天台宗でなくても様々な宗派がありましたから,廻国聖とも呼ばれたり,経を納めた六十六部衆,六部とも言われ,団体で颯爽と日本国中を歩き回ったでしょう。そして修験者もいました。まさに中世の壮大な知識ネツトワークが張り巡らされていたのが事実です。それを僧達は命がけで旅していたのです。それらの片鱗が板碑として現代に伝えられています。

さて,なぜ日蓮宗か。話を急ぎましょう。
竹田氏は山形立石寺で「日蓮秘伝書」を見ました。この文書は日蓮宗の念仏のに関する秘伝書の写し(1659)です。その中に全く神呪経と同じ形式と内容が書かれていたというのです。その部分は竹田氏が線を引いているので引用してみます。
南ト者(ハ)七万五千仏之功徳也,無ト者(ハ)万億仏之功徳也,阿ト者(ハ)七万千仏之功徳也,弥ト者(ハ)七万八千仏之功徳也,陀ト者(ハ)八万諸聖経之功徳也(中略)阿之儀者(ハ)別而口伝有
竹田氏はこの文書から神呪経の唱導系譜の流れを日蓮宗も取っていること,これは宗派仏教ではないこと,日蓮宗との関連,そして日蓮宗の本来の教義ではなく基礎部分に天台の修験の考えがあることなどを元に,「日蓮宗に転宗した高野聖」と考えてみたわけです。つまり証拠よりも布教方法の技術(絵解き,字解き,念仏の唱え方)からアプローチしてみたわけです。なかなか面白い論立てです。
今日はここまでにします。

次回は「六十六部の板碑」についてです。


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日目上人の出自2

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夜汽車

日目上人は文応元年(1260)静岡県仁田郡畑郷で生まれた。
母の故郷がこの地であるということもあるだろう。新田氏二代目の五郎重綱の五男坊だった。幼少,日目上人は虎王丸と呼ばれていた。
父重綱は鎌倉で死去したようであるが,その時虎王丸は五歳だった。十三歳の時,走湯山円蔵房に登った。翌年円蔵房身延山より日蓮上人の高弟日興が訪れ,学頭式部僧都と宗法の論争をした。虎王丸は日興の説話に感動した。十七歳の虎王丸は日蓮上人の近くに仕えた。
その日蓮が亡くなったのは弘安五年(1282)11月の下旬であったという。享年61歳だった。

日目は日蓮の没後の法要を済ませ,母を静岡に訪ねた。そして兄頼綱がいる奥州三迫新田へ向かった。

慶長以前北上川
慶長以前の宮城北部の河川図

さてどうして奥州の三迫新田(にいだ)なのか。
新田氏初代鎌倉御家人新田太郎重房が三迫新田郷(現中田町宝江新井田)の領主になったのは,頼朝も死に,承久の乱後守護地頭の大幅な配置替えがきっかけではないかと言われている。貞応二年の新補地頭の得分あたりと姉歯量平氏は推測している。この時,重房は初めての領地を得た。奥州三迫新田郷の領主になった。その子どもが日目上人の父新田氏二代目五郎重綱である。既に兄頼綱が領主としていた。

12月最後の日曜 743-2s
春の光

日目は歓迎され,各所に講義所を開いたという。新井田に大石寺末寺の本源寺を創建,近くの森にも上行寺を創建している。その頃,日目の師日興は身延山を去り,静岡県富士宮市に移り,大石寺本山の創建を進めていたのでした。その手伝いもあってか,一旦大石寺に戻る。そしてまた弘安八年から奥州に来ている。布教にも力が入り,一迫町柳目に妙教寺,築館町宮野に妙円寺を創建している。
この頃からの日蓮宗の板碑は周辺の地域一帯に存在して現在でも見ることができる。


この次は遠野に残る不思議な呪文,「阿字十方三世仏 弥字一切諸菩薩 陀字八方諸聖経 皆量阿弥陀仏」という呪文を考察した山形の竹田賢正氏の論文「板碑偈文「阿字十方」の伝承系譜について」(『山形県地域史研究』14 1989)から導き出した日蓮宗に転宗した高野聖によってもたらされた可能性を解説してみたいと思います。



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