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月天子線 gettenshi line

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月天子線 gettenshi line

月天子という言葉は仏教の言葉で,そのまま「月」のことです。

宮沢賢治の手帳に書かれた「雨ニモマケズ」の後に突然8ページにわたって若々しい口調の「月天子」という詩が出てきます。それを読んでみると,賢治が今までに三度月食を見たとか,盛岡測候所の友だちから天体望遠鏡で月を見せてもらったことなどが書いてあります。その詩を読んでいる時に,ふと月天子線という鉄道路線名があったらいいなと思いました。この月天子線という架空の鉄道路線名を口に出して読んでみると,gettenshi line(ゲッテンシライン)となり,なんともいい響きになります。

そこで電車の写真と2時間撮った月の光跡を組み合わせてみました。画面中央の月はトータル2時間の月天子の動きです。撮り方は,1時間撮って5分休んで真ん中でキラリンとさせて,5分おいてまた1時間流してという撮り方です。分かりやすく言えば「-・-(ツー・テン・ツー)」という撮り方です。ゲッテンシラインを走る夜の一両電車。3/31のブルームーンを前にして気持ちも高まってきましたね。

ところで皆さんは3/31のブルームーンはどちらで見ますか。

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柳津駅こじんまり写真展開催中

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柳津駅のネコ

柳津駅で行っているこじんまり写真展「わがふるさと気仙沼線」も3月23日の河北新報で紹介されて携帯に50件近くのコメントが入った。パンフや気仙沼線の歴史を書いてみた資料もすっかりなくなって予想以上の反響に嬉しく思っています。ありがとうございました。

毎日曜の午後2時半に柳津駅に詰めるようにしていますが,置いてあるノートに返事を書くのが楽しみです。このブログを見て遠路来ていただいた方もいらっしゃって本当にありがたいことだなあと心より御礼申し上げます。なにせ8月25日までの超ロング写真展ですから撮ってまた飾ったり,調べてまた飾ったりと正直気が抜けない部分もありますが,楽しいです。寄せていただいた感想や話を聞いて,そのポイントを写したり,調べたりとお答えできる部分を最大限取り入れて進めたいと思っています。立ち寄って登米市の名物を味わうのもよいし,峠を越えればすぐ南三陸ですから南三陸もへ行くのもいいですね。実際そうしてドライブしながら立ち寄る方もいらっしゃいます。私などはひまにまかせて気仙沼線に往復で乗ったりして車中から見える景色を楽しんだりしています。前谷地-柳津間は30分弱で片道320円ですからすぐ行って,すぐ帰れるわけです。


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今年最大の上弦の月が懸かった夜 3/25 ちょっと遊んでみました 気仙沼線 御岳堂-陸前豊里

さてご連絡いただいた中に,気仙沼線開業の時の写真を持っていますので送りますという嬉しい申し出もありました。
是非展示させて下さいと申し上げましたが,貴重な写真も展示できる機会にしていければ本望も叶います。ありがたいことです。

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春霞の夕暮れ

只今は気仙沼線沿線の町史を調べています。これらの途切れ途切れの資料をうまくつなぎ合わせることができればいいなと思っています。また映像資料の発掘にも努めます。


ところで柳津駅に詰めていますと,近所のネコが集まるんです。
そのネコたちの会合の様子がまたおもしろいんです。


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語り加えられる景色

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陸前小泉駅 現在

祖父や祖母は戦争中のことはあまり語ることはなかった。
幸せな時代に生まれた者になぜ敢えて苦しかったことを思い出して語らなくてはいけないか。
そう思ったんだと思う。
しかしたまについて出た思い出に,想像を超える現実だったことに驚くことが多々あった。

