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妹トシの死から七ヶ月間の空白に

朝のの岳 040-2s
朝の一番列車

稲刈りがこの週末と来週で一気に進むと思われます。
暖かい陽差しが出るとほっとします。
そして山は紅葉の季節を迎えて秋の彩りが華やかになっていく今の時期がとても気持ちよく感じられます。

さて,宮澤賢治のことですが,また思いつくままに書いてみます。
妹トシが亡くなったのが,1922(大正11)年の11月27日ですが,この後作品は一切書かれず,翌1923(大正12)年の6月3日に「風林」4日に「白い鳥」が書かれて,実に七ヶ月ぶりに賢治は筆を取ったと年譜には書いてあります。堀尾青史「年譜宮澤賢治伝」にも「6月3日「風林」「無声慟哭」後,七ヶ月ぶりの詩。」と書かれています。
わたしは妹の死でショックがあまりにも大きく,賢治は筆を取る気にもなれなかったのだ。失意のどん底にいたと解釈していました。確かに妹の死から後の半年分の書簡もすっぽりと抜け落ちています。作品もなく,書簡もないという全く空白の期間が妹の死からの七ヶ月間なのです。


気仙沼線924 196-2gs
トンネルを過ぎて

賢治は失意の中で苦しんでいた。その七ヶ月間。それは非情な時間でもあった。好きな詩作も出来ないほどに憔悴していた。
そして彼は夏休みを使い,樺太までトシを追っていった。
こう思っていました。

しかし,どうも悲嘆に暮れてばかりではないように思ったのが,「シグナルとシグナレス」を読んでいたときでした。この「シグナルとシグナレス」は東北本線の進んだシグナルと軽便鉄道の遅れた手動のシグナルであるシグナレスの交流の話です。妹トシが死んで五ヶ月で岩手毎日新聞に5月11日から全11回連載で載ります。これは結構シビアなやりとりの物語です。つまり悲しみに暮れた弱気になっている賢治が書いた感じはせず,むしろ元気な頃にシニカルな饒舌パターンで書いた作品に思えます。すでに脱稿していたものを依頼に応じて送ったのでしょうか。前の月,四月には岩手毎日新聞に詩「東岩手山」と童話「やまなし」そして同月童話「氷河鼠の毛皮」も掲載しています。求めに応じていたとは言え,水面下では活動していたのです。むしろ筆を折っていた七ヶ月という期間は憔悴していたというよりは,喪に服していたと捉えた方がよいと感じてきました。

雨の大船渡線 005-2gs
雨の大船渡線

何よりも妹が亡くなって一ヶ月経った1923(大正12)年の正月四日,いきなり原稿をいっぱい詰めたトランクを持って上京したのです。正月にことを起こす賢治の性格はいよいよ精力的に全国デビューを目論見,動き始めていたと言うことが出来ると思います。
仕事上も農学校が新築完成で引っ越しやらでいそがしい時期で,県立花巻農学校の開校式の日に賢治自作の劇「植物医師」と「飢餓陣営」を上演しています。

こうして見ると,妹トシの死を悼む喪に服する気持ちを持ちながら,更に精力的な活動へと進む時期が空白の七ヶ月間だったと感じられます。悲しみに暮れているだけではだめだ。妹の死を大事に心の中に抱きながら,賢治はさらに活発な活動の時期に入っていったのでした。




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