往き来する時間-吉増剛造の写真-

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ブナの合成写真 これは私の写真です。 

吉増剛造は昭和14年生まれで,今年78歳になりますが,いよいよ自分の詩の磁場を強くしているようです。
なにせ昨年は近代美術館で展覧会も行い,ブームが訪れているそうですが,現役の詩人が展覧会を開くと言うこともまた異例かもしれません。
私は彼の処女作の「出発」「黄金詩編」あたりですから1970年代から愛読してきました。彼の詩の疾走感に共感していた1人でした。やがて彼の詩も時代そのものが疾走する村上龍の「コインロッカーベイビーズ」に重ね写しになっていきました。
昨年出版された彼の「我が詩的自伝」も先日懐かしくおもしろく読みました。彼の詩的遍歴が分かりやすく書かれていた。当初の刻印するような異常な筆圧の字は変わることはなかったが,やがて疾走が消えていったのは彼が歩き始めたからだった。

剛造シネ「予告する光」
剛造シネ「予告する光」予告編から

今日は多彩な表現を模索する吉増の写真を取り上げて写真と詩の接点を探ってみたいと思います。彼の詩の表現と写真はかなり記録としてもシンクロしている部分があります。彼の写真はやはり独特で「ぶれ」と「合成」が特色と言ってもいいでしょう。この「ぶれ」は疾走感でありながら時間の堆積層を遊離させるという意味があります。つまり写真という瞬間の映像の中に時間を引き込む姿勢が変わらずにあるようです。書くと言うことは紙に対して刻む,彫るという行為です。刻み続ける確かさを吉増は大切にしています。ですから若林奮から送られてくる厚さ1cmの銅板に彼は刻み続けるのです。写真も同じく永久に刻みつける道具でもあったのです。下の彼の写真を見てみましょう。

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幾分か華やかさもあるいい写真です。
やはり合成です。コスモスが咲く庭とカーテン越しの廊下のガラス戸が重ねられています。もちろん合成によって得られる現実のフィクション化によって詩独特の浮遊する空間が生まれます。と同時に新しい写真そのものが疾走した後に辿り着く自由なる場所(トポス)になるのです。彼,吉増にとって写真は自由への道しるべとしての看板のような存在になります。そして更に動的な空間へと向かう物が一連の「剛造シネ」となります。吉増剛造の写真のすべてをまだ見ていない私は彼の実験性の方向が見えています。あくまでも表現は詩へと向かうための写真です。ですから詩への道しるべとなる写真群となります。ぶれと合成によって特徴付けられる彼の写真には刻み込まれない時間というものをどう視覚化するかという実験性もありました。明らかに時間が刻み込まれる願いが重ねられた映像の奥から滲み出ています。

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ニリンソウ咲く 私の合成です。

吉増を読み解くには詩はもちろんのこと,写真,映画,音声,空間と多岐にわたります。それぞれに深く,おもしろみもあります。
私は吉増剛造の仕事を「多世界構造から読み解く詩の伽藍」と呼びたくなります。多世界構造という考え方は今唯一時間を超越できる考え方だと思います。吉増剛造の詩はこの多世界構造によって読み解かれていくことでしょう。



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半年の眠りから目覚めて-栗駒山-

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半年の眠りから目覚めて

池塘がおよそ半年の眠りから目覚めて水面を覗かせました。

このところ桜を撮り,山へ行き,忘れていた感覚に襲われ,吉増剛造の「我が詩的自伝」を読むことでふつふつと眠っていた自分の中の何かが発酵し始めた感じがしています。

実際私たちは表現方法はなんであっても,小説であっても,詩であっても,写真であっても,とにかく時間と場所で今の表現を可能としていますが一体そこに見えないでいて,たまに部屋の隅にぼんやりと痕跡も残さないようなある存在に気付かされることがあります。それらは文脈も結ばず,たちどころに形態も残さず,まるで気配をすべてとしてまたたくまに消えていくようなものです。注視しようとすると逃げていく,ピントを結ぼうとするとその被写界深度の中では輪郭を顕わしてこない何かなのです。

半年も雪に埋もれていた山のブナの巨木を見上げていました。ブナは天頂部から展葉が始まります。どのようにして大気の中にその枝葉を伸ばしていくのかと思いました。枝葉が伸びていくのは何によってその方向が決まっているのか。樹形図に表される対関係から伸びていく。その通り。しかしそれだけでは規則性に乗っかっているだけだと自分の中の誰かが言います。規則性という引力に引き込まれているだけで説明しようとしているのです。類似性や違いから分類して分類してさらに細かい網の目を作っていった果てに黒く塗りつぶされて不可視の領域に入り込んでしまう。そしてはたと気付けば次の規則への引力圏にいることになる。詩人が恐れているのはこの便利な引力です。例えばシナプスができたことで回路が開かれ,それと同時に取り残されていく,捨て去られていく組織(場所)があるはずです。その影に隠れて注視の領域から外れていった場所とは何か。

デリダがプラトンの「ティマイオス」から「コーラ」という不思議な物を取り出しました。以下「コーラ」というものが何を表現しようとしているのかをいろいろなものから引用してみます。
「コーラこそは、みずからを刻印するありとあらゆるものの記入の場を象るものなのだ」
「~である」という意味賦与を剥ぎ取ること」
「つまり、コーラとは「空き地」なのであり、全てを受け容れる「空白」、どんな生徒が座ることも許す名もない「座席」なのだ。」
そして指し示そうとすると,また引き戻され,こう警戒されます。「我々が警戒したいと思ってきた擬人論の危険性を増大させはしないだろうか?」二項対立で考えていてはその文脈にさらわれてしまう。つまり気を取られているうちに注視しなくなってうち捨てられていった「空き地」のこと。目的性が成立していない,または目的がはぎ取られた「場所」つまり「空き地」すべての存在を,どんな刻印をも可能とさせる受容体。

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目覚めたブナの林

言葉によって言葉の限界を超えていくことが吉増の目指しているものです。いいえ,全ての詩人は言葉によって自らの限界を超えていこうとしたのです。模倣,擬人化,アナロジー,コントラスト,文脈。すべては際立たせ,象(かたち)づくるものの総称です。ではフィルターを通しても顕在化してこないものとは・・・。
私たちにとって写真とは,何を写してきたのか。
世界の遠くの奥で何かが壊れ続けている音がしませんか。写真がただの紙くずに見えます。
「コーラ」とは実に映し出されることのない,まれに幻のように立ち顕われてはたちまちに消える,やわらかい場所です。
それを写したくてたまりません。それは詩人が辿り着くべき蜃気楼のような,天気の変わり目に訪れる一瞬のビジョンなのでしょう。


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