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一本の木 再レタッチ

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一本の木 再レタッチ版

前作では一本の木を浮かび上がらせましたが,なんかしっくりこない気がしていました。そこで改めてレタッチしてみました。
どうでしょうか。やはり画面が荒くなっていますが全体的に雰囲気はでできました。真っ暗でしたから感度を上げて撮ったのが失敗でしたね。


只今,本に戻ってきていて,仙台藩の玉虫左太夫のことを調べています。玉虫左太夫については以前にもこのブログの「新逃走論シリーズ」で取り上げたことがありました。現在私自身は柳津駅で気仙沼線の写真展示をしています。本吉,気仙沼を舞台とした物語を探していて,思い出したのが玉虫左太夫でした。もちろん気仙沼線ができる100年前の出来事ですから直接は関係ありませんが・・・。その記事をさらってみましょう。
今日は福沢諭吉をして「腹が立つ。意気地がないくせに酷なことをする。」と言わしめた仙台藩の愚行です。
それは玉虫左太夫という,素晴らしい人材を自ら消し去ったことです。玉虫左太夫は1969年(明治2)4月9日,牢前切腹,47歳の惜しい才能が消えました。それも「たった一日が」彼の運命を決めたのでした。
たった一日の違いで・・・。

福沢諭吉が玉虫左太夫の死を殊更に惜しんだのは,1860年(万延元年)共にアメリカに渡り,日米通商条約の批准のために力を尽くした仲だったからです。
玉虫左太夫は,1823年(文政6年)に仙台藩士の玉蟲伸茂の末子として仙台に生まれました。幕府の最高学府である昌平黌(しょうへいこう)のトップの林俊斎の下に入門し,24歳にして昌平黌の塾頭を務めたと言います。
1857年(安政4年)には箱館奉行堀利煕と共に蝦夷地を調査し「入北記」を著します。その緻密な記録の確かさから日米修好通商条約の批准書交換使節団として起用されました。帰国しては養賢堂指南頭取となりました。
しかし,時代は彼を必要しながらも,早すぎた彼の才能のために惜しい最期を引き寄せることになったのかもしれません。
1868年(慶応4年)戊辰戦争が勃発すると玉虫左太夫は軍務局参謀として,奥羽越列藩同盟の成立のために尽くしました。彼は戦うことを避けたかったのです。会津藩を救いたかったし,力だけで突き進む新政府軍に不安を感じていました。仙台藩は力で解決しようとする新政府軍の会津討伐の命とその調停で解決しようとする佐幕派で内部分裂することになりました。しかし,奥羽越列藩同盟はあえなく崩れてしまいました。

彼は時機を待つことにしました。榎本武揚の船に乗って新天地に向かおうとしたのです。約束は10月10日。

その時の経過を見てみましょう。
1868年(明治元年)9月17日仙台城撤収,山形藩降伏
            9月18日天童藩降伏
            9月19日上山藩降伏
            9月22日会津藩降伏
            9月26日官軍仙台に入る
            9月27日但木土佐,但木左近,坂英力,松本要人,松本虎之助,瀬上主膳逮捕お預け
以後逮捕された松本を除く五人は引き渡し,上京。

身を隠した玉虫左太夫は,気仙沼に着く榎本武揚の船を待っていました。追捕の手は忽ちに彼の背後に迫っていました。予定された10日の石巻,12日の気仙沼の寄航予定になっても開陽丸も回天丸も来なかったのです。。
追っ手が迫る中,玉虫左太夫は気仙沼の南の志津川に榎本船団はもう寄航しているのではないか,たとえ寄航していなくても先に行っていれば志津川で乗船できると考え,気仙沼を出ました。しかし・・・。
志津川の駅だったといいます。玉虫左太夫と連れていた弟子の大和田甲蔵が数人の同心に囲まれて捕まってしまったのです。
その頃榎本武揚を乗せた開陽丸は遅れて松島を出ていました。そして回天丸は14日気仙沼に着き,玉虫左太夫を探し回ったのです。たった一日遅かったのです。

たった一日の差で玉虫左太夫は捕まってしまいました。あと数時間だけ彼が気仙沼に留まっていたら・・・。

その記録を山本晃の『玉虫左太夫略伝』(昭和5)から拾ってみます。
本吉郡の製塩場に至り,製塩を集めて榎本等の船の気仙沼に寄航するを待ちしが・・浅野某の家に潜匿せしも,弟子大和田(後高橋)甲蔵とともに十月十三日(明治元年)気仙沼を発して志津川に至るや捕吏の認むる処となり,狼河原,佐沼,古川を経て仙台に着きしは同十七日。

罪状は取って付けたような罪状でした。
アメリカに渡り,民主主義のなんたるかを知った彼は彼の著書『航米日録』(万延元年)にこう書いています。
『わが国にては礼法厳にして、総主などには容易に拝謁するを得ず。あたかも鬼神のごとし。これに順じて少しく位ある者は大いに威焔を張り下を蔑視し、情交かえってうすく凶事ありといえども悲嘆の色を見ず。大いに彼と異なる』と。

1869年(明治2)4月9日,「牢前切腹 玉虫左太夫・安田竹之輔」
玉虫左太夫は47歳でした。彼の名誉が回復されたのは大正に入ってからでした。



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