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三十車までがんばります

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大船渡線 陸中松川駅 賢治が勤めた東北砕石工場がある

写真の左の小径には引き込み線の線路跡が残っています。賢治が勤めた東北砕石工場からトロッコで貨車に積み込むためにしかれたものです。賢治も工場に立ち寄った際にはトロッコを押して積み出しを手伝っていたのかもしれません。

さてそんなセールスマン賢治の働きぶりが手紙や手帳などを読んでいると分かります。
学校をやめて1926(大正十五)年から羅須地人協会を立ち上げてまる三年立ちましたが,病気によって昭和3年8月で事実上終わることになりました。体調も回復した1930(昭和五)年4月12日のことでした。賢治のもとを東北砕石工場主の鈴木東蔵が訪れました。鈴木東蔵は賢治よりも11歳上で当時45歳でした。そして9月には賢治自身が東北砕石工場を訪れています。父は賢治が健康を回復したとはいえ心配もあったので,東北砕石工場花巻出張所という形で賢治を花巻に留め置き,仕事をスタートすることになりました。
賢治のセールスマンのスタートダッシュは昭和6年が明けてからすぐ始まりました。この年は大冷害の年でした。賢治は肥料設計の数々の考えと社会参加へ向けて自分の実力を出し切るために憤然として大冷害の中に飛び出していきました。賢治自身には仙台に出ていくことや石巻で会社を立ち上げることなどの考えがあったことが手紙などからうかがえます。また大理石関係を扱いたいと希望があり教え子の上郷小学校の沢里武治にも手紙を送っていたのでした。

しかしながら当時の肥料としての石灰は,まず安価であっても金で肥料を買うという考えは殆どありませんでした。それほど金もなかったのです。ですからそういうお金で買う肥料は「金肥」と呼ばれていました。家畜や人の糞などが当たり前でした。当然小作人達は搾取されどん底の生活を強いられ,借金を負うことで逃げられなくしていたのです。
また,石灰の流通についてもなかなか自由ではありませんでした。県や郡農会が購入を一手に決めていた時代で,巷の町の商店が独自で卸したりすることがなかったのです。そして石灰の購入取引先も,経路も,長年の人脈や時代の流れで固着していた現状でした。そこへ他県の賢治が見本を持って,単独で乗り出していっても大変難しいと言えます。敢えてこの石灰肥料市場に新規参入で乗り出していくことは時代的にも新しすぎることでした。小岩井農場が300トン買ってくれたとしても,それは本当にまれなことでした。
賢治のセールスぶりは緻密で,また精力的でした。しかし,正直言って肥料にまで金をかける余裕などない時代でした。


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