二人の菜食主義者-賢治と悟堂- その3

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童話村で行われているライトアップ2017

今日は中西悟堂についてです。
中西悟堂という人も自然が好きで,詩が好きで,文学が好きな文人でした。確かに「日本野鳥の会」を設立し,自然保護の先駆者としての活躍は素晴らしいものがありました。しかし,悟堂の底にはいつも文学への瑞々しい情熱があったと思います。彼の文学や自然回帰の視点には彼が9歳の時に山の中の寺に籠って行った修行によって健康児になった,その自然へ感謝があったのではないかと思われます。もともと小泉八雲が過ごしていた島根の名刹普門院の住職までした悟堂ですから,仏教に仕える者として菜食は当たり前ではないかとも思われます。確かにそうです。しかし,それ以上にどうも宮沢賢治,中西悟堂,保阪嘉内,武者小路実篤などの時代に彼らの思想のキーワードになるものがあったと感じます。それが「トルストイブーム」であり,そこから出てくる「菜食主義というライフスタイル」だったと思われます。

まず宮沢賢治の場合は,1916年(大正5)保阪嘉内が高農の入学してきた自己紹介でトルストイのようになると言った時から賢治の中で,トルストイの存在が極めて大きくなったでしょう。よく賢治の菜食主義で引き合いに出されるトルストイの「第一階段」は賢治の手紙や大作「ビヂタリアン大祭」や命あるものを食べなくては生きていけない「かなしみ」として作品の中に頻出してきます。高農の図書館にはトルストイの作品もあつたそうです。

トルストイ
トルストイの「菜食論と禁酒論」1892年に書かれていて,日本では1923年(大正12)年に春秋社から出ています。

この中でトルストイは人生の「第一階段」を上がる者として,自制,節制を心掛けることで精神的にも肉体的にも安定した状態に保つことで善なる生き方ができると説きます。そして食生活においてはまず「断食」を掲げ,飽食や偏食,だらしない自己中心的な生活,飲酒等の弊害を改善する必要性が説かれます。徹底的に善なる望ましい考えを推し進めると,そこには他のどんな命を傷つけない自分以外の他の為に努力する利他主義が出てきます。無駄な殺生をさけること,つまり「菜食主義」が出てくるわけです。更にこの話の展開として興味深いのは屠殺場での動物が殺される残酷な描写がかなりの量で出てきます。この動物が屠殺される話が賢治と保阪嘉内が一緒に見たであろう豚の屠殺のシーンと重なるのです。これが微妙に大正7年(1918)5月19日付,保阪嘉内に宛てた手紙の「私は春から生物のからだを食うのをやめました。」に繋がってくるようです。
何よりもこうしたトルストイの考え方が,日本に入るやいなやたちまち話題にのぼって来ます。トルストイブームです。

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童話村で行われているライトアップ2017

中西悟堂の年譜などを読んでいると,彼が「トルストイ」に心酔する様子が出て来ます。
明治四十年(一九〇七) 十一歳
三月、高等科卒業。京橋区数寄屋橋の紙問屋に奉公に出される。
政治活動の巻き添えで養父悟玄が東叡山を騒がせた責任をとり、東京府北多摩郡神代村字佐須の祇園寺(深大寺の末寺)に移り、悟堂を深大寺に預ける。悟玄は後に祇園寺の住職となる。
この頃、深大寺小学校の教師を通じてトルストイを知る。また、多摩川でチドリの擬傷習性を初めて見る。(武者小路実篤記念館の年譜から)
もう悟堂は11歳の時にトルストイを知っていたということです。

また当時の寵児と言われた白樺派を立ち上げる武者小路実篤は学習院高等科当時,1903年(明治36)18歳の時に「トルストイに強くひかれ」 と出てきます。この考え方の実践が「新しい村」運動です。武者小路実篤のことは後に機会があれば書きたいと思います。
ただ中西悟堂が行った菜食主義はこのように出てきます。
昭和二年(一九二七) 三十一歳
ホイットマンの「草の葉」の翻訳に没頭する。
三月、報知新聞より昆虫と野鳥の観察記の連載を依頼される。
九月、春から火食を絶った生活に踏み切り、そば粉と大根と松の芽を常食とする。それを研究材料にしたいと、近くの精神病院から定期的な健康診断の依頼を受ける。貼り付け元
この菜食主義はどちらかと言うと,仏教の修験道のレシピです。この時,悟堂は住職という役職から離れているのにもかかわらず,このような生活をしていきます。まあ3年半も自然の中で暮らす生活をしていたのですから,悟堂らしいと言えば悟堂らしいです。