戦後70年も過ぎた今でも,戦争によって突然にいなくなった従軍看護婦だった姉の戦死が信じられないOさんに安否確認をお願いされたことがあった。様々な参考資料を探し,県庁の支援課を訪ね,作戦表を見せてもらった。そしてその記録をOさんに伝えた。同隊の生存者の方が九州にいることが分かり,Oさんは九州まで遠路訪ねていって話を聞いた。よかった。Oさんの家族は,こうしたことをよくは知らない。知らないどころか,昔のことにいつまでも拘泥しているおっぴさんを家族は冷たい目で見ることもある。今の現実を生きるのに忙しいのだ。

うちでもそんなことがあった。
戦争中に叔母は従軍看護婦として4回の赤紙をもらっていたことを記録を探している間に知った。赤十字社の記録に依頼されて文章を書き,当時の記録を綿密に残していたのだ。家族は誰も知らなかった。胃瘻によって延命治療を受けていた言葉も発しなくなった叔母を見て親族の皆がもっと話を聞いておくべきだったと悔やんだ。しかし叔母は戦地から4回も帰還した昔の人だから実に厳しい考えを持っていて,正直怖かった。

語られることを聴くことはとても難しい。
相手のすべてを十分に受け入れる覚悟がないとできないことだと思う。私はそのような人格の広さもないままに生きてきてしまったとつくづく後悔している。ましてや語られることをすべて受け入れて,後世の者に語り加えていくなどということはできるものではないと思っていた。どうもすべてを語ることができなければ沈黙するしかないという気持ちになってしまう。人は自分の言葉に責任を持たなくてはいけない。うそや誇張はいけないと心の隅々まで染み込んでしまっている。だから祖父や祖母も自然と語ることをあきらめたのかもしれない。
しかし人間のそんな自然なふるまいが間違いだと気付かされることもあった。
伝えなかったら理解はゼロなのだ。下手でも伝えればそこに理解される糸口が生じる。


私は現在気仙沼線の写真展をしています。
やはり気仙沼線が先人達の並大抵ではない苦労で成り立ってきたかをしみじみ感じています。だからバスで仕方がないなどとは言えない部分があります。宮城県の宝物です。残すべき遺産だと感じています。特に沿岸部の人たちに鉄道がもたらされた喜びをもう一度私たちも知っておくべきだと感じます。

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気仙沼線 本吉駅

地震と津波がもたらした大きな悲しみから7年過ぎて,自分も写真を撮り続けながら伝え加えることについて余命いくばくもない体で責任を感じることがあります。ここに遠野物語を引用してその気持ちを伝えたいと思います。遠野物語の九十九話の津波の話です。
土淵村の助役北川清という人の家は字火石にあり。代々の山臥(やまぶし)にて祖父は正福院といい,学者にて著作多く,村のために尽くしたる人なり。清の弟に福二という人は海岸の田之原に婿に行きたるが,先年の大海嘯(おおつなみ)に遭いて妻と子とを失い,生き残りたる二人の子とともに元の屋敷の地に小屋を掛けて一年ばかりありき。夏の初めの月夜に便所に起きいでしが,遠く離れたるところにありて,行く道も波の打つ渚なり。霧の布(し)きたる夜なりしが,その霧の中より男女二人の者の近よるを見れば,女はまさしく亡くなりしわが妻なり。思わずその跡をつけて,はるばると船越村の方に行く﨑の洞ある所まで追い行き,名を呼びたるに,振り返りてにこと笑いたり。男はと見ればこれも同じ里の者にて海嘯の難に死せし者なり。自分が婿に入りし以前に互いに深く心を通わせたりと聞きし男なり。今はこの人と夫婦になりてありというに,子供は可愛くないかと言えば,女は少しく顔の色を変えて泣きたり。死したる人と物言うとは思われずして,悲しく情けなくなりたれば足元を見てありし間に,男女は再び足早にそこを立ち退きて,小浦(おうら)へ行く道の山陰を廻り見えずなりたり。追いかけてみたりしが,ふと死したる者なりしと心付き,夜明けまで道中に立ちて考え,朝になりて帰りたり。その後久しく煩いたりといえり。



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