二人の菜食主義者-賢治と悟堂-

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雨の東北本線 新田-梅ヶ沢

先日中西悟堂の伝記を読んでなかなか面白い人だなあと思った。鳥好きの人は「中西悟堂」という名前はどこかで聞いたことがあると思います。悟堂は,日本野鳥の会を立ち上げた人で日本のナチュラリストの草分け的存在ですね。その中西悟堂が菜食主義になるという話が出てきて,「あれっ!賢治と似ているなあ」と思っていました。

そうこうしているうちに,賢治の手紙をパラパラとめくっていたら,何と賢治が中西悟堂に宛てた手紙があることに気付いたのでした。その手紙は日付は不明なのですが,使っている用紙は600字詰原稿用紙に鉛筆で書いてあります。賢治は,よく手紙の下書きを鉛筆で書いて清書はインクを使っていました。600字詰原稿用紙に鉛筆の下書きは昭和3年末から昭和5年4月に見られますが多くはありません。昭和5年8月には黄罫詩稿用紙を手紙に使うことが多くなるので,中西悟堂に宛てた手紙の下書きは昭和3年~昭和5年前半頃の手紙と考えられます。手紙の下書きの内容はたった一言です。
「闊葉樹」毎々お送りくださいましまことに
「闊葉樹」は中西悟堂が,昭和3年9月1日に創刊発行した詩誌です。この詩誌は創刊した昭和3年中に3号,翌昭和4年中に10号,終刊となる昭和5年3月までに2号と計15号発行されています。
賢治は毎回送られてくる「闊葉樹」のお礼を悟堂に出したのでした。

そこで宮沢賢治と中西悟堂との間にどんな接点があって,どれくらいの仲だったのかと思います。
調べてみました。

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くりでん走る

「宮沢賢治の詩の世界」というサイトで中西悟堂を検索してみますと,次のように載っていました。引用してみます。
1927年3月1日(火)(賢治30歳)、この日付で発行の雑誌「詩神」三巻三号に、佐藤惣之助が回想「詩戯と懐旧―大正詩壇回顧―」を執筆し、「寄贈されたしみじみ澄んだ記憶にあるもの」の中に『春と修羅』を挙げた。また、同号で中西悟堂も「大正詩壇の回想」で記憶にある詩集に『春と修羅』を挙げた。 また、本日付発行の雑誌「太平洋詩人」二巻三号に、草野心平が「二月六日」を発表し、その中で「宮沢賢治は銅鑼に於ける不可思議な鉱脈である」と記して、『春と修羅』の取り次ぎを表明した。

1926年2月1日(月)(賢治29歳)、本日付発行の雑誌「月曜」二号に、「ざしき童子のはなし」が掲載された。 本日付発行の雑誌「虚無思想研究」二巻二号に、「心象スケッチ 朝餐」が掲載された。 本日付発行の雑誌「日本詩人」おいて、詩人(後に野鳥研究家)中西悟堂が、「新彗星諸君」の一人として賢治を挙げた。
中西悟堂は賢治にかなり注目していたのです。

それじゃあと最初の疑問に戻ります。
2人とも菜食主義者ですが,この菜食主義そのものも2人の結びつきの中で生まれたのか,それともそのような時代の流れとして2人は各々に菜食主義になっていったのかという疑問が湧きます。


これは続きます。


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