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柳田国男「東北旅行」覚書2

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夜のとばり 石巻線 7/21 鹿又-佳景山

柳田国男の大正9年8月の東北旅行についてまとめています。
そこに浮かび上がって来たのが.柳田は遠野からは合流して二人となり.釜石で佐々木喜善と合流して更に八戸まで行くことになります。そこで遠野までは案内する人が地元にいたのかどうかという疑問に突き当たったのです。というのも,一関に10日の午前中に着いていたことは確実らしいのですが,4日~9日までの行程がよく分かっていないのです。宮城県に住む者としては,柳田国男の宮城県滞在が空白ではしっくりしない気持ちです。
そこで空白の宮城旅行を少しでも明らかにしたいと,この覚書きを付けることにしました。今日はその2回目です。
8月4日(水)に仙台を出発した柳田は,野蒜,小野,石巻,女川浦まで行って,飯野川,登米,佐沼のルートを取ったことは明らかなようですからそのルートをなぞりながら確かめていきたいと思います。ここでもう一度先回の旅行日程を載せます。
柳田国男の東北旅行日程
8月2日(月)東京出発
8月4日(水)仙台出発,野蒜,小野,石巻,女川浦,飯野川,登米,佐沼-石巻辺りは遠藤源八,毛利総七郎案内か
8月7日(土)船越泊(石巻市雄勝)

8月8日(日)~9日(月)石巻,飯野川,柳津,登米,佐沼,南方-この辺りは高橋清治郎案内か

8月10日(火)一関
8月12日(木)一関出発,岩谷堂,人首
8月13日(金)遠野
8月15日(日)遠野出発
ここで2か所の太字の部分「石巻辺りは遠藤源八,毛利総七郎案内か」「(登米,佐沼,南方周辺は)高橋清治郎案内か」がただの予想なのではっきりさせたいと思っています。

それでいったい実際本当のところはどうだったのか。旅程に関係あるところを拾い出してみます。

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夕暮れに帰る 石巻線 鹿又-佳景山


石巻から乗った自動車が,岡の麓の路を曲がって渡波の松林に走り附こうとする時,遠くに人と馬と荷車の一団が,斜めに横たわって休んでいるとみた瞬間に,その馬が首を回して車を牽いたまま横路に飛び込んだ。小学校を出たばかりかと思う小さな馬方が,綱を手にしたまま転んだと見た時には,もうその車の後ろの輪が一つ,腹の上を軋(きし)って過ぎた。「子供の眼」
と,驚くようなシーンに出合っていた。多分この日が4日か5日のことだろう。この続きは次のようにある。
中一日置いて次の日には,自分は十五浜からの帰りに,追波川から上ってくる発動機船の上にいた。大雨の小やみの間に,釜谷の部落を見ようとして甲板に立つと・・・(略)
4日か5日から中一日置くのだから6日か7日になる。そこで船越で一泊と合う。
しかし,三陸の旅の始まりをなぜ船越まで出るところから始めたのだろうか。
とにかくも柳田は自動車で石巻-渡波-十五浜(船越)へ泊まり,発動機船で北上川を遡り,釜谷(今の大川小学校地区)を船の甲板から見ながら飯野川に着いたのである。
これらの地名が出てきた「子供の眼」の次に「田地売立」が出てくる。
・・・迫川の岸に接した一農場は細田氏という人が実際の管理をしている。細田氏は遠田の農学校出身で・・・(略)
と地主と小作人との中での田の競り売りの現状が語られている。そして飯野川辺りで聞いた話の「狐のわな」。さらに辿り着いた宿屋での大水に見舞われる「町の大水」では「この出水は一日だけで,夜の中に宮城県の方に引いて往ってしまった。」とわざわざ「宮城県」と出れば,どうにももう岩手に来ていたと見るしかない。登米や佐沼辺りがすっぽりと抜け落ちている。しばらくして「おかみんの話」に地名が出てくる。「飯野川で私が頼んだ老按摩は」「昨日月浜まで同船したおかみんは」と地名が特定できる。
どうも按摩を頼むのは宿に着いた時だろうから飯野川に泊まったようだ。
                                                              (続く)


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