その悟堂が文学の世界,ことに詩の世界にはいつも注目していました。そして,悟堂は宮沢賢治を知るのです。悟堂が継続して寄稿していた「日本詩人」に「新彗星諸君」の一人として「宮沢賢治」の名を挙げます。サイト「宮沢賢治の詩の世界」の「賢治日めくり2月1日」にこう出てきます。
1926年2月1日(月)(賢治29歳)、本日付発行の雑誌「月曜」二号に、「ざしき童子のはなし」が掲載された。 本日付発行の雑誌「虚無思想研究」二巻二号に、「心象スケッチ 朝餐」が掲載された。 本日付発行の雑誌「日本詩人」おいて、詩人(後に野鳥研究家)中西悟堂が、「新彗星諸君」の一人として賢治を挙げた。 1928年2月1日(水)(賢治31歳)、本日付発行の雑誌「銅鑼」十三号に、「氷質のジヨウ談」が掲載された。 貼り付け元
「春と修羅」が刊行されたのが1926年(大正13)ですから刊行されてから約2年が経っています。また翌年悟堂は,雑誌「詩神」三巻三号に、佐藤惣之助が回想「詩戯と懐旧―大正詩壇回顧―」を執筆し、「寄贈されたしみじみ澄んだ記憶にあるもの」の中に『春と修羅』を挙げた。また、同号で中西悟堂も「大正詩壇の回想」で記憶にある詩集に『春と修羅』を挙げた。 とあります。
悟堂は賢治の「春と修羅」をよく読んでいたのです。そういう紙面での交流もあって悟堂は賢治に自分の詩誌「闊葉樹」を欠かさず送っていたのだと思います。賢治は「「闊葉樹」毎々お送りくださいましまことに・・・」とお礼の手紙を書きます。このお礼の手紙の下書きは日付不明になっていますが,
「闊葉樹」は中西悟堂が,昭和3年9月1日に創刊発行した詩誌です。この詩誌は創刊した昭和3年中に3号,翌昭和4年中に10号,終刊となる昭和5年3月までに2号と計15号発行されています。
と書簡解説に出ていますから昭和3年~昭和5年前半に書かれたと予想できます。


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賢治が菜食主義に入ったのは1918年始め辺りでしょう。そして「ビヂタリアン大祭」を書いたのは解説ではおそらく1924年(大正13)28歳のとき,藤原嘉藤治の「他を犯さずに生きうる世界というものはないのだろうか」という言葉に答える形で書かれたと言います。
中西悟堂が厳しい菜食を始めたのは,昭和二年(一九二七)九月,三十一歳の時です。「春から火食を絶った生活に踏み切り、そば粉と大根と松の芽を常食とする。」という修験者の穀絶ち修行に似ています。

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今日の記事で紹介したトルストイ「菜食論と禁酒論」では個人的な生活の改善だけでなく,産業の基盤を支える「分業」も嫌っています。最終目的は自立,自力です。他の人,物に依存しない生活です。自給自足の生活こそが偽りないライフスタイルであると言うのは一見利他主義とは関係ないように思えますが,惜しみなく他の人へ与えるという基盤が自分は手を下さないとは言え,自分の命の維持が他の人(職業としての屠殺人)による殺生から成り立っているのではいけないのです。自分自身が最善を尽くした生活(菜食)を行うことで利他主義の基盤が出来上がるという考えです。

一体このような菜食主義にシンクロして現れ出てくる利他主義とはなんなのでしょうか。これこそ宗教を超えるものでもあるように感じます。賢治が「自分の命も惜しくない,あげます」という心持ちで言っている過激さはこの徹底的な利他主義から出てくる文脈から読み取ることができるとしたら・・・。すべてのものを差し出す覚悟,自己財産も何も持たないというライフスタイル,自分のすべてを投げ出すという賢治の作品はどこに辿り着こうとしていたのでしょうか。

吉田司と山折哲雄の対談「デクノボー宮沢賢治の叫び 」(朝日新聞出版)は,賢治にとって「利他主義の実践とは何か」にまで及んでいて興味深い視点を掲げています。


この話は続きます


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